梨子と真姫が音ノ木坂学院で同級生だったとしたら……。梨子が主人公の一話完結の短編です。

サンシャインのアニメ一期・二話を見て思いついたお話です。四話で時系列が明らかになり、この話はありえなくなりましたが、「もし」の話ということでお読みいただければ幸いです。
※2019/11/29一部改稿
※pixivにも同一作品を投稿しております。

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響きあうふたりの旋律

「はあっ、はあっ……」

 

 暗い部屋に荒い呼吸だけが響いていた。

 私はベッドの上で体を起こす。いつものようにコンクールの夢だった。

 

 ……もうあれから一か月になるのに。

 

 秋のコンクール。ステージの上でピアノに向かった私は、どうしても曲を弾き始めることができなかった。

 その日のために形だけは練習を続けてきたとはいえ、ずっと身は入らなくて――仕上がりは推して知るべし。ほかならぬ私自身が納得していなかった。

 このまま演奏しても、ぜったいに上位には入れないわ、と私は鍵盤を前に思った。

 

 なにより、弾いても楽しくないもの……。観客や審査員に、すぐに見透かされちゃう。

 

 結局、私はそのまま椅子から立ち上がり、観客に向けて謝罪するように礼をした。

 現実には静けさのなかステージを降りたのだが、夢では哄笑(こうしょう)罵声(ばせい)が私に浴びせられるのだった。

 

 パジャマはぐっしょりと寝汗で重くなっていた。すこし茶色っぽい、腰まである長い髪が、こういうときには(うと)ましい。壁面で淡く光る時計の針は午前三時を指している。

 

 あれから、気持ちを切り替えられたと思ってたんだけど……。まだ、だめみたい。

 

 カーテンの隙間から晩秋の月の光が一筋、白く差し込んでいた。

 私は首を振ってベッドから降りて、新しい寝間着に着替えるために浴室へ向かった。

 

        ・

 

「あら、梨子(りこ)ちゃん。またよく眠れなかったの?」

 

 翌朝、あくびをかみ殺しながらダイニングに入った私に母が言った。

 

「うん、ちょっと寝付けなくて……」

 

 最近よく眠れない、と母には伝えていたが夢については話していなかった。余計な心配は掛けたくないし、と思う。

 

「あまりひどいようなら、お医者さまに行く?」

「ううん、大丈夫」

 

 私はなんとか笑みを浮かべる。

 

「そう。無理はしないでね」

 

 母も笑いそれ以上なにも言わなかった。私は心のなかで感謝する。

 私はパンとヨーグルトの朝食を食べてから制服に着替え、学院へ向かった。

 

 音ノ木坂(おとのきざか)学院、一年生の教室。廃校はμ's(ミューズ)の活躍で回避されたけれど、年々生徒数の減っていた学院の一年生は一クラスだけだ。でも、来年はきっと、ずっと増えるだろう。

 

「おはよう、梨子ちゃん」

「おはよう」

 

 クラスメイトの言葉に私は笑顔を返した。

 

 席に付こうとすると隣の席の少女が声を掛けてくる。

 

桜内(さくらうち)さん、おはよう」

 

 整った顔立ちに、すこしくせっ毛の赤みがかったボブの髪。西木野(にしきの)真姫(まき)さんだ。

 

「……おはようございます、西木野さん」

 

 私が会釈すると彼女は軽くうなずき手元の教科書に視線を戻した。

 

 席に座り西木野さんをちらっと眺める。

 彼女とは小、中学校とも別だったけれど、小学生時代には同じピアノ教室に(かよ)っていた。ただ、そのころも挨拶を交わすくらいで、今と同じく特に親しくはしなかった。

 彼女がほかの子たちよりもずっと、大人びていたせいかもしれない。なんとなく話しにくかったことはよく覚えている。

 

 彼女がピアノを()めたのは中学に上がったばかりのころだった。理由について私はなにも聞かなかった。

 自慢するつもりはないけれど教室の中では西木野さんと私が、技能で抜きん出ていたと思う。私は勝手に――彼女がどう思っていたかはわからない――彼女のことをライバルだと考えていた。

 そして彼女と私とでは、私のほうがコンクールなどで上位に入ることが多かった。

 西木野さんより私のほうがピアノが上手。小学生にありがちな無根拠で些細(ささい)な、でも本人、つまり私にとっては重要なプライドだったのだと、今は思う。

 

