空手は、今でこそ硬派なスポーツとして多くの人に受け入れられているが、本来は殺人すら容易な格闘術である。
鍛え抜かれた肉体は全身凶器。拳は砕き、指は刺し穿つ。且つ耐久力も常人の域ではなく、まさしく生きた戦闘機械。
対象を息の根を確実に止めうる技術として存在する。
王の名を関する人間からすれば、当然スポーツとしての空手など唾棄すべき存在。
稽古だとして、怪我もするし気も失う。時には命とて例外ではない。
それが空手の神髄というものだ。空手王にとってそれは考えることもなく身についている価値観である。
「ぬうん!」
空手王が大きく踏み込み、正拳突きを繰り出す。
一般人から見たらその踏み込みの距離がおかしいし、速度も尋常じゃない。人間ならば避けることはかなり困難だろう。
しかし、見える。
人間には酷なのかもしれない。
見えないほどの速さというものを幾度となく経験してきたサトシにとって、動きが見えるということは遅いということだ。
当然、ピカチュウにとっては避けるのは容易い。
ひらりと身を捻ると、空手王の拳は数センチ横の空間を突き刺した。
「まだまだぁ!!」
流れるような動き。流水のように自然で、炎のように激しい猛攻。
無駄な動きなど一切無い、人間の武道の極致。
しかしやはり、人間の枠を超えることは無い。
鍛えるという工程を省いて人為的に作られた戦闘生物に及ぶことはなく、拳撃も蹴撃も届くことは無い。
(やっぱり、勝てるわけないよね・・・)
わかりきっていたこと。サトシとて期待していたわけではない。
ピカチュウが一発、拳を振りぬき、かろうじて防御した空手王が一メートルほど後方に弾かれた。
圧倒的な力の差。
追いつけるハズは無い。そもそも戦う舞台が違うのだ。人と戦車が対等で無いように、この戦いも無茶無謀なものだ。
決して対等ではない。
きっと空手王も脳みそのどこかではわかっているハズなのだ。力の差がありすぎる、と。
しかし、弾かれた空手王の腕の隙間から除く表情は、サトシを困惑へと導いた。
「・・・笑ってる?」
笑み。苦悶の表情ではなく、笑み。嘲笑という感じではない。単純に楽しい時にでる笑顔。
「くはは、さすがだな。まったく敵わん。磨いてきた技が一撃も当たらんとはな。正直、かなり悔しいぞ。」
「ピカピ~」
口では悔しいと言っているが、顔にはまったくそのような感情は出ていない。
むしろ逆。嬉しさすら感じられる。
サトシにはその意味がまったく分からなかったが、彼の弟子達は困惑することなく、納得の表情をしている。一体なんなんだ。
首を傾げているサトシのもとに、一人の空手家が近づいてくる。
「不思議かね、少年よ。」
「はあ、まあ、そうですね。なんで勝ち目の無さそうな戦いを敢えてするのか、とか。」
「勝ち目の無さそうな、か。くく、そう見えるのも無理からぬこと。」
傾げていた首をさらに傾け、その格闘家を見る。
「どういうことですか?」
「少年よ、人間の限界はどこにあるのか考えたことはあるかね?」
「人間の限界・・・ですか。」
どうしよう、全く興味が無い。というか人間には到達できない戦いをずっと見てきてしまっているので、もはや自分を強くしようとは思えない。
無論、肉体的には強靭に越したことはないのだろうが、限界にチャレンジするつもりはさらさら無い。
「肉体的な人間の限界はもちろんある。いくら強靭に鍛えることができたとしても、筋肉が増えることは無い。それに単純に人間という種族の限界があるからだ。」
どうしよう、インテリ系筋肉だ。これで眼鏡でもかけていたら完璧だったのだが、目が悪くなるような習慣など無いのだろう。
サトシを視線で突き刺せそうな眼力を見せつけてくる。
「だがな。人間は本来、もっととてつもないエネルギーを秘めているのだ。」
「とてつもないエネルギー?どういうことですか?」
少し興味のある話だ。人間と戦う機会など訪れない方がいいに決まっているが、もしサトシでもいきなり強くなれるのであれば知っておきたい。
ポケモンバトルでも役に立つかもしれないし。主にピカチュウの被害にあわないために。
「人間は本来持っている力の二割程度しか出せないのだ。肉体が傷つかないように、その力を抑制している。」
「たった二割!?」
「その通り。これは人間である以上避けられない、本能によって抑制されていること。だが、この抑制を外す手段もまた存在する。」
「抑制を外す・・・?どうやって?」
「何も考えない、無意識下で全力を出す。一つの目的を果たすためならば肉体のことなど二の次だと脳に錯覚させるのだ。」
「脳に・・・錯覚させる?そんなことが可能なんですか?」
「少しだけならば、現実的に可能だ。特訓次第ではその効果も多少上がる。」
「なるほど・・・でも、それが限界だとすれば、ぴ―――ぴかぴにはとてもじゃないけど勝てないと思うけれど・・・」
ちらりと戦いの場を見やる。
呼吸を整える空手王と、じっと動かないピカチュウの姿が目に映る。
「少年よ。君は空手王という存在がどれだけのものなのか理解していない。いや、空手とは縁のないお客人だ。それも仕方がないことか。」
「どういうことですか?」
いや、それはもちろん空手王なんていう存在自体、今日のついさっき知ったばかりだ。
カント―は王国ではないし、王様なんてものはもはや歴史の教科書でしか見ない。
