週明けの月曜日――現在、1年A組では数学の小テストが行われていた。生徒たちは、皆一応に真剣な表情を浮かべながら、テスト用紙に視線を落としている。そんな中、清水有紀は頬杖をつきながら、窓の外に視線を走らせていた。
視線の先――そこには天気予報通りの、分厚い鉛色の雲が広がっていた。その空模様は、まさにいまの有紀の心そのものであった。彼女は小さく溜め息を漏らすと、陰鬱な空を眺めながら昨日の出来事を思い起こした。
ガラス張りの病室にいたのは、加奈と同年代くらいの少女だった。顔色は雪のように白く、当たり前だがお世辞にも健康とはいえない。そんな彼女はベットに横たわり瞼を閉じている。病室の前には相変わらず、先程の女性が静かに佇んでいた。
「あのう……」
有紀は女性の背中に声をかけた。すると彼女はガラスの向こうから、潤んだ瞳を有紀に移した。
「……娘さんですか?」
「ええ、そうですけど……」
「いきなりすみません。さっき知り合いとお話されてるのを、偶然見かけたものですから……」
「知り合い?」
「ええ、藤崎加奈ちゃん。あの子、私の友人の妹なんです」
「ああ、そうだったんですか……」
女性が納得したのを確認すると、有紀は軽い自己紹介を始めた。それを聞き終えると、女性の方も同様に名乗り始める。母親は田村恵理子。娘の方は晴香という名前だった。
「加奈ちゃん、娘さんと仲が良いみたいですね」
「ええ、いつもお見舞いに来てくれます――」
加奈と晴香が出会ったのは今から二か月程前だった。体調を崩し入院した加奈、以前から入院していた晴香――同年代の彼女たちが、仲良くなるのにはそう時間は掛からなかった。
二人はよく医院内の図書室で本を読んだり、ミサンガ作りなどをして遊んでいたという。加奈が入院していたのは1週間ほどだったが、退院しても彼女は友人の見舞いを怠らなかったそうだ。
「あの頃は、今よりもずっと元気だったのに……」
恵理子は病室の娘を見つめながら、憂いだ表情を浮かべた。有紀はそんな彼女を見て、かける言葉が見つからなかった。晴香の病名は白血病だった。小児がんの約40%を占める厄介な病気である。
恵理子の言う通り、数か月前までは加奈と遊ぶことが出来るほど、晴香の体調は良好だった。だが数週間前から病状が急激に悪化し、免疫力が著しく下がった。その為、現在はこのクリーンルームにて治療中であった。
「加奈ちゃん、いつもこういうお土産を持ってきてくれるんですよ」
恵理子はポケットにしまっていたミサンガを、微笑みながら有紀に見せた。恐らく、これは加奈ちゃんの手作り。このミサンガには友達の回復祈願が、込められているのだろう。
「優しい子ですからね」
「ええ、本当に……」
「娘さん……早く治ると良いですね」
「ありがとう……」
恵理子は憂いだ表情を浮かべながら、病室の娘を見つめた――。
「――おいっ、清水っ! 窓の外ばっかり見てないで、テストに集中しろっ!」
数学の教科担任である河合の一喝により、有紀は昨日の回想から強制送還された。彼女はすみません、と頭を下げると白紙のテスト用紙に視線を落とした。
結局、病院で分ったのは加奈ちゃんが相変わらず優しい子だ、ということだけだった。訳の分からない尾行までして……私は一体何をやってたんだろう。ああ、ほんと昨日はどうかしてた……。有紀は溜め息を一つ漏らすと、残り少ない時間をテストの回答に注いだ。
放課後、有紀は3年D組を目指していた。先程、奈々から久々に、どっか寄ってかない? と誘われたが彼女はやんわりと断った。理由は自明――如月に昨日の出来事を伝えるためだ。彼には ”藤崎加奈のことは、もうほっといてあげろ” と言われていたが、一応伝えといた方が良いと有紀は判断した。
3年D組に到着すると、有紀は教室の中を覗きこんだ。すると小夜と早苗の姿はあったが、目当ての人物はいなかった。教室にいない、ということは恐らくあの場所だろう。
