タンッ、と軽い音をたてて翔多が踏み台を蹴り、しなやかな細身の体が宙を舞った。体操部も顔負けな綺麗なフォームで、彼がとび箱を飛ぶ。クセのないサラサラな髪が、体育館の照明にキラキラと輝くさまが美しい。
体育の授業。今日は、女子は外でドッジボール、男子は体育館でとび箱というメニューだ。
着地も見事に決めた翔多が、ニコニコ笑いながら浩貴の隣に走ってきて、座った。出席番組順に飛んでいるので、浩貴の番はまだもう少し先だ。
「オレ、とび箱って嫌いじゃないけど、踏み台を飛ぶタイミングがイマイチつかみにくくて、いつも緊張するー」
鮮やかに飛んでみせたのに、翔多はそんなことを言い、眉を『ハ』の字にして苦笑した。彼の細い首筋に汗がひとしずく流れているのが、なんとも色っぽく、浩貴の心拍が跳ねる。それを誤魔化すため、少しぶっきらぼうな口調で、
「翔多、昨夜おまえのケータイに電話したけど、ドライブモードになってて繋がらなかったぞ」
まったく関係のない話をふった。
浩貴の内心のドキドキに、翔多はちっとも気づいたふうもなく、大きな瞳をきょとんとさせる。
「え? ホント? なんでそんなふうになってたんだろ?」
「おまえ、また間違って、ドライブモードのキーを押したんだろ?」
「えー? そんな覚えないけど・・・っていうか、どれを押したら、その、ドライブモード? になるのかも分かんないだけど」
「翔多、IT会社の御曹司が、そんなことでいいのかよ?」
「オレ、後継ぐ気ないもん」
「でも、おまえ、一人息子だろ?」
「浩貴って案外古いこと言うねー。今時、同族経営なんか流行らないっての」
「いや、流行るとか流行らないっていう問題じゃないと思うけど」
「だいいち、オレが会社継いだら、いっぺんに潰しちゃうよー」
翔多が、自信満々の顔で言いきった。
「うーん・・・、まあ、翔多、超苦手だからなぁ。ケータイとかパソコンとか」
「うんっ」
「だから自信満々で言うことじゃないって」
浩貴は溜息を落とした。
栗原翔多は、知らない人はいないというほどの、大会社の御曹司なのだ。
次世代のIT関連を扱っている会社なのだが、一人息子の翔多は、とにかくケータイやらパソコンといったものに、半端なく弱い。その証拠に、翔多は『スマホなんかわけわからーん』と、いまだに古い型のガラケーを使っているのだ。
・・・それさえも使いこなせてないしなー。
『浩貴ー、ケータイの画面、なんかへんなのになっちゃったよー。どうすればいいっ?』翔多が伯父さんちの固定電話から、半泣きで浩貴のスマートホンに電話をかけてきたことは数えきれないくらいにあった。
・・・教えてやれば、きちんと覚えるので、あとは翔多の気持ち次第だと思うのだが。
「オレ、難しのって、拒否反応がでるから無理ー」
翔多が、のほほんと言ってのける。
浩貴は思う。そうだ、翔多は苦手意識が先に立つからどうしても勉強しようとしない。多分、ケータイの説明書など、一ページも読んでいないだろう。
やれやれ・・・
「でもさ、翔多、おまえがよくても、親御さんはおまえに期待してんじゃないかな」
「んー、ま、なんとかなるって」
と、にっこり。翔多の愛くるしい笑みには、クラクラするけど。
それにしても、翔多の能天気さには、呆れるのを通り越して、頭が下がるほどだ。
浩貴が、しみじみと感心していると、
「浩貴っ、ほら順番! かっこよく飛んでこいっ」
翔多が、力いっぱい浩貴の背中を叩いた。
その日の放課後。浩貴と翔多が連れだって帰ろうとしていたら、後ろからミヅキが浩貴を呼び止めた。
「ん? なに? ミヅキ」
彼女は、浩貴の顔を見上げ、なにか言いたげな素振りを見せた。だが、チラッと翔多のほうを一瞥すると、ゆるゆるとかぶりを振った。
「なんでもない。バイバイ、浩貴、翔多」
そう言うと、仲良しの女子のところへ戻っていった。
ミヅキの後ろ姿を見送りながら、浩貴は、
「なんだよ? あいつ。変なやつ。なあ? 翔多」
隣にいる翔多に話しかける。
「・・・・・・」
「翔多?」
翔多は珍しく、形のいい眉をひそめて、なにやら物思いに沈んでいる。
「翔多? どうした?」
「・・・え? あ、ううん。なんでもない」
「気分でも悪い?」
「そんなことないよー。それより、今日は゛パティスリーK゛寄ってくんだよね? 早く行こ、行こ」
パティスリーKは、二人のお気に入りの洋菓子店で、持ちかえりはむろん、イートインもできる。浩貴も翔多も甘いものが好きで、特に翔多は大好物なのだ。
「・・・うん」
浩貴は、翔多の様子に少し引っ掛かる、屈託の欠片みたいなものを覚えた。でも、それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの天真爛漫全開に戻った。
眩しいほど愛くるしい笑みに、浩貴は目を細めて返事をした。
さて。ミヅキという少女は、浩貴と翔多が恋人同士になるべく、きっかけを作った。
そのきっかけというのは、彼女に対して行われたいじめだった。高校一年の終わりから二年の初めにかけて、ミヅキは、クラスの女子のほとんどから陰湿ないじめを受けるようになってしまった。
いじめの原因は分からなかったし、今現在も分からないままだ。ミヅキは目立つほうではないが、明るいし、容姿も、飛び抜けて、というほどではないが、可愛い。成績は中は上。運動も人並みにこなす。
いじめの原因や理由など、もともとなかったのかもしれない。ある日、なんとなく始まり、周りを巻き込んで広がっていく。なんとも理不尽な行為。
しかし、いじめに遭っている当人にしてみれば、まさしく日々は地獄だろう。
ミヅキはいじめによって深く傷つき、苦しんだ。食欲はなくなり、学校は休みがちになり、いっときは引きこもり寸前まで追い詰められた。
浩貴にとって、ミヅキは大切な幼なじみだったし、翔多にとっても、彼女は友人の一人だった。
だから、彼らはミヅキがいじめに遭っているのを、黙って見ていられなかった。女子たちの世界に、男子が入ることは・・・それも浩貴や翔多みたいな美形で、人気者でもある彼らが・・・、少し間違えば余計にいじめを助長する可能性は、低くはなかったのだが。
それでも幼なじみとして、友人として、浩貴と翔多は放課後はミヅキの家へ寄り、彼女を元気づけようとした。時には彼女の苦しい胸のうちを聞き、朝は一緒に登校するようにして、教室ではできるだけ独りぼっちにしないようにした。
そして、浩貴と翔多は二人で話し合った。いつまでも自分たちがミヅキに付きっきりでは、なにも解決しない。どうしたら女子たちが彼女へのいじめをやめるのか。浩貴の部屋や翔多の部屋で、文字通り頭を付き合わせて考え合った。
運命の日が彼らに訪れたのは、そんな日々の中だった。
翔多の部屋で、その休日も二人は話し合っていた。二人、ミニテーブルを挟んで。
もういい加減、意見も出尽くしたあと、翔多が半ばやけ気味に言った。