穴の開いた風船が空を飛びながら出す高音のような笛の音が周囲に響き渡る。
サトシの手の中にあるポケモンの笛は、笛の名に恥じない大きな高音を出し、その役目を十全に果たす。サトシは顔を真っ赤にしつつ、肺にため込んだ空気を力いっぱい吐き出し続けている。
「って!もおええわ!!!」
「あいたっ」
どこから持ち出したのか、マサキのハリセンで頭をはたかれたサトシはようやく口からポケモンの笛を離した。頭をさすりながらサトシは顔を上げ、そのまま硬直した。
「ほれ、おきたで。さすがのポケモンの笛、様様やな。」
「え、ああ・・・」
目の前には、壁。横にも縦にもバカでかい。こんな生き物がこの現代に存在しているものなのやら、と本気で思うほどに、目の前の壁はもぞもぞとゆったり動き、ふわああ、などとこれまた大きな口で欠伸をかましている。大きさの比較をするならばいつぞやに戦ったエリカのフシギバナの方が何倍もデカいのではあるが、こう、心構えというか、『普通の世界』における意識の持ちようがあるのだ。
むくり、と起き上がったカビゴン。サトシが三十人ばかり重なり合ったらこれくらいの大きさになるだろうか?けたたましい笛の音に起こされたとは思えないほどゆっくりと顔を上げ、細い目で周囲を見渡している。
注意深く観察していると、その視線が一点で止まるのをサトシは見逃さなかった。その視線の先にあるのは―—―
「ほーれ、カビちゃんドーナツやで~うまいで~こっちきいや~」
まさかのマサキさんだった。いや、正確に言うならば、マサキの手の中にあるイチゴチョコがトッピングしてあるドーナツ。しかも砕いたナッツが混ぜ込んである、食感がとてもいいドーナツだ。
カビゴンが食感を楽しむ食べ方をするかどうかはさておき、大量に食べて眠っていたはずのカビゴンは寝起きにも関わらず次の食事を目ざとく見つけたようだった。一体どれだけ食べれば気が済むのかと本気で訊きたくなるが、よく考えればウチの黄色いのも大量に食べてはスヤスヤ眠っていることが多い。起きているうちに栄養を補給しておこうというのは野生の本能なのだろうか。それとも単に食べたいだけか。どちらにしても、食料を生産する人間側としてはたまったものではない。
いや別にサトシ自身が生産しているわけではないが、黄色いのに限っていえばサトシの懐事情を勘案しない食欲だ。目の前の巨大なポケモンの食糧事情なんぞ自己負担してしまうことになれば、それこそポケモンリーグ制覇を考えるより前に飢えてしまうだろう。なんというか、たまったものではない。
サトシがそんなことを考えている間にもカビゴンの細い目はじっとりとドーナツを眺め、そして巨大な体に見合った大きな手をゆっくりと動かし、マサキの手の中にあるドーナツを取ろうとする。
「っと、そうは問屋が卸さんで〜ほれほれ〜」
ひょい、とカビゴンからドーナツを遠ざける。なるほど、ドーナツで釣ってとりあえず道の外へとおびき出そうということか。そんな簡単なことで釣られるとは思え・・・釣られてる。
カビゴンは起き抜けで寝ぼけているようでまだ若干頭がぐらぐらとしているが、食べ物には敏感らしい。なんて食い意地の張ったポケモンだろうか。隣のピカチュウも大概ではあるのだが。そのピカチュウもマサキの手に握られているドーナツをじっくりと見つめて、よだれを垂らしている。さっき食べたでしょ。
もそもそと起き上がり、マサキの誘導に釣られて動き、徐々に先への道が解放されていく。
「よっしゃ、このあたりでええやろ。このあたりなら邪魔にならへん。また腹減って起きたら勝手にどっかいくやろ。」
カビゴンが道から完全にどいたのを確認し、ドーナツを箱ごとカビゴンの手に渡す。それを箱ごと口に放り込み、カビゴンはまたスヤスヤと夢の世界に旅だっていってしまった。なんというか、欲望に忠実なポケモンだ。
「ちゅーわけで皆様方、これで道路は通れるようになったで。このカビゴンはしばらく観光名所にでもして金稼ぎしいや。」
親指と人差し指で丸く輪っかを作り、マサキはニカっと笑う。うん、人は悪くないのだろうが、マサキさんも欲望に忠実すぎて反感を買うタイプ!
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「いやー、サトシくん通りかかってよかったわ!ほんま助かったわ!おおきに!」
「ああいえ、僕もここ通れないとシオンタウンまで回り道しなきゃいけなかったので。」
横に退いたカビゴンを写真に撮ったり、さっそく釣り人が通って行ったりしている中、マサキから声をかけられた。
「それかて感謝感謝や!世の中感謝でまわっとるんやで〜サトシくんも他人の反感買うような生活送ったらあかん・・・って、そういう生活やったな!」
「べ、別に好きで変な目を向けられているわけでは」
「せやな!ごもっともや!———さて、わいはこれからお偉いさん方に報告せなあかんけど、サトシくんはセキチクにいくんやったけ。」
「はい。」
「セキチクちゅうことは、誰やったっけ———ああ、キョウのクソ野郎んとこか。あまりにクソすぎて忘れとった。忘れたかったやつやな。思い出してしもたやんけ、どないしてくれるんやサトシくん。」
「ええ・・・そんなこと言われても。キョウって、ジムリーダーですか?」
「せやな。セキチクシティジムリーダーのキョウ。毒ポケモンを使うトレーナーや。なんでも、忍者らしいで。ニンジャ。」
「に、にんじゃ?」
「そ、忍者。なんやサトシくん知らんの?サトシくんくらいの年齢やとめっちゃ調べたりとかしてそうやん。漫画とかにでてきとるんちゃう?あれや、めっちゃ足速かったり刃物投げつけたり、煙出して逃げ出したりするやつや。」
「なんですかそれ、強盗ですか?」
「ぶふぉ!言い得て妙やな!確かに逃げ足速い強盗やな!———まあわいもまっとうなポケモンバトルする分には口は出さんわ。サトシくんもジムリーダーがどういう人間かってわかってきたんちゃう?何事も経験は大事やな。せいぜい気ぃ張っていきぃや。応援しとるさかい。」
「はぁ」
「なんやあ、元気ないなあ少年!そんな湿気た面しとるから金も女もよってきいひんねん!あ、金は持っとるんやっけ?わいのプレゼントした金は?———え、もうない?この短期間でどうやったら百万溶かせるんや?逆に才能やな。うけるわ。———っと、そろそろいかんと怒鳴られてしまうわ。サトシくんも達者でな。」
「はい、マサキさんもちゃんと寝てくださいね。」
「無理やな!」
マサキに手を振り、サトシはピカチュウと共に十二番水道に向けて出発するのを、天然パーマは大手を振って見送った。それはもう、満面の笑顔で。なんの心配も無いかのようなそぶりで。
「———さて、キョウんとこか。なんもおこらんとええけど・・・ううん、わいもお人好しやな。サトシくんはいいおもちゃやから死ぬと目覚めが悪くなりそうやし。ま、とりあえず仕事や仕事。立場っちゅーんはいつもがんじがらめで面倒やわ〜」
頭をポリポリと掻きながら、マサキは大声で人を威嚇して道をあけ、クチバシティへと戻っていった。