JH科学 魔法町シリーズ二次創作 「カガクノミチ」 作:きゃら める
「花蝶風月」
* 1 *
「んーっ、一応できたかな」
大きく伸びをしながらそう呟いたのは、少女の愛らしさと女性の雰囲気を持つ、ニーナ・アインシュタイン。
連日の作業で荒れてきてしまっている感じのある金色の髪を整えながら、彼女は国立魔法科学大学内に与えられた実験室内で、壁沿いの机に置いたブラウン管モニターに向い、冷めてしまった紅茶のカップを傾けていた。
実験が大詰めであったために片づけが追いつかない室内には、中央の大きな机の上と言わず、決して広いとは言えない実験室の床と言わず、様々な機材や道具が放置されたままとなっている。
しかしニーナが操るPCを置いた壁沿いの机の真後ろ、実験用の机の端だけは片づき、充分なスペースの真ん中に目の細かい鳥籠があった。
中にいるのは、蝶。
ニーナの実験の産物であるその蝶は、透明な羽根を持ち、鳥籠の中に渡された何本もの渡木に数十匹が止まっている。
「さて、仕上げと行きましょうか」
ニヤリと笑って振り返ったニーナは、鳥籠の天辺に取りつけられた真空管と、その根元に接続されている太いケーブルを見、そしてPCテーブルのキーボードに手を伸ばす。
「さぁ!」
期待に目を輝かせながらリターンキーを叩くと、鳥籠の真空管が黄色い光を放ち始めた。
それと同時に、金糸のような髪から覗くニーナの耳のイヤホンに取りつけられた、小型真空管アンプ――モントークテクノロジー、精神と物理を繋ぐ技術の産物であるそれもまた、青緑の光を放つ。
鳥籠がガタガタと揺れ始め、部屋にあるものすべてもまた振動を始める。
鳥籠の真空管は光を強め、目を開けられないほどとなる。
光が分厚いカーテンが引かれた窓の外にも漏れ出るほどになったとき、急速に真空管の発光は収束していった。
ブラウン管モニターには、成功を示す文字列が表示されていた。
改めて見た鳥籠の蝶は、さっきまで透明だった羽根がすべて、薄ピンク色に染まっていた。一匹残らず、すべてが薄ピンク色の蝶に。
「よしよし。これでよし。でもこれ、どうしようかしら?」
実験成功の嬉しさに頬を緩ませるニーナは、しかしピンク色の唇を指でなぞりながら考え込む。
ふと壁に掛けられた、たくさんの時計がひとつに集まった全太陽系時計の地球の表示を見てみると、もう深夜に近い時間になってしまっていた。実験に集中しすぎてしまったらしい。
外からは聞こえる音はほとんどない。
微かに、近い階層を走る遠い電車の音と、二〇〇〇メートルに達する魔法科学大学の校舎群の間を通る風の音だけだ。
椅子から立ち上がったニーナはPCに終了の指示を与え、モニターのスイッチを切り換える。
「実験の許可が出るとは思えないしなぁ……。でも限定空間より広い場所で影響を確認した方が結果は集められるし……」
荒れ果てている実験室内の片づけは諦め、手元の機材や書類だけ机の中に仕舞ったニーナは、家に帰るために愛用の反重力ホウキに手を伸ばす。
「ん?」
PC表示から切り換えたモニターに映っているものに気がついて、ニーナはしばしそれに注目する。
「ふふふっ」
思わず含み笑いを零しつつ、モニターの電源だけ切った彼女は照明を落として実験室の引き戸を開けた。
「さて、どうなるかしらね?」
楽しそうに声を弾ませたニーナは、そのまま扉を閉めた。
後には静まり返った実験室と、時折薄ピンク色の羽根を小さくはためかせている蝶だけが残った。
ニーナが実験室を出てきっかり十分。
静かに、引き戸が開かれた。
わずかに開いた戸の隙間から滑り込むように入ってきた影。
「鍵をかけ忘れるなんて不用心なこと。さぁて、何かいいものがありますように……」
少し低めの女性の声でそう呟いた人影は、照明を点けないまま暗い実験室の中を探るように歩く。
見つけたのはほのかに光っているような薄ピンク色の羽根を持つ蝶が入った、鳥籠。
「これね、いま実験していたのは」
真空管とケーブルが取りつけられた鳥籠に、ただの蝶でないことを見抜いた人影は、それを慎重に吊り下げられたスタンドから取り外した。
「どうしよう……」
手に取ったはいいものの、ウェーブのかかった髪を揺らしながら周囲を見回していた人影は、カーテンが引かれた窓に注目した。
カーテンを開け、押し上げ式の窓を開放し、上弦を過ぎた月が浮かぶ屋外に、鳥籠を向ける。
鳥籠の小さな扉を開けると、それに反応したかのように薄ピンク色の蝶たちが羽ばたき、静かな星空へと飛んでいく。
まるで花びらが羽ばたいているかのようなその様子をしばし眺め、人影は窓とカーテンを閉めて忍び足で鳥籠を元の場所に戻した。
「これであの子の鼻を明かしてやれるわ」
鼻を鳴らし、人影は満足そうに頷いていた。
* 2 *
「うわ、鍵閉めてない。まったく、ニーナ教授は……」
