そして向かえた2月14日、琴里や十香逹からチョコと共に激励の言葉を受けて向かえた放課後。
士道は昇降口を出たところで狂三を待っていた。
既に士道の中ではデートプランは決まっていた。
琴里からも今回のデートは士道に一任してもらっている。
「お待たせしましたわね、士道さん」
言いながら靴を履き替えた狂三がやってくきた。
「いや。じゃあ行くか」
「ええ。ところでー」
言って、狂三が指を一本立て、唇に触れる。
「私、行きたいところがあるのですけれど」
『バッティングしちゃったわね。
誘導できるならよし、難しそうなら、狂三の希望を優先しましょ』
狂三の言葉に琴里がインカム越しに『あちゃあ』っと声を上げる。
『いや……』
だが、士道には焦りが無い。
なぜだか何となくだが狂三も、士道と同じことを考えてるような気がしたのだ。
「奇遇だな。実は俺も行きたいところがあるんだ。
ーたぶん、お前と同じだ」
「あらあら」
狂三は士道の言葉を面白がるように笑うと、士道の手を取ってゆっくりと駅の方へと歩みを進めた。
士道が狂三を連れて来た場所は天宮クインテッド。
かつて、狂三とデートをしたときに訪れていた場所である。
「以前のように着物の店ってのは少し時期外れな気がするからな…」
苦笑する士道に狂三は小さく笑い、言葉をこぼす。
「ー正解ですわ」
「ん?」
「わたくしが来てみたかった場所ー正確に言えばその一つでしけれど。
ここに間違いありませんわ。
ーうふふ、『わたくし』とここに来たことを覚えていてくださいましたのね、士道さん。
嬉しいですわ」
言って、狂三が微笑む。
去年の六月。
士道と共に来た狂三は彼女の天使《刻々帝》で生み出した分身体だった。
「あの日から、ずっと思っておりましたの。
士道さんと一緒にここを訪れたわたくしは、一体何を感じ、何を思って士道さんに心奪われたのだろうと。」
「…………」
どこか物憂げで寂しそうな狂三に士道は押し黙る。
「……未熟な子達ではありましたけれど、あれも、わたくしですのよ」
「……」
士道もまた無言になると、数秒後、息を細く吐いた。
そして狂三と繋いだ手に力を込めた。
「………? 士道さん?」
「いいんだな、本当にあのときのコースで」
「え?」
狂三が士道の言葉に驚いたように目を向けてくる。
士道は唇の端を上げながらその視線を見返した。
「分身体とはいえ、俺は一度、『時崎狂三』を落とした男だぞ。
そんな俺に、その時と同じコースを辿らせてみろ。
ー今日一日が終わったあと、お前は俺のことしか考えられなくなってるぞ」
「まぁ」
士道の格好つけたような台詞に狂三が口元を緩める。
そして士道の手を握る手が、より強く握り返された。
「それは楽しみですわ。
うふふ、士道さんにこのわたくしを落とすことができますかしら?」
二人は微笑み合うと、並んで歩き始めた。
それから士道と狂三は以前と同じように着物店に入り、季節外れの浴衣を試着し、以前と同じ店で食事を摂り。
そして時刻は午後10時。
士道と狂三は公園のベンチに並んで腰かけていた。
夜の公園を照らしているのは頼りなげな月明かりとまばらに並んだ街灯のみだ。
周囲には既に人影はなく、世界に二人だけが取り残されたような錯覚を覚える。
「士道さん、覚えておられまして?」
「……ああ、覚えてるさ。
嫌ってほどにな」
ため息混じりに答える士道。
それも当然と言えた。
何故ならばこの場所は士道が初めて狂三の凶行を目にし、一度袂を分かった場所だからだ。
「ふふ」
狂三は士道の言葉に答えるわけでもなく曖昧に笑うと、思い出したように鞄から可愛らしい箱を取り出した。
「そういえば、忘れるところでしたわ。
ー士道さん、ハッピーバレンタイン」
言って、その箱を士道に差し出してくる。
士道は苦笑しながらそれを受け取った。
「ありがとう。…って、忘れるところだったのかよ」
「ええ。それくらい…今日は、楽しかったのですもの。
それこそ、わたくしの記憶の中でも、指折りと言って差し支えないぐらいに」
