ガガッピーーキュイーーー
曇った電子音が聞こえ、その後に同じような音で人の声がした。
『サトシサン、キコエマスカ。ゴフンゴニ、バトルスタートデス。ブザー ガ ナルノデ、ソレガスタートノアイズデス。デハマタセンジョウデアイマショウ。』
ガガッ という、乱れた音が鳴り、周りはまた木々のざわめきだけが聞こえる静かな空間に戻った。
どうやら無線でマチスが話したようだ。
そんなことにすら、少し頭を回さなければ気づけない程に、サトシは怯えていた。
時間の余裕があればあるほどいい。
そう思っていた。
実際、過去のバトルにおいては時間の余裕はほとんど無かった。
それ故に、もっと時間があれば、有効な対策が考えられるのに、と悔しがっていたものだ。
だが、今はどうか。
一時間。今までに比べたら破格だ。
十分すら猶予の無いバトルが日常になっている中、持て余す程の時間。
その時間の余裕が、制限時間として、サトシに重く伸し掛かっていた。
まだ五分。たった五分。
サトシの運命を決めるバトルが始まる。
事実としては過去に何度も体験しているハズ。
ここにきてその重圧を肌に感じているのは、しっかりと考える時間が出来てしまったからだ。
この一時間という長さをあえてマチスが取ったのも、あるいはサトシのメンタルをへし折る作戦の一部なのかもしれない。
恐怖、絶望、悲観、慄然、暗澹、悄然、震駭。
ありとあらゆるネガティブな感情が身体を襲い、寒気を呼び起こし、震えが自身を支配し、言うことを聞かない。
もしかしたらこのまま息絶えてしまうのでは、と酷く不安な気持ちになる。
このままバトルが始まり、何もしないまま勝敗が決してしまう可能性もある。
そうなってしまったらサトシが立ち直ることは二度とないだろう。
恐怖に慄くサトシ。
そして、そんな状態のサトシを救うのは、いつもこの手だった。
「ピカチュウ・・・」
「ピカピ」
問題ないと。任せておけと。
そんなことを言いたげな、大きな手のひら。
それをまたしてもサトシの頭に優しく載せる。
安心できる。今まで感じていた恐怖心が嘘にように退いていく。
「ピカチュウ・・・ありがとう。」
「ピッピカ」
「――――でも!この状況作ったのピカチュウじゃないかあああ!!!」
「ピカピ?」
なんともふざけた相棒だろうか。
だがこの状況を乗り越えるにはピカチュウの力は必須だ。
それに、この一連の遣り取りで、サトシは先ほどのマイナス思考の連鎖から解き放たれていた。
「うん、そうだよね。怯えていても何もできない。やるしかないんだ。」
勇気の欠片。相変わらず希望は見えないが、やるだけやってやろうという意思は芽生えた。
サトシは立ち上がり、自分の仲間を鼓舞する。
そして、タイミングを見計らっていたかのように、ビー というブザー音が森に鳴り響く。
クチバシティジムリーダー戦が始まった。
―――――――――――――――――――
バトルが始まり、二十分が経過した。
チクチクと進む腕時計の時刻を見ながら、変わらず鳥の声や木々の騒めきばかりが聞こえる森の中を凝視しつつ、勝負の行方を見守る。
―――それにしても、変化が無さすぎる。
バトル開始後に自分のポケモン達が散らばった後、何の変化もない。
さすがにピカチュウとライチュウが遭遇したら、何かしらの音はするだろう。
それが未だに聞こえないということは、まだお互いにポケモン同士の衝突はしていない、ということだ。
(大丈夫、だとは思うけど)
サトシには何もできない。
森の中でバトルが繰り広げられるとして、その場所がわかったとしても、サトシにはできることが何もない。
むしろ邪魔になるだけだ。
この状況でできることは、考え、信じることだけ。
何かあれば戻ってくるハズだ。
その為にスピアーがいる。
サトシは、スピアーに偵察を任せていた。
実際バトルになれば、スピアーには悪いが勝負にならない。
おそらく森に一番馴染んでいるのは虫タイプであるスピアーだが、相手はライチュウ。
しかも、ありったけドーピングされているであろう、マチスのライチュウだ。
空中から戦場を見守ることができるのは、この空間においてスピアーのみ。
戦場において空中が一番安全であるハズだ。
何かあれば、スピアーが来てくれる。
うんうん、と自分を安心させるために大きく頷き、小声で大丈夫大丈夫と繰り返す。
自分が信じなくて勝てるハズはない。信じるんだ。自分の仲間を。ピカチュウを。
そう、自分に説得をかけ、納得する。
と、その時―――
ドーーーーォォォン―――
