JH科学 魔法町シリーズ二次創作 「カガクノミチ」   作:きゃら める

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第五話「清廉欠白」

 

 

   清廉欠白

 

 

          * 1 *

 

 

「決して、良い結果にはならないと思うんだけど……」

「そんなことないわ、ニーナ」

 実験室の椅子に座り、身体ごと振り向くようにして、鬱屈した曇天に似た表情を見せているのは、ニーナ・アインシュタイン。

 密かなレースがあしらわれた濃紺のワンピースに、薄手のジャケットをあわせ、金糸のような細く艶やかな髪を背に流すニーナは、誰もが美しいと評価するだろう外見に反して、その眉根には深いシワが刻まれ、不機嫌さを露わにしていた。

 そんなニーナと向かい合っているのは、ひとりの女性。

 まるで咲き誇る大輪の花。

 落ち着いた深い赤色のジャンパースカートと純白のブラウスに身を包む二十代半ばと思われるその女性は、本当に幸せそうな、晴れやかな笑顔を浮かべている。

 若干一六歳にして国立魔法科学大学の教授にして学長を務め、研究者としての成果でも注目されているニーナは、女性的な魅力でも人気を集めている。

 しかしながら、いま彼女の前に立つ女性は、花の化身、妖精だと言われても納得してしまいそうなほどの、別の世界の存在であるかのような魅力を放っていた。

「今度の人は大丈夫ですよ、ニーナ。誠実で、真面目で、ワタシだけを見てくれる人なの」

 しっとりとした長い黒髪を揺らし、女性はうっとりとした表情で両手を大きな胸の前で合わせ、最愛の人のことを語る。

「それに、この実験に適した人は、ワタシ以外にはすぐには見つけられないでしょう?」

 言って女性は、腕に下げたポーチからそれを取り出した。

 五つの球根。

 女性の両手に乗せられたそれに手を伸ばすことなく、ニーナは球根をじっと見つめる。

「それは……、そうでしょうけどね」

「大丈夫よ。ワタシとあの人との約束が破られることなんて、絶対にないわ。あの人こそ、ワタシの運命の人なのだから」

 少しゆっくりした口調で、女性は輝かんばかりの容姿よりも眩しい笑顔を浮かべ、話す。

 可憐で、どこか世間離れしている雰囲気を放っている女性に、ニーナの表情が晴れることはなかった。

 

 

            *

 

 

「持ってきましたよ、ニーナ教授……」

 言いながら実験室の扉を開け、押してきた台車に注意を向けながら室内に入った僕は、顔を上げた。

 二輪の花。

 いや、花を思わせるふたりの女性がいた。

 ひとりは言わずと知れたこの実験室の主、ニーナ・アインシュタイン。

 金糸のような細く長い髪のニーナ教授は、まるで黄色く咲く百合。

 それに対して、教授の前に立って僕に微笑みを投げかけてきてくれている女性は、大輪のバラのよう。

 見慣れたと言っても、やっぱりニーナ教授に見惚れてしまうことは多い。魔法町には美しいもの、可愛らしいものが様々にあるけれど、ニーナ教授はどこか別格の可愛らしさと美しさを持ち合わせる女性だ。

 けれどもうひとりの女性は、それとは別次元の、純粋な美しさを凝縮した存在のように思えた。

 正直なところ、女の子とか恋愛とかよりも、研究してる方が好きな僕だけど、それでも目の前に現れた美しさに身動きができなくなっていた。

「見とれるのもいいけど、持ってきた機材を机に上げてくれる? これから使うものだから」

「あっ、はい!」

 ニーナ教授の冷気を含んだ声に我に返り、僕は女性に軽く頭を下げて場所を空けてもらって、台車を実験テーブルに近づけた。

 魔法によって反重力を生み出して空を飛ぶホウキと同じ、魔法を使った小型クレーンのような昇降機でゆっくりと持ち上げているのは、分厚いガラスで造られた直方体型の実験器具。

 僕の身長の半分くらいの横幅と、その半分強の高さのあるその中は、三割くらい土で満たされている。

 さしずめガラス製の密閉プランターといった様相のそれは、底面と背面の部分は金属製で、たぶん温度や空気を調整する機械が仕込まれている。

 今日の朝、この国立魔法科学大学に登校する前にニーナ教授から連絡を受けて、生物科のミレーユ助教授のところに取りに行ったこの密閉プランターは、今度の実験で使うらしい。

 かなりの重量があって、ひとりで運ぶにはかなり苦労したから文句のひとつでも言おうと思ったけど、バラのような女性の笑みに、僕は何も言えなくなる。

 いや、来客中に小言なんて言ってられないわけだけど。

「この子が、ニーナの彼氏?」

「え?!」

「そんなわけないでしょ。助手よ、助手。大学老院生の湯川君」

 女性に彼氏なんて言われて驚いてしまうが、ニーナ教授は取り合う様子もなく僕のことをそう紹介する。

 けれどめげる様子のない女性は、含み笑いを漏らし、いたずらな色を瞳に浮かべていた。

「そうなの? もし結婚式を挙げることがあるなら、サービスするわよ?」

「その予定もその相手もないから。で、この人はタレイア。魔法町で花屋を営んでる人」

「初めまして、湯川さん。本当にニーナの彼氏じゃないの?」

「違います。……初めまして」

 即答で答えた僕は、紹介してもらったタレイアさんの伸ばす右手に、緊張しながら自分の右手を伸ばして、その温かい手と握手を交わした。

 まだ疑ってるらしいタレイアさんの視線に、僕がニーナ教授に助けを求める視線を向けると、呆れたようにため息を吐かれるだけだった。

「今日はタレイアに珍しい実験資材を持ってきてもらったの。差し込みになるけど、早速今日から実験を開始するから」

 そう言ったニーナ教授が視線を向けたパソコンデスクには、五つの球根が一直線に並べて置かれていた。

 ――手紙?

 間隔を離されて置かれた球根には、ひとつにつき一通、封書が添えられている。

 ただの封筒ではなく、封蝋により厳重に封印されたそれに、僕は眉を顰めていた。

 デジタル封蝋。

 封をする際に絶対時間による封印時間と、念波から個人判別情報を記録し、開封するときにも同じ情報を記録できるようになっているデジタル封蝋は、滅多に使われることのないデバイスだ。

 差出人本人と、受取人本人の間で取り交わされるかなり重要な親書であるとか、時間記録を取って情報封鎖が必要なほど、厳密な実験くらいにしか使うことがないものだった。

 そんなものが必要なくらい、きっちりとした記録が必要な実験をこれから行うということだろう。

 ――でも、球根とどう関係するんだろう?

 球根と密閉プランターの関係はそのままだからわかるけど、一から五番までの番号が大きく書かれたそれぞれの封筒の意味はよくわからない。

 内容を詳しく聞いてみようと思ったけど、鋭い視線を向けてくるニーナ教授の様子に、僕はとりあえずこの場では問わないことにする。

「ニーナにもやっと彼氏ができたと思ったのに、残念ね……」

「余計なお世話よ」

「……僕なんて、釣り合わないですし」

 頬を膨らませてるのに少しも美しさが損なわれないタレイアさんの言葉に、ニーナ教授は肩を竦め、たまに知り合いからそんなことを言われることもあるので慣れてる僕は、明後日の方向に顔を向ける。

「あぁ、そうだ。ワタシの方はね、春には結婚するのよ」

 ニコニコとした笑みになったタレイアさん。

 本当に幸せそうな空気を身体の内から漂わせる彼女に、いまさっき会ったばっかりなのに、僕はちょっと嫉妬しそうになる。

「ほら、この人なの。ワタシの婚約者の、園部幸夫さん」

 そう言ったタレイアさんは、腕にかけた鞄から二つ折りの大柄なパスケースを開いて、写真を見せてくれる。

 ――あれ?

 写真目線ではない、少し斜めに立っているスーツ姿の男性を見て、僕は心の中で首を傾げていた。

 誠実そうで、真面目そうな感じのする、たぶんタレイアさんより少し年上の、二十代後半だと思われる男性、園部幸夫さん。自覚のある実験莫迦である僕なんかより何割もいい男なのは写真だけでもわかるし、雰囲気からして裕福そうなのも見て取れる。

 でも魔法町在住の女性たちの中でも、おそらく上位に位置している美しさだろううタレイアさんに釣り合うか、と言うと、凡庸とも思える普通の男性だった。

 ――まぁ、相手を選ぶ基準は顔だけじゃないからな。

 本当に幸せそうで、嬉しそうな笑みを浮かべてるタレイアさんは、心から園部さんを愛してるのが彼女の様子を見てるだけでもわかる。

 絶世の美女が惚れるほどの理由が、写真からではわからない何かあるんだろう。

「でも、年が明けるまでは会うことができないの……」

 途端に花が萎れたように、悲しげな顔になるタレイアさん。

 そんな顔を見ていると、僕まで悲しくなってしまう。

「それは……、寂しいですね」

「えぇ。とても寂しいわ。けれど大丈夫。あの人はとても誠実で、ワタシだけを愛してくれる人なの。だから誰かに言い寄られたりしても、ワタシ以外によそ見することなんてないから」

 とても信頼してるんだろう、笑みを取り戻したタレイアさんに、僕も笑みが零れてしまう。

 誰かに言い寄られるなら、その婚約者さんよりもタレイアさんの方なんじゃないかとか思ったりはするけど、彼女は彼女で浮気するような人じゃないのは、その言葉と信頼しきった表情を見ていればわかる。

「それにね、あの人とは約束をしているから――」

「タレイア。それ以上は実験に支障を来すから」

「あぁ、そうね。そうなのね」

 うっとりと、夢見る少女のような表情で語り始めたタレイアさんを止めたのは、ニーナ教授。

 力強く頷いたタレイアさんは、意に介した風もなく微笑みを浮かべている。

「大丈夫よ、ニーナ。実験は必ず成功するわ」

「……そう祈ってるわ。それと、これを外さずにつけておいてね」

 そう言ってニーナ教授が差し出したのは、真空管がはめ込まれた腕環。

 つい先日騒動に巻き込まれた、ARコスプレグッズの「ゴスト」に似ているシンプルな腕環を、ニーナ教授はサイズを調整し、差し出されたタレイアさんの腕にはめ込む。

 取り外しボタンとか見えないから脱着できず、けっこうぴったりサイズの腕環をしげしげと眺めているタレイアさん。

 彼女は資材を持ってきてくれただけでなく、たぶん実験の被験者なんだろう。

 ちらりと見てみたニーナ教授と目が合う。

 何も言ってきてくれない教授は、言葉以上に目で言いたいことを語っていた。

「簡単に外せるようにはなっていないけれど、その腕環は絶対に外さないでね」

「えぇ、わかりました。では実験結果を楽しみにしていてね、ニーナ。それじゃあ湯川さんも、頑張って」

 ニコニコと笑うタレイアさんは、何を頑張ればいいのかわからないけど、僕に応援の言葉を残して実験室から出ていった。

 

 

          * 2 *

 

 

「……本当に生えてる」

 実験室の扉を開けた僕は、真っ先にその言葉をつぶやいていた。

 昨日、あの後タレイアさんが持ってきてくれたという五個の球根を、密閉プランターに植えた。

 手袋越しでも直接触れちゃいけないと言われて、どうやら特別製らしい小型シャベルを使い、拳よりもふた回りほど小さな球根を半分くらい見えるよう植える作業は、ニーナ教授が手伝ってくれなかったから意外と面倒臭かった。

 朝には根を張って茎を伸ばし、蕾をつけると言われてたけど、実際そうなった。

 いま、実験室の密閉プランターの中では、等間隔に植えられた、右から一番から五番までの球根から真っ直ぐに茎が伸び、その先端は小さな蕾ができている。

「言った通りでしょ」

「えぇ。でもさすがに、こんなに早いとは……」

「これくらいの勢いで伸びる草は、けっこうあるものよ」

 僕よりも早くに来ていたニーナ教授が、たぶん実験機材だと思われるものを準備しながらそう言った。

「とりあえずこれをそれぞれの茎と、蕾のつけ根につけて、ここの外部端子に接続して頂戴。それとそれぞれのレコーダをセットして」

「あ、はい。わかりました」

 言われて僕は、プランターの上部蓋を開け、クリップ状のセンサーを茎が傷つかないように慎重に取りつけた。ついでに中に設置されてる受け口にセンサーの端子を接続する。

 さらに音波や振動のレベルを記録するのに使う、ロール紙に受信した信号の強度を描くレベルレコーダを球根一個につき一台設置し、プランターの外部端子からケーブルを伸ばして接続した。

 蓋を閉めてロックすると、ガラスだから中は見えるけど、空調も温度も、土の湿度管理もできる密閉式プランターの内部は、完全な密室となる。

 たぶんだけど、可視光線は通しても、それ以外の電波や、魔法なんかも通さない素材でできてるんだと思う。

「これって、何なんですか?」

 平常の植物の生体活性だろう小さな振れ幅を記録しているレベルレコーダが、紙と同時にデジタルデータでも記録できてるかを確認しつつ、プランターを睨んでいるような表情のニーナ教授に訊いてみる。

