だだっ広い、コンクリートで包まれた空間。冷え切った空気が急激に身体の中に流れ込んでくるようで、思わず身震いする。
天井はそこまで高くなく、精々四メートルといったところだろうか。それに反して横への広がりは三十メートルはくだらない。
白い無機質な蛍光灯が点々と天井に埋め込まれているが、この広大な空間を照らしきれてはいない。光と光の間には真っ黒い影に支配され、等間隔に白と黒のコントラストを生み出している。
コンクリートと蛍光灯以外にほぼ何もない空間ではあるが、一番奥の中心。そこに巨大な金属の塊が鎮座し、低いノイズ音を途切れる事無く響かせている。
例えるなら、脳髄。複雑に絡み合ったケーブルと金属の配管。鈍く光る鼠色の管は入り組み、外界からの接触を拒んでいるように見える。シルエットだけみれば大きなドーム状に見える機械の中心には、この部屋の入口同様に頑丈に固定された窓。人が一人通れそうな大きさでまるで潜水艦についている丸窓のような形をしている。その中は怪しく発光する緑色の液体に満ちており、中は濁っていて何がその液体で覆われているのかは分からない。
その機械の対称。部屋の反対側の扉から入ってきたサトシは、その異様な光景と空気に、どうしようもない、肺と胃が同時に収縮するような感じに襲われ、手を固く握り震わせていた。
「さあサトシさん、到着しました。ここが、バトルフィールドです。」
「ここ・・・が?」
何もない。いや、バトルするだけなのだから何も無くても問題は無い。むしろ邪魔になる物は無い方がよい。
あるのは明らかに足りていない照明と、異物感を漂わせる謎の機械。
戦う分には問題無い。無いのだが、肝心なものが不足している。
「ナツメは―――?」
表の顔を担当していた影のナツメに案内され、『本当のナツメ』の場所へと来たハズだ。
だが、その当の本人がこの部屋にいない。これはどういう事なのか。疑念は尽きず、さらに寒気を強く感じる。
「ナツメ様なら、もうおられます。」
「いる・・・?どこに―――」
女性がゆっくりと右手を持ち上げ、正面を掌で示す。
「あちらにおりますのが、ナツメ様です。」
「あちら、って―――もしかして・・・」
手の先は、低音を響かせている機械。サトシが感じていた不安感が形を成して押し寄せてくる。
「はい、あの機械の中に、ナツメ様はおられます。能力が強すぎる故、常に機械の中で管理されております。」
「管理・・・?常に、って・・・?え、ナツメは出てこれないってこと―――?」
「はい。ナツメ様はあの中から出ることはできません。動くことも、喋ることもできません。できるのは、エスパー能力を発揮する事のみです。」
「そん・・・な・・・・」
ナツメは生きている。だが、それだけだ。
エスパー親父の話は聴いたし、実験や研究の事も知識としては頭に入っていた。
生物学上は、生きている。しかし、自由は無い。
サトシとそう年齢も変わらないハズの少女。
だが、それ以外のことは悉くかけ離れた境遇にいる少女。
サトシ自身も相当恵まれない状況に置かれていると自負していたが、彼女の前で自分が恵まれていないなどと口にできる人間がいるのだろうか。
食べる事も、寝る事も、動く事も、遊ぶ事も、悩む事も、楽しむ事も、泣く事も、話す事も、何もかもが奪われて、超能力の研究のためだけに現世に固定されている。
あれは生きていると言えるのだろうか。生きていると言っていいのだろうか。
研究者はこぞって言うのだろう。『生物学的には生存している。問題無い。』と。
エスパー親父にも、何の躊躇いもなく平然とした顔でそう言い切ってきたのだろう。
―――――反吐が出る。
何が研究なのか。何が大事に扱うだ。人間としての最低限の尊厳すらも、研究というものは否定しえるものなのか。そこまで価値があるものなのか。一人の人間を絶望に陥れ、一人の人間の形を奪い、一人の人間の自由を奪う。これが、同じ人間が出来ることなのか。許されていい事なのか。
サトシを憎悪が蝕む。
初めて、自分の事でもなく、ポケモンの事でもなく、一人の他人の事に対して憎悪を抱く。
分かっている。今までも人が殺されるという事はあったし、それを目の前にした事もあった。
だが、それは理由があった。到底受け入れる事などできないが、筋が通っていた。
裏のバトルでは生き死にが起こりえる。裏に関わる人間であればそれは覚悟しているし、そうでなくても認識はしている。そうなるかもしれない、と。
だが、これは、何だ。
命があればいいのか。なんの問題も無いというのか。何の覚悟も、罪悪感も、責任も、何もない。
あるのは単なる研究結果のみ。興味関心。趣味嗜好。
そんなもののために、世界を知る前の子供からすべてを奪うのか。それが、同じ人間の所業なのか。
歯を食いしばり、ギリギリと音を出す。強く握りすぎた手からは、爪が食い込んで血が滴り落ちる。
ポタポタと、無機質なコンクリートの床に赤い模様を作り出す。
『あなたは、正しすぎる。』
先ほどの言葉がサトシに強く圧し掛かる。
分かっている。バトルには関係無い。サトシのやるべきことには何の関連性も無いことは百も承知だ。
分かっているし理解しているし認識も把握もしている。だが、だが―――
『サトシ君は、正義に狂っているのだよ。』
ダメだ。自分の目的を見失ってはいけない。余計な感情は押し込まなければ。
そうでなければ、きっとまた失敗する。それは良くないことだ。学んだことだ。
『自分の出来る事を考えたまえ。君は直情的に過ぎる。』
知っている。分かっている。だけど、だけど。
サトシは無言で床を見つめ、黙っている。
傍にいる女性も、無言でそれを見つめる。
だが、この部屋に入った時点で、選択肢も、猶予も無い。
ここまでに何度もあった選択肢。だが、ここに来るという選択をしたサトシには、すでに再選択の余地は無い。
故に、黙っていても状況は進む。
十四歳の少年の葛藤など、さも無かったかのように、先へ先へと進む。
「―――では、ここでお待ちください。」
女性は一言そう伝えると、コツコツと小さく足音を反響させ、奥の機械の元へゆっくりと歩いて行く。
振り向く事無く機械の前まで行くと、窓に優しく手を這わせ、目を閉じた。
―――数秒後、目を開くと、今まで黒かった瞳に緑色の光が加わっていた。
女性が手を下げ、くるりと身体を反転させる。
サトシの方へ目を向け、口を開く。
『私がナツメ。ヤマブキジムリーダーのナツメ。さあ、戦いましょう。』
先ほどとは違う口調で、そう言い放った。