有紀が図書室に到着すると、予想通り如月はいつもの窓際の席で読書をしていた。だがその隣には彼女の天敵の姿があった。有紀は眉間に皺を寄せながら、彼のもとへと歩みを進めてゆく。
「お兄ちゃん、こんなオッパイ女と二人きりでいたら、また小夜さんの雷が落ちるよ」
「誰がオッパイ女よ、この胸ぺタ後輩っ!」
白瀬華純は有紀と同様に眉間にしわを寄せると、胸を張りながら自身の武器を最大限に強調させた。
「……ロ、ロリ系はペッタンコでいいの。ロリで巨乳なんて邪道よっ!」
「ふん、分ってないわね。男っていうのはそういうギャップに萌えるのよ。ロリなのに巨乳。ロリなの積極的。ロリなのに――」
「もう二人とも止めろ。ここは図書室だ、少し静かにしてくれ……」
如月は心底ウンザリした様子で額に手のひらを当てた。
「ほら、あんたのせいでお兄ちゃんに怒られたじゃないっ!」
「何言ってんのよ、そもそも喧嘩を吹っかけてきたのはそっちが先でしょうがっ!」
「だいたいね、お兄ちゃんは小夜さんと付き合ってるのよ。なのにあんたみたいなオッパイ女が――」
その後、犬猿の仲である二人の言い争いは、およそ15分ほど続いた。見かねた如月が止めなければ、際限なく続いていたことは言うまでもない。
「それで今日は一体何の用なんだい?」
如月は額の汗を拭いながら疲れきった顔を有紀に向けた。
「加奈ちゃんのこと」
「またそれか……で、今度は彼女がどうしたって?」
「加奈ちゃんにはね、病院で知り合った晴香ちゃんっていうお友達がいるの。昨日その子を――」
「ちょっと待て、どうしてそれを知ってる?」
如月の鋭い視線が、有紀に突き刺さる。初めて見るその冷徹な眼差しに、彼女は言葉を詰まらせた。
「どうして知ってるのか、と聞いてるんだ」
「昨日、たまたま加奈ちゃんを見かけて、それで……」
「あとをつけたのかい?」
有紀はバツが悪そうに、小さく頷いた。すると如月は不機嫌そうに眼鏡を外すと、溜め息を漏らしながら眉間を摘んだ。そして先程から話に全くついて行けない華純に視線を移した。
「悪いけど、席を外してくれるかな」
「分かりました……それじゃ、お話の続きは今度ということで」
有無を言わさぬ如月の言葉に、華純はすぐに席から腰を上げた。すると二人きりになった室内に、気まずい沈黙が流れ出す。そんな中、有紀は叱られた子犬のようにしょんぼりと俯いていた。
「こないだ言ったはずだよ。藤崎加奈のことは、もうほっといてあげろ、と」
「……ごめんなさい」
「彼女には?」
「えっ?」
「藤崎加奈に何か言ったのか? と聞いてるんだ」
如月の問いかけに有紀は、涙を潤ませながら無言でかぶりを振った。
「キミが病院を訪れたという事は?」
「気付いてない。でも加奈ちゃんが今度お見舞いに行ったときに、田村さんが話すかも……」
如月は無言で眼鏡をかけ直すと、眉間に皺をよせてながら瞼を閉じた。すると再度、二人きりの図書室に沈黙が訪れる。それから数分が経過した頃だった、如月は静かに瞼を開いた。すると隣の椅子に置いていた、自身の鞄に手を伸ばす。そして彼は徐に一冊の絵本を取り出すと、それを有紀に差し出した。
「……何これ?」
彼女はその絵本を受け取ると、鼻を啜りながら尋ねた。
「願掛けの意味は?」
「ええと……神様に願い事を叶えてもらう為に、何か色々と――」
「分かった、もう結構だ」
如月は溜め息まじりで有紀の言葉を遮ると、彼女を諭すようにこう続けた。
「藤崎加奈が嘘を吐いてる理由――それは田村春香を救うためだ」
「えっ、どういうこと?」
「答えは、その絵本に全て描かれている」
如月は独り言のようにポツリと呟いた。すると有紀は手の中の絵本に視線を落とした。題名は『嘘つきなマイン』とある。どうやら、外国の絵本らしい。彼女はおもむろにページを捲り始めた。
『嘘つきなマイン』
とある小さな村にマインとジーナという少女がいました。
二人はとても仲良しで、何をするにもいつも一緒でした。
ですがある日、ジーナは風邪を引いてしまいます。
心配したマインは彼女の家にお見舞いに行きました。