「狂三…」
士道は優しく言うと微笑み、鞄の中から小さい包みを取り出す。
「じゃあ、俺からもだ。
ハッピーバレンタイン、狂三」
「あら、あら……?」
士道が包みを渡すと狂三が驚いたように目を丸くする。
「士道さん……まさかとは思っておりましたけど、やはり女の子……」
「いっとき流行った逆チョコってやつだ。
別に男が女の子にチョコをあげちゃダメなんて決まりはないだろ?」
士道が遮るように苦笑混じりの声を上げる。
すると逆三は可笑しそうに笑う。
「うふふ、言われてみればそうですわね。
ー開けてもよろしいですの?」
「ああ、もちろんだ」
二人はうなずき合うと互いに双方の箱を開けた。
士道が作ったのは、蜜漬けにしたオレンジピールをダークチョコでコーティングしたもの。
対して逆三の箱の中には色や意匠の異なる、猫型チョコ。
「へぇ、可愛いじゃないか」
「士道さんのも、美味しそうですわ」
二人は言葉を交わし合うとどちらからともなくチョコを口に放り込んだ。
そして頬を緩め、今度は視線を交わす。
「美味いな、これは、この風味は…ヘーゼルナッツか?」
「あら、さすがですわね士道さん。
ん、こちらも美味しいですわ」
二人はひとしきり笑い合うと、しばしの間無言になった。
「………」
「………」
話すことがなくなった訳ではない。
ただーこうして、見つめあっていたくなっただけだ。
「……」
士道は狂三の肩に手を回しその体を引き寄せ、慈しむようにそな頭を撫でた。
狂三は、抵抗しない。
むしろその行為を望んでいたと言わんばかりに、身を寄せてきた。
何も知らぬ者が二人を見たら、仲睦まじいカップルにしか思わないだろう。
実際このまま、彼女の顎を持ち上げれば、容易に唇同士を触れ合わせる事が可能に思えた。
だがー
『……悪くないわー
悪くはーないのよ』
インカムから聞こえる琴里の声はそんな状況を見ても難色を示していた。
即ちー今キスをしても、狂三の霊力を完全に封印しきれないことを示していた。
琴里の言葉を補足するように令音の声が聞こえてくる。
『…狂三は嘘を吐いていない。
彼女は今日のデートを本当に、心から楽しんでいるといってもいいだろう』
だが、と令音が続ける。
『……彼女の心に何か大きな壁がある。
決意……覚悟……それに類するものだ。
修験者が道のために快楽を断つように、狂三は自らに、大きな枷を化している。
その正体を知り、取り去らない限り、彼女の力を封印することは不可能だろう』
「……」
ーー大きな枷。
士道は狂三の頭を優しくなでなからその言葉を心中で反芻した。
そして、たどり着いた答えは士道が狂三と袂を分かった時からずっと考え続けて来たものだったー。
そして、目的についての大方の予測はついていた。
彼女が千の犠牲を払い、万の屍を積み上げてでもそれを成そうとする理由ー。
それが恐らく令音が言っていた枷と関係のあることなんだろうー。
故にー。
「……なあ、狂三」
士道は口を開く。
確かに、この勝負に勝たなければ自分が死んでしまう、というのもある。
だが、今はそれ以上にこの少女が心の裡に抱く願いを、想いを、そして決意を、知りたかったのである。
「はい、士道さん」
「教えてくれないか。
ーおまえが、始原の精霊を倒そうとする理由を」
「ー」
士道がそう言った瞬間。
狂三は一瞬だけ驚いたような表情を作った後、張り詰めたものへと変わる。
「気づいてましたの?」
「まっ、あまり確信はなかったがな…」
以前、折紙を救うために【一ニの弾】で 五年前に戻った折。
狂三より【一ニの弾】を使用するには多量の霊力を消費すると聞いた。
そして狂三が求める精霊十一人分の霊力。
そこから士道が導き出した答えが三十年前に戻り始原の精霊を倒すというものだった。
「全く、士道さんの洞察力は大したものですわね」
狂三はやれやれと吐息をすると立ち上がり、そのまま数歩歩いた後、士道の方を振りかえる。
「士道さん。
あなたに知る覚悟はございまして?
