サトシは考えていた。
これはチャンスではないかと。
場所は再度、サトシの安全地帯へと戻る。
マチスは未だ安全地帯の一番端、草叢から出るか出ないかのところで、サトシを見つめながら口角を少しだけ上げてニヤニヤしている。
森の奥からは戦いの音が絶え間なく聞こえ、大きな音が響く度に、ピカチュウが負けてはいまいかと心配になる。
目の前で見ていたところで戦況が変わるわけではないのだが、それでも、勝負の行方というものは常に気になってしまう。
なにせピカチュウの敗北は、そのままサトシ自身の敗北に直結しかねない。
断言しないのは、このバトルにおいての敗北は、サトシ自身の判断に委ねられるからである。
―――左手に巻かれたデジタル時計を右手で触れる。
自己判断でこのスイッチを押さない限り、このジムリーダー戦は終わることはない。
ピカチュウが負け、他のポケモンが一網打尽にされていたとしても、敗北宣言はサトシの一存で決まることなのだ。
何故こうまでも回りくどい勝敗の決し方をするのか。
それは、サトシの目の前にマチスが居る、という事実をよく考えれば自ずと理解できることだった。
マチスは動かない。
この無言の空間を楽しんでいるかのように。
恐らく、慣れているのもあるだろう。
サトシはマチスからの威圧と、無言の空間からの圧力を二重で感じている。
反してマチスはいたって余裕の表情だ。
戦闘開始までの怒気を孕んだ表情はどこへやら、今はまったく正反対ともいえる表情をしている。
反対といえど、優しいとはかけ離れた、なにか悪巧みを思いついた少年のような、落とし穴に落ちる直前の人を見た時のような、子供が無邪気に毒入りのケーキを食べているのを優しく見続けているときのような。
兎に角、そんな気味の悪い、悪性であることは間違いないのだが、単純に真っ直ぐな怒りでは無く曲って歪んで崩れている捉えようの無い気味悪さを含めた表情をしていた。
その表情から読み取れるマチスの感情。
間違いなく、マチスは楽しんでいる。
何を、と聞かれても、今のサトシにはすべてを理解することはできないだろう。
サトシに理解できるのは、マチスが何かしらを楽しんでいる、ということのみ。
さらにサトシは考え、今この現状を生み出している根本原因。それを予想する。
自分の敗北は、自分で決める。
そのルールが存在する理由として考えられ得ること。
つまり、『如何に相手に敗北を認めさせるか』という勝負なのだ。
ポケモンの勝負は、確かに重要な要素ではあるのだが、それ以上に、トレーナーのメンタルが重要視される。
この事実に気付いた時、サトシは何を思っただろうか。
ポケモンバトルに有るまじき、トレーナー同士のバトル。
それも、自棄になったトレーナーが起こす物理的で発作的な暴動ではなく、お互いの思考能力、説得能力、心理読解能力をフル活用する精神の戦い。
人生において経験したことのない、物理に頼らない戦い。
マチスは軍人。当然、そのメンタルはあらゆる意味で完成されているだろう。
反してサトシは、お世辞にも口論に強いタイプではない。
確固たる信念も無ければ、相手を口車に載せるだけの技量も無い。
足りない技術でハッタリをかまそうなどと愚かな手段が通用するとは、さすがにサトシも思わなかった。
しかし、サトシは勘違いをしていた、と思った。
ここはサトシにとって、肉体的には一番安全な場所なのだ。
つまり、不利なのはマチスである。
どれだけ粗末な攻撃であろうとも、マチスはサトシに反撃はできない。
もっとも、サトシが足を振ろうとも、拳を振り下ろそうとも、マチスの鍛え抜かれた鋼の肉体にどれほどのダメージが入るのか。
サトシ有利な状況には間違いない。
だが、その状況を活かせるだけの用意も作戦も実力も、今のサトシには欠けている。
その結果、この沈黙。
お互いに何をするでもなく、遠くで響く戦いの音を聞くのみ。
ピカチュウが戦っている。
今まで、サトシを何度も危機から救ってくれた(危機に追い込んだりもしたが)ピカチュウが、今この場に居ない。
戦うのは、自分。いつまでも頼りっきりでは成長しない。
マチスに、勝つのだ。
精神面であの軍人に勝るのだ。それしか無い。
サトシは自分の中で覚悟を決める。
そして、マチスに負けを認めさせるべく、話を始める。
マチス―――
ハイ、なんでしょウ、サトシサン。
今戦っているのは、ピカチュウとライチュウでいいのか?