 ここまで見る限り、どう考えてもニーナ教授が専攻し、僕が助手を務める精神物理学分野の実験じゃない。植物の研究ならこのプランターを貸してくれたミレーユ助教授が専攻する生物学の分野だ。

 それでもニーナ教授が行い、そしてタレイアさんが被験者になってるってことは、たぶん精神物理学の実験なんだ。

「あの人が持ってきたのはね、宇宙シャガの球根よ」

「宇宙シャガ?」

 生物分野にはあまり造詣が深くない僕には、初めて聞く植物の名前だった。

 遠隔で精神波を介してリンクしている、僕のアパートの部屋に設置した脳NAS内のライブラリを検索してみても、該当する項目が見つからない。

 ネットワーク経由で大学図書館のデジタルライブラリを検索してみると見つかったが、たいした情報は得られなかった。

 地球外の発見された植物で、和名は宇宙シャガ、絶滅が危惧される植物であることと、花の写真程度。植生などの詳しい情報はなく、本当に名前くらいしか情報がなかった。

 土に触ったので手を洗い、お湯を沸かして紅茶の準備をする間、流しに置かれたカップを濯ぎながら、僕は続けて訊いてみる。

「その宇宙シャガが、精神物理学の実験に関係あるんですか?」

「それはもちろん。だからこそ実験するんじゃない」

 ニーナ教授の目が、キランッと音を立てた気がした。

 沸かしたお湯を茶葉を入れたティポットに注ぎ、葉が開くのを待つ間にニーナ教授が話してくれる。

「宇宙シャガはね、精神物理学の最大命題解明の鍵になるかもしれない実験対象なのよ」

 椅子に座って僕の方に振り返り、短いスカートじゃちょっと危険なほど高く脚を組んだニーナ教授は、嬉しそうな、でもちょっと自分の世界に入り込んでいる笑みを浮かべる。

 まだまだわからないことの多い精神物理学は、命題と呼ばれている課題が数多くある。

 でも最大命題と言われると、その中のどれなのかパッとは思いつかない。

 スカートから覗く眩しすぎる太股よりもさらに輝かしい笑みを浮かべ、ニーナ教授は僕の瞳を見つめてきていた。

「最大命題、ですか」

「えぇ。湯川君は念波が主にふたつに分類されるのは知ってるわよね?」

「それはもちろん。念力と精神波ですよね?」

 精神物理学で主に研究対象となるのは、念力と精神波だ。

 念力は正確には念動波と呼ばれ、主に生物の脳から放射される波動だ。

 魔法と言う形で科学的に扱い、ホウキに内蔵された増幅回路を使って強化し、反重力を発生させて空を飛んだり、機械的な装置で発生させて反重力町のように空飛ぶ町を建造したりと、いま現在の世の中では必須のものとなっている。

 利用している割にわかっていないことも多く、何故生物からは念動波が積極的に発せられるかとかは、いまでも研究が続けられ、解明しようと多くの人が取り組んでいる。

 もうひとつの精神波は主に通信などに使われている。念動波と同じく人間の脳から発せられていて、でも念動波と違い物理的な現象への干渉力は弱い。

 けれど音波に近い性質を持ち、音波に準じた扱い方で利用できたり、デジタルデータに変換できたりする。脳から発せられるだけでなく脳への入力にも使えるため、通信に利用したり、バーチャルなゲームで使われたりと、応用範囲がかなり広い。

 個人個人でユニークな波紋のある精神波はセキュリティに使われたりもするけど、同時に人間の精神そのものに影響があるため、それを応用した技術は毒にも薬にもなる。悪質なウィルスに感染して、最悪の場合別人にされてしまう、なんてこともあったりする。

 ニーナ教授は精神物理学を中心に、かなり広い範囲の研究を行っているため、念動波とか精神波とか特定分野に特化した研究だけをしてるわけではない。そんな広い範囲で多くの成果を残していることが、教授の凄いところだったりした。

 精神物理学の基礎とも言える研究対象を述べた僕は、にんまりとした笑みを浮かべてニーナ教授の青く澄んだ瞳を見つめた。

 けれど、返ってきたのは呆れを含んだため息だった。

「その答えじゃ落第よ、湯川君。確かにここの大学生までだったらそれでもいいけれど、大学老院生で、私の助手の貴方がそんな答えじゃ困るんだけど?」

「え……」

 そんな風に言われて、僕は顎に指を添えて眉を顰める。

 僕がこれまで魔法科学大学で勉強と、研究をしてきた内容から考えれば、念動波と精神波で間違いがないはずだ。でも、ニーナ教授は落第だと言う。

 それ以外のもので、そして精神物理学の最大命題だとされるもの。

 深く、深く考えて、やっと僕は思い着く。

 ――あっ!

「念動波と……、それから念信波、ですか?」

 念信波は、精神物理学でも研究対象にしている人が少ない分野。

 それは何より、観測が困難であるから。

 現実に干渉する念動波や、音波に近い性質を持つ精神波と異なり、念信波はほとんど現実に干渉しない波動であることがわかってる。

 精神波は念信波が脳から放射される際の副次的な波動であるらしいということがわかってきていたりするが、宇宙的にはかなり昔から存在が予言され、間接的には観測もされているのに、ほとんど研究が進んでいない。

 宇宙物理学になぞらえるならニュートリノのような、物質に対してほとんど干渉しないことがわかっている素粒子に近い意味合いを持つ。しかしそれよりもさらに現実への干渉をしない念信波は、研究すること自体が困難であるため、この魔法科学大学でも研究しているゼミはふたつしかないし、成果が上がったという話も聞いたことがない。

 念動波をテレキネシス、念信波をテレパシーと呼ぶこともあり、遠隔地との情報交換や思考のやりとりが可能とされてる念信波だけど、自発的に扱えるという人は確認されていなかった。魔法使いと呼ばれる人々は強い念信波を発するという話もあるけど、それも噂程度だった。

「その通りよ。この実験はね、念信波に関係する研究なの」

 険しい表情だったニーナ教授はニッコリと笑み、そう言ってくれる。

「……でも、この宇宙シャガがどうして念信波の実験になるんです?」

「念信波は脳を持つ知的生命体同士でやりとりができることは知られてる。でも念動波と違って、念信波は植物からも放射されている可能性が示唆されてるの。この宇宙シャガは、念信波を受信して特別な振る舞いを見せるとされているのよ」

「そんな植物があるんですかっ」

 観測が困難であるため研究者の中では軽視されがちだけど、確かに念信波は精神物理学の最大命題と言える波動だ。

 何しろ性質が不明のため、念信波はいろいろな可能性が示唆され、様々な説が唱えられている。精神波も通信技術の向上により光の速度を超える方法が発見されて超遠方へのリアルタイム通信が可能になっているが、念信波は空間だけでなく時間すらも飛び越えるなんて説まであるほどだ。

 本当に宇宙シャガが念信波を受信して何らかの振る舞いを見せるのだとしたら、それはこの実験室で宇宙的な発見があるかも知れなかった。

「それは本当に凄いですね……」

 僕もひとりの研究者。

 しがない学生で、教授でもなくただの助手でしかないけど、さすがにそんな実験に立ち会えるなんて興奮してきてしまっていた。

 拳を握り締めて、さっきからほとんど変化のないレベルレコーダに見入ってしまう。

「それでこの実験の被験者が、タレイアさんなんですよね? どういう内容の実験なんですか?」

「それは……」

 言葉を濁らせたニーナ教授の方を見てみると、表情を曇らせていた。

 それは昨日タレイアさんがいたときに見せていた、複雑な表情だった。

「実験の内容についてはいまはまだ明かせないわ。昨日も言った通り、余計な情報は実験の失敗を招きかねないのよ」

「僕にも、教えられないんですか?」

「えぇ、そうよ。貴方は宇宙シャガと記録に大きな変化があったら、それを報告してくれればそれでいいから」

「……わかりました」

 何となく釈然としないものの、実験に支障が出ると言われたら仕方がない。

 いつになく眉根のシワを深く刻んでいるニーナ教授の、悲しそうな青い瞳に、僕はそれ以上訊くことを諦めるしかなかった。

「実験期間はどれくらいになるんですか?」

「そうね。長くても来年の一月には最終結果が出ているはずよ」

「最短だと?」

 とくに意味があったわけではなく、そう訊いてみると、ニーナ教授はこれまでで一番大きく顔を歪め、少し震える声で言った。

「早ければ、一週間で結果が出るかも知れないわね」

 

 

            *

 

 

 請求先の指定を済ませた僕は、受付担当の看護師さんに挨拶を済ませてその場を離れた。

 国立魔法科学大学付属の病院は、そろそろ夕方になろうという時間だというのに、ロビーに並んだソファには隙間がないほど人がいた。

 午前と午後の診療の他に、主に夜行性の人向けに夜間診療もやっているここは、深夜の時間帯に入るまで人が引けることはない。

 地球人類はもちろん、宇宙人と言わず、真空管ドールと言わず、ロボットの診療まで請け負う大学付属病院の、朝の大学正門前より様々な人が集まってる広いロビーを抜け、僕は巨人でも通れそうな正面入り口の自動ドアを潜った。

「でも、それも今日で終わりか」

 僕が病院に通っていたのは、経過観察のため。

 つい先月には時間凍結保存されかけ、さらにその前の月には空間ポケットの爆発に巻き込まれて大怪我を負った。

 原因は主にゾフィアさんなわけだけど、そのとき負った怪我は完治はしている。ただ、念のため経過観察を入念に行うってことで、ニーナ教授が一部は自費まで使って病院に通わせてくれていた。

 それももう大丈夫ってことで、病院に通うのは今日で最後。

 明日にはそのことの報告と、お礼をニーナ教授に述べるつもりだった。

 ――それとも、まだ実験室にいるなら今日の内に報告しておくべきかな?

 そろそろ遅い時間なので、どうするか迷ってしまったときだった。

「ん? あれ?」

 ホウキの後ろに客席をくくりつけた反重力人力車が待つタクシー乗り場を横目に、ひっきりなしにホウキなどで人が降りてきたり飛んでいったりしている病院前の発着スペースで、自前のダブルサイクロンホウキにまたがろうとしたとき、気がついた。

 まるで恋人同士であるかのように、一本のホウキに身体を密着させて降りてきた男女。

 どこか緊張しているような硬さも感じるが、仲よさそうに微笑みを浮かべながら僕とすれ違っていったふたりのうち、男性の方に見覚えがある気がした。

 発着場の縁に立ったまま、僕は記憶を掘り返す。

 ――あ!

 思い出した僕は、病院の自動ドアを抜けていくふたりに振り返った。

 僕のことなんて気にもしていない男性には、確かに見覚えがあった。

 でも、面識があるわけじゃない。

 知り合いでもなければ話したことがあるわけでもその男性は、園部幸夫。

 タレイアさんが昨日、婚約者だと言って写真を見せてくれたその人だ。

 ――隣の女性はいったい誰だ?

 来た道を戻って、病院の中には入らず園部さんの隣に立ってる女性のことをじっくりと見る。

 スズランのような人だった。

 タレイアさんが大輪のバラだとするなら、園部さんの隣に立ち、微笑みながら歩いている女性は、肌が白く、儚げで、ともすると夜露とともに消えてしまいそうな雰囲気をした、まるでスズランの花のような女性。

 誰からも注目されるだろうタレイアさんの華やかな美しさと違って、どこか園部さんと似た、ひっそりとした魅力を漂わせ、美少女の雰囲気を持つ、たぶん二十代そこそこだろうその女性は、予約でもしてあるのか迷うことなく受付のひとつに向かっていく。

 ――あそこは……。

 総合病院である大学付属病院は、受付ごとに科が違う。

 園部さんとスズランの女性が向かった受付は、確か婦人科だ。

 ――どういう関係なんだ? あのふたりは。

 病院に行くからか緊張してる様子はあるけど、微笑み合っていて、打ち解けた感じがあった園部さんと女性。その距離の近さは、ただの友人とは思えないほどに見えた。

 ――僕に、何ができる?