 彼女がピアノを止めたとき、私のなかに彼女を軽蔑する気持ち――もしかしたら私に勝てないからやめたのではないか、という――がなかったといったら嘘になる。

 そして、せっかく上手なのにもったいない、という気持ちと、これで私が一番ね、という気持ち。

 

 高校に入ってから西木野さんと初めて一緒のクラスになった。

 彼女の印象は以前と同じだった。いつもつまらなそうな顔をしていて、勉強だけはできるけれど誰とも親しくしない彼女はクラスでもすこし浮いていた。

 私の軽蔑の心は恥ずしいことにまだ残っていて、そんな彼女に私から話しかけることはなかった。

 

 変化があったのは入学から二か月ほどしてからだ。

 同じクラスの小泉(こいずみ)さん、星空(ほしぞら)さんと一緒に、なぜか彼女はμ's(ミューズ)に加わり、スクールアイドルを始めたのだった。

 どこか超然としていた彼女がそんなことをやるなんて、と私は意外に思った。

 μ'sに入ってから彼女はすこしずつ変わり始めて、クラスメイトとも会話するようになり、私にも挨拶をしてくれるようになった。

 

 そしてμ'sは活躍を続けて――音ノ木坂学院の廃校を回避するところまでこぎつけた。

 学園祭ではトラブルもあったけれどいまはそれも克服して、リーダーの二年生、高坂(こうさか)さんのもと、第二回ラブライブ!に向けて頑張っている。

 

 μ'sの活躍にはメンバー全員の努力もあるけれど、作曲を担当した西木野さんの力も大きいと思う。

 私が聴いてもμ'sの曲は素晴らしかった。ときには不安と希望を、ときには友情と信頼を(つづ)る生き生きとした歌詞(こちらも素敵なのだ)に、西木野さんは変幻自在に羽ばたくようなメロディで命を吹き込んでいた。

 そしてなによりステージ上で笑顔で踊る彼女は輝いていた。

 

 今こうして見ているあいだも、西木野さんの唇は小さく動いていた。なにかメロディーを口ずさんでいる。

 

 それにひきかえ、私は……。

 

 きっかけは小さなことだったのだと思う。単に課題曲が合わなかっただけなのかもしれない。どれだけ練習しても思うように感情が乗せられず、指も思うように動かせなくなり、夏に参加したコンクールで私は一次予選で落選した。

 焦りがあったのだろう、秋にはレベルを上げたコンクールにエントリーして、一次予選はなんとか超えたものの二次予選では――演奏することさえ、できなかった。

 

 私の小さなプライドは、こうして、ついに、打ち砕かれたのだった。

 

「桜内さん、おはよう」

「……あ、おはよう」

 

 小泉さんの声に私は目を(しばたた)き、あわてて笑顔を取り(つくろ)った。小泉さんはにこっと笑い、続けて西木野さんに笑いかける。

 

「真姫ちゃん、おはよう!」

「おはよう、花陽」

 

 二人は楽しそうに会話を始めた。

 

        ・

 

 いつもと同じように授業は終わり、私は友人たちにさよならを言って帰路についた。秋葉原駅に近い自宅のマンションまでは歩いて十分ほどだ。

 

「ただいま」

 

 扉の鍵を開けて中に入る。父は会社、母もパートに出ていて、家には誰もいなかった。

 

 自室で部屋着に着替えてから、いつものようにアップライトピアノの前に座った。

 鍵盤蓋(けんばんぶた)を開けてフェルトのキーカバーを外す。

 

 ぽろぽろと無造作に鍵を弾いてみると、ピアノはいつも通りに応えてくれた。続いてコンクールのときの曲。ショパンのバラード、第二番だ。

 静かなユニゾンから第一主題を演奏していく。一転して激しい第二主題へ。

 

「はぁっ」

 

 第一主題が戻ってきたところで私は演奏を()めた。

 なんの感情も込められていない平板で無機質な演奏だと自分でも思った。

 

 ……今の私、そのまま。

 

 私はキーカバーを戻して、荒っぽく蓋を閉めた。

 背中からベッドに倒れこむ。

 

 一からやり直すつもりで、この一か月は基礎からおさらい、してたんだけど……。なにもかわってないわ。あんな夢も見ちゃうし。

 