わたくしのーすべてを」
血のように赤い右目と時を刻む金の左目が士道を射抜くように見つめる。
「ああ。そのつもりだ」
狂三の問いかけに士道は一辺の躊躇いすらなく答える。
「そうーですの」
狂三は静かにそう言うと、優雅な所在で左手を上げた。
その瞬間、地面に蟠る狂三の影が歪んだかと思うと、そこから古めかしい意匠の施された短銃が飛び出してきて、狂三の手に綺麗に収まった。
天使〈刻々帝〉、その短針に当たる銃だ。
「……」
士道が無言で成り行きを見据えていると、狂三は虚空に銃口を向けて、引き金を引く。
辺りに乾いた音が数度響き渡る。
それと同時に、士道の耳に付けたインカムから狼狽の声が聞こえた。
『……!? これはー』
『映像、遮断されました!』
『自立カメラが破壊されたようです!』
『これからする話はオフレコで頼みますってところだろうな…』
動揺する《フラクシナス》のクルー達に対し、士道は冷静に判断する。
そんな士道の思考を肯定するかのように狂三は士道に肉薄すると耳に装着していたインカムを奪い取り握りつぶす。
《オーディン》は鞄の中にあり直ぐに取り出せる状況ではない、携帯電話も論外。
士道は完全に《フラクシナス》との交信を断絶された状況となった。
狂三は唇を歪めると再び、士道の目を見つめてきた。
「ーこれでもですの?」
「ーそれでも、だ」
文字通り生殺与奪を握られた状態。
にも関わらず、士道は迷いなく答える。
確かに狂三の行動は、士道の退路を塞いだようにも見える。
だが士道にはそれがだれにも明かしたくなかった秘密を、士道にだけならば教えても構わないと言ってるように見えたのだ。
ならば、それに応えられないような人間に精霊を救うなどと宣う資格はない。
「……」
狂三はそんな士道の反応に目を伏せると、短銃を影に放り、士道に背を向けた。
「ついてきてくださいまし」
さしてそう言って暗い道を歩き出した。
「……」
士道も無言でその後を追うこと二十分。
狂三は士道と共に古びた雑居ビルへと辿り着いた。
狂三曰く、市内に数ヶ所ある拠点の一つらしい。
落書きや瓦礫の散らばる廊下とは異なり、狂三が生活する部屋は綺麗に掃除されており、窓にはカーテンが引かれ、簡素ながらもベッドが置かれていた。
「…なるほど。
光栄だな、女の子の部屋に呼ばれるなんて」
「うふふ、今日はお上手ですわね、士道さん」
狂三は微笑むとコートを脱いでハンガーにかけた。
次いで士道に手を伸ばす。
士道も狂三に倣うようにコートを脱ぐと、それを手渡す。
狂三は二人の上着をハンガーラックにかけるとゆっくりと近づいてきて、そのまま、士道の胸元に身を預けてきた。
「狂三……?」
「士道さん、仰いましたわね。
わたくしの全てを知る覚悟があると」
「ああ」
士道が答えると、狂三は士道の胸に顔を埋めて数秒間押し黙った後。
「ーなら、受け止めてくたさいまし」
そう言って、再度短銃を握った左手をを動かす。
「《刻々帝》ー【一〇の弾】」
狂三の影が蠢き、短銃の銃口に影が吸い込まれていく。
狂三は流れるような動きで短銃を自分のこめかみに当てるとー自分の頭部を通して士道を射抜くように、引き金を引いた。
とある日。
とある女子校。
とあるトイレの中で。
「……ううん」
時崎狂三は一人鏡を覗き込み、そこに映り込んだ自分の顔を見つめていた。
──眼帯で左目を おお 覆った、その顔を。
「やっぱり、少し目立ちますかしら?」
言いながら、狂三は眼帯をずらし、左目を露出させた。
するとその下に隠された目が露わになり、鏡に映し出される。
──金色の時計と化した、左の眼球が。
カラーコンタクトや特殊メイクの類ではない。
その目には信じがたいことに長針、短針、秒針までもが付いており、時を刻んでいた。
先日出会った
謎の少女・澪から、不思議な輝きを放つ宝石のようなものを渡されてから、狂三の左目は常人のそれとは異なる姿へと変貌してしまっていたのである。
否──正確に言うのなら、変わったのはそれだけではない。
「……うふふ」
狂三は自分の目を見つめながら、小さく笑った。
尋常ならざる存在となってしまった自分の身体に、全く不安や恐怖を覚えないかと言われればそれは嘘になる。
だが、それよりも遥かに大きく、狂三は充実感と高揚感を覚えていたのである。
と。
「──狂三さん?
どうかされたんですか?」
「……!」
不意に声をかけられて、狂三は慌てて眼帯を元の位置に戻した。
声のした方向を向くと、いつの間にかそこに友人の山打紗和が立っていることがわかる。
狂三は誤魔化すように手を振った。
「い、いえ、なんでもありませんわ」
「…………」
狂三が言うと、紗和が顔を見つめてきた。
「まだよくならないんですか?
その左目」
「え、ええ。少し厄介なものもらいのようですわ」
「大変ですね……どうかお大事に」
と、狂三を気遣うように言ったのち、紗和が何かを思い出したように手を打った。
「そういえば、狂三さん。
今日の放課後は暇ですか?