 ニーナ教授は、昨日タレイアさんとあんまり話さないように言っていた。実験に支障が出る可能性があると言うなら、それに従うしかない。

 でもあんなに幸せそうにしていたタレイアさんが、婚約者のことでトラブルを抱えることになるのも問題なように思えた。

 選択肢はふたつ。

 見なかったことにして、この場を後にすること。

 タレイアさんに報告をして、警告すること。

 一度少し話しただけとは言え、知り合いになったのだから、婚約者が浮気しているかも知れないことを知らせるべきなように思える。

 でもニーナ教授に止められていることを考えると、軽々しくそんなことはできない。

 ――とりあえず様子を見よう。

 園部さんの隣にいるのが浮気相手だとは限らない。

 そう無理矢理自分を納得させた僕は、自動ドア前を離れて家に帰ろうとする。

「済みませんっ」

「あっ、いえ! こちらこそっ」

 振り返った途端、ちょうどやってきた人とぶつかってしまった。

 そろそろ夕方になると寒いからだろう、厚手のコートについたフードを目深に被っている、その涼やかな声からすると女性と思われる人物と謝り合う。

 急いでいるのか、女性はそれ以上何も言わずに、自動ドアの向こうに小走りに入っていった。

「とりあえず、帰ろう」

 園部さんのことは気になるけど、浮気だという確証もなければ、タレイアさんとあんまり話しちゃいけない僕にはできることなんてない。

 発着場の端までのろのろと歩いていった僕は、ダブルサイクロンホウキにまたがって、ふわりと空に飛び上がった。

 

 

            *

 

 

 鍵を解除して実験室の扉を開ける。

 いつもよりけっこう早い時間だから、実験室にはまだニーナ教授は来ていなかった。

 昨日家に帰って、食事をして近くの銭湯に行った後、悶々とした頭を抱えながら眠った。

 眠りにつくまでずいぶんかかったのに、朝も早く目覚めてしまって、二度寝もできそうになかったのでいつもより早く実験室に来ていた。

 部屋の灯りを点け、密閉プランターを見てみる。

「あ!」

 昨日実験室を出るときまではなかった変化に、ひと目で気づいた。

 宇宙シャガ一号の蕾が、落ちていた。

 ――どういうことなんだろうか?

 念信波に関係する実験だとは聞いてるけど、蕾が落ちた理由については僕にはわからない。

 ――でももしかしたら……。

 タレイアさんは園部さんと約束をしていると言っていた。

 もし昨日園部さんと歩いていた女性が彼の浮気相手だとしたら、タレイアさんとの約束が破られたということなんじゃないだろうか。

 蕾が落ちた理由は、約束破りかも知れない。

 ただの推測に過ぎないけれど、僕はそんなことを考える。

「おはよう、湯川君。今日は早かったのね」

 言いながら入ってきたのは、ニーナ教授。

「教授。これ……」

 いつも通り美しい金色の髪をなびかせて近づいてきたニーナ教授に、僕は一号の蕾を指し示す。

 険しい表情になった教授は、すぐさまプランターに近寄って、僕を押しのけるようにしてその後ろに置かれたレベルレコーダに手を伸ばした。

 巻き取られていた記録紙を引っ張り出し、たぐっていく。

 僕も後ろから覗き込むと、宇宙シャガがそれまでにない激しい反応を見せたのは、一分にも満たない時間なのがわかった。

 記録紙の横に刻印された時間を確認してみて、僕は気がつく。

 ――ちょうど僕が病院から出たくらいの時間だ。

 時計を見たりしてたわけじゃないから正確ではないけど、診察室を出て少し経ったくらいの時間だから、たぶんそれくらいだ。

 その時間にあったと僕が確信できるのは、園部さんのことだけ。

 ――でも、それが理由なのか?

 理屈については僕にはわからない。

 僕が女性と歩いてる園部さんを発見したことと、宇宙シャガ一号の蕾が落ちていることに関係があるのかもわからない。

「どいて」

 僕を腕で払ったニーナ教授は、密閉プランターに向かい合うように置いてあるパソコン用デスクに向かい、パソコンの電源を入れた。

 少しして立ち上がったパソコンをキーボードを打って操作し、レベルレコーダのデジタルデータを呼び出した。

 反応した記録も、時間も、記録紙に残されたものと同じだった。

 唇を噛み、苦々しげな表情を浮かべるニーナ教授。

 僕にはその表情がどんな意味を持つのか、理解することも推測することもできなかった。

「あの……、ニーナ教授――」

「湯川君、実験を継続するわよ」

 僕が何か言う前に、ニーナ教授はそう宣言した。

 宇宙シャガ一号用のレベルレコーダの電源を切り、教授は大きなため息を吐く。

「えぇっと、タレイアさんには、連絡するんですか?」

「それは湯川君が気にすることじゃないわ。貴方の仕事はこの実験を観察し、記録を取ること。わかった?」

「……わかりました」

「じゃあ紅茶を淹れて頂戴。こっちは観察と記録だけだから、次の変化があるまではそのまま継続。今日は半端になってる実験を再開するわよ」

「はい、ニーナ教授」

 いつもなら実験を始めるならウキウキとし出したり、にやけた顔になるニーナ教授なのに、今日は沈みきった表情をしていた。

 でもニーナ教授は、僕に話してくれる様子はない。

 言われた通り紅茶の準備を進めながら、僕はもやもやとした気持ちを抱え続けるしかなかった。

 

 

          * 3 *

 

 

 やっと運ばれてきた食後のコーヒーに、僕は背中に冷や汗が伝い落ちていくのを感じていた。

 ――助かった……。

 こっそり安堵の息を漏らしてる僕の正面に座り、満足そうな笑顔を浮かべてコーヒーカップを口元に寄せているのは、ミレーユ・シュレディンガー助教授。

 荒々しく流れ落ちる滝のような癖のある長い髪を背に流し、清楚な感じの深緑のワンピースを身につけ、たぶん実験の際の汚れ防止のためだろう真っ白なエプロンを掛けている、美人という言葉が似合う女性。

 僕とほんの一歳しか違わない一九歳であるが、国立魔法科学大学ではニーナ教授にも次ぐ天才と噂され、しかし性格的に問題があることが理由で教授になれないとまことしやかに語られているミレーユ助教授が、今日の僕の昼食の相手だった。

 研究室に詰めていてひもじそうにしていた彼女を、奢ると言って誘ったら喜んで着いてきてくれた。

 昼食の場所として選んだのは学食。

 それも広い大学の敷地の中にいくつもある学食のうち、学生よりも職員や外からの人が利用する方が多い、美味しくてちょっと高めのところを選んだ。

 よく食べる人なのは知ってたけど、予想よりふた皿ばかり多かった注文に冷や汗をかきつつ、財布の中身で足りることに僕は安堵していた。

「それで、今日は何の用事があってワタシを呼び出したのかしら?」

「えっと……」

 とくに用事があると言ってお昼に誘ったわけではなかったけど、ミレーユ助教授にはバレバレだったらしい。

 どう切りだそうか迷って、僕は挙動不審になってしまう。

「あぁ、もしワタシと付き合いたいってことなら、美味しい食事よりも、何か珍しいものをプレゼントしてくれるか、誰も知らない素敵な穴場スポットにでも連れて行ってくれた方が嬉しいかな?」

 ニーナ教授の実家も相当なものだけど、ミレーユ助教授はそれに輪をかけて裕福な家柄だ。

 世界でも有数の大学とは言え、何でこの魔法町の国立魔法科学大学で助教授やってるのかよくわからないくらいだし、大学に通うために世田谷の超高級住宅街の大きな私邸に住んでるのも凄まじい。

 美味しい食事なら、ミレーユ助教授であればこんな学食よりも良いものを食べられるだろう。

「えぇっと、今日はそういう用事じゃなくってですね……」

「へぇ?」

 なんでか突然目を細め、冷たい視線を向けてくる助教授。

「まぁ、そうでしょうね。湯川君だしね」

「えっと、まぁ、そうですね」

 どういう意味なのかいまひとつわからないけれど同意の言葉を返しておいて、僕は今日の用事を伝える。

「それでですね、ミレーユ助教授は、宇宙シャガって植物のことはご存じですか?」

「宇宙シャガ、ですって?」

「はい」

 それまでは外の空気よりも冷たい視線を向けてきていたミレーユ助教授が、いまにも雷でも鳴りそうな険しい表情になった。

「――あぁ、なるほど。この前ニーナに貸したあの実験用のプランターはそれ用だったのね。またずいぶん珍しい土壌の指定をしてくると思ったら……」

「えぇ、そうなんです。それでいま、宇宙シャガを使って実験をしてるんです」

 あまり学生が多くないと言っても、昼時の学食だ。

 食事の値段がそこそこするだけあって快適性も重視されてて、席と席の間はけっこう離れてる。それでも僕は声を潜めて、納得した顔で頷いて見せたミレーユ助教授と話す。

「実験してるってことは、被験者がいるのよね?」

「えぇ、います」

 いろいろ調べ回って結局たいした情報を得られなかった僕と違って、さすが生物学課の助教授、名前を聞いただけで実験の内容までわかったらしい。

「誰なの?」

「宇宙シャガの球根を持ってきてくれた、魔法町で花屋を営んでるという方――」

「もしかして、タレイア?」

「えっ、あ……、はい」

 宇宙シャガについて聞きに来たとは言え、被験者となれば個人に関する情報。名前まで言わずに済まそうと思ったのに、ずばり言い当てられてしまった。

 タレイアさんの名前を口にしたミレーユ助教授は、眉根に深いシワを寄せた。

「ご存じなんですか?」

「まぁ、ワタシもあの人には世話になってるからね」

「生物学ですもんね」

「えぇ。図鑑でしか情報がないような希少な植物を、種の段階で判別するような、一種の超能力の持ち主よ、あの人は。この魔法町にはいろんな人が住んでいるけれど、あの人ほどの植物の知識と、魔法使い染みた直感力を持ってる人はいないからね、けっこう有名人なのよ。……いろんな意味でね」

「なるほど」

「宇宙シャガなんて魔法町にだって過去に何回か持ち込まれたことがあるかどうかの植物、あの人でなければ発見することはできなかったでしょうし」

 プライドが高く、自尊心も人一倍で、けっこう嫉妬深いところもあるような気がするミレーユ助教授が素直に褒めてることに、ちょっと驚く。

 でもその表情は相変わらず曇りきったままだ。

 話すなと言われてるから会ったりはしてないけど、タレイアさんのお店についてはちょっと調べてみた。

 魔法町にはいくつもある、地球産はもちろん、地球外の植物も扱っている街の花屋さん、というのがタレイアさんの店のようだ。

 規模的には個人経営のため小さく、人も雇っていないようで不定期な休みがあったりする。

 ただ普通のお店と少し違うのは、好事家やミレーユ助教授のような研究者の引き合いが多いということ。法律的な問題があるようなものは扱ってないようだけど、宇宙シャガのように地球に入ってくることが珍しい植物を扱ってることがけっこうあるようだった。

「しかし、よく宇宙シャガなんて手に入ったわね」

「そんなに珍しいんですか?」

「ワタシも実物を見たことはないわね。売買になんて出されたら、速攻で大学とか研究機関がかっさらっていくくらいにはね。……でも、そうか。あの人が手に入れて、被験者になってるのね」

 濃い緑の瞳を僕から逸らして、魅力的なニーナ教授の胸よりさらに大きな胸の前で腕を組み、考え込むように目を細める。

「それで、宇宙シャガというのがどんな植物で、どんな実験に使えるものなのかお訊きしたいのですが……」

 怒っているかのように顔を顰めているミレーユ助教授に、僕はおずおずとそう問う。

 実験に支障を来すようなことをしてはならない、というのはわかってる。でももしかしたらタレイアさんが婚約者に、園部さんに裏切られているかも知れない。

 精神物理学では発生した現象を主に研究対象とする。精神に関わる学問なのだから、必ずではないけれど多くの場合、実験には被験者がいる。

 実験に私情を持ち込んではならないと、いつもニーナ教授には言われてる。

 でも裏切りが本当なら、何も知らずに黙っていられそうにはない。

 だから僕は、すべてを見透かすように僕の瞳を見つめてくるミレーユ教授の瞳を見つめ返していた。

「ここの支払いは持つから、今度はどこか素敵な場所にでも連れてちょうだいね」

 ひとつ大きなため息を吐き出して、ミレーユ助教授は席を立つ。

「えっと……、あの……」

「ニーナにも被験者に接触しないよう言われているでしょう? 湯川君」

「それはまぁ、そうなんですが……」

「だったら実験が終わるまで待っていなさい。実験が終わった後なら、ニーナもちゃんと全部話してくれるだろうから」

「……そうですか」

 哀れみなのか、目を細めたままそう言った彼女は、行ってしまった。

 温くなったコーヒーで喉を潤し、僕はどうしていいのかわからないまま、ただ椅子に座り込んでいた。

 

 

            *

 

 

「次はこのデータの入力お願い」

「はい、わかりました」

 ニーナ教授の声に応えて、僕は受け取った書類の束を実験用の机の隅に広げる。

 ノートパソコンを操作して新しいファイルを作成し、渡された書類に記載されたデータの入力を始めた。

 今日はここのところやっていた実験の成果を入力する作業をやっている。面倒な作業だけれど、データをまとめる作業はやっておかないと論文を書くときにさらに面倒なことになる、必須の作業だった。

