八雲『藍』の儚愛譚 作:カルタネット
次回から暗くなります。
「藍さまー」
「おお、橙。元気にしていたか?」
「はい!」
ある森の中にある一軒家の前に、九尾であり、八雲紫の式でもある八雲藍が来ていた。
何故彼女が誰も気付かないような森に佇む家に来たのかというと、それは今、彼女の名を呼んだ化け猫の妖怪ーー橙の様子を見に来るためである。
「どれ、式が緩んでないか確認させてくれ」
「はい! じゃあそこに座ってください!」
「ん、ここか?」
と、橙に指示された場所ーー縁側に腰を下ろす藍。
すると、座った藍の太股の上に橙は座った。
「えへへ~」
「ー~!!」
その愛くるしい行動に身悶えする藍。なんとか込み上げる抱きしめたい感情を抑え込み、平然を装って咳を一度して誤魔化す。
「ごほん、それじゃあ見せてもらうぞ」
そう言って式の確認作業に入る。
暫しの間、無言の時間が訪れ、橙は楽しそうに足と尻尾をゆらゆらと揺らし、変な形をした雲を探してはそれを自分の記憶にある物に例えていた。
そんな最中、一匹の黒猫が姿を現した。
「あ、この猫」
「どうかしたか?」
「いや、最近妙についてくるんです。この子。私の式になりたいのかな?」
橙と藍の側までやってきた黒猫は口にくわえていた小魚を二人の目の前に置き、縁側まで上がってくる。
「にゃ~ん」
「この黒猫……」
「こうやっていつも何かしら持ってくるんです。どう思います、藍さま?」
橙の質問に藍はやや困ったように考え込む。
ーーこの光景、何処かで見覚えがある。
その疑問を抱えつつ、藍は無難な返答をしようとした___
「橙の言う通り式に…………!!」
__が、彼女の返答は記憶の再起により中断された。この黒猫の姿が、昔ある男と重なっている。
「……橙、決め付けは良くないぞ」
「え?」
「もしかしたら、この黒猫は橙の式になりたいというわけではないのかもしれないということだ」
そう言って黒猫の顎を撫でる藍。余程気持ちいいのか、黒猫は目を細める。
「それってどういう……」
「例えば___この猫が橙に恋心を抱いてる。とか」
「はえ?」
「他にも友達になりたいとかもだ。他の可能性を考えて今後この子と接するようにしなさい。
__他人の事を考えるのも立派な妖怪になる大事なことなのだからな」
「は、はい!」
藍の言葉に大きく頷いた橙は勢いよく彼女の膝から飛び退いた。
「よし、じゃあ遊ぼう我が未来の部下兼友達よ!」
「にゃ~」
まだ式の確認中であったが、橙の様子から見て大丈夫だろう。そう判断した藍は走って猫と共に去っていく橙の姿を、優しい眼で見送った。
「恋心か……」
久方ぶりに接するそのワード。彼女自身の色恋沙汰はもう何百年も前のことだろうか。
「……そういえばまだその名残が私自身に刻まれていたな」
そう、恋の行方の証は今も彼女に刻まれている。忘れようにも忘れられない__いや、忘れないようにと戒めの証。
八雲藍の忘れることもない約千年前の記憶。
その記憶が再起し、彼女の涙腺に響いてくる。
「藍さま藍さまー!」
「!? ……なんだ?」
我が式の声が聞こえてきて、急いで涙目になっていた目を拭い応答する藍。
ーーこの事に思いを馳せるのはまた今度の事でいいだろう。幸い、時間は幾らでもある。
「この子、女の子だったから恋人になれないです!」
「……そ、そうか」
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曇天が空を覆っていたある日。玉藻前は上皇の屋敷内にある亭で、空より落ちゆく霖を眺めていた。
「綺麗ね」
「……」
今の言葉はおそらく亭の隅にいた侍女と上皇の側近に向けられたものではない、独り言なのだろう。
それを弁えている二人は言葉を返さず、無言を貫く。
「……」
次に彼女は右腕の袖をあげ、亭の屋根から腕を突きだし、降りゆく雨水を手で受け止める。
あまり大降りで無いためか、掌に積もる水量はあまり多くない。
