神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った。神は彼の肋骨を1本取り、
そこを肉で塞いだ。そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り、
彼女をアダムの元に遣わせた。
『旧約聖書 創世記2章21節』より
「それでは甘いわよ。タツキ。そんなんじゃあカズキは殺せない。彼は失敗作とはいえ、黒山羊の卵。普通の人間とは違うの。致命傷を負わせるだけでは足らない。しっかりと殺しなさい」
その声は疑いようもなく、妻の声だ。優しいが芯のある女性。だったはずなのに、ぼくは間違えたのか? この冷たい瞳は、艶めかしい唇はまるで母ではないか。そして彼女が声をかけたのはぼくの息子。極度のベジタリアンである以外はまっとうに育ったと思っていた。
だが、目の前にいるのは右手と左手にナイフを三本持った殺人鬼だ。昔のぼくによく似ている。とてつもなく荒んでいて喰らうように人を殺していた、あのぼくに。
「はい、おかあさん。次はどうすればいいですか?」
「見て学びなさい。丸腰だけど手負いの元殺人鬼。万全の状態であればタツキでは敵わない相手よ。めったにないチャンスを生かすの」
「……なぜだ。香音。君はどうして……」
「答えは簡単。私もまたアイと同じ。黒山羊に育てられた者。そして彼女以上に生粋の殺人鬼であり生まれながらに原罪を背負った者。イヴよ」
彼女をさらに問い詰めようとした時、息子がナイフで突いてくる。先ほどの奇襲とは違い、何なく避ける。するともう片方の手で斬りかかってきた。その手を掴み捻り上げようとすると足元が一瞬暗くなるのが見えた。三本目のナイフの影だ。胸の傷は浅いが抜くと出血で危うい。
ここで武器を確保しておいた方がいい。動きをキャンセルして空中のナイフを取る。そのまま壁を蹴り、その推進力で一回転してイツキに斬りかかる。顔を狙うと予想通り両手で防いできた。金属と金属が当たる耳障りな音が聞こえる。純粋な力では高校生には勝てない。一歩後退。
妻が用意したものなのだろう。良質な刃物だ。どれも刃毀れしそうにないな。イツキはカウンターを警戒しているのか攻めてこない。良い判断だ。ならば。玄関内に落ちているぼくのカバンを蹴り上げ、左手に持つ。刺突に耐えられるかは微妙だが、斬撃なら三度は保つだろう。そして右肩に重心を置き心臓目がけてフェンシングのような構えで突く。無論避けるだろう。だから、前宙をしてカバンを振り下ろす。トリッキーな動きに驚いているのか、タツキはそれをモロに喰らい左手のナイフを床に落とした。油断しているフリの可能性を考え、追撃はせずに体勢を立て直す。
「タツキ……もうお前は知ってしまったのかもしれないが、ぼくは殺人鬼だ。殺した人数なんて数えてもいないくらいだ。引退してからは一切殺していないが、それでも、ぼくに勝てるとは思えない。今なら間に合うぞ。投降してくれ」
「ごめんなさい、おとうさん。僕はあなたに恨みは無い。むしろ感謝しているし、とても尊敬しているんです。でも、決めたんです。僕は黒山羊になる」
「笑えない進路選択だ。さすがに応援できないよ」
「タツキに何を言っても無駄よ。この子はもはやあなたの知っている少年じゃない」
「香音、君はいったい何なんだ」
「私もまた殺人鬼。そして、あなたの娘に当たる」
「なっ!どういうことだ?何を言ってる…………」
「あなたが睡眠薬で眠らされている間に黒山羊があなたと交わり、子を成した。それが私よ。カズキが鈍感で良かったわ」
彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回る。香音がぼくと母の子? いつの間に? 母が妊娠していればさすがに気付く。ぼくが家出していた期間。彼女は誰かと再婚していた。その間ならぼくも分かりはしない。しかし。それなら。母はぼくの出奔すら読んでいた? アイが失敗することも分かっていたというのか? ならば死んだのは……
。
「そう、お母さんは私が自殺に見せかけて殺したの。頼まれたから。正統な黒山羊の後継者を作るようにと」
ぼくはまだ逃れられていなかったのか。あの女に。悪魔に。黒山羊に。
「この子はまだ人を殺していないわ。あなたが初めてとなるでしょう。そう、カズキと同じく黒山羊の卵よ。ただし、どれだけ殺しても産まれようともしなかったあなたとは違う。殻を割って卵から抜け出そうと戦っているわ」
「そのために家庭を壊したのか? ぼくに隠したままにすることも出来たのに?」
「そうでもなければ黒山羊にはなれない。カズキなら分かるでしょう?」
「ふふ、なるほど。ここでタツキが死ねばぼくが黒山羊になる。ぼくが死ねばタツキが黒山羊になる。そういうことだね、香音」
「あら、さすがに気付いたかしら? そうよ、私はあくまで次の黒山羊を作るためだけの存在。この系譜には必要ないただの道具であり、舞台装置よ」
「ずいぶんと卑屈なんだね。……ぼくはそれでも君が好きだよ」
「私もよ。お母さんと同じく、タツキと同じく、ね」
「タツキ、ぼくはお前を黒山羊にするわけにはいかない。ぼくはずっと母と戦ってきた。ここで負けるのは屈辱の極みだ。香音よりも母よりも誰よりも黒山羊としての業の苦しみを知っているのはぼくだ。父親として言ってるわけじゃない。黒山羊の卵として責任を取らなければならないからだ。お前を殺し、ここでその忌まわしき系譜を絶つ」
「おとうさん。さっきの攻防でも分かった。本来なら今の僕では敵わない相手だということが。でも。僕はようやく本気でなりたいものを見つけたんだ。示してくれたのは、おかあさんだけど、これは僕の意志だ。おとうさんを殺し、おかあさんも殺す。そして黒山羊になってみせる」
タツキがナイフを逆手持ちに構える。その姿は香音にもアイにも母にも通じるものがあった。だが、それは誰でもない自分の息子だ。黒山羊の卵なのだ。
「……黒山羊、貴様を殺す。ここで全て終わらせる」
「違うよ、ここからが始まりなんだ。……黒山羊の卵!!」
ぼくは胸からナイフを取り出し右手に重ねて持つ。血液が堰を切ったかのように流れ出してくる。もういい。死んでもいい。この戦いはこれが最後なのだから。カバンを勢い良くタツキに投げつけ、二本のナイフで斬りかかった。
「鳥は卵の中から抜け出そうと戦う」
「卵は世界だ」
「生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない」
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』より