叔母様が、マロンの兄弟を連れて遊びに来るのですけれど」
「え……っ!?」
突然の誘いに、狂三はピクリと眉を揺らした。
ただでさえ 猫界でも上位の可愛さを 誇るマロンに、その兄弟だなんて。
モフモフがモフモフモフモフになるようなものである。
マロンの艶やかな毛並みと肉球の感触を思い出し、狂三はしばしの間陶然となった。
が、すぐに思い直して首を横に振る。
──今日は、どうしても外せない用事があったのである。
「も、申し訳ありませんけれど、遠慮させていただきますわ……」
「あら、何かご用事が?」
「ええ……少し野暮用が。
また、また是非誘ってくださいまし」
「残念ですけれど、仕方ありませんね。
ではまたの機会に」
「絶対、絶対ですわよ?」
「え、ええ。わかりました」
執拗に念を押す狂三に、紗和が苦笑しながら額に汗を垂らした。
──その日の放課後。
狂三は町外れのビルの屋上に一人、 たたず 佇んでいた。
赤い夕陽が背を照らし、吹き荒ぶ風が制服のスカートを揺らす。
「──来ましたわね」
狂三はぽつりと零すように喉を震わせた。
するとまるでそれに合わせるかのように、背後から小さな足音が響く。
後方を見やると、そこに、先ほどまでなかった少女の姿があることがわかった。
崇宮澪。
数日前狂三の前に現れ──狂三に、『力』を与えてくれた少女である。
「やあ、狂三。
今日もよろしくたの 頼むよ」
「ええ、任せておいてくださいまし、澪さん」
狂三がそう言うと同時──周囲から、音が消え去った。 そう。
狂三が初めて澪と出会ったときと同じように。
詳しい原理はわからないのだが、これは澪の力によるものらしい。
辺りを結界のようなもので覆うことにより、『敵』を外に逃がさないようにするという話だ。
次の瞬間、狂三の眼下で異常が発生する。
吹雪。
突如として雪と氷の 結晶が現れ、渦を巻き始めたのである。
そしてその直なか 中に──『それ』はいた。
氷が人形のシルエットを取ったかのような、異常な姿。
初めて目にするタイプではあるが間違いない。
ー精霊。
凄まじい力を有した、澪曰く世界を殺す怪物である。
「では、行ってまいりますわ」
狂三は短く言うとビルのフェンスを軽々と飛び越えた。
さしてそのまま空に身を踊らせ、眼科で暴れる氷の精霊めがけて落下していく。
「《神威霊装・三番》」
狂三がその名を唱えると同時、全身に影が纏わり付き、淡く輝くドレスを形成する。
そしてー
「《刻々帝》!」
次いで狂三が名を呼ぶとその両手に精巧な細工が施された長さの異なる古式銃が二挺、顕現した。
「まったく、間の悪い時に来てくださいましたわね。
ー今日なわたくしは、少しばかり機嫌が悪いですわよ」
狂三は視線を鋭くすると、ビルから落下しながら、二つの銃口を氷の精霊に向けた。
ー精霊を倒し、世界を救ってほしい。
自称『正義の味方』、崇宮澪はそう言って狂三に『力』を与えてくれた。
絶対の霊装とー時と影を操る天使天使《刻々帝》。
まるで、子供向けアニメのワンシーン。
友人や家族に話そうものなら、らしくない冗談と笑われるに 違いない、荒唐無稽な出来事である。
けれど、霊装を身に纏い、天使をその手に取った狂三には、それを一笑に付すことはできなかった。
常識の埒にある、 ちよう超常の力の実在。
そしてそれを以て討たねばならない敵の存在。
平穏環境で育まれてきた狂三ではあったけれど、異形の怪物に襲われ、謎の少女に救われるという体験は、それを現実として受け入れるには十分に過ぎるものであった。
── 斯くして時崎狂三は、精霊を か狩る者となった。
命がけであることは確かであるし、恐怖心がまったくなかったわけではない。
けれど、この命はあのとき澪が助けてくれなければ
既になかったものであるし──何より、『世界を救う』という目的が、狂三の心の奥底に燻る感情をくすぐったのである。
何かを為したくて、けれどその手段と方法が存在しなかった者の手に、偶然転がり込んできた異常。
自分はこの手で世界を救っているのだという実感が、狂三の心に空いた穴を埋めていったのである。
ゆえに──狂三は戦った。
自分の世界を守るため、友を、家族を守るため、街に現れる怪物を何体も殺して回った。
それが皆のためになると信じて。
それが己のためになると信じて。
それが──自分の存在意義だと、信じて。
けれどそんな夢の終わりは、存外早く 訪れた。
──その日。その日も、狂三は澪とともに精霊を倒していたのだ。
全身に ほのお 炎を纏った異形。
一歩歩く度に周囲に熱を撒き散らし、建物を、街路樹を焼いていった。
あまりに強大、かつ恐ろしい敵。
しかし狂三は怯まなかった。
両の手に《刻々帝》を握り、幾度も幾度も弾丸を撃ち込んだ。
「これで──終わりですわ……ッ!」
【────────────】
銃声とともに、炎の精霊が倒れ伏す。
が、まだその身体は微かに蠢いていた。