という、衝撃音か爆発音のような音が響き渡り、頭上を鳥のような生き物が群れで横断していった。
本物の鳥もいるのか、という感想も抱いたが、サトシは音のした方角をキッと睨みつける。
ついに始まった。
先ほどの音には及ばないまでも、継続して音は聞こえてくる。
間違いなく、ピカチュウとライチュウが戦っているのだろう。
不甲斐無い自分に何もできないことは、先ほどたっぷり考え、恥じたではないか。
今はピカチュウを信じるのみ。
「バトルノ テンカイガ キニナリマスカ?」
ハッとして、サトシは後ろへ振り向く。
「そんな・・・なんでここに・・・?」
サトシの安全地帯の少し外。木々の間からすでに忘れられそうにない、短い金髪の男が立って、こちらを見ていた。
―――――――――――――――――――
「マチス―――安全地帯への攻撃は――――」
禁止であるハズ、と言おうとしたのだが、ふと考える。
マチスの言っていたこのバトルにおけるルールを頭の中で何度も反芻する。
安全地帯。攻撃は禁止。攻撃は。つまり―――
「攻撃しなければ、出入りしていいと―――そういうことか・・・」
「サスガ、リカイガハヤイデスネ。」
ギリ、と唇を噛みしめる。
ルールは簡単、マチスは確かにそう言った。
簡単・・・・簡単・・・・
「簡単―――すぎる。」
終始仏頂面だったマチスが、ここで初めて、少しだけ笑みを見せた。
それ以上は何もせず、採点するかのようサトシを見続ける。
「ルールの抜け穴・・・確かに、安全地帯については『攻撃しない』としか言っていない。他にもありそうだ―――それほどまでに、ルールの縛りが少なすぎる!!」
ザア、と風が二人の間を横切る。
遠くではまだドオン、ドオンと戦いの音が聴こえている。
どちらが優勢なのか、劣勢なのか、その判断は微塵もつかない。
数秒、互いに無言で目だけを見やる。
サトシは目を見開き、マチスは目を細めて、お互いにお互いを見つめあう。
「フフフ、ハハハハハハハハハハハハ」
ついに堪え切れなくなったのか、堰を切らしたようにマチスが大きな声で笑い始めた。
緊張の面持ちで金髪の男を見続ける。
その笑いの真意はなんなのか、一言たりとも聞き逃さないために。
「ハッハッハ・・・サトシサン、マスマスオシイ。トテモ、トテモユウシュウダ。『オモチャ箱』ヲコワシタノハ、コノサイ ユルシマショウ。ミーノ、ブカニ ナリマセンカ?」
―――ブカ?部下と言ったのか、この男は。言うに事欠いて、マチスの思想に染まり、マチスと同様の事をやれと、そう言ったのか。
確かにサトシは今窮地に立たされている。
未だに続く戦いの音が途切れた時に、勝敗が決しているかもしれないのだ。
その結果、死ぬかもしれないし、あるいは奴隷として一生を終えるのかもしれない。
しかしそれでも尚、命を天秤に賭けても、サトシは越えてはならない一線があることを知っている。
いまさら綺麗ごとを並べるつもりはない。
事実だけを述べれば、反する事をしたことはある。
だが、サトシにとって、形容しがたく、あやふやで、どっちつかずの、子供だましな正義感というものは確かに存在しているのだ。
十四歳というまだまだ大人とは言えない年齢。
確固たる信念を得るのはまだまだ先の話。
故に、言えることがあるのだ。信じることができるのだ。
世の中を知る前だからこそ、前を向いて口に出せることがある。
「僕は―――そんな最低なことはしない。人として、許せないから。」
それを聞いて、マチスは怒るだろうか。驚くだろうか。残念がるだろうか。はたまた興味を失うだろうか。
マチスは口を噤んでいる。
無言、ではあるのだが、その口の両端は、耐え切れないとばかりにヒクヒクと上下し、笑みにもならない笑みを作り出している。
マチスは何よりも、嬉しかったのだ。
サトシが、全く穢れを知らないということが。
純粋に正義を目指し、愛情を求めていることが。
そして、それらを木端微塵に、一片残らず粉々にし、踏みにじることができる自分の立場と状況に、耐え切れない幸福と至福を味わっていた。
サトシは何度目かとも思えない、地雷を踏んだ。
マチスは、サトシを部下にしたいと本気で考えていたわけでは無い。
サトシを如何に残酷な方法で壊すことができるかを考え、実行に移しているのだ。
(Oh my god・・・なんて瑞々しク、美しいハートの持ち主なんでしょうカ―――)
全てにおいて最悪。
ピカチュウとライチュウの激しいバトルが繰り広げられている傍ら、安全地帯でも静かな戦場が幕を開けていた。