 私、ぜんぜんダメね。ピアノしか取り柄がないのに、そのピアノさえ、うまく弾けないんだから。ずっと教室も、お休みしてるし。

 それにくらべたら彼女は……。

 

 私は横を向いて丸くなった。

 

 私、どうすればいいのかな……。

 

 考え続けても、答えは出そうになかった。

 

 

 ――――――――

 

 

 その日の夜。父と母、私の三人が揃った夕食の席で父が切り出した。

 

「転勤の話、どうやら本決まりになりそうなんだ」

「転勤?」

 

 私は繰り返した。

 

「あら、決まるのね」と母。「梨子ちゃんには決まったら話そう、っていってたのよ」

 

 母は謝るように私に話した。

 

「うん、梨子には話していなかったな」父は続ける。「来年の人事異動で……営業所の所長に空きが出て、そこに行くことになりそうなんだ」

 

 父は名古屋に本社のある設備会社の、東京支社にずっと勤めていた。自宅は何度か引っ越していたものの、都内から離れたことはなかった。

 

「転勤って……」

 

 突然の話に驚いて私は箸を置いた。

 

「どこに行くの?」

「静岡……というか、伊豆の沼津だな」父はうなずいた。「何度か出張で行ったことがあるけど、いいところだよ」

 

 それはそうかも知れないけど、と思う。急に伊豆って言われても、イメージできないわ。

 私は尋ねる。

 

「来年、ってことは、年が明けたらすぐなの? それとも、四月?」

「さすがに引っ越しの準備もあるから、四月からだよ」

 

 引っ越し……。それって、パパだけ? ママと私は?

 

 顔に疑問が出ていたのだろう、母が微笑みながら話す。

 

「ママはね、せっかくだからパパと一緒に、向こうに行くつもりなの。……梨子ちゃんは、どうする? ひとり暮らしするなら、東京に残ってもいいわよ」

「どうっていわれても……」

 

 急な話に頭が追いつかなかった。

 

「私は、ついてきてほしいんだけどな」と父。

「パパ、もう高校生なんだから……。まだ時間はあるから、じっくり考えてね、梨子ちゃん」

「うん、それは、そうするけど」

 

 私は戸惑いながらうなずいた。

 

「所長ってことは、栄転よね」

「まあ、一応そういうことになるかな」

「お給料、上がるのかしら……」

 

 父と母は私の内心も知らずに楽しそうに会話を続けていた。

 

        ・

 

 翌日からの学院生活はいつも通りだった。引っ越しのことはずっと頭の片隅にあったものの、深く考えることはせずに、なんとなく私だけは東京に残るつもりでいた。友人に話すこともしなかった。

 

 だって、高校に入ったばかりだし、仲良くなった友達もいるし……。それに、ピアノの環境も、こっちのほうがずっといいわ。コンクールや発表会もたくさんあって。

 でも……。

 

 例の夢は頻度こそ減ったものの、すこしずつ形を変えて私を悩ませた。あるときは順調に演奏が進むのだが、突然、指がもつれてしまい、またあるときはステージに上がると観客席に誰もいなかった。

 

 ある日、就寝前の自室で、母からピアノの教室はいつ再開するのかと遠回しに聞かれたとき、私は言葉を濁してしまった。

 

「うん、もうすこし落ち着いたら……そろそろ行こうと思ってるけど」

「そう……」

 

 母は顔に懸念を浮かべる。

 

「ねえ、梨子ちゃん。教室もお休みしてるし、いっしょに沼津に行く? 環境が変わったら、梨子ちゃんの気分も、変わるかもしれないわよ。向こうにもピアノの先生、いるでしょう」

「ん……」

 

 私はしばらく躊躇(ちゅうちょ)した。

 

「……ううん、私はいいわ。高校二年から転校なんて、いろいろ大変そうだし」

「梨子ちゃんがそう言うなら、いいけど……。考えてみてね」

「うん、わかった」

 

 母が部屋を出て行ってから私は母の言葉を繰り返した。

 

 環境を変える。たしかにそうすれば、このスランプ――と言ってしまっていいだろう――から抜け出せるのかもしれない。ただそれが目的で引っ越しをしても、結局なにも変わらないのではないか、そんな気もした。

 それに、引っ越しを受け入れるのは――まるで負けを認めて逃げ出すように思えてならなかった。

 

 私のささやかなプライドの欠片(かけら)は、まだまだしぶとく、私の心に居座っていた。

 