腕を、狂三に向かって伸ばしてくる。
「──しつこいですわよ」
狂三は息を吐きながら言うと、精霊の頭に当たる部分に銃弾を撃ち込んだ。
それきり、精霊は動かなくなる。
「やれやれ……ようやく終わりましたわ」
「──ご苦労様」
「きゃっ」
突然後方から響いた声に、狂三は身を竦ませた。
見やると、いつの間に現れたのかそこに澪が立っていることがわかる。
「突然現れるのはやめてくださいまし。
おどろ 驚くではありませんの」
狂三が言うと、澪は「すまない」と頭を下げてから言葉を続けてきた。
「あとの処理はいつも通り私がやっておくから、君は先に戻っていてくれ。
確か、友人と約束があるんだろう?」
「ええ……ではそうさせていただきますわ。
ごきげんよう」
狂三はそう言うと、霊装と天使を消し去り、その場から歩き去っていった。
もはや、こんなやりとりも慣れたものである。
このまましばらく道を歩いていけば、澪の結界から出ることができる。
狂三は時計を見やった。
──今日はまたマロンの兄弟がやってくるということで、紗和の家に遊びに行く予定だったのだが、まだ少し時間に余裕があるようだったのである。
「──そうですわ」
狂三は手を打つと、踵を返し、元来た道を歩いていった。
別に大層な理由があるわけではない。ただ単に、澪を一緒に紗和の家へ連れていってあげようと思っただけだ。
澪と精霊の討伐を始めてしばらく経つけれど、未だに戦場以外で彼女と話したことがなかったのである。
いつも表情にどこか憂いを帯びた澪も、可愛い猫と触れ合えば笑顔になるだろう。
が──
「……え?」
路地を曲がり、先ほどまで精霊と戦っていた場所に戻ったところで、狂三は足を止めた。
そこには予想通り澪が立っていたのだが──その前に倒れ伏していたのは、異形の怪物ではなく、人間の少女だったのだ。
「……ッ」
否──それだけではない。
狂三は声を詰まらせた。
そう。
そこに倒れていたのは。
狂三の友人、山打紗和その人だったのである。
「な……、え……っ?」
今目の前で起きていることの意味がわからず、狂三は目を見開いた。
するとそれに気づいたのだろう、澪が、ゆっくりとこちらに振り向いてきた。
「……ああ、狂三。戻ってきてしまったんだね。
──残念だ。
君とはもう少し、いいパートナーでいたかったのだけれど」
言いながら、澪が完全に狂三に向き直る。
──その手元に、赤く光る宝石のようなものを浮遊させながら。
間違いない。色こそ違うが、澪が狂三に渡したのと同じものである。
「ど、どういうことですの……なぜ紗和さんが……」
「ああ、もしかして知り合いかい?
それは……すまないことをしたね」
「……ッ、まさか──」
狂三は口元に手を置いた。
目の前に示された材料が頭の中で線を結んでいき、途方もない嘔吐感が胃の奥からせり上がってくる。
「……やっぱり、君は頭がいい」
澪の短い答えは、狂三にとって絶望に他ならなかった。
そう。
紗和の横たわっていた位置。
それは、狂三が炎の精霊を撃ち殺した、まさにその場所だったのである。
そして、そこに佇む澪と、その手の中にある霊結晶。
それが示すものは──
「あの精霊は……紗和さん……?」
狂三は呆然と呟きながら、心臓が収縮するのを感じた。
この精霊だけではない。
狂三は今まで様々な場所で、五〇体以上の精霊を倒してきたのだ。
もしや、それらは全て人間だったのではないか。
否、それどころか、あの霊結晶を与えられた狂三さえも──。
「あ……あ、ああああああああああああああああ……ッ!?」
瞬間、狂三はその場に膝を突いた。頭が、胸が、軋むように痛む。
──絶望。真っ黒い感情が心を侵蝕していく感覚。
狂三は自分の存在が裏返ってしまうかのような錯覚を覚えた。
──駄目だ。
駄目だ。
この感覚は、駄目だ。
本能的にそれを察すると同時、狂三は半ば無意識のうちに右手を掲げていた。
「……っ、ざ、《刻々帝》……【四の弾】……ッ──」
そしてたどたどしくその名を唱え、天使を顕現させて、自分の頭を撃ち抜く。
──対象の時間を巻き戻す【四の弾】で。
そう。自分の
からだ 身体を、心を、『絶望を感じる前の状態』に巻き戻したのである。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」
息も絶え絶えになりながら、澪を睨み付ける。
しかし澪は怯むでも 戦くでもなく、ただ 驚嘆したように目を丸くしていた。
「驚いた。自力で反転状態から脱するだなんて。
──でも、助かったよ。
せっかく精製した霊結晶が元に戻ってしまったら大変だから」
「反転……、精、製……?」
狂三が問うと、澪はしばしの間考えを巡らせるような仕草を見せたのち、首肯してきた。
「うん。きっと君はもう気づいてしまったとは思うけれど、精霊っていうのは霊結晶を得た人間のことなんだ。
──いや、私の力を分け与えた、って言った方が正しいのかな?