 本当はその入力作業も論文を書く本人がやった方がいいと思うんだけど、今年度に入ってからのニーナ教授の論文は、僕が手伝わないといけない程度にはなっていた。

 けっこう大量にある入力にげっそりしながら、ちょっとだけ止める。

 ちらりと見た、密閉プランター。

 二号から五号までの宇宙シャガの蕾が並んでいて、一号の蕾が落ちた一昨日のような変化は見られない。

 ――まだ、大丈夫なんだな。

 この実験でどんな成果が得られて、蕾が落ちた意味がどういうものなのかはわからない。

 けれどたぶん、タレイアさんの言っていた約束が関わることだろうことは予想できた。

 変化がないということは、たぶんタレイアさんと園部さんの間で変化がないということだと思う。

「まだかなり残ってるんだから、集中してもらえる?」

 知らぬうちにプランターをじっと見つめていたら、ニーナ教授にそんなことを言われてしまった。

「あっ、はい……、すみません」

 愛用のCRTモニタから首だけ振り向かせて、厳しい視線を向けてきているニーナ教授。

 そのときだった。

「あっ! あぁ……」

 ぽとりと、二号の蕾が落ちた。

 僕の、目の前で。

「ニーナ教授!!」

 座っていた椅子から立ち上がって僕は叫ぶ。

 こちらに視線を向けることなく、ニーナ教授はじっと落ちた蕾を見つめていた。

「これは、どういうこと、なんですか?」

「蕾が落ちたこと? 変化が出たってことは、実験が正常に継続されている証拠よ」

「そう……、なんですか?」

「えぇ。むしろ何も変化がなかったら、この実験は失敗なのよ」

「そうなんですね……」

 こちらを見ることなく、まだ落ちた蕾を見つめているニーナ教授が、正常に実験が継続していることを喜んでいる様子はない。

 目を細め、唇を引き結んで、何か思うところがあるように見えるのに、その口から何かが語られる様子はない。

「蕾が落ちるというのは、どういう状況なんでしょうか?」

 恐る恐るそう訊いてみる。

 ちらりと刺すような視線を一瞬だけ僕に向けてきたニーナ教授は、身体を元に戻して、入力作業を再開した。

「実験の内容については、全部終わったら話して上げるわ。だからそれまでは余計なことは考えないように」

「わかりました」

 タイピングの度に微かに揺れる金糸の髪越しに聞こえる声からは、何を考えているのかまではわからない。

 一号で取ったのと同じく、二号のデータが正常に記録されてるのを確認しながら、僕はそれ以上のことが何もできないでいた。

 

 

 

 

 CRTモニタに微かに映っている湯川の様子を見てみると、宇宙シャガの蕾に目を落としているのが確認できた。

 魔法町でも密かに名前の知られているタレイアに心を奪われているという感じは、していない。

 あの日タレイアに接触したために何らかの感情移入をしているのかも知れないとも思ったが、実験の詳細を知らせていないのだ、共感できそうな要素はそれほど多くない。

 表示された入力画面に注意を戻し、作業を再開する。

 ――何かあったのかしらね。

 良くも悪くも湯川は研究莫迦だ。

 実験対象に疑問を持つことはあっても、感情移入するということは少ない。ましてや心奪われて実験をおろそかにすると言うタイプでないというのは、最初に会ったときにも、これまで見てきた彼の行動から考えても、そうありそうなことではなかった。

 大きなため息を漏らして、湯川が作業を再開した。

 それをちらりと確認したニーナは、眉を顰めていた。

 ――実験が終わるまで、何事もなければ良いのだけど。

 

 

          * 4 *

 

 

 研究とは、人を幸せにするために行うものだ。

 僕はそう考えてる。

 ニーナ教授を手伝ってやっているような、精神物理学の基礎研究では、成果がすぐさま人を幸せにするなんてことはあり得ない。でも、原則としてこれから先の、誰かの幸せにやるべきだと思うし、実験や研究によって不幸になる人がいちゃいけないと思う。

 あくまでそれは理想論だから、誰ひとりとして不幸にならない研究なんてのはあり得ない。同じ大学の中でも、世界中の研究者の間でも、予算や研究対象による競合はあるんだから、理想の完璧な実現はたぶん無理だ。

 それでも少なくともできる範囲では不幸な人が出てほしくないと思う僕は、いま神保町にいる。

 日本有数の規模を誇る国立魔法科学大学のデジタルライブラリでも、大図書館にも、宇宙シャガに関する詳細な情報はなかった。

 でもこの神保町の、魔法世界になる前から存続している古本屋街では、人が文字を編み始めた頃の石版から、宇宙の果てから流れ着いた書籍まであると言われてる。

 薄暗い廊下から見えるのは、立ち並ぶ小さな古書店の入り口。

 一歩踏み込むと無限の敷地を持ってるような、書棚に整然と差し込まれた古書たち。

 神保町の中でも最下層に近い位置に建つ、旧神保町古書センターに踏み入れた僕は、途方に暮れていた。

 宇宙シャガの情報を探すために、植物関係の本が多いところか、念信波関係の本に目星をつけて探してるけど、前者は数が多すぎて発見が難しく、後者は数が少なすぎて見つけるのが困難だった。

 地球外の本となると言葉ももちろん地球外のもので書かれてるし、宇宙で公用語として使われてる言葉もたくさんあるから僕が読める本は決して多くなかった。

 一冊本を手に取ってぱらぱらとめくるが、ため息を吐いて戻す。

 タイトルは僕でも読める宇宙公用語だけど、中身は現地語と思われる言葉で書かれていて読めない。

 大学帰りにこうして神保町に寄るようになって二日目。僕はすでに徒労感を覚え始めていた。

 ――やっぱり、ニーナ教授か、ミレーユ助教授に聞くしかないかな。

 しゃがんで下の方にある、読める宇宙語で書かれた本のタイトルを一冊ずつ確認しながらそんなことを考える。

 どんなに聞き出そうとしても、ここまでのふたりの態度から想像するに、実験が終わるまで宇宙シャガのことを教えてくれることはないだろう。

 待つことができない僕は、やはり自分で探すしかない。

「徒労に終わりそうな気もするけど」

 小さくつぶやいてため息を吐く。

 ニーナ教授は早ければ一週間で実験が終わると言っていた。

 すでに蕾はふたつ落ちている。

 実験は一週間は超えられるかも知れないけど、一ヶ月になることはないだろうと思えていた。

「探しものですか? 湯川さん」

 ここでの捜索を終えてもう一軒回ったら帰ろうと思ったとき、声をかけられた。

 立ち上がろうとした動きが硬直する。

 背筋に冷たい予感が走り抜けていく。

 かけられたのは穏やかで優しい感じの声なのに、僕は死の予感を覚えていた。

「ゾフィア、さん……」

 声をかけてきた人物に目を向けると、喪服を思わせる黒い和服に身を包む、ゾフィア・フランケンシュタインがいた。

 人形のように整った顔立ちと、しっとりとした長い髪。

 柄はあるけどほとんど黒一色と言っていい和服のゾフィアさんなのに、ニッコリと笑む彼女が醸し出しているのは、菊の花の雰囲気。

 それも、仏前に飾る、造花の菊を思わせた。

「先日はご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

「い、いいえ。えっと、僕はこれで――」

「何か、探しものだったのでしょう? こんな下層の古書店までいらっしゃるとは、よほど見つかりにくいもののようですね。先日のお詫びに、わたしの知っていることでしたらお教えしますよ」

 後退って逃げようとした僕の袖口をちょこんとつまんだゾフィアさん。

 振り払おうとしたのに、袖をつかんだ彼女の手はぴくりとも動かない。

 恐怖に駆られた僕は、思わず口にしていた。

「宇宙シャガという植物を、ご存じですか?」

 瞳が光ったのかと思った。

 口元の優しい笑みは変わらないのに、ゾフィアさんは瞳を輝かせ始め、目尻を垂らす。

「えぇ、知っていますよ。知っていますとも。けれど湯川さんが知りたいことは、ここで話せるほど簡単な内容ではないでしょうから、近くの喫茶店に行きましょう」

 そう言ったゾフィアさんは有無を言わせず袖を引っ張って店の外に歩いていく。

「いや、でも、僕は……」

「大丈夫ですよ、湯川さん。ニーナからは貴方を含めて会いに来てはならないと言われてしまっていますが、ここで会ったのはただの偶然です。偶然会って、わたしは訊かれたことに答えるだけ。偶然ですから貴方に危害を加えるようなものも持っていませんし、ただお話をするだけです」

 弾んだ声でそんなことを言うゾフィアさん。

 可愛らしい女の子にお茶に誘われてるわけだから普通なら喜ぶところだけど、彼女の本性を知っていたら逃げ出したい気持ちの方が強い。

 けれど僕は、宇宙シャガのことと、タレイアさんのことが気がかりで、ゾフィアさんの手を振り払うことができないでいた。

 

 

            *

 

 

 近くの、と言っていた割に、美味しいお店があるからと言われて、僕は神保町中層の商店エリアまで連れてこられることとなった。

 区画を貫通する中層アーケードには様々な種類の店が集まり、人がごった返している。

 ゾフィアさんが選んだのは、人通りの多いアーケード沿いの落ち着いた喫茶店。

 暗い路地に入っていくなら逃げようと思っていたけどそんなことはなく、テーブル席で向かい合ってニコニコとした笑みを浮かべているゾフィアさんの真意はわからない。

「宇宙シャガとは、またずいぶん珍しいものを手に入れましたね、ニーナは」

「……えぇ」

「確か公式の記録では地球に持ち込まれたのは過去に一度、球根が二個だったはずです。非公式で一回、やはり二個。合計四個しかこれまで持ち込まれてはいないと思います」

「そんなに珍しいものなんですか」

「そうですね」

 運ばれてきた紅茶セットと、薄手のパンケーキ三枚重ねに嬉しそうに笑み、早速手を着け始めるゾフィアさん。

 上品に食べ進めながらも、彼女は話を続ける。

「本当に珍しい植物ですからね。探しても資料は得られなかったでしょう?」

「はい」

 一度は殺されかけたのだから、警戒を解くわけにはいかず、僕は警戒しつつコーヒーのカップを傾けた。

「運が良かったですね、湯川さん」

「え?」

「こちらをどうぞ」

 言ってゾフィアさんは、隣の椅子の上に置いた自分の巾着袋に手を入れ、何かを取り出した。

 古びた感じの本。

 かすれて見えにくくなっている表紙に印刷されたタイトルは、明らかに地球の文字ではない。開いて見せてくれたページには、僕が調べたときに見ることができた、宇宙シャガの特徴がある花のイラストが描かれていた。

 ただ、タイトルはもちろん、ページに書かれた内容も、僕の知ってる宇宙公用語とは違って、読むことはできなかった。

「今日は少々不要な本の処分に来ていましてね、この本はページがいくつかなくなってしまっているので買い取ってもらえなかったのですよ」

 めくって見せてくれた次のページにもびっしりと文章が書かれている。

 イラストにより特徴的な部分も描かれてるその本は、一般人向けの図鑑や、園芸関係者向けの専門書と言うより、植物学者向けのカタログのように思えた。

「えっと、これは?」

「わたしの蔵書の一冊ですが、もう使うことはないので差し上げます。少し珍しい言葉で書かれていますが、辞書があれば読めます。湯川さんは内容、読めましたか?」

「いえ……」

「でしたらお教えしますね」

 こうして見ているだけなら可愛らしい純日本風の女の子であるのに、胸の奥で警笛が鳴り響いてる。

 それでも僕は、ゾフィアさんの説明に聞き入ってしまっていた。

「宇宙シャガが念信波に感応する性質を持っていることはご存じですね?」

「え、えぇ、一応」

「それはとくに、約束に感応することが知られています」

「約束に、ですか」

「そうなのです」

 ニーナ教授も見せることがある、好きなことを好きなように語る楽しそうな、でもギラギラとした色を瞳に浮かべているゾフィアさん。

「宇宙シャガは、その性質をよく知る人たちからは『プロミージア』と呼ばれています。地球にはほとんど入ってきたことがないので、宇宙シャガという学名が定着していますが、通称は約束草と言います」

「約束に感応する、約束草?」

「はい。例えばこの人と必ず結婚をするという約束をプロミージアに籠めて植えると、結婚式で誓いの言葉を述べた際に花が咲くという、そうした性質があるのです。逆に約束が破られると蕾が落ちるそうです。そうした性質ですので、まだ数多くあった頃は縁起のいい花として使われていたという記録が残されています。でも、すっかり数が減ってしまいましたね」

 祝いに使われる花だとしたら、どんな方法を使ってでも増やしそうなものなのに、宇宙シャガは何故か絶滅が危惧されている。

 ポットに残った紅茶をカップに注ぎ、ミルクも入れてニコニコとしているゾフィアさんに訊いてみる。

「なぜ絶滅しそうになっているんですか? 栽培しにくい植物なんですか?」

「花を咲かせるだけなら、約束を籠めて適切な土壌に植えればいいだけなので、栽培は簡単なのですよ。ですがプロミージアは増やすことが難しい。球根では増えず、種で増えるのですが、一説によると命懸けの約束が成就したときにしか種ができないとか。元々は文明が滅び去り人類がいなくなったある惑星の実験施設で発見されたそうで、どういう意図で、どういう植生であるのかは発見当時からわからなかったそうです。人造の植物であることだけは、確かだったのですが」