ああ、でもポケモンリーグには「四天王」という王の名を関する人達がいる。
意外と王様はたくさんいるのかもしれない。一つ勉強になった。
「空手を学ぶ人間は数えきれないほどにいる。その中には当然人生をかけて空手をしているのも少なくない。その中であのお方が不動の王として頂点に君臨しているのは何故か。」
何故?強いからではないのか。いや、それならば「不動」というのはおかしい。同じだけ鍛えてきた人間と切磋琢磨することすら無いということだ。
「その答えを、これから見れる。少年よ、このわたしとて、直接見るのは初めてだ。高揚が止まらない。ある意味、あのような相手を連れてきてくれて感謝すべきやもしれん。」
「答え・・・?一体なんの・・・うっ!」
ズン、という低い音が道場に響く。
空手王が大きく脚を開き、全体重を乗せて踏み込んだ。
呼吸はすでに落ち着いており、相変わらず恐怖も動揺も無さそうである。
むしろ昂る感情を抑えきれないという感がある。
両拳を固く握りしめ、獰猛な笑みを浮かべた空手王が口を開く。
「ぴかぴよ。やはりお前は人間の範疇では手も足も出ないようだ。だが、それならば。それならば、だ。」
空気がピリピリとし、肌に刺さる。
ピカチュウの出す殺気ではない。それとはまた別の感覚。
何をしようとしているのだろうか。
「お前が人間を超えた存在であるならば、この俺も人間を超えて戦っても問題はなかろうよ。」
「人間を・・・超える?」
サトシが無意識に反芻した直後、空手王の肉体に変化が起きる。
ただでさえ巨大な肉体が、さらに肥大する。
いや、正確に言うならば、肉体そのものではなく筋肉自体が少しずつ肥大化している。
まだ人間の領域にあった肉体が、それを超えて成長する。そんなことがあっていいのだろうか。
異様な空気に反応したのか、ピカチュウも攻撃に備え、若干前傾姿勢となっている。
身体全体が若干赤みを帯び、まさに人外。それはまるで鬼のような姿。
「ぴかぴよ、あまり長い時間はかけられん。全力で行かせてもらうぞ。何、お前なら死にはしないだろう。」
少しだけ身体を前に傾ける空手王。そのシルエットは肥大化した筋肉も相まって、ピカチュウとかなり酷似していた。
「ぬん!!!!」
バンッ!!!!ドゴッ!!!!!
「うわ!!!!何!!??」
何かが弾ける音がした後すぐに、壊れるような打撃音。
突然の衝撃に目を閉じてしまったサトシはすぐに目を開けて見渡す。
一瞬前までいた空手王はおらず、床は破裂したかのように砕けている。
ピカチュウの方へ焦って目を向けると、ピカチュウごと拳を打ち抜き、壁にたたきつけた空手王が堂々と両の足で立っていた。
「・・・あてた?というか、見えなかった・・・・どういうこと?」
空手王は人間だ。それは間違いない。
だが、そうであるならば今目の前で起きた現象の説明がつかない。
人間には不可能な動き。それを空手王はいともたやすくやってのけた。
「どうだ少年。これが、空手王という人間が到達した肉体の極致だ。」
「一体何がおきたんですか・・・?」
「あのお方はな。肉体のリミッターを自分の意志で外せるのだ。どのような環境で修行を重ねたらそのような精神の極致に至れるのか、想像すらできんがね。」
「でも、それでもあの筋肉は!?なんかでかいですよ!」
「パンプアップというものだ。一時的に筋肉に栄養素と血液を集めることによって、筋肉を肥大化させる。当然だが、あそこまで極端に大きくなるものではない。」
「・・・」
人間の限界。
サトシは考えを改めなければならない。
単純に体を鍛える、などと言葉で表せられるものではなかったのだ。
あれは。あれはとてつもない犠牲を孕む諸刃の剣。
肉体を安全に維持するための抑制を外す?しかも後天的に、だ。
およそ考えられることではない。思いついても、実行に移せるわけがない。
筋肉の全力を出し続ける、という狂気。
そして、その効果を最大にするためのパンプアップ。
ここでようやくサトシは気づいた。
空手王は、「空手に人生を費やした」のでは無かったのだ。
より強く。より強靭に。より高く。
「ただただ強くなることに人生を費やした」のだ。
空手というのはただ単に、好みの問題であったのかもしれない。
だがそれでも結果的に空手王は人間の枠を超えた。故の「王」。不動の頂点。人間の極致。人知を超えた存在。
人として到達できる限界に達した唯一の存在。
この戦いは、人間対ポケモン、という奇妙なお遊びイベントバトルでは無くなってしまった。
人間を超えた生き物と、ポケモンを超えた生き物の戦い。
そこにあるのはただただ強さを競うだけの場。
その強さに過程は関係ない。
より強くなるためにどうすればよいかを追求した者のみが立つことを許される特殊な武道場。
もはやサトシをしてこの戦いを止める気にはならなくなっていた。
見守る。それしかない。
十中八九、ピカチュウが勝つのかもしれない。時間稼ぎさえできれば空手王は今の肉体を維持できないのは明白。
だがそれでも。一人の人間が到達できる最高峰の戦いを見届けることに感謝感動はあれど失望など一寸たりとも無い。
見る。見るのだ。
瞬きすることすら悩ましい。この場所にいることができたことに感謝して。
「さあぴかぴよ。準備運動は終わりだ。ここからが本当の戦いだ。」
っ ょ ぃ