そうでしょうネ。
ピカチュウが簡単に負けるわけない。
エエ、ミーもそう思いまス。
それを分かって、何でここにいる?
ハハハ、サトシサンも気付いていることですヨ。
・・・僕と、勝負をしようということか。
ショウブ、勝負、ネ。ですガ、サトシサン。勝負だと思っているならバ、勝ち目がありますカ?ミーを相手に、どう戦えば勝てるカ、想像できてますカ?
―――正直ですネ。本当ニ、本当ニ、良いですヨ、サトシサン。――イエ、こちらの話でス。
何が言いたい・・・
何ガ、ですカ。そうですネ。少なくともミーには、サトシサンを敗北に導ク為の方法がいくつかすでにありますトモ。
・・・僕にだって、お前を倒すことくらい
ハハハ。そうですネ。それを競ウのが、このバトル方式の醍醐味なんですかラ。
マアゆっくりト話しましょウ。どちらかが敗北を認めるマデ。
―――サトシサンは話すのが苦手なようですネ。そういウ、初心なところもいいですネ。壊し甲斐があるってものデ・・・ジョークですヨ、ハハハ。
一通り言葉を交わす。
サトシは、ここまでの会話で十分すぎるほどに感じた。
言葉でこの男を屈服させることは、到底不可能だ、ということを。
このバトルにおいては致命的ともいえるこの状況。
いや、そもそも、このバトル条件を飲まざるを得ない状況を作ることこそが、マチスの戦略だったのか。
そう思うと納得がいく。最初からサトシを挑発するような言動を繰り返していたのも、そのためなのか、と。
(やったのはピカチュウだけども)
理不尽極まりない。
目の前の男はその理不尽すらも自分の戦略に組み込むのだから、本当に勝ち目が無い。
あらゆる面でサトシの上をゆく。
それはもちろん、サトシの持ちえない部分においては特筆するセンスを持ち得ている。
「サトシサン、ジツハ、プレゼントガアルノデス。」
急にそんなことを話し出すマチス。
目線をふい、と左に逸らし、愛おしい思い出でも語るような口ぶりで、遠くの方を見つめながら語る。
ザア、という風の音が耳につく。
そういえば、ここは室内だ。
風まで再現しているのだとするならば、もはや偽物の要素などどこにもない。
ここは森なのだと、頭が再認識する。
未だ鳴ることを止めない戦いの音。
低くくぐもった衝撃音が何度か鳴り響き、それに合わせて不快な風がハーモニーを奏でる。
それはプレゼントなどという本来好意を持った相手にしか贈らない物をサトシに贈るという不可解な行為をするマチスの意図を、端的に表しているようだった。
「・・・・・」
サトシは何も答えない。
少しだけ怪訝な顔をして、マチスの出方をうかがう。
マチスは少しだけ顔をサトシの方へ傾け、口元だけでなく、きちんと目でもニッコリという笑顔を作った。
その顔はどうしようもなく歪に思えた。自分の感情を捻じ曲げている顔だ。
本当はもっと嬉しいか、もしくはもっと怒っているか。
マチスは笑顔のまま無言で少し屈み、横の草叢に手を突っ込む。
ガサガサと草叢を弄るマチスは、ものの数秒で目当ての物を掴んだらしい。
ピタリ、と動くのを止めたマチスは、またも顔だけサトシの方を向き、先ほどよりもさらに歪な笑顔を浮かべ、下手投げでサトシの方へ何かを放ってきた。
大きく放物線を描いて投げられた物体―――何か丸い、すこし歪んだボールのようなものがサトシの目の前一メートル程に、ドチャ と不思議な音を立てて落ち、少しだけ転がってサトシの足先三十センチくらいのところで止まった。
細かく模様が入った大きな水晶のようなものが二つついた、黄色い塊。
紐のようなものも二つついている。
それは見慣れたもので、見慣れない姿だった。
「―――――――――す」
サトシは言い淀み、嘘だと信じたい気持ちで胸がはち切れそうだったが、紛れもな事実でどうしようもなく今起きている事象を理解してしまった。
目の前にある黄色いボール。
間違えるハズがない。それほどまでに見慣れた、その『プレゼント』は
「スピアー・・・・・・・?」