 楽しそうに笑んでいるゾフィアさんから、僕は目を伏せる。

 いま落ちた蕾はふたつ。

 被験者に選ばれるような、命懸けの約束を交わしただろうタレイアさんと園部さん。

 しかしその約束はすでにふたつ、破られたってことだろう。

 破られた約束が具体的になんなのかはわからないけど、その原因はたぶん、園部さんと一緒にいたスズランのような女性に関係しているだろうことはわかった。

 ――でも……。

 ちらりと見たゾフィアさんは、笑みを浮かべたままカップを口元に寄せている。

 彼女が本当のことを語っているとは限らない。これまでもニーナ教授に、そして僕に仕掛けてきた人なんだ、その言葉を全面的に信じるわけにはいかない。

「ちなみに、わたしの言葉を信じられないのはわかりますが、いま語った内容はその本にすべて書かれているものです。ですから、翻訳してその本を読んで頂ければいまの言葉にウソがないことはわかると思いますよ」

 まるで僕の思考を読み取ったかのように、口元に笑みを浮かべたままゾフィアさんが言った。

 そこまで言われても信じることができない僕だけど、それはいま僕の手元にある本を読めばわかることだろう。

 こちらに寄せられた本を手に取り眺めながら、それでも僕は警戒を解くことができない。

「どうして、僕にそんなことを教えてくれるんですか? ゾフィアさんは僕のこと、邪魔に思っていますよね?」

「えぇ、その通りです。できるならいますぐに消し去ってしまいたいと思っていますよ」

 柔らかな笑顔を浮かべながら、とんでもなく物騒なことを言うゾフィアさんに背筋が凍りつく。

「けれど、ニーナに言われてしまいましたからね。こちらからニーナや貴方に近づかないように、そして危害を加えないように、と。今日は偶然出会って、問われたから答えたまでです。理由は……、そうですね。わたしもニーナと同じ研究者ですからね、知的好奇心に駆られている人を放っておくことはできません。それから、お詫びです」

「お詫び?」

「えぇ。ひと思いに貴方を消し去れなかったことへの」

 全身から汗が噴き出したような気がした。

 花のように明るい笑顔を浮かべているのに、ゾフィアさんの言葉はあまりに不穏すぎる。

 立ち上がった僕は、思わず身体を反らしてしまっていた。

「大丈夫ですよ、湯川さん。ニーナにあれだけキツく言われていますから、貴方に手を出すことはありません。もし次、偶然出会ったとしても、そちらから呼び止めるようなことでもない限り、追いかけていったりはしませんから。それがニーナとの約束、です」

 以前も思ったことだけど、やはりゾフィアさんは正常じゃない。

 いや、様々な人がいる魔法町なんだ、彼女のような人がいることも別に不思議でもおかしくもない。

 ただ、僕やニーナ教授とは違うチャンネルで思考しているゾフィア・フランケンシュタインという人間とは、わかり合うことも理解もできないと言うだけだ。

「そう、……ですか」

「はい。あぁ、ここのお代は持ちますから、構いませんよ」

「ありがとうございます」

 澄ました顔で言うゾフィアさんを見ていられず、一応礼だけ言って、僕は席を離れて出口へと向かう。

 しっかりと、ゾフィアさんが渡してくれた本を持って。

「それでは良い実験を」

 何か含みがあるような声が追いかけてきたけれど、振り返る気力も返事をする元気もなく、僕は古びた木製のドアを開けて外に出た。

 

 

            *

 

 

「はぁ……」

 大きな息を吐き出して、壁に背をつける。

 喫茶店のすぐ前を離れて、人混みの中に立ちすくむ僕は、どっと疲れを感じていた。

 ――やっぱりゾフィアさんには近づくべきじゃないな。

 充分わかっていたはずなのに、何故近づいてしまったのか。

 自分に問わなくても理由はわかってる。宇宙シャガ――プロミージアと、タレイアさんのことが気がかりだからだ。

「でも、恐い思いをした成果はあったな」

 右手に持った、古びてページも一部抜けてしまっている本を見、僕は肩から提げた鞄にそれを収めた。

 今日はもう帰って早く休もう、と考えていたときだった。

「!!」

 顔を上げた瞬間、僕のすぐ側をすれ違っていったのは、園部さんとスズランのような女性。

 病院に入っていったときの、少し緊張した様子もなく、ふたりは微笑みを向け合いながら人混みの中を歩いていく。

 園部さんが手に提げているのは、マーケットにでも寄っていたのだろう、食材が入っていると思しき袋。

 楽しそうにアーケードの中を歩くふたりの距離感は、友達同士のそれではない。それに買い物袋を見ながら話し合っているらしいその様子から、たぶんこれから食事をつくって家で食べるんだろうことも想像できた。

 ――ふたりは一緒に暮らしてる?

 タレイアさんと婚約しているのに、別の女性と暮らしている様子の園部さん。

 それが裏切りでなくて、約束破りでなくて、なんと言うのだろうか。

 ――追いかけよう。

 思って一歩踏み出す僕だけど、留まる。

 タレイアさんを通して顔くらいは知っているけど、園部さんは別に知り合いじゃない。追いかけても何にもできないし、声をかけても不審に思われるだけだ。

 僕には、何もできない。

 一瞬頭と身体を駆け巡っていった熱をため息とともに吐き出して、遠退いていく園部さんたちを見送り、振り返る。

「あっ!」

「きゃっ!!」

 人混みの中で立ち止まっていたのが悪かったんだろう。

 振り返った瞬間、人にぶつかってしまった。

「ごめんなさいっ。大丈夫ですか?」

「え、えぇ……」

 反射的に腰に手を回して相手が倒れないよう抱き寄せた僕は、フードを目深に被ったその女性の顔を見てしまった。

「タレイア、さん?」

「あ……。確か、湯川さん、でしたね」

 彼女の腰に腕を回したままの僕は、顔を上げたタレイアさんと間近で見つめ合う。

 ――あ!

 いま、ここにタレイアさんがいる理由を、それも正体がバレないよう顔を隠してる理由を、僕は一瞬で理解した。

「あの……、突然ですが、湯川さんにお願いがありますっ」

 潜めた声を、潤んだ瞳とともに向けてくるタレイアさん。

 彼女の頼み事は、詳しく聞かなくてもわかった。

「あのふたりを、追えばいいんですか?」

「え? えぇ……。ふたりのいま住んでいる家がわかれば……」

「わかりました」

 ちらりと視線だけ振り返って、まだ園部さんとスズランのような女性がアーケードにいるのを確認する。

 タレイアさんが懐から取り出した名刺を受け取り、泣きそうで、すがるような瞳に見つめられながら、僕はこっそりと園部さんたちの後を追いかけ始めた。

 

 

          * 5 *

 

 

 ぽとりと、蕾が落ちた。

 窓の外ではすっかり夕暮れの日差しも消え、実験室が固まっているこの区画には人の気配もほとんどない。

「やっぱり、ダメじゃない」

 そうつぶやいたのは、ニーナ・アインシュタイン。

 湯川が帰ってからもうずいぶん時間が経っていた。

 静まり返った実験室内で、手櫛で金色の髪をかき上げ、椅子に座ったニーナは厳しい目を密閉プランターに向ける。

 実験は、ある意味で順調だった。

 過去に地球で行われた宇宙シャガ――プロミージアの実験では、一度は蕾すらつけることなく終了し、そのまま球根が長期保管の間に行方不明。もう一度は蕾をつけはしたが、蕾が落ちることも花が咲くこともなく、育った茎が枯れて終了し、球根は地球外に売却された。

 蕾をつけ、それが落ちるという反応があるだけでも、実験は成功していると言えた。

 しかしながら蕾が落ちたということは、約束が破られたということ。

 タレイアの顔を思い出し、ニーナは顔を歪めていた。

 大きなため息を吐き出したとき、廊下の方から近づいてくる足音が聞こえて来た。

「ニーナ! 大変よっ」

「ミレーユ、湯川君にプロミージアのこと、話した?」

 ノックもせずに扉を開けて入ってきたミレーユの声を遮るように、ニーナは彼女に問いかけた。

「え? プロミージアのこと? 訊かれたけれど、話さなかったわよ。被験者のこと、聞いたしね。どうかした……、のね」

「まぁね」

 プランターの傍までやってきたミレーユは、落ちた蕾に目を向け、厳しく目を細めた。

「まだ一週間も経ってないわよね? これはいくつめ?」

「今日で六日目ね。これはさっき落ちた三号。早々に落ちる可能性は考えてたんだけど、思った以上に早いのよ。だから貴女が湯川君に話したのかな、って」

「まさかっ。ワタシが実験の邪魔をするとでも?」

 怒った顔でそんなことを言うミレーユの顔をじっとりと見つめると、目を逸らされた。

 なんだかんだで実験の邪魔をされた回数は、軽くふた桁になる。すべて、事前に察知して実害はなかったが。

「そっ、そんなことより! 大変よ、ニーナ」

「どうしたのよ。被験者のことならいまは聞く気はないけれど? 私まで実験に支障を来すようなことはできないからね」

「そんなことじゃなくて!」

 必死そうな、焦りを感じさせる色を浮かべた瞳で言うミレーユに、不穏な空気を感じ取り、ニーナは黙った。

「ゾフィアが、大学の近くをうろついてたって報告が入ったのよ」

「あれが? 今度こそあちらからは私にも、湯川君にも接触しないよう言い含めたから大丈夫なはずだけど……」

 ゾフィアは妙なところで素直で律儀な性格をしている。

 これ以上あちらから接触してきたら、存在しないものとして扱う、と言うと、絶望したように彼女は守ることを約束した。

 以前成果を見せるように言い、空間ポケットをひっさげてきたときもそうだったが、ゾフィアは多少解釈がおかしい場合はあっても、一度した約束を破ることはない。

 彼女のことは放っておいても実害はないように思えた。

 ――いえ、そうね。

 ゾフィアの解釈の範囲の広さを思い出し、ニーナは椅子から立ち上がる。

「あれのいる場所はわかる?」

「昨日も今日も同じ場所で見かけたそうだから、まだそこにいるならわかるけれど……。会いに行くつもり? それがあいつのやり口よ」

「わかってる。でもたぶん、いまはあれに会って、話を聞かないといけないタイミングだと思うから。ミレーユはここに連絡入れて。緊急事態だってことで」

 言ってニーナは、机の引き出しから折り畳んだメモを取り出し、ミレーユに渡す。

「気をつけなさいよ、ニーナ」

「わかってる。もしかしたら一刻を争う事態になってるかも知れないから、早めにお願いね」

 愛用のホウキを手に取ったニーナは、一緒に実験室を出たミレーユと視線を交わし合い、互いに逆方向へと走り出した。

 

 

            *

 

 

 すっかり日が落ちた街の中を飛び、僕は住宅街のある区画に降り立った。

 ミレーユ助教授が住んでいる世田谷の高級住宅街のように、一区画一軒なんていう贅沢な土地の使い方をした家はないが、僕の極小サイズのアパートとは違い、それなりに高い階層の人が住むような閑静な住宅街。

 地上から一〇〇〇メートル近い高さがある積層建造物の外側に設置された、キャットウォークというにはずいぶん広い通路に立ち、僕は辺りを見回す。

 魔法町の中でも閑静な住宅街で、もう夕食時にも遅い時間だからか、近くの部屋はどこも屋内に光が灯っているのは見えるが、歩いている人はまばらだ。

 昨日、プロミージアのことをゾフィアさんに聞き、たまたま園部さんを見かけ、タレイアさんに頼まれて後を尾けた。

 無事にいま彼が住んでいる家を確認した僕は、タレイアさんにその場所を教えた。

 そして翌日の今日、タレイアさんはそこを訪れて話を聞くという。

 僕には直接関係のないことだし、実験の被験者に触れるのも問題だと思ったけれど、第三者として話し合いの席にいてほしいと涙ながらにお願いされて、断れなかった。

 ――ニーナ教授に怒られるかな……。

 偶然とは言えこんな状況になってることに、教授に何を言われるかはわからない。実験にどんな影響があるのかも不明だ。

 でも、タレイアさんが園部さんに裏切られてるのだとしたら、放っておくことはできなかった。

「でもちょっと、早すぎたな……」

 昨日タレイアさんと約束した時間は、約一時間後だ。

 今日の大学での作業を終え、一度アパートに帰って食事も摂ってから来たけれど、どうしても気が急いてしまって早く来すぎてしまった。

 タレイアさんが来るまでこの辺をぶらぶらしていようか。

 話し合いになったらできるだけ聞くだけにしておこう。

 なんてことを考えながら、昨日突き止めた園部さんの部屋の前に立っていた。

「……君は、誰だ?」

 誰かがホウキに乗って凄い速度で近づいてくると思ったら、声をかけられた。

 建物にぶつかる勢いで着地し、ゆっくりと立ち上がって僕に怒ったような視線を向けてきたスーツを着た男性は、園部さん。

「え? いや、僕はその、ちょっと人と待ち合わせてて……」

 顔の前で手を振って何でもないとアピールしようとするけど、自分でもわかるほどの慌てっぷりはたぶん逆効果だ。

「もしかして、君はタレイアとここで待ち合わせでもしているのか?」

「タレイアさんと? あ、いえ! えぇっと……」

「彼女はいまどこにいる!!」

 僕がタレイアさんの知り合いと認識したんだろう園部さんは、襟をつかんで顔を近づけ凄んでくる。

 これ以上は誤魔化しきれず、僕は話した。

「た、タレイアさんとは、その、一時間くらい後の待ち合わせをしていて、まだここには……」

「一時間後? そうか……。いや……。君は、いったい何のためにここに来たんだ?」

「それは――、タレイアさんが話し合いをするから、第三者として立ち会ってほしいって言われてて」

「立ち会い?」

 何かを考えているらしい、僕を睨みつつも別のところに注意を向けている様子の園部さん。

 何かを思いついたらしい彼は、つかむ場所を襟から腕に変え、言った。

「君も一緒に来てくれ!」

 外に面した扉のノブに手をかけ回した園部さんは、僕の腕を引っ張ったまま部屋の中へと入っていった。

 