引き戸を開けて実験室に入った僕は、鍵がかかってないことに不安に感じるよりも、目の前の光景にげっそりと肩を落とした。
広い実験用の机の上にあるオシロやコイルはともかく、他にも積み上げられた検査機材やケーブルや真空管などなど。床に転がってる謎のボンベはいったい何本あるのか。どっから持ってきたのか、たぶん壊れてる豆腐型PCに、無造作に置かれたあの箱は小型の恒温槽だろうか。
実験室の中は、荒れ果てていると言って過言ではない惨状だった。
今日、僕が来たのはニーナ・アインシュタイン――国立魔法科学大学でも天才として名高い教授の、実験室のひとつ。
僕はここ数日別の実験にかかりきりで、数日ぶりにここに来たわけだけど、ここまでになってるとは思わなかった。
「とりあえず午前中は片づけかぁ」
ニーナ教授がここで何かの実験をしてたのは知ってたし、それが大詰めだったらしいことはわかっていた。重要な書類の類いは仕舞ってあるっぽいけど、茶渋が残るってのに飲みかけの紅茶のカップすら放り出したままの室内に、僕は大きなため息を漏らす。
肩に提げた鞄から取り出したのは、白衣ではなく、白い割烹着。
ニーナ教授の助手となって半年、僕にとっては白衣の次に必須の装備になっていた。
若干一五歳で、入学するのすら簡単ではない国立魔法科学大学の教授に就任したニーナ教授は、天才というだけでなくその功績もまた凄まじい。
その功績が評価され、同時に様々な分野に手を伸ばしている研究を円滑に行うため、大学内に研究分野に応じていくつかの実験室を持っている。
有名人であるが故、もの凄い倍率になった研究生の応募に勝ち抜き、僕はニーナ教授のゼミに入ることになった上、助手の大役まで仰せつかった。
ただ、助手という名前の、小間使いだったが。
学内にあるコレクションなんかを置いてある私室は塵ひとつないくらい綺麗にしてるのに、実験が大詰めになったりすると余裕がなくなるためか、実験室なんかは彼女は片づけがおろそかになったりする。
どんなに惨状になっても本人はどこに何があるか把握できてて実験に支障はないらしいが、僕みたいな一般人には危険きわまりない場所となる。
最初の頃は事故を起こしたりもしたけど、ニーナ教授の助手となって半年が経ち、彼女のある程度の行動パターンがわかってきた僕は、本人がいなくても掃除くらいはこなせるようになってきた。
壊れ物を安全な場所に待避させ、正体のわかる機材を邪魔にならないようまとめ、道具類を所定の場所に仕舞っていく。それから正体不明の機材なんかを手袋をして慎重に確認しつつ、片づけに入る。
ニーナ教授にとってはさほど危険な場所ではないのかも知れないが、実験には液体窒素や反応物質を使うことだってよくある。ヘタをすると爆発が起こるどころか、理解不能な現象も起こることもあるから、実験室の掃除は慎重さと注意深さが要求される。
こんな風に掃除夫に甘んじてる僕だが、そんな状況にあってもニーナ教授の側を離れる気が起きないのは、いくつかの理由がある。
国立魔法科学大学の生徒は、充分に勉学と研究に励むため金銭などの生活は保証されてるけど、決して余裕があるわけじゃない。ニーナ教授の助手をすることで得られる手当は、僕にとって充分過ぎるほどに魅力的だ。そして天才の実験を一番近くで見ることで得られるものが多くあること、何より僕が生来の苦労性で、頼まれると断れないし、困ってる人には世話を焼きに行ってしまうというのがある。
「おはよう。もう来てたんだ? 湯川くん」
「おはようございます。と言ってももう十二時過ぎてますよ」
実験室内があらかた片づいて、一般人が入っても大丈夫になった頃、そんな時差惚けした声とともに入ってきたのは、女の子。
僕が着ている大学の制服となっているブレザーと同様に、濃紺のジャンパースカートに純白のブラウスを合わせ、ストライプのネクタイを締めている彼女こそが、地元では神童と言われ、十六歳で大学に入った僕でも敵わない、ニーナ・アインシュタイン教授。
一七〇ちょいある僕より頭ひとつ分近く小柄な彼女は、滝のように流れる金糸の如き髪に、制服に合わせた色合いのレースで飾り立てられたリボンを乗せている。
大学では私服も認められているのに、教授である彼女が学生と同じ制服を着ているのは趣味らしい。
確かに制服は学生にも人気だし、彼女が着ているようにブラウスの袖口やスカートの裾をレースで飾ったりといった改造もごく普通のこと。それが祟って、そもそも年齢が年齢だし、学生に間違われることもあったりとデメリットも発生するが。
そんなニーナ教授の人気の秘密は、学者としての功績と同時に、愛らしい顔と、一五歳とは思えない身体つきと、何より僕にとって目が離せないのは、短いスカートと太股までを覆う横縞のタイツが織りなす絶対領域!