        ・

 

 翌日の放課後、一年生の教室。

 昨晩の夢のせいで部活に参加する気力もなく(ちなみに美術部だ)私はゆっくりと帰り支度(じたく)をしていた。ほとんどの生徒はもう教室を後にしている。

 

「桜内さん」

 

 突然名前を呼ばれて私は顔を上げる。

 

「……西木野さん」

 

 彼女は私の席の横に立ち、腕を組んで私を見ていた。彼女が話しかけて来るのは、記憶にあるかぎり入学以来初めてだと思う。彼女の形のよい眉は困ったように曲げられていた。

 彼女は一瞬、迷うように視線を外したあと、私を見て話し出す。

 

「ねえ、最近、どうかしたの? ずっと……なにか悩んでるみたいだけど」

「あ……」

 

 私は言葉に詰まる。西木野さんに気づかれていたなんて、と思う。彼女の瞳はまるで私の内心を見透かすように輝いていた。

 私はその瞳を受け止められなくて視線を逸らす。

 

「べ、別になんでもないわ」

「……そう、ならいいけど」

 

 しばらく間をおいてから彼女はそう言って背を向けた。

 

 このままじゃ、いけない。

 

「あ、あの……」

 

 彼女が教室から出る直前、私は立ち上がって声を掛けた。

 

「ん、なあに?」振り向く彼女。

「ありがとう、わざわざ」

 

 私がやっとそれだけ言うと、彼女は微笑んで廊下へ歩いていった。

 

        ・

 

 その日の夜。

 私はいつもよりも早めに入浴した。湯船につかって目を閉じると、思い浮かぶのは今日のこと――西木野さんのことだった。

 

 彼女から話し掛けられたのは意外だった。今までの――μ'sに入るまでの冷めた彼女なら、そんなことは絶対にしなかっただろうと確信が持てた。

 

 西木野さん、μ'sに入って、変わった……。

 

 その変わり方は決して悪いものではなかった。彼女は快活になり友人ともよく話して、クラスでも浮くようなことはなくなっていた。

 またμ'sは先日、第二回ラブライブの一次予選を通過していた。西木野さんの活躍を思うと、自分自身の不甲斐(ふがい)なさに心がちくりと痛んだ。

 そして今日、彼女の優しい言葉に、なにも答えられなかった自分がさらに情けなくなった。

 

 ダメね、私ったら。せっかく西木野さんが話しかけてくれたのに。

 ……もし相談してたら、すこしは楽になったのかな。

 

 私はため息をついた。ただ最後に彼女にお礼が言えたことは、ひとつの救いのように思えた。

 きっと次に私から話し掛けたなら、彼女は応えてくれるだろう。しかしそんな勇気が出せるのかどうか――私には、わからなかった。

 

 私は湯船から出てシャワーの蛇口をひねり、冷たい水を頭からかぶった。

 

 

 ――――――――

 

 

 数日後の週末。私はひとりで御茶ノ水へ行った。気分転換に楽器店と書店でも回ろうと思っていた。私は髪の色に合わせて栗色(マルーン)のワンピースに、薄紫のニットベストを選んだ。

 

 あれから引っ越しのことは考え続けたものの、結論は出ていなかった。ただ、このままひとりで残ることになるのだろうと漠然と感じる。流されて行くだけの自分が臆病で嫌になるけれど――。

 

 駿河台(するがだい)まで出て明大通(めいだいどお)りを下りていく。十二月に入り、赤く染まったプラタナスの葉が散り始めていた。

 

 小さいころから常連だった楽器店に入り、楽譜売り場まで階段を上がった。いつものようにピアノの楽譜の棚を見ていく。

 

 この曲は……去年来日公演した、あのピアニストの演奏が、素敵だったのよね。弾いてみようかな……。

 

 店内の変わらない雰囲気はすこしだけ私の気分を明るくしてくれた。

 ふと、私はひとつの棚に平積みで置かれた楽譜に気づいた。地味な色使いが多いクラシックとは異なる、明るい装丁(そうてい)。どこかで見た写真が表紙を飾っていた。

 

「あ、これ、μ's……」

 

 私は思わず声に出していた。μ'sの曲のピアノアレンジだった。

 私の目は写真に写るメンバーたちに、特に西木野さんに引かれた。ステージ衣装に身を包みすこし恥ずかしそうな、でも誇らしそうな笑顔。私の心はもう一度、ちくりと痛んだ。

 