 

            *

 

 

 格子状の木枠にガラスをはめ込んだ古風な扉を開け、それほど多くないカウンター席と、いくつか並んだテーブル席の置かれた店内を見回し、ニーナは目的の人物を発見する。

「どうかしたの? ニーナの方からわたしに会いに来るなんて」

 近づいて行ったニーナに、そう言って花が咲いたかのように笑みを零れさせているのは、ゾフィア。

 ミレーユに場所を聞いてやってきた、神保町にほど近い喫茶店。

 目撃証言があった通り、喫茶店にはゾフィアがテーブル席に座り、優雅にお茶を飲んでいた。

「わたしからは接触してはいけないと言われていたけれど、ニーナから会いに来たのだったら問題ないのよね? せっかくだからお茶でもいかが? このお店はとっても紅茶が美味しいのよ。ディナーを、と言いたいところだけれど、まだアフタヌーンティセットも頼めると思うから、どうかしら? 美味しいスイーツとお茶を飲みながらゆっくりお話ししましょう」

 本当に楽しそうに、ニコニコと笑いながら言うゾフィアに、ニーナはため息すら出ない。

 こうして自分のいる場所に誘導することが、ゾフィアの目的であることは十分理解していた。そうした姑息な手を使う人物であることは、充分過ぎるほど理解していた。

 だからニーナは、テーブル席に着いているゾフィアの前には座らず、テーブルに片手を着いて彼女を睨みつける。

「どうして湯川君に、プロミージアのことを話したの?」

「せっかくこうして貴女から会いに来てくれたというのに、そんな話なの?」

 不快そうに眉を顰めているゾフィアの言葉に取り合うことなく、ニーナは彼女を無言のままじっと睨みつける。

 小さくため息を吐き、ゾフィアは話し始めた。

「ニーナがやっている実験の手伝いをしたかっただけよ」

「手伝い?」

「えぇ。プロミージアが種を実らせるのは、とてつもなく強い念信波を受信したときだけ。それほどの念信波をプロミージアが受け取るのは、究極的な願いの成就か、極限的な破局のとき。そうなるよう、湯川さんに話しただけです」

 テーブルの向かい、いまは誰も座っていない席を見つめ、ゾフィアは言う。

「ちょうどこの席で、昨日、彼に」

「昨日、ここで、湯川君に……」

 言われた言葉を反芻しながら、ニーナはゾフィアから顔を上げ、大きく取られたアーケードに面した窓の外を見る。

 そろそろ昼営業が中心の店がシャッターを閉め始め、夜に営業する店が目当ての人々に客層が入れ替わりつつある通りを見つめて考えていた。

「あ、でも勘違いしないでくださいね。湯川さんと会ったのは本当に偶然で、彼に会おうとしたわけではないのですよ。プロミージアのことを話したのもあくまであちらから問うてきただけで――」

 言い訳を並べているゾフィア無視して、ニーナは彼女の意図を読み取ろうとする。

 ――そうか、そういうことね。

 何故ゾフィアがここで湯川と話していたのか、理解できた。彼女が何をしかけようとし、結論がどうなるかについても、推測できた。

 テーブルに着いていた手を離したニーナは、そのまま喫茶店の出口へと向かう。

「待ってニーナ! どこへ行くの?!」

 慌てて椅子から立ち上がったゾフィアは、ニーナの行く手を阻んだ。

 店員やまばらにいる客が驚いて顔を向けてきているが、両腕を広げて立ち塞がっているゾフィアは気にしている様子もない。

 そんなゾフィアも無視して、ニーナは彼女の腕とテーブルの隙間に身体をねじ込み、無理矢理通り抜けようとした。

「どうしたの? ニーナ! せっかくまた会えたのに、もう行ってしまうの?! 少しくらい、少しくらいわたしと話を――」

 そう言って服にすがりついてくるゾフィアに一瞬だけ冷たい視線を向け、ニーナは手を振って障害物をどかそうとする。

「どうしたの? ニーナ。なぜ何も言ってくれないの?! わたしは……、わたしはこんなに貴女のことを愛しているのに!! 貴女のことを、誰よりも大切に想っているのに!」

 目に涙を溜めて言うゾフィアは、可愛らしく、美しい。

 しかしそれは毒を持つ花。

 誘い込み、死に至らしめる食人植物。

 目を細め、感情の籠もらない視線で震えているゾフィアを見下ろしたニーナは、ため息を漏らしながら言った。

「貴女は私にとって不要な存在なの。確かに貴女の研究やその成果は素晴らしいわ。けれどね、私にとって貴女は邪魔になる存在。私の行く道を遮る存在。だからいらないの。私は貴女を存在しないものとして扱うわ」

 冷たく言い放ったニーナに、ゾフィアは表情を凍りつかせた。

 それでも彼女はニーナの服を離さない。

「わたしは……、わたしは貴女を誰よりも愛していて、貴女を永遠に愛して――」

「いらないのよ、貴女の愛なんてね。不要なの、ゾフィア・フランケンシュタイン」

 感情を籠もらない言葉をへたり込んだゾフィアに降らせ、ニーナは喫茶店の外へと出た。

「急がないと……」

 顔を歪め、ミレーユに借りた高速型のジェット推進式ホウキを手に、ニーナはアーケードを走り抜けた。

 ――間に合って!

 そう心の中で祈りながら。

 

 

          * 6 *

 

 

 首を吊った女性。

 園部さんに引っ張られて部屋に入り、狭い廊下を抜け、宇宙を股にかけた貿易商人にふさわしい高級そうな家具が置かれたLDKにある扉を開け、踏み込んだ。

 寝室になっているそこには、天井に剥き出しになってるパイプにロープをかけ、首を吊っている女性がいた。

 灯りが点けられていない寝室であっても、その女性が誰なのかはわかる。

 スズランのような女性。

 園部さんの浮気相手かも知れない女性が、寝室で首を吊って死んでいた。

「雪菜……」

 つかんでいた僕の袖から手を離し、力を失ってしゃがみ込む園部さん。

 ――なんで、こんなことになっているんだ?

 ぜんぜんわからなかった。

 たぶんこの部屋で、園部さんとふたりで暮らしていただろう、雪菜と呼ばれた女性。

 昨日見た限りでは園部さんと一緒に幸せそうな笑みを浮かべていた彼女が、どうして首を吊っているのか、僕には理解できなかった。

「あら? 幸夫さん?」

 そんな声が聞こえてきたのは、奥の壁に沿って置かれたベッドの影、よく見ると天井から伸びたロープが伸びている先からだった。

 そこから立ち上がったのは、嬉しそうな笑みを浮かべた、タレイアさん。

「どうしたの? 幸夫さん。仕事で今日はあと一時間くらいは帰らないはずではなくって?」

 ニコニコと笑み、本当に嬉しそうな視線をタレイアさんは園部さんに目を向けている。

「そこにいるのは湯川さん? 貴方も何故ここにいるのかしら? 約束していた時間には早いじゃないですか。まだ準備を始めたばかりなのですから、いくらなんでも早すぎますよ」

 ベッドの影から出てきて、天井からつり下げられゆらゆらと揺れている雪菜さんの隣に立ったタレイアさんは、困ったように眉根にシワを寄せた。

 まったく状況が理解できない。

 園部さんと話し合うときの立会人として呼ばれたはずの僕が、雪菜さんの死体を発見し、その部屋の中には一時間後に会うはずのタレイアさんがいる。

 こんな状況をどう理解していいのか、思考が止まっている僕にはわからなかった。

 呆然とする僕は、儚く綺麗だった雪菜さんのことを見上げる。

「あ!」

 と声を上げた瞬間には身体が動いていた。

 手にしたままだったダブルサイクロンホウキにまたがり、勢いがつきすぎて天井に頭をぶつけながらも飛び上がる。

 雪菜さんの眉がわずかに動いたのが見えた。

 だから僕は、脚でホウキを支えて彼女の身体を抱え上げた。

 急いでロープを緩めて外してやると、咳き込みながら息を吹き返す雪菜さん。

「雪菜!」

「あら? やっぱりまだ早かったようですね。あと数分遅ければ、確実に仕留められていたのに」

「わ、わたしは……」

「説明は、その……、後で」

 涙を流していた園部さんは安堵の表情を浮かべ、微笑みを崩さないタレイアさんは口を尖らせていた。

 何が起こったのかわからないらしい雪菜さんは僕の視線の先に気づき、しがみついてきた。

 ――あれが、タレイアさん……。

 こちらに笑顔を向けてきているのに、瞳が少しも笑っていないタレイアさん。

 彼女はただ美しいバラなんかじゃない。

 トゲを持ち、茨を伴った、人を傷つける者だ。

 それも人を傷つけることを知っていながら、それが当たり前だと認識している、茨姫。

 そんなタレイアさんに近づけなくて、僕はホウキにまたがったまま、できるだけ彼女から離れて部屋の隅で滞空する。

「なぜ……、なぜこんなことをしたんだ、タレイア!」

 とりあえずの雪菜さんの安全が確保されたからか、ゆっくりと立ち上がりながら園部さんはタレイアさんに向かって叫んだ。

「なぜって……。そんなの決まってるじゃない、幸夫さん。貴方を愛しているからよ」

 愛情なのだろう。

 園部さんに向けた視線から幸せそうな感情をあふれ出しているタレイアさん。

 まるで一服の絵のように美しい。

 幸せな笑みを浮かべるタレイアさんは、ただそれだけなのに、芸術的とも言える美しさを放っていた。

 でも雪菜さんが震えながら僕にしがみつき、部屋の中央に首つりロープがぶら下がっているこの部屋でそんなことを言っても、感じるのは幸福感なんかじゃない。

 ただ、恐いだけだ。

「湯川さんのせいですよ。準備が整ってから来てくだされば、それが完全に息絶えてから発見して、自殺ってことにできたのに」

 不機嫌そうに口を尖らせるその表情も美しいと思えるのに、いまは美しければ美しいほど、恐怖が湧いてくる。

 いまのタレイアさんは、異常だった。

 ゾフィアさんに似た、人間性の壊れた、どこか違う世界で思考している人物だった。

「約束……、したじゃないか! 雪菜が……、妹の病気が治るまでの間だけだってっ。その間だけ待ってくれれば、実家とは縁を切るし、君とも結婚するって……。雪菜が来てる間は、俺を探さないし、俺を追いかけないし、俺の家を突き止めたり、雪菜に危害を加えないと、君は約束してくれたじゃないか!!」

 ――妹!

 園部さんの叫びに、僕は理解した。

 病院に行っていた理由も、一緒に暮らしていた理由も、そして近くで見てみれば似ていると感じられるふたりが、兄妹であることも。

 それと同時に間違っていたことに気づく。

 ――約束を破っていたのは園部さんじゃなく、タレイアさんだったんだ!