制服の他にもいろんなタイプの服を着てくることがあって、ファッションにはかなり気を遣ってるニーナ教授は、自分の可愛さ、綺麗さを知ってるはずだけど、友達以外の他人からどう見られているかはあんまり気にしてないらしい。
研究の功績や真摯に向き合う態度、天使のような見た目の美しさを持つ彼女は、天然ボケの一面も併せ持つ。
「そう思えば、ここでやっていた実験はどうなったんですか? 昨日は夜遅くまでやっていたみたいですが」
「んー。あれはまぁ、いいかな?」
「どういうことです?」
そろそろニーナ教授が来るだろうと思っていた僕は、準備しておいたポットにヤカンからお湯を注ぎ、紅茶の準備を進める。
元気そうに見えるけど、いつもに比べ心持ち瞳が暗くなってることから、昨日は夜遅くまで実験をやっていたんだろう。だから普段より心持ち抽出時間を長くして渋めにしたアールグレイをぴかぴかにしたティカップに注ぎ、PCが置かれた机の前に座ってブラウン管モニターでセキュリティのカメラ映像から、僕の掃除によって物がどう動かされたかを見てるニーナ教授に手渡した。
しばしの間香りを楽しみ、小指を立てて持ったカップを傾け、ひと口飲んだ紅茶の渋さにわずかに目を細めてるニーナ教授は、やっぱり美しい。
ただ普通の動作に、僕は一瞬見惚れてしまう。
教授としての仕事や研究をこなしつつ、同年代の友達とショッピングや遊びに出かけたりと、精力的に動き回る彼女のバイタリティとモチベーションは、どこから湧いてくるものなのだろうか。実は大学があるこの町、魔法町にはニーナ教授が三人いるなんて噂があるくらい彼女は活動的だ。
可愛らしさ、美しさならニーナより優れた女性は世の中にはいくらでもいるが、それでも彼女がみんなに人気で、僕にとって一番魅力的に映るのは、どうしてなのだろうか。
――最初の頃は逃げ出そうと思ったこともあるけども。
そう思ってもいまも続いているのは、彼女の魅力に取り憑かれたからではなく、僕が苦労性で、苦労するのがわかっているのにそれでも放っておけない性格だからだと信じたい。
何しろ彼女に深く踏み込むことは、危険を伴うからだ。
天使のような彼女は、ちょっかいを出そうとすると、小悪魔な一面を見せる。
つい数年前、ニーナ教授がまだ学生だった頃、告白と同時に襲いかかろうとしたロリコンの先輩は、現在はモントークテクノロジーを利用し、アカシックレコードへの読み書きが可能か否かを実験するため、生きた考える人として生涯を研究室内に過ごすことになったと聞いたことがある。
教授になったばかりの頃、ニーナ教授を排除するために掃除用真空管ドールを改造して差し向けた競合する研究をしていた教授は、翌日自宅を区画ごと「掃除された」という噂があった。
どんなに魅力的であっても、ニーナ教授にヘタに手を出せば、彼女がそんな小悪魔な側面を見ることになる。
だから僕は、あくまで助手としての仕事をこなすだけだ。苦労するのがわかっていても。
「いいの、と言っても、確かこの鳥籠の中で何かやってましたよね?」
思考で中段されていた話題を再始動して、ちょうどニーナ教授の後ろにある空っぽになってる鳥籠を指さす。
この実験室に来た最後の日には、鳥籠の中に何かが育っていたような記憶があった。
「一応完成したんだけどね。いまは、まぁ、実験中、かな?」
「はぁ」
ドキリとしてしまうような動作で唇を小指でなぞるニーナ教授は、僕の質問に曖昧な返事をする。
僕が関わっていない研究にあまり深く踏み込むことはできないにしても、成果は発表されてこそだと思う。
曖昧に返事をする理由は、よくわからなかった。
「そんなことより、湯川偉雄(ゆかわひでお)くん。今日はこれからやってもらいたいことがあるんだけど、いい?」
小さく首を傾げながらにっこりと笑うニーナ教授に、僕はイヤな予感を覚える。
こういう笑みを見せているときの彼女は、何かを企んでいるときだ。
半年の間に僕はそれを学んでいた。
「え……、まぁ、いいですけど」
「じゃあお願い」
それでも僕には、小悪魔で、天使な彼女お願いを、聞かないという選択肢はなかった。