 私は楽譜売り場に背を向けた。

 

 フロアを出ようとしたとき、音ノ木坂学院の制服姿の生徒がひとり、入れ違いに入ってきた。西木野さんだった。

 彼女は私に気づき、すこし驚いたようだった。私と同じように。

 私が目礼すると彼女も軽くうなずいた。私はそのまますれ違おうとして――。

 

「あの、西木野さん」

 

 思わず振り返り、声を掛けていた。

 

 私は思い出したのだ。中学時代、彼女と珍しく長く話したときのことを。それはこの楽器店、この売り場だった。

 

 こちらに向いた彼女は今度こそ顔に驚きを浮かべた。私は勇気が消えないうちに言葉を(つむ)いだ。

 

「こ、この前はありがとう」

「この前……?」

 

 首をかしげる彼女。

 

「あの、教室で……」

「ああ、あのとき。べつに、なにもしてないわよ」

 

 彼女にとってはそうでも――今、気づいたのだけれど――私にはとても嬉しかったのだ。

 私は急いで続ける。

 

「今さらだけど、もしよかったら……すこし、話、できないかな」

「これから?」

「できれば……」

「ええ、いいわよ」

 

 彼女はにこりと微笑んだ。

 

        ・

 

 西木野さんの案内に私はついていった。タータンチェックのミニスカートに紺のニットセーターは、地味ながら彼女によく似合っていた。

 

 大通りのファーストフード店にでも行くのかと思ったのに、彼女は裏通りへ入っていく。

 しばらく歩くとタイル張りの雑居ビルの一階がカフェになっていた。店名が書かれた深いグリーンの看板と、クリーム色の外壁は、くすんだ色の似たようなビルが並ぶ中でそこだけすこし場違いな気がした。

 

 木製の扉を開けて中に入る。店内は意外に広く、白い漆喰(しっくい)の壁と濃茶色の柱、木製の調度が落ち着いた雰囲気だ。

 

 彼女は勝手知ったるようすで席につくと私にメニューを差し出した。そこには幸いなことに高校生にも無理のない数字が並んでいた。

 しばらくして「決まった?」と聞く彼女に私はうなずいた。

 

 やってきた店員に彼女はブレンドを、私はカフェオレを頼んだ。

 

「よく行くの、あそこのお店?」と彼女。

「ええ、ときどき、楽譜を買いに……。見てるだけでも楽しいし」

「そうね」

 

 彼女は同好の士を得たかのように白い歯を見せた。

 

「西木野さんは?」

「私は、最近はあまり……でも、曲作りの参考にもなるし、たまには行くわ」

「そうなんだ」

 

 しばらく沈黙が流れた。

 

「曲作り……。μ's、だよね」

 

 私は上目(づか)いで聞いた。

 

「そうね。いろいろ大変なのよ、メンバーからのリクエストもあるし」

「……すごいね、西木野さんは」

「べ、べつに、そんなことないわよ」

 

 彼女はすこし照れたように視線を逸らす。

 

「ううん、すごいよ」

 

 ――私より、ずっと。

 

 彼女はなにか言いかけたけれど、ちょうどそのとき店員が注文の品を持ってきた。

 

 店員が去ると、彼女はカップを口に運び問いかけるようなまなざしで私を見た。私はつばを飲み込み切り出した。

 

「私、ちょっと悩んでることがあって……」

 

 そこまで言って、ピアノのことと引っ越しのこと、どちらを話すべきなのか私は逡巡(しゅんじゅん)する。しかし、ピアノのことを話すには勇気が足りなかった。

 

「……実は、父が転勤することになって、私もついていくか、ここでひとり暮らしするか、決めなきゃなの」

「ふーん、いつからなの?」

「来年の四月、新年度から……」

「そう。ひとり暮らしが不安なの?」

「ううん、そうじゃないんだけど」私は首を振る。「……その、ピアノを続けるのに、東京にいたほうがいいのかなって」

「ああ」彼女はうなずいた。「それはあるかもしれないわね」

「うん。引っ越し先、田舎みたいだし……」

 

 私はカフェオレを一口飲んだ。

 

 それ以上なにも言わない私に、彼女は肩をすくめた。

 

「それなら、残ればいいじゃない」

「で、でも……」

 