本来は最初の精霊である私だけを指す 言葉だったわけだし」
「な……」
「──でも、本来の霊結晶というのは、人間の属性とは相容れないものなのさ。
そんなものを無理矢理与えられたなら、溢れ出る力を抑えきれず、暴走してしまうだろう」
だから、と澪が続ける。
「霊結晶を人間に適合させるためには、精製が必要なんだ。
精製した霊結晶を、適性のある人間に与えれば、きちんと自我を保ったまま精霊になってくれる。
──ちょうど、君みたいにね」
「……ッ、まさか、精製、って──」
狂三は目を見開いた。
頭を掠めた恐ろしい想像に、歯の根が鳴る。
けれど澪は、至極淡々と言葉を続けた。
「うん。
人間の身体を通すんだ。
もちろんその人間は暴走してしまうけれど、何度かそれを繰り返すと、その身体から回収した霊結晶は、綺麗に精製されているんだよ。
濾過装置みたいなものを想像してくれればわかりやすいかな?
でも、それを回収するのが大変でね。
君がいてくれて本当に助かったんだ」
最悪の想像と寸分違わぬ答えを、澪が発する。
狂三は再度押し寄せてこようとする絶望に対抗するように胸に手を置いた。
──全て、理解してしまった。
狂三は、澪に利用されていただけに過ぎなかったことを。
世界を救うつもりで──人間を殺させられていたことを。
狂三は憤怒の形相になりながら、絞り出すように声を発した。
「なぜ……あなたは、そんなことを……ッ!」
狂三が絶叫じみた声で問うと、そこで初めて、澪が困ったような表情をした。
「……すまないね。
本当に、すまなく思っている。
君たちに恨みがあるわけではないんだ。
でも私は、やめる わけにはいかない。
──全ての セフイラ 霊結晶を、人間に 託すまで」
澪はそう言うと、ゆっくりと狂三の方に手を向けてきた。
「──それまで、お休み、狂三。
今まで本当にありがとう」
「何を──」
狂三はそこで言葉を止めた。
否、正確に言うのであれば、そこで、意識が寸断された。
──次の目覚めは、いつのことだっただろうか。
「……あら、あら……?」
ぼんやりとした意識の中、狂三は目を見開いた。
何やら記憶が混濁し、何も思い出せない。
覚えているのは自分の名前と、自分が超常の力を有しているということくらいだった。
辺りを見回す。
屋外。
まるで隕石が衝突したかのように滅茶苦茶に破壊された街並みの中心に、狂三は立っていた。
「なんですの、ここは……一体……」
今目の前に広がる光景を、上手く脳が処理できない。
あまりにもわからないことが多すぎた。一体ここはどこで、自分は何者で、なぜここに──
と。狂三がそんなことを考えていると、遠くから耳鳴りのような音が響いてきた。
「──あら?」
見やると、何やら機械の鎧を身に纏った人間たちが、何人も飛んでいることがわかる。
その奇妙な光景に、狂三は呆然と目を見開いた。
「すご 凄いですわね……なんですの、あれは……」
が、そう暢気なことも言っていられなかった。
その人間たちが手にしていた武器を構えたかと思うと、狂三目がけて、何発もの 銃弾やミサイルを放ってきたのである。
「きひ──ッ!?」
狂三は肩を震わせると、慌てて影の中に逃げ込んだ。
自分に関する記憶はすっぽりと抜け落ちているというのに、己の身体に備わった力の用い方は、何となく理解できていたのである。
「はぁ……っ、はぁ……っ、お、驚きましたわ……」
暗い空間の中、狂三は息を整えると、頭の中で状況を整理しようとした。
が、持っている情報があまりに少なすぎて、それも叶わない。
何しろ今狂三がわかることといったら、名前の他には天使と霊装のことくらいで──
「────」
そこで、狂三ははたと気づいた。
右手を掲げ、天使の名を唱える。
「〈刻々帝〉──【一〇の弾】……でいいのですかしら?」
少々不安を覚えながらそう言うと、手の中に銃弾が装填された短銃が顕現した。
自分でしたことだというのに、少し驚いてしまう。
「ほ、本当に出ましたわ」
【一〇の弾】。
狂三の感覚が正しければ、対象の持つ記憶を狂三に伝えてくれる弾のはずである。