中学のときに習ったところによると、いまから三百年ほど前、二一世紀初頭の頃は、主な移動手段と言うと車や自転車などの、車輪を回して地上を走るものだったらしい。
初めてそれを知ったときはそんな方法でどうやって町を移動するんだと思ったけど、その頃の写真や映像を見てみたら、建物は高いものでも数百メートル、多くの家は地面の上に数階程度の高さしかなかった。
確かにそれなら、地上を車輪で移動してても問題ないわけだ。
ニーナ教授から用事を言いつかった僕は、断ることもできず実験室に一番近い大学校舎のエントランスに立った。
首から提げているのは調査用に渡されたクリップボードとスティック型のテスター。
右手に持っているのは、ホウキだ。
エントランスの高さは地上から約一五〇〇メートル。
この辺りでは魔法科学大学の校舎は高い方だけど、別に東京一高いというわけじゃない。
東京周辺、いまでは魔法町と呼ばれている町並みは、軒並み一〇〇〇メートルから二〇〇〇メートルの高さがある。
そんな高さの町を移動する手段は、階層ごとに行き交っている電車と、モジュール化され積み重なっている建物を貫くエレベータ。
そしてホウキだ。
ホウキ以外にも絨毯や反重力シューズ、個人用ロケットとか家族向け反重力人力車とかもあるけど、魔法町の主な移動手段と言えば、手軽で小型でどこにでも持って行けるホウキが一般的だ。
魔法ホウキとか反重力ホウキとか色々呼び名はあるけど、人間の持つ念力を増幅する、精神物理学の成果が内蔵されたホウキは、魔法町の生活になくてはならない移動手段として普及している。
僕は愛用のアンダーソン社の最新型、ダブルサイクロンホウキにまたがった。
大学から支給される決して多くない生活費と、ニーナ教授の助手で得られる手当と、暇を見つけてやっていたアルバイトのお金を貯金してやっとこの前買うことができたダブルサイクロンホウキは、従来型のホウキの発展型、サイクロンホウキをさらに発展させ、二重反転式サイクロンにより、推進にジェットを使うタイプのホウキの速度を超える超速度を得られるというご機嫌な性能を持っている。
地上三〇〇〇メートル以上に走っている高速空路のさらに上空、音速を超える乗り物でしか乗り入れられない、地上一〇〇〇〇メートル以上に位置する超高速空路も走れる速度が出せる。
ただしこれには罠があって、オプションの風防と、耐寒スーツを着ていないと超高速空路にたどり着く前に風か寒さでめげることになる。
いまのところどっちも手に入れる余裕のない僕は、性能を出し切れないままダブルサイクロンホウキに意識を集中させた。
別にエントランスからでなくても、けっこうみんな窓とか校舎のちょっとしたところにある開放広場とかから飛び立つけど、僕は一応ニーナ教授の助手。できるだけ行儀良くエントランスから飛び立つことにしていた。
ホウキにまたがって蔓を両手で握りしめ、浮き上がるイメージをホウキに送ると、末端のダブルサイクロンがうなりを上げて回転を始める。
ある程度回転が安定したところで、念力の増幅倍率の高いホウキを操り、出力を絞ってふわりと空へと浮き上がった。
「しっかし、なんでまたこの時期に桜の調査なんて……」
僕が今日ニーナ教授から言いつかったのは、大学周辺の桜の生長具合の調査。
それも観光スポットになってる、遺伝子改良により栄養を与え続ける限り永久に花を咲かせる永遠桜ではなく、春に咲く普通の桜の調査だ。
もうすぐ中秋の名月の時期である秋のまっただ中、気象予言庁ですら春が近づかないと調査なんてしないのに、なんでニーナ教授はそんなことを調査するんだろう、と思ってしまう。
でもおそらく何か理由があるんだろうから、僕は文句も言わず――言えず、調査へと乗り出した。
周辺三キロ以内を中心に、最大五キロの範囲という話だったけど、その範囲には天空湖となっている不忍池を中心とした積層上野公園も、超江戸城の外堀空路沿い桜並木まで含まれる。調査する場所はここに来るまでに確認しておいたけど、一日で終わるかどうか微妙なくらいの数と範囲だった。
エントランスから飛び立った僕は、魔法科学大学最高峰である本館を離れレッドゲートを目指す。
