寒い。
三階に到達した時に感じた最初の感情はそれだった。
部屋が寒いというわけでは無いのだと、直感的に感じる。独特のヒヤリという感触は、いうなれば緊張感や視線で感じる寒気と同様のもの。それが部屋に入るなり感じられるということは、この空間自体がそういうことなのだろう。
つまりは、人ならざる者、実体無き者達が跳梁跋扈しているということなのかと信じたくなるような空間。
部屋の構造自体は二階とさほど変わらないとも思えるが、それを錯覚させるほどの空気。
幽霊がでやすそうな場所、などと肝試し染みたお遊びはとうに卒業したサトシであったが、ここは紛れも無く本物。
でやすいどころかすでに出ている。
そう、シルフスコープを付けたサトシの目には、右に左にふよふよといろんな半透明のものが浮いている次第だ。
初めて視界に入った時こそ驚いたが、ここまでたくさんいるとなるとさすがに慣れるというものだ。
肌寒く薄暗いという環境であるため、急に目の前に一体の幽霊的な何かが出現でもしたら大声で奇声を上げてすぐさま反転して全力ダッシュする自信はあるが、恐怖とは急にくるから怖いのだ。ゾンビ映画のように身体的なリスクでもない限り、死体が町を闊歩するのに慣れるのも道理である。
そして、幽霊よりも怖いものがある、と実感を持って明言することができるようになったのは経験として喜ばしいことではある。
つまりは
「キイイイエエエエエエエエエイエエエエエエエ!!!!!!キエエエエエキョワアアアエエエキキキ!!!!!!」
これである。
半狂乱状態で巫女服のようなものを着た女性が長い髪をヘッドバンキングか獅子舞かと思えるほどに振り乱して謎の叫び声を発しているのだ。
たとえ美しい女性だったとしてもこの姿を見ると万人が目を背けるに違いない。なんと勿体ない。
ただもちろん美女だけというわけではないので、文字通り化け物染みた生き物に変貌してしまっているような人もいるようだ。
この状態になっている人が数人、部屋を徘徊している。
見た目が見た目だけに、ゾンビよりも怖い。
「と、とにかく刺激しないように上の階層へ行こう・・・幽霊的なものにも触れないように」
「ピピカチャ」
とはいうものの、シルフスコープを通してみる景色というのはなんとも現実離れしている。
見えないものを見る、などというトンデモ発想が何ゆえ開発され商品化されるに至ったのか。
需要と供給に見合った商品とはとても思えないが、今やポケモンという生物がデータ化されパソコンに保存できる世の中である。科学技術の発展は素晴らしい。田舎暮らしだったサトシの家とてテレビもパソコンもゲーム機もある。
なにより研究施設であるオーキド博士の研究所があるのだから、十分に時代の恩恵は受けていると言える。
もっと未来に向けて空を飛ぶ靴とかどこにでも行けるドアとかタイムマシンとかに精を出せばよいのに、幽霊を見るなどという暴挙に走ったのか一般人のサトシには到底理解できないものだ。
それとも、研究者の本分がそもそも自分の欲求を満たすだけに存在しているのかもしれないが、それもサトシには全く持ってわからないことである。
もっとも、シルフスコープから見える景色を考慮にいれると研究者とは有能なのか天才なのかバカなのかいろいろ問い詰めたくもなる。
見えるのだ。いろいろと。
ぼんやりとだが、ポケモンのような姿がそこかしこに。
そして、数は少ないが人間のような形も見受けられる。死しても魂はポケモンと共にあり、みたいなことなのかもしれない。
霊に意識や思考があるのかはわからないが、サトシに向かって来たり興味をもったりということは無いようだった。
シルフスコープが無かったら見えてもいないのだから、当然といえば当然であるが――――
「ん?なんか人型の霊のようなものが勢いよくこっちに―――――」
「キエエエエアアアアアアアアアアア!!!!悪霊退散悪霊退散アクアクリョリョリョリョーーーーー!!!!」
「うわあああああ本物だ!!!」
思わずピカチュウの後ろに隠れたサトシだったが、全力疾走してきた人は急ブレーキさながらに立ち止まり、猫背ぎみに俯く。
長い黒髪が垂れ下がり、簾のようになって顔が見えず、非常に怖い姿でゆらゆら横に揺れている。
そして、何かを握りしめた手をゆっくりとサトシの方へ掲げる。
「―――モンスターボール?」
その手に持つはモンスターボール。
それの意味するところは全世界において共通。いつの間にか少しだけ顔を上げてうっすらと目が見える目の前の人物が歪な笑顔を浮かべ、握りしめた手を開く。
手のひらの束縛から解き放たれたボールは床にカツンと固い音を響かせ、すでに見慣れた赤い光を放つ。