 私の視線が彼女のそれと交錯した。

 

 やっぱり西木野さんに相談したのは、失敗だったのかも。そんな思いが心をよぎった。

 

 顔を落とした私に、西木野さんがふっと雰囲気をゆるめた気がした。

 

「……桜内さん」

 

 優しげな口調に私は目を上げる。

 

「ほかにも理由があるの?」

「あ……」

 

 彼女が微笑んでいた。

 

 その笑顔に背中を押されて、私は思い切って話す。

 

「……最近、ピアノがあまり、楽しくなくて。自分でも、ぜんぜんうまく、弾けてないと思うの」

 

 彼女は無言でうなずく。

 

「この前のコンクール、予選落ち、しちゃって。二回連続、なんだ。このまま続けても、なにになるのかな、って……」

 

 私は耐え切れなくなってふたたび視線を落とした。

 

 私の頭上に彼女の声が響く。

 

「でも、桜内さん。……ピアノ、好きなんだよね?」

 

 その質問は私の心に深く刺さった。私、どうなのかな。自分にそう問いかける。

 

 今は、自信をなくしてるけど……。それはピアノが嫌いってことじゃない。むしろ、嫌いなのは自分自身……。

 

 私は顔を上げる。

 

「ええ、もちろん好きよ」と言う。

 

 西木野さんはふうっとため息をついた。私はすこし腹立たしくなる。ただそれは彼女の次の言葉を聞くまでだった。

 

「私、桜内さんがうらやましいわ」

「えっ」

 

 私は驚いて彼女を見つめた。

 

「私にも、そう言える勇気があればよかった」

「勇気……」

 

 彼女はわずかに顔を赤らめてコーヒーを飲んだ。ソーサーにカップを置いて続ける。

 

「私ね、ピアノが好きだった。……いえ、今なら言えるけど、ピアノが好きよ。でも、あのときは言えなかった」

「あのとき?」

「ええ。中学のとき。私の両親はね、私がピアノに夢中になるのを、決して喜ばなかったわ。勉強が第一、ピアノはあくまでも(たしな)み、そう考えていたのね」

 

 彼女は遠くを見るような目をした。

 

「私も、いい子ちゃんだった。両親の無言のプレッシャーに従って……そのときは自分で決めたんだと、思ってたけど……ピアノは止めたの」

「そう、なんだ」

 

 私は言葉に詰まる。

 

 ピアノを止めたのに、そんな理由があったんだ……。それなのに、私、西木野さんのこと、勝手に決めつけてた……。

 

 私は目の前が暗くなっていく思いがした。

 

 私の沈黙を同情――または憐憫(れんびん)だろうか――と取ったのか、彼女はすこしあわてたように続けた。

 

「もちろん、パパやママの気持ちも、今ならわかる。流された私も悪かったんだ、ってことも」

 

 私はなにも言えずにうなずく。

 

「だから……ピアノが好きって迷わずに言える。そんなあなたは、私よりずっとすごいわ」

 

 私は思いがけぬ賞賛に目をぱちぱちとさせた。

 

「私、ピアノから離れて……改めてピアノが、音楽が好きだって気づけた。ずいぶん遠回りしたわね」

 

 くすりと笑う西木野さん。

 

「でも、あなたなら……。自信をもって好きって言えるあなたなら、きっとすぐに、元通りやる気になるわよ」

「そうかな……」

 

 私はまだ、彼女の言葉を素直に受け取ることはできなかった。

 

        ・

 

 しばらく沈黙が流れた。サラリーマンや大学生らしい客のひそやかな話し声が断片的に耳に入ってくる。

 

「ねえ、桜内さん」

 

 やがて西木野さんが口を開いた。

 

「ん?」

 

 彼女はなぜか照れくさそうな表情をしていて私は疑問に思う。

 

 彼女は続ける。

 

「一緒にピアノの教室に(かよ)っていたとき、私、あなたに憧れていた。……ううん、いまでも、憧れてるのかも」

「えっ」

 

 私は息をのんだ。

 

「あのころの……中学のころの桜内さん、本当に楽しそうだった。私は、ほら、あのころはもう、両親とぶつかってたから……」

 

 こくりとうなずく私。

 