「どうして約束を破ったんだ……。たった一ヶ月なら大丈夫って、言ってくれたじゃないか……。俺はそれを信じたのに……」

 悲痛な声を上げる園部さん。

 片手で顔を覆い、震えている彼は、泣いているらしい。

 そんな彼を見つめて、やはり幸せそうに笑んでいるタレイアさんは言った。

「だって、仕方ないじゃない。貴方の傍にはわたし以外の女がいてはいけないのだから。たとえ妹でも、我慢なんてできないの。わたしはそれほどに、貴方のことを愛しているのよ」

 とても香しい猛毒。

 そう表現するしかない笑みを湛え、タレイアさんは園部さんに手を伸ばす。

「やめてくれ!」

「……え?」

 伸ばされた手を振り払った園部さんは、悲しそうに顔を歪めている。

「君の望みはできるだけ叶えてきた。君以外の女性も遠ざけてきた。君が俺の傍にいた女性を傷つけても、我慢してきた! でも……、でも家族を傷つけることだけはダメだっ。雪菜を……、妹を傷つける奴を、家族にすることはできない!!」

「でも、貴方はわたしのことを愛しているって……。それに、貴方は……」

「あぁ、愛していたさ! 打算があったことも認めるが、君は俺が会ったことのあるどんな女性よりも素晴らしい女性だったさ! でももうダメだっ。雪菜を傷つけた君とは結婚なんてできない。借りた金も返すから、俺の前から消えてくれ!!」

 婚約者だった女性のことを見ることなく叫ぶように言う園部さんに、タレイアさんは絶望の表情を浮かべる。

「結婚してくれるって、約束したじゃない!」

「約束したさ! 結婚するつもりだったよっ。けれど君は、自分が口にした約束を破ったじゃないか!!」

 悲しみではない、怒りを、怨みを宿した目をタレイアさんに向ける園部さん。

 それを見たタレイアさんは、驚愕に顔を染めた。

「わたし……、わたしは――」

「消えてくれ! 君とはもう結婚なんてできない!!」

 タレイアさんの言葉を最後まで言わせず、園部さんははっきりと宣言した。

 涙を目尻に溜め、零れさせたタレイアさん。

 でも、彼女は微笑んだ。

「わかった。けれど、最後の約束だけは、守るから」

 そう言って、彼女は驚いた表情を浮かべた園部さんの脇をすり抜け、部屋を出ていった。

「俺は……、俺は……」

 言葉にできない言葉を吐き出し、座り込んでしまった園部さんは、タレイアさんを追いかけることなく身体を震わせていた。

 

 

 ――戻って、来ないよな?

 タレイアさんが走り去り、戻ってくる様子がないのを確かめてから、僕はゆっくりとダブルサイクロンホウキを降下させた。

 僕の腕から逃げるように飛び出した雪菜さんは、園部さんに駆け寄って抱き合う。

「あの……、追わなくていいんですか?」

 余計なお世話かも知れないと思いながらも、言ってみる。

 妹は、家族は大切だろう。

 でも新しい家族になるはずだったタレイアさんのことも、大切だからこそ結婚しようとしていたはずで、でも――。

 まだぶら下がったままのロープをちらりと見て、僕はそれ以上なにも言えなかった。

「彼女とは、もう終わったんだ……」

 胸に顔を埋めて身体を震わせている雪菜さんの髪を優しく撫でながら、天井を仰いでいる園部さんは涙を流してそう言う。

 ふたりで交わしたはずの約束を破ったのは、タレイアさん。

 家族を傷つける人とはさすがに結婚できないだろう。

 あんなに幸せそうで、園部さんを信頼しきった目をしていたタレイアさんが、どうしてこんなことをしたのかは、僕には理解できなかったけども。

「というか、そもそも君は誰なんだ? タレイアの友人かなにかか?」

「え? あ、いや、僕は……」

 どう説明していいのかわからなくて、涙を止めて鋭い視線を向けてくる園部さんから距離を取る。

 正直、タレイアさんの知り合いかというほど関係はないし、実験のことを話していいのかもよくわからない。改めて考えると、どうしていま僕がこんなところにいるのかすらよくわからないくらいだ。

 雪菜さんと抱き合ったまま立ち上がり、警戒した視線を向けてくる園部さんは、僕から距離を取り部屋の隅に逃げていく。

 警察でも呼ばれたら面倒だ、なんて考える僕が、園部さん側にある部屋の扉をどうやって通過しようかと考えてるとき、女神が現れた。

「その子は私の助手よ。うちの学生の湯川君」

「ニーナ・アインシュタイン教授?」

 園部さんの後ろから、金糸の髪をかき上げながら現れた女神、ニーナ教授。

 悲愴な顔をしている園部さんに笑みを向けた後、彼女は怒りを露わにした視線を僕に突き刺してきた。

「……ということは、例の実験の関係者ですか」

「えぇ。今回の実験も助手として使っていたんだけど、運悪くタレイアと接触してしまったのよね。何もないよう計らう予定が、止めきれなかったわ。ごめんなさい」

 どうやら園部さんとは知り合いらしいニーナ教授。

 いまここでは言わないようだけど、明らかに「後で言いたいことがあるからね!」と目で語りかけてきていた。

「いいえ。結局、これは俺と彼女の問題ですから。おそらく、彼が何もしなかったとしても結末は変わらなかったでしょう。むしろ彼が介入して、ニーナ教授がそれに気づいて俺に連絡してきてくれたんだとしたら、それで最悪の事態を避けられたんでしょう」

「そう言って頂けると助かるわ。彼女のことも含めて、あとはこちらで対応するわね」

「お願いします」

 雪菜さんを抱き締めた園部さんとニーナ教授の会話に入る隙間もなく、僕はできるだけ小さくなっていた。

「とにかく、いまは無事だったとは言え、念のため妹さんを病院に――」

 そう言ってニーナ教授がふたりを外に誘導しようとしたとき、バタバタという足音が近づいてきた。

「ニーナ! 大変よっ」

 慌てた様子で部屋に走り込んできたのは、ミレーユ助教授。

 ただでさえクセが強くてよく乱れていたりする髪をさらに振り乱した彼女は、園部さんと雪菜さんの方をちらりと見、ニーナ教授の耳に口を寄せた。

「構いません。おそらく彼女のこと、ですよね?」

 毅然とした表情で言う園部さんに、ミレーユ助教授はニーナ教授に目配せする。

 頷きを返されて、ミレーユ助教授は小さなため息の後、話し始めた。

「タレイアが死んだわ。彼女の店のところから、転落死。そのときの様子を見た人の話だと、事故じゃなく、たぶん自殺だろうって……」

「タレイアさんが?!」

 驚いて声を上げてしまった僕だったけど、ニーナ教授はため息を吐いただけだった。

「そうか」

 園部さんに至っては、さっきまで婚約者だった女性の死を聞いても、そのひと言つぶやくように言うだけだった。

「では俺は雪菜を病院に連れて行きます」

「わかったわ。後日報告に覗うわ」

「はい」

 そんなやりとりをして、僕たちは園部さんの部屋を出た。

 病院に向かってホウキに乗り飛び立っていった兄妹を見送った後、怒っているけれど、どこか冷たいものが籠められた視線に向き合った。

「ミレーユもありがとう。落ち着いたら貴女にも知らせるから」

「えぇ。そうお願いするわ」

「彼女が運び込まれた場所はわかる?」

「ここよ」

「ありがと。私たちは行くわよ」

 言ってニーナ教授は、ミレーユ助教授から受け取ったメモをポケットに収め、ホウキに腰を乗せた。

「どこへです?」

「タレイアのところよ」

「でも、タレイアさんは……」

「わかってる。けれどこれも実験の一環よ。一緒に来なさい、貴方も関係者なんだから」

「……はい」

 ニーナ教授の鋭い視線に頷きを返し、僕はダブルサイクロンホウキにまたがった。

 

 

            *

 

 

 ホウキに乗ってやってきたのは、園部さんの家からそう遠くない、僕もこの前まで通っていた大学付属病院。

 それも患者向けの正面入り口ではなく、地上から頂上まですべて病院になってる建物の、かなり下層の方。

 たぶん関係者とかしか入れないだろう、それほど大きくない入り口に降り立ち、ホウキを駐箒ラックに立てかけて窓口に向かう。身分証なんかを出して入り口を通っていったニーナ教授の後を追い、僕も廊下に踏み込んでいった。

 人が三人並んで歩いても余裕があるほど広い廊下には、煌々と照明が点けられ、しかし明るいのに薄暗く感じる重苦しい雰囲気がある。

 いくつか並んでいる扉からも、人が行き交っていない廊下からも気配はなく、病院らしい消毒液のものとはまた少し違う、独特の匂いが感じられた。

 奥へ奥へと進み、一度廊下を折れてもう少し進んだ先にあったのは、小さな広場のような場所。

 奥の壁には小部屋らしき両開きの扉が並び、そのすべてが閉じられている。

 キッチリとしたスーツを着た男性が脇に立っている扉に近づいて、ニーナ教授はその男性に話しかける。

 少し離れた場所に立つ僕は、ここがなんであるかを理解していた。

 消毒液と、据えた匂いよりも特徴的な、雰囲気にはそぐわない清々しさを感じる香り。

 それがここの場所が何であるかを表していた。

 話をし、書類を示して何かを交渉していたらしいニーナ教授は、話がまとまったのか僕に目配せを飛ばしてきた。

 たぶん刑事さんだろう男性に鍵を開けてもらい、踏み込んだ部屋。

 薄暗く灯りが点けられた部屋にはほとんど何もなく、真ん中に簡素な寝台があるだけ。

 線香と、血の臭い。

 誰かが寝ている様子の寝台には白い布がかけられ、誰がいるのかはわからない、

 ――タレイアさんだ。

 ついさっき、ほんの少し前に話をしていた女性が、いま霊安室で横たわっていることに、僕はどこか心が身体から離れてしまいそうな感覚を覚えていた。

「さっさと終わらせるわよ。こっちに来なさい」

 たぶんまだちゃんと処置されていないんだろう、線香と血の臭いの他に、生肉が発するなんとも言えない据えた臭いに吐きそうになった僕を、ニーナ教授はそう促す。

 寝台の奥へと回った教授は、かけられた布を少しだけ開いた。

 美しい、タレイアさんの左腕。

「持って、しっかり支えて」

 言われて僕は彼女の手を取った。

 ――冷たい。

 死んでいるのだから当然だけど、彼女の手は冷たかった。ただ冷たいだけでなく、そこまで温度が低いはずはないのに、氷に触れて体温を奪われているような錯覚があった。

 ニーナ教授は震えそうになりながらタレイアさんの手を両手でつかんでいる僕に近づき、彼女の手首に填まったブレスレットを慎重に外した。

 それは一番最初、実験を始めるときにニーナ教授がタレイアさんに渡していた、たぶん実験用のブレスレットだ。

「もういいわ。戻してあげて」

「はい」

 指示通りに腕をベッドに戻して、布もかけてタレイアさんの身体を隠す。

 吐きそうになってる僕のことも、死んでしまったタレイアさんのことも気にする様子もなく、霊安室の外へと向かうニーナ教授。

 取り外したブレスレットと書類を刑事さんに示して外へと促された僕とニーナ教授は、霊安室の前を離れて出口に向かった。

「こんな風に巻き込まれるだろうと思ったから、詳しいことは話さなかったのに」

 そうつぶやくように言って、どこか泣きそうな、やるせなさを含んだ瞳を向けてくるニーナ教授。

「はい……」

 どんな言葉を返していいのかわからず、僕はそう返事をするだけで精一杯だった。

 

 

          * 7 *

 

 

「被験者や関係者に危険が及ぶ場合には、実験を中止してでも危険を取り除くのは当然のことよ? でもそうしたことがあるなら、まず最初に報告すること。ひとりで突っ走ったりしないこと。そんなこといまさら言われなくてもわかっていることでしょう?」

「はい……」

 もうすっかり日が暮れ、泊まりがけの実験をやってるとこにしか灯りがなく、静まり返った国立魔法科学大学の実験棟。

 その廊下を歩き、ニーナ教授の実験室に向かう間、僕はこってりと教授に絞られていた。

 ミスや勘違いなどで怒られるのは当然のこと。

 でも今回、タレイアさんに自分の勝手な判断で接触し、ニーナ教授に報告しなかったことは、全面的に僕の落ち度だ。

 そのことをこうしてしっかり言い聞かされていた。

 ――いや、たぶんそれは三分の一だ。

 三分の一は、たいして話しても仲が良かったわけでもないけれど、知り合いとなったタレイアさんがついさっき死んで、そのことに衝撃を受けている僕への配慮。

 こうやって怒られている間は、ただ落ち込んでばかりじゃいられない。

 残りはおそらく、ニーナ教授自身。

 それなりにつき合いがあったろうタレイアさんを失い衝撃を受けているのは、僕だけじゃない。

 国立魔法科学大学の教授で、学長でもある凄まじい天才と言えるニーナ・アインシュタインと言えど、彼女はまだ一六歳の女の子。

 僕もそうだけど、彼女もまた人の死に馴染んでいるわけじゃないことは、いつもより早口で、途切れることなく喋り続けていることからもわかる。

「まぁでも、結果から考えれば、褒められた行動とは決して言えないけれど、貴方が介入したからこそ雪菜さんは助かったんでしょうしね」

「園部さんにもそう言ってもらえましたね」

「えぇ。だからと言って、良いことではないわ。後日報告と、大学としても謝罪に覗うから、そのときはちゃんと着いてくるのよ」

「わかりました」

「けれどねぇ……、今回の件はあれに誘導されたんだろうし、不可避な状況でもあったのよね」

「あれ……。ゾフィアさんですか? やっぱり僕は、あの人に利用されたんですね」

「えぇ。もちろんね。そのことも含めて後で始末書書いてもらうからね」

「はい……」

 いつもの実験室にたどり着き、灯りがついたままの部屋の中に入る。

「あ……」

 実験室に入った途端、見えた。

 蕾が落ちた、三号と四号のプロミージア。

 そして、花を咲かせている、五号。

「どうして花が……」

「ふぅん」

 驚いてる僕に対して、ニーナ教授は落ち着いた様子で、なめらかな絹の布地を小さく集めたような花を見つめていた。

「……プロミージアって、どういう植物なんですか?」

「それはあれにも聞いたんでしょ」

「えぇ。ゾフィアさんにも聞きましたし、本にも書いてありましたが、よくわからないんです」

 タレイアさんは約束を破り、園部さんとの婚約を解消された。

 約束を破ることで蕾が落ち、約束が成就することで花が咲くのだとしたら、五号に籠められた約束とは何だったんだろうか。

 タレイアさんと園部さんの間で、いまさら果たされる約束なんてあったんだろうか。

「貴方も知ってる通り、プロミージアの花が咲く条件は約束の成就。過去の事例では、約束は破られたけれど、被験者から強い精神波の放射が確認されたときには花が咲いたことがあるらしいわ。でも、基本はやはり約束の成就が条件なのよ」