僕と同じく制服を着ている人、カジュアルだったりロリータだったり着ぐるみだったり、老若男女の人間、グレイ型やタコ型の宇宙人、化け物やロボットやUMAが右と言わず左と言わず上にも下にも行き交う間を縫って、安全運転でホウキを操る。
レッドゲートに向かうメインストリートの左右は、庭園スペースとなっている。庭園スペースと言っても、そこは一二〇〇メートル級の建物の屋上だ。
下を見るとどこまでも続く建造物。
途中の雲に遮られて地上は見えないものの、学生や教授や職員などの関係者だけでなく、様々な人がいる魔法科学大学の校舎を、ずっと下の方まで無数のホウキに乗ったりやロケットを背負った人が自由に行き交っているのが見えた。
庭園スペースに植えられてる桜に接近して、ニーナ教授に渡された何なのかわからないスティック型のテスターを桜の木に当てて、お尻の部分についてる小さな画面に表示された数値を場所と時間とともにクリップボードに書き込んだ。
「あれ?」
テスターは何を検知してるものなのか教えてもらえなかったからわからないけど、今年は早くもすっかり葉が落ちてしまっている、黒に近い樹皮だけを見せている桜に、若干の違和感を覚えていた。
――気のせいか?
桜に注目するなんて春以来なわけだけど、大学創立時に植えられたという見事な枝振りと幹の太さの大桜もそうだし、その近くにある記念樹の若い桜にも、注目するのは春以来だからはっきりしないが、首を傾げてしまっていた。
「まぁ、もっと調べてみないとわからないか」
呟きつつ校内の主要な桜の調査を終えた僕は、レッドゲートをパスして、とりあえず神保町方面を目指した。
神保町と言えば店舗数は太陽系一を誇る古本屋を中心とした書店街が有名で、隣接する音楽関係の店が並ぶエリア、また書店と同時にそっち方面の人には欠かせないスポーツ用品店、地球人ばかりか宇宙人にも対応してる食事処はとくにカレー屋が多いことで知られてる。
大学内以上にカオスな往来のある外堀空路の、空が見える神保町の上層付近を僕は流す。
この上層付近は安全だからいいとして、魔法町全体に言えることだけど、空が見えないほどの下層に行くのは素人には危険だ。
太陽光の影響が少なくなるのと同時に法律の縛りが何故か緩んでしまう古い町並みでは、その分興味深い店や物品に出会えるけれど、同時に会いたくない不穏な人にも出会ってしまう可能性が高い。
渋空や新宿なんかは上層から下層までしっかり治安が行き届いてるところが多いが、神保町の面白さは法律にすら捕らわれないカオスさであるとも言えるだけに、僕はこのままでもいいような気がしてる。
外堀空路を時速百キロくらいとのろのろと流して九段下へ、超江戸城外堀防壁の桜並木を調査する僕は、大学校内でも感じていた違和感を深めていた。
「たぶん、これがニーナ教授の目的なんだろうけど」
空路脇の路側エリアまでホウキを寄せて一本一本桜にテスターを当てて、出てきた数値を書き込んでいく僕は、ニーナ教授が何を考えてるのかを予想していた。
「また何か変なこと考えてなければいいんだけど」
研究熱心なニーナ教授は、でもたまにヘンなことを思いついて実行してしまうことがある。というか助手になって決して長くない間に、もう何度かそうしたことを経験している。
いつものこと言えばいつものことだからたいていは問題ないけど、大事件になりうることまでやってしまう可能性だって、ゼロではない。
「桜でそんな大事件になることはないと思うけどさ」
他よりも異常と言えるレベルで数値が高い桜を見上げながら、僕は不安を感じざるを得なかった。
* 3 *
「んー。やっぱりおかしいな」
すっかり日も暮れ、やっとひと通りの調査を終えて大学まで戻ってきた僕は、もうあんまり人のいないエントランスに降り立って首を傾げていた。
定期的に合法薬を飲んでアクセラレートしてある前頭葉をフル活用して、自宅にしてるアパートモジュールの格安部屋に置いてある脳ハードディスクにアクセスしてみるけど、違和感の正体はわからない。
気象予言庁のデータを引っ張ってくればもう少し何かわかるかも知れないが、気象庁のデータも公開してるのは初夏の辺りまでだろうから、いまの時期の桜に関する情報は得られそうにない。