「ピアノに向かって、想いを出し切っていて……。そんな桜内さんが(まぶ)しくて。もちろん、すごく上手なところもね。……私には無理って思った」

「そんな……」

「ピアノを止めて、高校に進学して……。μ'sに誘われたとき、ちらっと、あなたのことが頭をよぎったの。あなたみたいに音楽と向きあえたなら……。だから、もう一度、やってみようかなって」

 

 彼女は顔を隠すようにしてコーヒーを飲んだ。

 

 西木野さんが私のことを、そんなふうに思ってくれてたなんて……。

 

 私の心に温かいものがあふれる。

 

 彼女は店の入り口から外を眺めた。

 

「……μ'sに入って、私、よかったと思ってる。音楽が好きって、自信を持って、言えるようになったから」

「そうだよね。西木野さん、すごく楽しそう」

 

 彼女は私に視線を戻して微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

 その笑顔は眩しく輝いてみえた。

 

 ふと気づくと私のカップは空になっていた。

 

「ねえ、西木野さん」

 

 最後に私は聞いてみる。

 

「ん?」

「西木野さんは、今の自分のこと、好き?」

「そうね……。嫌いじゃないわ」

「……ありがとう」

 

 私がそういうと彼女は不思議そうに、でも嬉しそうに微笑んだ。

 

 私が払うと言うと彼女は素直に伝票を渡してくれた。店の前で、私は彼女に相談に乗ってくれたお礼を言い、そこで彼女と別れた。

 

 

 ――――――――

 

 

 帰宅した私は着替えもせずにピアノの前に座った。

 中学のころ好きだった曲を弾いてみる。ドビュッシーの「子供の領分」、グラドゥス・アド・パルナッスム博士。すっかり忘れているかと思ったけれど、指は自然に動いた。

 

 忘れていたのは……楽しかったころの気持ち。いつからかな、楽しくなくなったの……。

 そう、いつの間にか、楽しくて弾くんじゃなくて、上手だって言ってもらいたい、コンクールで入賞したい、そう思って弾いてたんだ……。

 

 私は今さらながらそれに気づいた。

 短い曲はすぐに終わりになり、私はうなだれる。

 

 そんな気持ちで弾いてたら、うまく行くわけないわ。それなのに、へんに焦っちゃって。意味もなく西木野さんと比べちゃったりして。

 

 私はピアノから離れてベッドに座った。ゆっくりと体を倒して天井を見上げる。

 彼女が今日、話してくれたことを思い出した。ピアノをやめざるを得なかったのは、きっと(つら)かっただろうと思う。

 

 勝手に同情しても仕方ないけど……。でも、ああやってμ'sに入って、いまは活躍してる。本当に好きなら、環境とか、タイミングとか、どうにでもなるってことかな……。

 ……西木野さん、やっぱりすごいよ。あれだけ自信を持って音楽が、自分が好きだって、言えるんだから。私は、今はとても自分のことが好きになれない……いえ、嫌いだわ。

 

 でも、そんな西木野さんが私のことを褒めてくれた……。

 

 私は目を閉じる。

 

 私、ピアノが好き。それは間違いないわ。西木野さんが気づかせてくれた。それなのに、へんなことにばっかりこだわって……。私、馬鹿だったわ。

 これからまた、楽しくなるのかな……。

 

 ふと私は寒さを感じて目を覚ました。眠ってしまっていたらしい。

 私は居間に移り、そろそろ帰ってくるだろう家族のためにエアコンを付けた。

 

         ・

 

 それから私は沼津について調べてみた。

 

 父の話だと借り上げの社宅が沼津の内浦(うちうら)にあり、もし引っ越したらそこに住むことになるらしかった。

 沼津の中心部はいかにも地方の中核都市という感じでそれなりに繁華だが、そこからすこし離れた内浦はのどかなところのようだった。

 

 内浦について知ってから、東京の、秋葉原の喧騒が、なぜかすこし(うと)ましく感じられるようになった気がした。

 このまま東京に残るよりはいいのかもしれない。私はそう思うようになっていた。

 

 年が明けて私は両親に、一緒に引っ越しすることを伝えた。それもまた逃げ出すことなのかもしれなかったが――。両親は、特に父は喜んだ。ピアノ教室も正式に()めた。

 

 クラスメイトに話すとみんなは残念がるとともに、伊豆は暖かくて、観光地で、温泉もあってうらやましい、と話してくれた。私はそれどころではなかったけれど彼女たちの気遣いは嬉しかった。

 