「でも、タレイアさんと園部さんの間で成就する約束なんて、いまさらないですよね?」

「なるほど。そういう刷り込みをされたのね」

 隣に立って、碧い瞳で僕の顔を覗き込むように見上げてくるニーナ教授は言った。

「プロミージアに籠められる約束は、人間同士で交わされる約束ではないの」

「え?」

「約束は、ひとりでするの。自分自身にする、制約としての約束。それがプロミージアに籠められる約束なの。タレイアはたぶん、最後に何かの約束を、命をかけた約束を成就させたんだと思うわ」

 これまでのことが腑に落ちた気がした。

 ニーナ教授から視線を外し、美しく咲くプロミージアの花を見つめる。

 タレイアさんが被験者で、園部さんが実験開始の際に実験室に来ていなかったことも、蕾が落ちたのはタレイアさんが約束を破ったと自分で認識したタイミングであろうことも、なんとなくわかった。

 でも不思議なことが残る。

 ――このプロミージアに籠められた約束は、何だったんだろうか。

「約束の内容はデータを確認して、咲いた花が次どうなるかを観察し終えてからになるから。今日はお疲れさま。明日もやることたくさんあるから、今日は帰りなさい」

「はい……」

 まだ実験室に残るらしいニーナ教授に言われ、僕は仕方なくその場を後にした。

 

 

            *

 

 

 僕とニーナ教授を挟む実験用机の間に広げられたのは、開封された封筒とその中に納められていた便せん。

 五通あるそれは、一号から五号までのプロミージアに対応した、タレイアさんが籠めた約束が書かれている。

「これは……、どういうことなんでしょう」

「うぅーん。わからないのよね、私にも」

 うなり声を上げているニーナ教授のティカップに紅茶を注ぎ足した僕もまた、うなり声を上げてしまっていた。

 一号、園部さんやその家族を探さない。

 二号、園部さんやその家族を追いかけない。

 三号、園部さんやその家族の家に無断で踏み込まない。

 四号、園部さんやその家族を傷つけない。

 ここまでは約束の内容はわかる。

 正直わざわざ約束をするような事柄でもないだろうと思わなくはないが、タレイアさんにとって、これらはプロミージアに蕾をつけさせるほどに強く、重い約束だったんだ。

 問題は最後の約束だった。

 五号、死んでも園部幸夫のことを愛し続ける。

 ラブロマンスもののストーリーで使われるなら疑問にも思わない約束だけど、プロミージアに籠められ、花を咲かせることになった約束だと考えると、疑問を覚える。

 ふと思って、僕はニーナ教授に訊いてみる。

「タレイアさんって、どんな人だったんですか」

「……そうね、湯川君は結局ほとんど面識なかったのよね、彼女と。いろいろと凄い人なのよね」

 タレイアさんが亡くなってから、もう一週間。

 その間に園部さんに謝罪に行ったり、実験妨害の廉で大学老院をやめさせられそうになったのを、ゾフィアさんのことを出してニーナ教授が説得してくれたりと、いろいろとあった。

 不安や悔恨だけでなく、様々な気持ちと行動によってアッという間に時間が経ってしまった一週間の間に、僕は結局タレイアさんのことを知ることができなかった。

 湯気の立つ紅茶のカップを口元に寄せながら、ニーナ教授は語ってくれる。

「元々彼女の一家は、園部さんと同じ宇宙貿易商で、相当大きな資産を成してたんだけど、事故でタレイアを残して一族郎党亡くなっちゃったのよね。一種の成金というのかしら? 金に執着した一族で、稼ぐ人のことはもてはやすけど、子供だったタレイアのことは家政婦任せだったという話ね。で、事故で生き残ったタレイアは、一夜にして新興開拓惑星ひとつかふたつくらいなら買えるくらいのお金を手に入れたわけ」

「凄いんですね、タレイアさん。……それに、美人でしたし」

「それだけじゃなく、本人が凄い努力家だからね。家事全般も得意だし、料理は宇宙人料理までマスターしてたらしいわ。もちろんできないこともあるだろうけど、超能力染みた植物の見抜きもあるし、その気になれば相続した資産をもう一回ひとりで稼ぎ出すことも不可能じゃなかったんじゃないかしら?」

「……えぇっと、なんかもう、とんでもない人だったんですね。それなのに、小さな花屋をやってるだけだったなんて」

 想像もつかないような資産を持っていて、女性らしい技術も優れていて、さらに美人であったタレイアさん。

 見た目なら二十代半ばくらいだろう彼女が、まだ結婚してなかったことの方が不思議なくらいだった。

「花屋をやってたのも子供の頃からやってみたい仕事だった、って話してたからね。あれだけ何でも持ってたらそりゃ引く手数多だったのよね。――でも、湯川君も見た通り、彼女はヘタすればあいつに匹敵するほどの壊れた、いわゆる地雷物件なのよ」

「……そうですね」

 確かにあの日のタレイアさんは、ゾフィアさんに匹敵するほどの恐ろしさを感じた。

 多くのものを持っていたとしても、ついでにあんな性格まで持ち合わせていたら、付き合いたいという人もあまりいないだろう。

「育ちが悪かったんでしょうね。異常に愛情に飢えてて、凄まじい独占欲だったの。それも、攻撃的なくらいに。実際、半分くらいは噂だけど、園部さんの前に付き合った恋人は、自殺した人が三人、行方不明が五人、逃走した人は十人は下らないって話よ」

「そんな人なのに、園部さんはタレイアさんと婚約したんですか」

「えぇ。一年くらい前だったかしら? 園部さんの会社が事業に失敗して危機に陥ったとき、貿易の仕事で知り合ったタレイアがかなりの金額を貸したそうよ。女性として最高、資産もあるしお金を借りてしまっている。でもやっぱり、結果はあの通りだったわね」

 大きくため息を吐き、ニーナ教授は目を伏せる。

 園部さんとはあんまり話してはいないけど、たぶん彼はタレイアさんのことを愛していたんだと思う。愛情があった上で、でも妹さんを殺そうとしたタレイアさんに我慢ができなくなったんだろう。

 約束さえ守られていれば、不幸は起こらなかった。

 けれど、約束を守れるタレイアさんだったら、たぶんもっと早くに結婚して、納まるところに納まっていたんだろうとも思えた。

「まぁタレイアのことも問題なんだけど、とりあえず私たちにとっての問題なのは、こっちなのよね」

 そう言ってニーナ教授が目を向けたのは、密閉プランター。

 五号のプロミージアは、笑顔だったタレイアさんを思わせる美しさだった花も萎れ、いまはそこに小さな種ができつつあった。

 地球ではたぶん初めて、宇宙でも記録に残っている回数は少ない、プロミージアの種だ。

「何が問題なんです?」

「五号の約束、『死んでも園部幸夫のことを愛し続ける』ってのは、どの瞬間をもって成就したと認識されると思う?」

「ん? 成就のタイミング、ですか?」

「えぇ、そうよ」

 言われて僕は顎に手を当てて考えてしまう。

 死んでも、ということは、死なないと成就しない約束だ。でもプロミージアは、成就したもしくは破ったと約束を籠めた人が認識した時点で発せられる念信波を受け取って、花を咲かせたり蕾を落としたりする。

 だとしたら、死ぬ前でも死ぬことが確定した時点でタレイアさんが約束の成就を認識すれば、プロミージアはそのときの念信波を受け取ることができることになる。

「やっぱり、死ぬ直前だったんじゃないですか?」

「そう思うわよね。これを見てくれる?」

 そう言ってニーナ教授が見せてくれたのは、五号に接続されたレベルレコーダの波形。

 デジタル記録されたデータと照合して、波形が大きく動き出した時間と止まった時間が追記してある。

 もう一枚見せてくれたのは、弱い波形が記録された、たぶんデジタルデータを印刷した紙。

 そっちのデータの方は、途中から波形がまったく動かない、真っ直ぐな線が引かれている。

「ん?」

 二枚目の波形データを見た僕は、その前の四号や三号のデータと、ニーナ教授が差し出してくれた紙を照合する。

 三号、四号の蕾が落ちたタイミングで、レベルレコーダにはプロミージアの生体活性が大きくなったことが記録されている。

 ニーナ教授が渡してくれたデータの方も、完全に一致する時間、ほぼ同じ波形が記録され、それぞれが三号と四号に対応してることがわかる。

 しかし、五号は対応しない。

「あの、こっちの紙は、なんのデータなんです?」

 なんとなくイヤな予感を覚えつつ、僕は顔を上げてニーナ教授に訊いてみる。

 表情を引き締め、眉根にシワを寄せつつ、ニーナ教授は答えてくれる。

「タレイアに持たせていたブレスレットで記録した、精神波のデータよ。強い念信波が放射されるとき、必ず精神波も大きな乱れが観測される。プランターは精神波を完全にシャットアウトする構造だから、間接的ではあるけど、空間を飛び越える性質があることがわかってる念信波の放射と受信が観測できたと言えるわね」

「なるほど……。でも、五号はおかしいですよね? プロミージアの方は生体活性が記録されてるのに、ブレスレットでは観測されてない」

 もう一度見直した、五号に対応したタレイアさんの精神波のデータ。

 たぶん飛び降りたタイミングだと思うのに、驚くほど乱れがなく、むしろ落ち着いている様子すら感じられる穏やかな精神波の波形。

 そしてプロミージアが念信波を受信したと思われる時間には、精神波が観測されなくなって、一本の真っ直ぐな線になっている。

「これって……」

「えぇ、たぶんね」

 あることに気がついた僕がつぶやくと、ニーナ教授は大きく頷いて見せた。

 ブレスレットの波形が線になった瞬間に、タレイアさんの脳の活動は停止した。

 つまり、その瞬間に彼女は死んだ。

 精神波も、念信波も人間の脳から放射されることはわかっている。

 でも、プロミージアが念信波を受信したと思われる時間には、タレイアさんは死んでいた。

「じゃあいつ、どうやって、プロミージアは念信波を受け取って……。いや、違う。タレイアさんはいつ、願いが叶ったと認識したんだ?」

 死んだはずの人間から念信波を受け取ったプロミージア。

 じゃあその念信波はいつ、誰が、どうやって放射したものなんだろうか?

 僕にはそれがわからず、口元に笑みを浮かべ始めたニーナ教授の顔を、ただ見ていることしかできなかった。

「さぁね。精神物理学最大の命題は、まだまだわからないことが多いわ。今回のデータを元に、これからも研究を重ねていくしかないわね」

「そうですね」

 小さく息を吐いて微笑んだニーナ教授に、僕も笑みを返していた。

「もしかしたら、幽霊の存在や、死後の世界を科学的に解明できるかも知れないわね」

「それって、何かメリットあります?」

「そりゃあもう! 理屈さえわかれば夜の暗がりを恐れる必要はなくなるでしょう?」

「……そうでしょうか?」

 最先端と言える精神物理学の研究をしているニーナ教授だけど、意外に幽霊とか怪談話とかは苦手だ。

 金糸のような美しい髪をかき上げつつ、残りの紅茶を飲み干した、師であるニーナ教授を、僕は不思議な気持ちを抱きながら見つめていた。

 空になったティポットを取り、新しい紅茶の準備を始めながら、僕は問うてみる。

「もし幽霊とか死後の世界の存在が証明されて、その証明のために幽霊と会わないといけなくなったら、どうします?」

「……それはあまり、考えたくないわね。もし会う必要があるなら、できればご先祖様辺りで頼みたいわ」

 実験用机に肘を着き、げっそりした顔でため息を吐くニーナ教授。

 そんな姿でも彼女は美しく、可愛らしい。

 ――僕は、ニーナ教授の助手になれて良かったな。

 ここ最近の女運の無さを思い出しながらも、一番身近にいる女性がこの人であることを嬉しく思う僕は、心を込めて新しい紅茶の準備を進めた。

 

 

                  「清廉欠白」 了

 


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