場の空気も相まって、非常に禍々しい光となりポケモンの姿を形作る。
「あれは―――幽霊・・・?いや、ポケモンか!」
咄嗟にポケモン図鑑を向けると、ガスのように空中を漂い邪悪な笑みを振りまくポケモンはゴースというらしい。
とことんポケモンという生き物は不思議が多い。メタモンの不定形も大概だが、今度は実体もないらしい。
「でも、やらなきゃ・・・・幽霊って触れないよね、たぶん。いけ、クラブ!」
腰につけたモンスターボールの一つを目の前に放る。
そこから出てきたのはピカチュウに次ぐ古参のポケモン、クラブ。
「キキキ、ケキャキャきゃきゃ」
「ゴース」
「クラブ!なみのりだ!」
「クラーブ!」
大きなはさみから勢いよく水が放射され、ゴースの身体を文字通り水で流す。
「ゴ、ゴゴース」
不敵な笑顔が消え、あっという間にガスのように霧散してモンスターボールへ戻っていった。
実体として人が触ることはできないが、ポケモンの放つ技であれば効果があるようだ。
不思議ではあるがそういうものなのだろう。
そして
「・・・あの、大丈夫ですか?」
クラブの放射した水がゴースを通り抜け、正面から水を浴びる羽目になった女性は何があったかわからない、といった風に目をパチクリさせ、キョロキョロと周囲を見渡している。
ちなみにびしゃびしゃになった巫女服はボディラインをひどく強調する上に要所要所透けており、かなり刺激的だ。
黒髪長髪な上、今まで狂気に満ちていた表情も消え、薄化粧の素敵な女性へと変わっていた。当然直視する度胸はサトシには無い。
「ここは、あなたは、わたしは?」
まだ混乱しているのだろうか?それとも記憶喪失的な症状だろうか。
「えっと、ここはポケモンタワーで、僕はサトシといいます。」
「―――ああ、ごめんなさい。大丈夫。君が祓ってくれたのね。ありがとう。」
「祓って?」
首を傾げるサトシ。だが、考えることもなくすぐに答えは告げられる。
「私は祈祷師なの。悪霊がでるというので鎮めにきたのだけれど、逆に乗っ取られてしまったみたい。迂闊だったわ。」
「キトーシ?」
「ああ、そうね、悪いお化けを成仏させたりする人のことよ。」
「なるほど。」
お化けや悪霊なんてものがいるかどうか半信半疑な部分があったが、これはもはや信じるしかないようだ。
なにせ水が滴るほどびしゃびしゃなお姉さんが悪霊に憑りつかれてしまっていたのだから。
早く上着着てください。
「君は何しにここへ?かなり危険だから早く戻った方がいいわよ。―――私は戻るわ。水浸しだし、私の手に負える状況じゃないし。」
「えと、まだやることがあるので」
「そう。忠告はしたわよ?じゃあまた生きてるうちに会えるといいわね。」
最後に恐ろしいことを言って、祈祷師の女性は足早に階段を降りて行った。
「生きているうちに、か。」
「ピカピ?」
「いや、大丈夫だよ。先に行こう。」
生きているうちに。
その言葉はあまり聞きなれないものではあるが、裏の世界に生きているサトシにとっては酷く生々しく、冗談と聞き流すことはできなかった。
常に死と向かい合わせな日々を送っている。だからといって死を常に覚悟できている訳ではない。
死んだことが無いのだから、死を覚悟しているなんて言ったところでそれは真実ではないし、覚悟などできていない。
そもそも生きているという状態がどういうものかもよくわかっていないのだ。
夜にオヤスミと寝てしまって、その後に起きることがなかったとしたらそれは死と同義ではないのかとも思う。
生も死も曖昧。この旅でサトシは幾度となく生き物の生き死にについて深く考える機会があったが、その何れも答えは出ていない。
サトシ自身がシルフスコープの向こう側に立っていることを考えたところで何の意味も無いが、いざ考えてもそこに特別な感情は生まれなかった。
―――まあ、そういうことになるかもしれないな。
とだけ思ったくらい。
死を覚悟しているというには程遠いが、死ぬかもしれないなとは思っている。
そのちょっとした心構えだとしても、日常に埋もれて平々凡々と生きている一般人と比較すると天と地ほどの違いがあるだろう。
故にサトシは逃げることは無い。
死を覚悟するのではなく、可能性を受け入れることで、サトシは今の目的を見失わずに足を進めることが出来る。
「とはいえ、怖いものは怖いから、早く『ふじおじいちゃん』を見つけよう。」
「ピッカピ」
階を進めるほどに強くなっていく寒気と恐怖感。
何が原因か、というのも気になるところではあるが、まずは子供の泣き顔を止めなくては、とさらに上の階へと足を進めるサトシだった。