ゆっくりと、ぽつぽつ____
やがて掌に小さな湖が出来上がると、彼女は腕を亭の中へと戻し、その小さな湖を見やる。
「……ふぅ」
水面に浮かぶ己の顔を見るなり、安堵する玉藻前。
「そういえば___」
なにかを思い出したようにお付きの二人に顔を向ける玉藻前。
不意に向けられた視線に、気を抜いていた側近は驚き、「うおっ」と、小さく声を上げた。
「何故貴方様はおられるのでしょうか? 侍女は兎も角、上皇様の側近で在られる貴方様がここにいる意味が私には分かりませぬ」
その凛々しい双眸は、他に何かの企みがある訳でもなく、本当にただの疑問の眼差しであった。
その眼差しに逡巡しながらも側近は、なんとか言葉を見つけ、返答する。
「と、鳥羽様から伝言を承っております」
「上皇様から?」
「はい。次の皐月に、陰陽師である安倍泰成による演舞が催されるそうです」
「……泰成様の?」
彼の言葉を聞くと共に玉藻前の表情が明らかに変わった。
「そう、泰成様が演舞を……」
その表情は喜びと悲しみが混ざりあったような微妙な感じあった。その表情をしている玉藻前を見て、側近と侍女は顔を見合わせ、疑問符を浮かべる。
玉藻前は安倍泰成に惚の字だ。それは身近にいるものならば周知の事実である。
だというのに何故微妙な顔をするのだろうか。
側近自身、伝える時に握り手を強くしすぎて血が滲ませていたというのに。
「あ……貴方、手を怪我しているではないですか」
しかしそれは直ぐ様玉藻前に見つかってしまう。それで漸く己が自傷行為をしていたことに気付いた側近は慌てて怪我をした腕を背中に隠し___
「あ、ああこれは先程剣の稽古の時に切れていたみたいで……」
と、咄嗟に側近は嘘を吐き、手の怪我を誤魔化した。
__それが嫉妬による自傷行為だということを悟られないように。
「此方へおいでください」
「は、はあ」
玉藻前の言葉につられるまま、側近は彼女の元へと近付いていく。
その歩いていく最中、彼は内心、色々な思考が張り巡らされ、今にも頭が破裂しそうなほど参差錯落していた。
「(たった数歩の距離が長い。玉藻前様が私めを見てくださっている。これから何をされるのだろうか。傷を蔑ろにしていたことに咎められるのだろうか。それとも治療してくださるのだろうか。それにしても長い。まるで私の歩いている地だけ後ろに動いているかのようだ。ああ、玉藻前様はいつもお美しい。何故この方はあのような塵芥のことを好いておるのだ。あの陰陽師、いつか必ずや……)」
この有り様である。途中から関係のないことに逸れてしまっている始末。
そんな塵芥な思考を張り巡ら背ているうちに、彼は玉藻前の前まできていた。
「その手を」
「はい……」
そして玉藻前に怪我をしている手を差し出すと、彼女は優しくその手に触れ、怪我の具合を診始めた。
「!!!?」
「これはまた、深く切れております。早く処置をしなくては」
そう言って手巾を取りだし、側近の手に巻き付ける。
「今すぐ医者に診てもらった方が宜しいかと……」
手巾から血が滲むのを見て、改めて傷の深さを実感させる。側近はそれほどまでに手を力強く握り締めていたのだ。どれ程安倍泰成に対しての嫉妬が深いのかが窺える。
「……」
「? どうしました?」
「……」
玉藻前の返答に応じない彼。
彼女の呼び掛けに答えないなんて珍しい、と隅にいる侍女は思っていたが、その数秒後、玉藻前の発言により何故彼が玉藻前の事を無視したのかが解った。
「き、気を失ってる……」
「え!?」
彼の目の前にいた玉藻前の驚愕の発言を聞いた侍女は思わず素っ頓狂な声を上げる。
そう、側近は想い人に手を触れられたお陰で、極度の興奮状態となり、脳が反射的に意識を手放してしまったのだ。
「……」
「……」
その異様なる光景を目の当たりにした女二人。
ただただ驚愕に支配された顔付きを溶けぬまま、五分ほど無為なる時間を過ごすこととなった。