ならばこれで自分をう 撃てば、この身体が、頭が体験したことを思い出せるはずだった。
狂三は恐る恐る銃口を自分の側頭部に押し当てると、意を決して引き金を引いた。
銃声が影の中に鳴り響き──銃弾が狂三の頭に吸い込まれていく。
瞬間──
「──────────」
狂三の頭の中に、濁流の如く記憶が流れ込んできた。
かつて出会った少女、澪。
彼女に騙されて犯した罪。
そして──自ら手に 掛けた親友のことを。
「あ……あ、あああああ……」
狂三は手を震わせ銃を取り落とすと、その場に這い蹲るように手を突いた。
途方もない後悔が、絶望が、肺腑を満たす。
自分のしてしまったことの愚かさに悲 哀さえ覚える。
──けれど。
やがて狂三は、顔を上げた。
もはやそこには、平穏に浸ったお嬢様も、正義の味方に憧れた子供もいはしなかった。
その表情に滲むは、決意。
その隻眼に灯るは、憤怒。
澪が何を思ったのかは知らないが、狂三はまだ生きている。
そしてこの手には──世界で唯一時に干渉できる最強の天使《刻々帝》がある。
ならば、まだ何も終わってはいない。
世界を、やり直す。
たとえ、どんな犠牲を払ったとしても。
歴史を、作り直す。
たとえ、この身が朽ち果てようとも。
狂三は、再び二足で立って、歩き出した。
「……ッ!?」
士道は目を見開き、辺りを見回した。
仄暗い雑居ビルの一室。
胸元には狂三がもたれかかり、温かな体温を伝えてきている。
そこで、ようやく士道は思い出した。
自分が今、狂三とのデート中であるということを。
「今のは……」
白昼夢──というには時間が遅すぎるかもしれなかったけれど、感覚的にはそれに近かった。
まるで別の誰かの人生を追体験するかのような感覚。
数秒前まで士道の意識は、確かに『狂三』と化していた。 そして、気づく。狂三が自分のこめかみに銃口を突きつける直前に唱えた言葉──【 一〇の弾】。
恐らく、ものが持つ記憶を対象に伝える、《刻々帝》の能力だろう。
ということは今士道が見ていたのは、幻覚や夢などではなく──かつて狂三の身に起こった本当の出来事であるということだろう。
「──わたくしは」
狂三が、滔々と言葉を零す。
「始原の精霊を、殺しますわ。
たとえ何があろうとも。
たとえ何が起ころうとも。
たとえ──何をしようとも」
士道のシャツを握りながら、続ける。
「わたくしのしていることが正しいなどと言うつもりは毛頭ありませんわ。
わたくしは始原の精霊の口車に乗り、幾人もの人を殺め──そして今度はその精霊の存在を消し去るために、さらに屍を積み続けている。
わたくしは悪。
紛れもなく人類の敵。
殺し、殺し、殺し続け、死の上に死を重ね続けた〈ナイトメア〉。
もしも死後の世界というものが本当にあるのなら、わたくしは特等席で最下層行きでしょう」
でも、と、狂三の手に力が込められる。
「構いませんわ。
それで、構いませんわ。
わたくしが地の獄に落ちるその前に、あの女を、始原の精霊を、崇宮澪を──この手で『なかったこと』にできるのならば」
「崇宮…澪」
士道は掠れた声でその名を反芻した。
崇宮…澪。
その名には聞き覚えがあったのだ。
『崇宮』。
その苗字は、紛れもなく真那のものであった。
──意味がわからない。
様々な情報が混濁し、士道の思考を乱していく。
しかし今の士道に、それを熟考できるような余裕はなかった。
狂三が、全てを吐き出すかのように言って、ゆっくりと吐息し──士道の服を掴む手を緩める。
「わたくしは、全てをやり直す。
今まであったことを、ゼロ 無に戻す」
そして士道の胸に埋めていた顔を上げ、士道の目を見つめてくる。
「それが、わたくしの理由。
わたくしの生きる意味ですわ。──そのために、士道さんの持つ精霊の力が必要 ですの」
狂三は訴えかけるように言うと、士道がこた応えるより早く言葉を続けた。
「無論、綺麗事を言うつもりはありませんわ。
わたくしが士道さんを『喰らえ』ば、士道さんは死んでしまうでしょう。
──でも、士道さんが持つ霊力を手に入れさえすれば、わたくしはきっと、歴史を変えてみせますわ」