どんなに脳ハードディスクで記憶を拡張し、脳RAIDで高速アクセスを実現しても、それで天才になれるわけじゃない。
例えば魔法科学大学の図書館クラスの、もっと大きい、アカシックレコードくらいの情報を持っていて高速に検索できるとしても、必要な情報がどこにあるのかわかっていなければ検索には時間がかかるし、そもそも必要な情報を取り込んでいなければ、検索は徒労に終わる。
薬や機械で学力や思考を加速してても届かないのが天才なんだろうと、ニーナ教授の側にいて最近よくわかってくるようになった。
「終わったのかしら?」
僕が頭を捻ってる間にエントランスに現れたのは、夜の闇の中でもわずかな電灯に照らされ金色に輝いているように見える髪をしたニーナ教授。
「はい。一応ひと通り終わりました。細かいところまでは調査しきれてませんが」
「充分よ」
昨日も遅くまで実験してたんだからもう帰ってるかと思ったけど、むしろ元気になってる様子の彼女に、僕は検査結果を記録してるクリップボードを手渡した。
軽く折り曲げた指を唇に当てている彼女は、僕の調査結果を見て、ニヤリと笑った。
「あら、ニーナ・アインシュタイン教授。奇遇ね。こんなところで何をしていて?」
ニーナ教授の高く響き渡る声とは対象的に、ハスキーで良く通る声が僕たちにかけられた。
見てみると、エントランスに現れたのは、手首までを覆うレース袖と裾にフリルがあしらわれた、深緑のワンピースを身につけた女性。
僕はあまり深く関わることがないからほとんど話したことはないが、彼女は生物工学を専攻しているミレーユ・シュレディンガー助教授だ。
ニーナ教授の髪を音もなく静かに流れ落ちる金糸の滝だとするなら、ミレーユ助教授の髪は荒々しく乱れ落ちるブラウンの滝。
そんなウェーブのかかった髪を揺らしながら近づいてきた助教授は、僕たちを蔑むように顎を反らし気味に睨みつけてきた。
確か僕と同じ一八歳のミレーユ助教授は、独自の研究でそこそこの成果を残しているものの、割り当てるための研究室が不足しているため、教授になれていないという話を聞いたことがある。
老朽化しつつも予算の関係で――それ以外にも理由があるという噂だが――大学の校舎の増設が難しいため、実験室の空きができ次第教授に昇格予定らしい。
そんな立場だからこそ、多大な功績により大学内に複数の実験室を持つニーナ教授を目の敵にしていて、何かある度に突っかかってきてた。ただし、ニーナ教授の方はあんまり相手にしてないようだが。
「新しい研究の成果を確認しているところだけど、何か用かしら?」
――やっぱり、何かの実験だったんだ。
最初から不穏に感じていたが、やっぱり僕が今日やっていた桜の調査は、ニーナ教授の実験だったらしい。
色々と思うところはあるし、突っ込みも入れたいところだけど、余裕の笑みを浮かべているミレーユ助教授の前だから、僕はとりあえず黙っておく。
「いいえ、別に。でも、こんなところで成果の確認なんて、研究が奪われたり、情報が流出したりしないよう気をつけるべきじゃなくって?」
「何か言いたいことでも?」
「さぁ?」
含み笑いを漏らしつつエントランスの端まで歩いていった彼女は、手にしたジェット推進式ホウキを横座りにして構え、ふわりと浮かび上がった。
「それではごきげんよう、ニーナ教授。貴女の立場が今後も変わらないといいわね」
そう言い捨てて、ミレーユ助教授はホウキの後端にあるジェット推進装置から青白い炎を放ちつつ、空を飛んでいった。挨拶を返す暇すらない。
「……なんだったんでしょう?」
「さぁね。気にする必要ないわ」
絶対何か仕掛けてきた合図だと思うのに、ニーナ教授は意に介した様子もなく、クリップボードに挟んである紙をめくり、成果の確認を続ける。
「よし、これなら大丈夫ね」
ひと通り見終わり、手にしたペンで書き込みを行ったニーナ教授は、僕にクリップボードを返してきた。
そして、優しい笑みを浮かべた。
本人は意識していないんだろう、多くの男たちの心を鷲づかみにしてきただろうその天使のような笑みを浮かべているときのニーナ教授は、決して心まで天使であるわけじゃない。
