こんなに感情の上下が激しいショーが存在するだろうか。
今夜何度目かになる静寂が訪れた。
「え、一体どういう―――」
サトシをもってすら、何を言ったのか理解できない。
今カスミは、確かに やめる と言ったのだ。
やめるとは何のことなのか。
バトルを?いやしかしまだ二試合目。三体目のポケモンを倒さなければ終わらない。
それをこそサトシはもっとも警戒していたのだが。
動揺を隠せない、といった様子でカスミや審判、観客を見やる。
審判も茫然としているあたり、本当になにも知らないようだ。
「だーかーらー、やめたの!ニョロボンもやられちゃったし、つまらないからやめる!なんか文句あるの!?」
ここにいる全員が茫然としている。
当然だ。今カスミが言っていることは単なる我儘であり、自分勝手。
カスミがここでのバトルをやめる。
それによって、サトシは余計なバトルをしないで済むという利点はあるが、果たしてそれでよいのだろうか。
サトシも正常な判断を下せずに、どうすればよいのかわからず黙っている。
しかし、ずっとそのような状況が続くはずもない。
この空間にいる数百人は、そのような展開を誰一人として期待していないのだから。
「ふざけんな―――――」
だれともなく、声が漏れる。
その小さな声は、徐々に周囲に広がり、大きな流れとなる。
水面に落ちた水滴のように、波紋が波紋を呼ぶ。
「ふざけんな!!やめるってなんだおい!」「こっちは金払って見に来てんだ!さっさとぶっ殺せ!」「負けんのが嫌なのかてめえ!さっさと負けて犯されろ!!」「人気だからって調子にのってんじゃねえ!この雌豚が!」「負けたんならはやく脱げ!」「俺が犯してやる!」「もう我慢できねえ!」「下行け下!」「輪姦してやる!」
小さな怒りは罵声に変わり、大きな怒りは怒号に変わる。
激しい闘争によって抑えられてきた観客の欲求が解放され、限界まで溜まっていた感情が行動となって押し寄せる。
結果、会場は大混乱となり、観客席から発せられる怒号と、フィールドへと続く階段に押し寄せる男達で溢れかえった。
「なによ・・・そんな・・・だって、嫌・・・・」
おろおろとするサトシをピカチュウが宥め、なんとか周囲の出来事を正常に認識し始めた。
間もなく鬱憤を晴らすべくこのフィールドに観客が押し寄せるだろう。
カスミは先ほどまでの余裕は消え、観客の変化に怯え、顔面は蒼白になっている。
ガチガチと歯をぶつけて怯える姿は、本来の年相応の少女に見える。
サトシはその姿を見て、考えてしまう。
「ピッカー」
「うん、わかってる。カスミはそうなって当然だと思う。でも―――」
おそらくピカチュウは、助けてもしょうがないよ、とそんな感じでいるのだと思われる。
しかしサトシは十四歳の少年。
理屈だけで考え、判断を下すにはまだまだ精神が完成していない。
サトシがとる行動は決まっていた。
「ピカチュウ、助けるよ!」
「ピッピカー」
やれやれ、というニュアンスでピカチュウの声を聴くのは何度目か。
しかし、ピカチュウが自由に動いた結果が現状なのだ。
これくらいの我儘、訊いてもらわないと割に合わない。
目の前で自分とそう変わらない年齢の少女が怯えている。
たとえ自分が騙されていようとも、後で罵声を浴びようとも、助ける以外の選択肢が選ばれることはついに無かった。
ピカチュウが怯えるカスミを抱える。
一瞬ビクッと身体を強張らせたが、何をするでもなく、そのまま縮こまっていた。
暴れられなくてよかったと内心思い、ここからどうやって脱出するかを考える。
ここへの入口はサトシが知っている限りは一つだけ。
しかしそこへ戻るためには、観客席へ戻らなければならない。サトシが降りてきたこのフィールドへの入口はもう間もなく男たちが押し寄せてくるため問題外。
しかし他に戻る道が無い。
ピカチュウだけなら飛び上がれば客席までは行けるだろうか。
行ったところでどうしようもない。
何よりサトシが脱出できなければ意味がない。
ああでもないこうでもないと考えているうちに、フィールドへの入口から罵声が聞こえてくる。
「うわああきたきたきた!!」
と、焦るサトシに声をかけてきた人物がいた。
「君!おい!」
知らぬ声に焦って振り向く。
「・・・審判の人?」
散々いろんな煽りをして会場を盛り上げ、一番近くでこのバトルを見ていた審判がいた。
そういえばいたな、と少しだけ思ったが、今はそれどころではない。
「な、なんですか!今はゆっくり話をしている場合じゃ!!!」
「聴け!カスミ様の出てきた入口がある!そこから逃げたまえ!」
「え、え!?助けてくれるの!!??」
「答えている時間はない!いいから急いで!」
納得いかない状況ではあったが、確かにカスミが出てきた通路には誰も押しかけていないようだ。
おそらく観客席とつながってはいないのだろう。
選択肢は無い。
「なんでこう―――いつも選ぶ余地が無いことばっかりなの!!!!」