「早くよくなってね」
「うん、ありがとう」
ジーナはとても喜びました。
ですがそれから数日が経っても、ジーナの風邪は中々よくなりません。
心配した両親はジーナを町の病院へと連れて行きました。
するとジーナは風邪ではなく、とても恐ろしい病気に侵されていたのです。
病院の先生は「ジーナは……もう助からない」と言いました。
それを知ったマインはとても悲しみました。
ジーナとよく遊んだカルダナの森の大木の下で、彼女は涙をボロボロと流しました。
すると見慣れた大木に、パッチリとした目が浮かび上がったのです。
そして大きな口を開くと、マインにこう言いました。
「こんにちは」
木が喋っている……。マインは恐ろしさの余り足が震えました。
そんな彼女に、大木の妖精はさらにこう続けたのです。
「ジーナを助けたい?」
「……うん」
震える声でマインは頷きました。
「どんなに辛いことでも耐えられる?」
マインは何度も頷きました。
「それじゃ――」
大木の妖精はマインに、一日30回の嘘を吐きなさいと命じました。
そうすれば、ジーナの命を助けてあげると約束したのです。
ですが、その規則はとても厳しいものでした。
規則その一 ジーナの病気が治るまでボクとの契約は、誰にも気付かれてはいけない。
規則その二 ジーナの病気が治るまで嘘を吐いている理由を、他人に話してはならない。
規則その三 ジーナの病気が治ったら、もう絶対に嘘は吐いてはならない。
「どうかな、約束できるかい?」
嘘を吐くのが大嫌いだったマインにとっては、その行為はとても辛いものでした。
でもジーナが元気になるんなら……。
彼女は微笑みながら頷きました。
その日から、マインは必死に嘘を吐き続けました。
当然のことながら両親は怒りました。ですが彼女は嘘を止めませんでした。
そしていつの日か村の人たちは彼女のことを ”嘘つきマイン” というようになりました。
ですが彼女は全く気にしませんでした。
それから更に数日が経ったある日ことでした。
助からないと言われていた、ジーナの病気が突然治ったのです。
村の人々たちはとてもよ喜びました。
ですが一番喜んでいたのは、言うまでもなくマインです。
彼女の嘘が奇跡を起こしたのですから……。
それから数年が経ちました。勿論、二人は今でも親友同士です。
マインは大木の妖精との一件を、誰にも話しませんでした。
理由は大切な約束だからです。
因みに彼女はあれから一度も嘘を吐いていません。
どんなに些細な嘘もです。
マインは瞼を閉じながら懐かしむ様に、あの日の不思議な出来事を思い起こしました。
そして今日も大好きな親友と共に、カルダナの森の大木に体を預けながら、優しい木漏れ日を幸せそうに浴びるのです。
おしまい
嘘はとても悪いことです。それはどんな理由があろうともです。ですが私は大切な人の為なら、また同じことをするでしょう。何度でも……そう、何度でもね
作者・マイン・リーベルト
「藤崎加奈が、この絵本を手本にしているのは間違いない。院内の図書室にも同じ物があったよ……」
如月はゆっくりと有紀に視線を移すと、静かにポケットからハンカチを取り出した。
誰にも気付かれちゃいけない。加奈ちゃんは、ずっと一人で……。
「ほら……」
如月は溜め息を漏らしながら、有紀にハンカチを手渡した。
「藤崎加奈は、もう小学二年生だ。彼女にしたって、なにも本気でこの絵本の出来事を信じてるわけじゃない。でも自分に出来るのはこれぐらいしかない――あの子の気持ち分かるだろ?」
有紀は小さく頷いた。そして暫しの沈黙の後、「晴香ちゃん……助かるよね?」と尋ねた。
だが如月がその問いかけに答えることはなかった。でもそれだけで、彼が何を言わんとしているのか有紀には理解出来た。丁度その時、陰鬱な曇り空からポツポツと雨が降りだしてきた。如月は窓の外に視線を向けると、静かに瞼を閉じた。二人きりの図書室――そこには小さな雨音と有紀の嗚咽だけが響き渡っていた。