たとえ実験室の掃除であっても、研究に関わることであればどんなお願いでも助手である僕が受けるのは当然だ。
でも、天使のような笑みを浮かべ、心に小悪魔を飼い慣らすニーナ教授は、こんなとき助手としては受けるべきではないお願いをしてくるのが常だ。
そうだとわかっていても、僕は彼女のお願いを聞かざるを得ない。
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「はい」
「明後日の金曜の夜から、印をつけたところの中で一番花見にいい場所を確保しておいてくれないかしら?」
「花見、ですか?」
「えぇ」
秋の半ばに、それも桜が一番良く見える場所を確保するとはどういうことだろうか。
でも僕を見つめるニーナ教授の揺るぎない瞳は、冗談を言ってるわけではないのはわかる。
「わかりました」
「うん。よろしくね。他の準備はこちらでやっておくから」
「お願いします」
嬉しそうに小さく笑い声を立てるニーナ教授に、わけがわからないまでも、僕は彼女が何かを仕組んでいることだけは理解できていた。
*
国立魔法科学大学の敷地内、レッドゲート近くの積層建造物の屋上、大学創設時に植えられたという大桜は、見事な咲きっぷりだった。
毎年春に咲くはずの大桜は、金曜の夜辺りから急速に生長し、つぼみをつけ、土曜の昼頃には花を咲かせ始めて夜となったいまは満開となっている。
小さめの公園のようにとなっているこのスペースに生えている他の桜もまた、薄ピンク色の花を満開にしている。
けれども、少し離れたところの桜は一切花は咲かず、生長も見られない。
大学周辺の魔法町でも、同じようにスポット的に桜が開花してるところがあるという報告を聞いていた。
――絶対、ニーナ教授が原因だよな。
わかっていたけど、僕はそのことを口にしない。
金曜の夜から僕が確保していたのは、桜の真下ではなく、少しだけ離れて大桜全体を眺められる場所。
僕の隣に座り、月見団子をつまみに、甘酒の入った湯飲みを傾けるニーナ教授は、楽しそうに桜を見上げていた。
魔法町の人たちは祭り好きだ。
他にもゲーム好きだったり行列好きだったりいろんな指向はあるが、祭りが好きなのは鉄板だ。
桜が咲いたとなれば例え秋でも祭りになる。
いま僕やニーナ教授、教授の友達やゼミ生がいるこの反重力絨毯の他にも、辺りを埋め尽くす勢いで絨毯やホウキが出て、みんな思い思いに桜を眺めていた。
それだけでなく、大学のサークル、出入りの業者、近くの町内会が咲いてる桜を囲むように様々な露店を展開し、文字通りお祭り騒ぎとなっていた。
もちろんここ以外にも、桜が咲いている場所では中秋の桜祭りが開催されていることだろう。
灯された照明に浮かび上がるのは、桜と、ニーナ教授の横顔。
うっとりと桜を眺める彼女の視線の先には、桜だけでなく、ちょうど今日が満月である月、中秋の名月がぽっかりと浮かんでいる。
月なんて今時ちょっと遠出するくらいの距離でしかないけど、人が歴史を刻み始めた頃から美しいものとして語られ続けてきたそれは、やはりいまも美しい。
そして、ニーナ教授も綺麗だ。
桜と、月と、少し肌寒さを覚える九月下旬の緩やかな風に金色の髪を揺らし、艶やかな唇に湯飲みを寄せている彼女は、まるで一服の絵のよう。
これを見られただけでも、最初はみんなに笑われながらも場所取りした甲斐があったってものだ。
「ふふふっ。ニーナ・アインシュタイン教授、桜が咲いてしまっていますわね」
せっかく静かに花見を楽しんでいたというのに、その雰囲気をぶち壊して勝ち誇ったような声とともに現れたのは、ミレーユ助教授。
乗ってきたホウキを僕たちがいる反重力絨毯に寄せてきた彼女は、顎を逸らしてニーナ教授を完全に見下してる視線を投げかけてくる。
「えぇ、本当に綺麗ね。でも、それがどうかしたの?」
「これは、貴女の失態ではなくって?」
「何のことかしら?」
勝ち誇ってる助教授と、余裕の笑みを浮かべてる教授の声はみんなにも聞こえてるだろうけど、ふたりの関係を知ってる人にとっては当たり前の光景で気にした様子はなく、露店の呼び声やいったい何人がやってるのかわからないカラオケ大会によって、少し離れた人まではこちらに注目している様子はない。