「歴史を──」
士道はその言葉に、かつて狂三とともに時を遡行したことを思い起こした。
そう。
狂三の言っていることが夢物語でないことは、士道が一番よく知っていた。
何しろ士道は一度、この世界の歴史を改編しているのだから。
──他ならぬ、狂三の天使の力によって。
「ええ。
始原の精霊さえ消し去れば、わたくしが精霊になることはありませんわ。
すなわち──士道さんがわたくしに『喰らわれる』事実もまた、消えてなくなるはず」
だから、と狂三が士道を見つめてくる。
「士道さん。
どうか、どうかお願いいたします。
わたくしを信じてくださるなら、その力を、その命を──ひとときだ け、貸してくださいまし」
「────」
士道をからかうようないつもの狂三とは異なる、真摯な眼差しに、士道は思わず言葉を失ってしまった。
「無論、公平な取引とは思っておりませんわ。
全てを『なかったこと』にするとはいえ、士道さんの命を要求していることに変わりはありませんもの。
……だから、せめてもの誓いとして」
狂三はそう言うと、ゆっくりと手を持ちあげ、ブラウスのボタンを外そうとする。
「待て…狂三…。
お前は何をするつもりだ?」
そんな狂三に士道は問う。
「わたくしの霊力以外の全てを士道さんに捧げようと思いまして…」
『いけませんか?』
っと言わんばかりに首を傾げる狂三。
「駄目というわけではないが、原初の精霊を倒せるのか?」
「それは…」
士道の言葉に押し黙る狂三。
「そこで、俺から一つ提案があるんだが…とりあえず…」
「ええ、不届きものを排除いたしましょう」
言いながら士道は疑似霊装を展開、狂三も短銃と古式銃を顕現させる。
次の瞬間、凄まじい音を立てて窓が割れたかと思うと、薄いカーテンを引き千切って、幾人もの少女たちが部屋に飛び込んできた。
──まったく同じ貌をした、少女たちが。
「見ぃーつーけた」
「……って、あら??
もうやる気満々ね」
『どうやらこの間に見たのはただの夢って訳じゃないようだな…』
拳に両手に魔力を纏いながら士道は思考する。
そこにいたのは、数日前士道の夢に出てきた少女たちだったのだから。
「……あら、あら、精霊の贋作風情が、わたくしと士道さん逢瀬を邪魔するだなんて、いい度胸をしているではありませんの」
狂三が苛立たしげに言いながら短銃をニベコルヌへ向ける。
するとその言葉を聞いた少女たちの表情にも、ぴくりと変化が現れた。
「……へぇ? 贋作、ときたかぁ」
「それはお父様を侮辱していると思っていいのね?」
「許せないなあ」
言って、視線を鋭くしたかと思うと、少女たちが一斉に狂三に飛びかかる。
狂三は慌てるでもなく身を ひるがえ 翻すと、短銃と古式銃を少女たちに向け、連続してその引き金を引いた。
「〈刻々帝〉──【七の弾】ッ!」
「が……!」
弾に触れた少女たちが、狂三に飛びかかった姿勢のまま、空中でぴたりと静止する。
【七の弾】。
撃った対象の時間を止める、〈刻々帝〉必殺の一撃である。
「──ふん」
狂三が不機嫌そうに鼻を鳴らし、少女たちに背を向ける。
するとその動作に合わせて、部屋の
壁床天井に広がっていた影から何本もの『手』が伸び、少女たちの体を影の中へと引きずり込んでいった。
「〈刻々帝〉──【 四の弾】」
次いで狂三はそう言うと、銃口からまたも漆黒の弾を放った。
──バラバラになった窓ガラスの破片に向けて。
次の瞬間、まるで映像を逆再生するかのように、ガラスの破片が宙に浮き、窓を形作っていった。
『俺が出るまでもなく終わっちまったな…』
などと士道が考えている間に、部屋に先ほどまでと同じ静寂が満ちる。
狂三は小さく息を漏らすと、二挺の銃を影の中に落とし、士道に向き直ってきた。
「……邪魔が入りましたわね。
まったく、こんなときに押しかけてくるだなんて……」
と。
そう言いかけた狂三が、不意によろめき、壁に手を突いた。
「狂三……?」
「大丈夫……ですわ。
なんとも──」
狂三は笑みを作って士道に返そうとしたが──
そのまま、糸が切れた操り人形のように、がくんとその場に倒れ込んでしまった。