自分の不運に嘆きつつ、全速力で走る。
ピカチュウもそれに続く。
しかし、すでに狂った男たちがフィールドに入ってきていた。
「にがすなああ!!!」「犯せえ!!」「男の子でもいいのよワタシはうふふ」「カスミを抱かせろおおお!!!」
「ひいい!!」
このままでは間に合わない。
「くそ!」
サトシは腰に手を伸ばす。
モンスターボールを二つ掴み、投げずに走りながらその場にポケモンを出す。
「サンド!『すなかけ』!!スピアー!羽ばたいて砂を撒き散らせ!」
「サンドー!」「スピアー!」
サンドが砂を巻き上げ、襲い掛かる男たちにばら撒いた。
さらにスピアーがその砂を広範囲に散らす。
簡易的な砂嵐となったフィールド。
視界が悪くなり、歩くのも覚束ない状態になった男たちは、その場に止まらざるを得ない。
目に砂がはいって屈む姿もあったが、それを眺めている暇は無い。
すぐにサンドとスピアーをボールに戻し、通路へと向かう。
先にサトシが入り、カスミを抱えたピカチュウが続く。
そのまま走りながら後ろを見ると、すばやく扉を閉めている審判の人がチラリと見えた。
あの人は何者なのだろうか。
安心はできない。
この通路がどこに続いているかはわからないが、とにかく進む。
しばらく進むと、ぼんやりと明るい光が見え、悩むことなくその光の中へ身体を滑り込ませた。
―――――――――――――――――――
「ここは・・・・?」
先ほどの会場よりも少し小さい、バトルフィールド。
どこか既視感を覚えたがすぐに思いついた。
ニビシティジムの地下にあった、裏バトル用の空間にそっくりだ。
水場が多く設置され、その空間はハナダジム用にデコレーションされてはいるが、広さはほとんど同じだと感じられた。
しばらく周囲を見渡していると、ピカチュウの手元から声が聞こえた。
「ここはジムの地下よ・・・あっちとつながってるの。ここヘは私の許可なく入れないわ。」
サトシは後ろを振り向き、声のした方へ顔を向ける。
まだピカチュウに抱きあげられたままの姿勢で、カスミが話していた。
「カスミ・・・」
先ほどの惨状が頭の中に蘇る。
一体どんな声をかければいいのか。
何を話せばいいのか。
まったく思いつかなかった。
非常に空気が悪いと思いつつ、明るく場をごまかすなんて芸当もできず、口ごもる。
しばらくその場を静寂が包む。
そして口を開いたのは、やはりカスミだった。
「助けてくれて、ありがと。一応お礼はするわ。」
目を見開いた。
まさかお礼の言葉が聴けるとは思ってもみなかった。
しかも口調は高圧的なままではあるが、その姿はかよわい少女そのもの。
ひどく可憐で、儚い姿に見えてしまった。
「いや、まあ、うん。」
一応何か言おうとしたが、結局なにも思いつかずに訳のわからない返事になってしまった。
慌てるサトシを見てクスリと少しだけ笑うカスミ。
それを見て顔が紅くなるサトシ。
いい感じに弄ばれているようだ。
「訊きたいのだけど、いい?」
「え?ああはい!なんでしょう!」
緊張のあまり勢いのついた返事になってしまったが、構わずカスミは先に進める。
「なんで助けたの?私はあなたを殺そうとしていたのよ?ポケモンをいたぶった後に、派手に血の花でも咲かせようかな、とか思っていたのに。」
それを聞いたときに、ほんとになんで助けたんだろう僕は。と深く後悔したが、それも後の祭り。
素直に本心だけ告げる。
「・・・女の子が、怯えているのをほっとけなかった。」
なんとも恥ずかしいセリフ。
しかし、抒情に溢れた詩的な表現など十四歳の少年にできるはずもなく、思ったことをそのまま伝えるのが限界だ。
それを聞いたカスミは、先ほどのサトシのように目を丸くして、自分の手で顔を覆った。
「プッ、クククク。あは!あははははははは!!」
急に笑い出すカスミ。
頭の中にハテナマークを浮かべてカスミを見る。
「あーーー面白い!なに、それ!あなた面白すぎるわ!」
何も言い返せない。
唇を前に突き出し、憮然とした顔でカスミを見る。
しかし、先ほどまでの弱弱しい姿から多少気力は戻ったようだ。
それに少しだけ安心する。
「もういいわ、降ろしてちょうだい。」
ピカチュウの太い腕をポンポンと叩き、そう伝える。
ピカチュウは一度サトシの方を見て、頷いたサトシを確認してカスミをゆっくりと地面に降ろす。
カスミの美しい肢体がサトシの視界に再度入る。
とっさに下を向き、照れた顔を隠すサトシ。
その姿にニコリと優しい笑みを浮かべるカスミ。
そして、言葉を発する。
「サトシ、と言ったわね。」
「え?ああ、はい、サトシです。」
いきなり名前を言われ、カスミの方を向いたが、やはり紅い顔はそのままだ。
一呼吸置いて、カスミが話し出す。
「サトシ、三回戦目をしましょう。まだ、戦いは終わってないわ。」
サトシの初心さがかわいい。
そしてカスミはもっとかわいい。