ーーー今まで多くの人間を見てきたが、これほどの才と環境に恵まれた人間を、吸血鬼をもって圧倒される智を持つ人間を、私は見たことがない。
彼女はーーーリリアとは、そういう女性だった。
斜陽の射し込む薄暗い部屋の隅。普段使いにしてはあまりにも殺風景な机の上に置かれた本を閉じる。
拳ほどの厚さもあろうかというソレは、見事な装飾の施された表紙で、中身を鑑みればまるで不釣り合いと言えるかもしれない。
所謂、『魔道書』と言われる物である。
魔法とは、一体何か。
それを確固とした言葉にできるほど、私の知識は十分に磨かれていないらしい。
他者の命を奪うことから、失われた命を作り出すことまで、術者の裁量と力量次第でなんでもできてしまう。
それに、魔法は種族を選ばない。人間がその力に目覚めれば、老いを止めることも、圧倒的な力の差のある妖を屈服させることも可能である。
それは妖にとっても同じである訳で、例え弱い種であろうと、卓越した魔法によって上位種を討ち果たした、という例もあるという。
・・・とまあ、こうして私が魔法について知っていることを並べてはみたが、これは全て先程まで読んでいた魔道書のはしがき、その受け売りである。
魔道書とは不思議なもので、読み手の力量を超えた内容であれば、そもそも文字として認識出来なくなる。
残念ながら非才の身である私には、あの分厚い魔道書の、ほんの触りしか読み取ることができない、というわけだ。
「・・・お早よう御座います、レミリア様」
壁越しに私を呼ぶ声に、耽っていた思案から意識を外に戻す。
外は今ちょうど陽が落ちようというところ。なるほど吸血鬼の起き始める時間というわけだ。
「・・・起きていらっしゃいますよね?」
「・・・起きてるよ」
ガチャリ、とドアが開く。無遠慮とは真逆の、ゆったりとした気遣いのある動作に声の主の人格を知ることができるだろう。
「先生がお呼びです。準備が出来ましたらお声掛けください」
名をリリア・ノーレッジと言う。現状、私が最もよく顔をあわせる人間の1人、ということになる。
陽光がカーテンから漏れる長い長い廊下を歩いて行くと、屋敷の中心にある大きな階段にたどり着くことができる。
私の部屋は二階の端にあるから、そこに辿り着くだけで寝間着姿から普段着に着替えるのとさほど変わらない時間がかかる。
「本当にすまないな、お母様の小間使いのようなことまでさせてしまって」
「いえ、これも弟子の務めのうちですから。こうして少しでも恩返しすることで、気兼ね無く先生の才にあやかれるというものです」
リリアは私の母に師事している魔法使いである。本来この館の従者でもないのだが(当然こんな館にもメイドぐらいはいる)、母が「気兼ねなく使えて便利だ」ということで使い走りのようなことまでしてもらっている。
私よりも2歳ほど年上で、まだその枠に収まっているかはともかく、生まれも育ちも人間である。
非常に才能のある魔術師で、母が8年前に拾ってきた。私にはその頃の記憶がないから、物心ついた時には側に彼女がいた。私にとって、身内以外で最も身近な存在と言える。
吸血鬼の屋敷であることに加え、少し辺鄙な場所にこの館は建っている。故に客人など来ないため、豪勢さが無駄になっていそうな階段を下に降りれば、屋敷の入り口にあたる大きな扉のあるエントランスに出る。
二階分ある高い天井に、二つの靴音が響く。
ふと、リリアが口を開く。
「魔道書を読んでいるらしいですね。流石先生の娘さんといったところでしょうか」
「ほとんど読めないけどね。私にはどうも才能がないらしい、こんなんじゃ先行きも不安さ」
「そうでしょうか?そもそも20にもならない吸血鬼が、こうして1人で魔道書を読んでいる、それ自体が非才の為せる技ではないと思うのですが」
そうやってかけられる優しい言葉が痛い。
女性としては背の高いリリアに対する私の体は余りにも矮小に見えた。
「・・・そうは言うけども。そもそも貴女がお母様に拾われた時には、もう既にそこらの魔術師なんかよりも余程のものだったじゃないか」
「吸血鬼と人間の生きるスパンは違いますから。もしも私が才能に恵まれていると見えるとしたら、たった50年で命を燃やし尽くす人間は、どうやっても早熟するしかないということでしょう」
所詮師の娘でしかない私にさえ、的確なフォローを忘れない。
物腰の落ち着いた、女性的な柔らかさを持つ彼女が本当に私とほとんど変わらない年齢だというのは、いささか信じがたいことである。
「・・・不器用な私とは大違い、って訳だ」
ボソリ、と心の声を漏らす。
「?」
「・・・いや、なんでもない」
長い廊下も歩けば終わりにたどり着く。
突き当たりには一歩踏む度にギシギシと音を立てる階段がある。それを私たちは無言で下に降りる。
「さっきは寿命が短いからとか、なにか偉そうなことを言いましたが、あれは本心ではないんです」
徐々に蝋燭の灯りの薄暗さが降りてくる道で、突然彼女は口を開く。
「ふむ?その心は」
「・・・私、捨虫に挑戦してみようと思うんですよ」
「・・・なるほどね」
「あれ、驚かないんですね」
自らの老いを止める、この世における最も難易度の高い魔法の一つ。生まれ持った種を捨て、種族魔法使いとなることでもある。
研鑽には莫大な期間を必要とし、多くの魔法使いがその完成のために命を燃やし、そして道半ばで力尽きてきた。
魔法を扱う種の中で最も寿命の短い人間には、常であれば手の届く魔法ではない。
「ま、貴女ならいつかそう言うような気はしていたわ。きっと上手くやってみせるんでしょ?」
「上手くいくかは分かりませんけど。時間さえあれば知ることのできるかもしれないあれこれを、諦めることは出来ませんでした」
そうは言うが、彼女ならばきっと上手くいくはずだった。
何故なら彼女はーーーーーー
地下には広大な図書館が広がっている。すべて母の蔵書だ。
1000年以上の時をかけて集められた本は、吸血鬼の一生ですら全てを読み切るのは不可能なのではないかと思わせるほどに積み重なっている。
本の森の向こうは母の書斎だ。
きっちりと生き物が住める環境にあれば、だがーーー