「とぼけても無駄ですのよ? これは貴女の実験室で――」
「その前にいい? ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど」
ミレーユ助教授の言葉を遮ったニーナ教授は、傍らに置いてあった持ち運び用の小型ブラウン管モニターの電源を入れた。
不機嫌そうに眉根にシワを寄せながらも、ミレーユ助教授はホウキから身体を乗り出すようにしてニーナ教授とともにモニターを覗き込む。
「貴女が言ってくれたように、研究が盗まれたり情報が流出しないよう、うちの実験室にもある程度のセキュリティはつけてあるのよ」
モニターの角度と寄せ合うようにしてる身体の位置から、何が映っているのかは僕からは見えない。
でも、勝ち誇っていたミレーユ助教授の顔がペンキで塗ったように青くなるのを見て、僕はなんとなく事情を察した。
そんなミレーユ助教授の顔を見ているニーナ教授は天使のような小悪魔な笑みを……。
――違う、あれは悪魔の笑みだ。
その横顔はいつもと同じ天使のような笑みなのに、瞳の奥にいるのは、相手のことを把握し切れてない天然ボケ気味の小悪魔ではなく、こうなることをわかっていた様子のある、悪魔だ。
「それで、どうする? 全部報告する? このことも含めて、ね」
「くっ。な、何でもないわ。ワタシの気のせいだったようよ! ぐぐぐっ、憶えてらっしゃい!!」
まるで三下悪役のような捨て台詞を残して、ミレーユ教授はジェットを吹かして凄い速度で飛んでいってしまった。
絨毯に座り直したニーナ教授は、何事もなかったかのように花見と月見を再開した。
「つかぬことをお訊きしますが、なんで花見なんです?」
さすがに黙っていられず、白玉ぜんざいのお椀を手にしたニーナ教授に、僕は遠回しな質問を投げかけてみる。
「一度桜と中秋の名月のコラボレーションというのを、見られるといいな、と思っていたのよ」
「……そうだったんですね。あとそれから、まったく関係ないことなんですが、あの実験室で研究していたのはどんなことだったんです?」
「遺伝子操作した昆虫の実験ね。精神物理学の応用して人の想いを込めた昆虫を植物に寄生させることで、望んだ結果を得られるかどうかの。ヘタをすると季節外れの花見をすることになったり、込める想い次第では周辺の植物を根絶やしかねないから、実験には慎重を期する必要があったのよね」
天使のような笑みを浮かべて、この桜祭りは自分には関係ないように装っているニーナ教授だけど、たぶん偶然巻き込まれたんだろうミレーユ助教授のことも含めて、今回の件を誰が引き起こしたことなのかなんて、いまさら言うまでもない。
「もうひとつお訊きたいんですが、寄生するってことはたぶん植物の遺伝子操作を行うんですよね? 危険はないんですか?」
「大丈夫よ。操作するのはほんの一部で、生長に関わる部分だけのものだから。突然変異の可能性はあるから、その辺りの検証は充分にやらないといけないんだけどね。でも突然変異の確率的には極々低くて――」
そこまで言ったニーナ教授が沈黙した。
僕とニーナ教授の間にひらひらと舞い降りてきた桜の花びら。
いや、薄ピンク色の蝶。
桜に目を向けると、花びらのような蝶が、月を掠めるように何匹か飛んでいるのが見えた。
どうするかなんて思うよりも先に、強く吹いた風が蝶を空に舞い上げ、すぐに見えなくなった。
ニーナ教授を見てみると、驚いた顔をしていた彼女は、一度目をつむり、目を開けたときには、どこか遠くを見ていた。
「本当、いい夜ね」
どうやら気にしないことにしたらしい。
毎日が不思議が一杯の魔法町で、いまさらこんなことくらい気にする人はいないだろう。僕も気にしないことにする。
花びらを舞い散らせる桜と、丸い大きな月と、足を崩して絨毯に片手を着き、緩やかな風に金糸の髪を揺らしてうっとりとしているニーナ教授がいれば、いまの僕には充分だ。
小悪魔で、悪魔で、それでも天使なニーナ教授の側にいることを、僕は望んでいるから。
「花蝶風月」 了