 そして例の夢を見ることは、いつしかなくなっていた。

 

        ・

 

 終業式の日。私は放課後、音楽室へ行った。ときどき西木野さんがピアノを弾きに来ていることは気づいていた。今日もいるかもしれないと期待したのだけれど、それは外れた。

 

 あれから彼女とじっくり話すことはなかった。でも彼女の、μ'sの活躍は私を後押ししてくれた。

 

 私は椅子に座り鍵盤蓋を開ける。キーカバーを外す。椅子の高さはぴったりだった。ショパンのバラード、第二番を弾き始める。

 

 第一主題から劇的な第二主題へ。ふたたび静かな第一主題が現れる。私は演奏を続けた。そして印象的なコーダ。曲はゆっくりと静かに終わった。

 

 拍手の音に私ははっと顔を上げた。西木野さんだった。まさか、聴かれてたなんて……。思わず私は顔を赤らめる。

 

「素敵だったわ」

「ありがとう……」

「やっぱり桜内さん、ピアノが好きなのね。よくわかったわ」

「あっ……」

 

 そういえば私……今日は……すこし、楽しかったかも。

 

「引っ越し先、沼津、だっけ」と彼女。

「うん、沼津の内浦、っていうところ」

 

 しばらく間をおいてから彼女は話す。

 

「……ピアノ、続けるんでしょ」

「うん、そのつもり。……まだ、ピアノが楽しいって、自信を持って言えないけど」

「そう」彼女は唇の端をゆるめる。「今は、それでいいんじゃない」

 

 それでいい。たしかにそうかもしれない。その言葉はすとんと私の心に落ち着いた。

 

 キーカバーを戻し蓋を閉め、私は立ち上がった。

 

「西木野さん、いろいろありがとう」

 

 そういって軽く頭を下げる。

 

「いいえ。桜内さん、向こうでも元気でね」

「……あの、梨子って呼んでくれる?」

 

 小学生ころからの付き合いなのに、いままで名前で呼び交わしたことはなかった。今さらの申し出だけれど、時間は関係ない、そう思った。

 

「……わかったわ」彼女は微笑んだ。「私も、真姫でいいわよ。梨子さん」

 

 その笑顔に私は嬉しくなる。

 

「真姫さん……。落ち着いたら連絡、するわね」

「ええ、待ってるわ」

 

 音楽室の扉が開く。

 

「やっぱりここにいたのね。練習、始まるわよ」

 

 ツインテールの黒髪の小柄な少女が――リボンの色は三年生だ――真姫さんに声をかけた。私は彼女、矢澤(やざわ)さんに目礼する。

 

「すぐ行くわ」

 

 真姫さんは振り返ってそう言い、私にうなずきかけると足早に音楽室から出て行った。私もあとを追う。

 

 廊下に出るとふたりの会話が聞こえてきた。

 

「さっきの、真姫の演奏?」

「ううん、違うわ。彼女よ」

「ふーん、オトノキにも、まだ才能が隠れてるのね……」

 

 ふたりは階段へと曲がり、続きは聞こえなかった。

 

        ・

 

 新年度、私は内浦へ引っ越した。

 

 転校先の(うら)(ほし)女学院は音ノ木坂よりも生徒数のすくない、ほんとうに小さな高校で、町も小さくてのんびりしていて、私にはなにもかもが新鮮だった。

 

 なによりの驚きは同級生の高海(たかみ)千歌(ちか)さんにスクールアイドルに誘われたことだった。

 最初、μ'sのことを尋ねられたときには、気恥ずかしさと真姫さんへの気おくれから、思わず「μ'sなんて知らない」と答えてしまった。ただそれは高海さんにはまったく影響なかったようで、強引な勧誘が続き――結局、私もスクールアイドルを始めることになった。

 

 思っていたのとはすこし違うかたちで、私は音楽への情熱を取り戻した。

 

 転校先でのばたばたもようやく落ち着いて、いま私は、こうして真姫さんへの手紙を書いている。メールアドレスも受け取っていたけれど、やはり手紙がふさわしい気がした。

 

『こんにちは、真姫さん。お元気でしょうか。私は元気にやっています。なによりも最初に伝えなくてはならないことがあります。真姫さんはきっと驚くでしょうけど……』

 

 手紙を受け取って、読んだとき、真姫さんはどんな顔をするかしら。

 

 それが楽しみでならなかった。


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