・ウォルターとハイア初邂逅の話
朝、目を覚ましたハイアはグッと伸びをした。
ツェルニで一時的に生徒となったハイアは、朝は目を覚ましたら、簡単な運動着に着替えて部屋の外に出る。身支度を整えたら、居住区としているアパートから出て、アパートの敷地内の開けたスペースで日課の朝練を行う。
同じアパートを居住区にしているウォルターはいない。ウォルターはハイアとミュンファが同じアパートを居住区にすることを決めてから、二人の分まで朝ご飯と昼ご飯を作ってくれるので、朝から忙しい。
体術を中心に、ウォルターも使用している木刀を振って刀争術の型を一から通して鍛錬を行う。いつも通り、昔から行っているものだ。
今日は久方ぶりに夢を見た。懐かしい夢だった。
おそらくツェルニでウォルターやレイフォンといった、グレンダンに関わる人間とよく関わることが増えたからだろう、とハイアは思った。
幼い頃の夢だ。
彼と会って、間もない、頃の。
天剣が来る。
そう言って傭兵団の中がざわめいていた。
本人が気にしないとは言え、仮にも天剣。できる限りのていねいな待遇が求められることを、傭兵団だからこそ認識していた。
本日は団長が不在だった。天剣は仕事で受け取り作業のためだけに来るので、長く会談を行うわけではない。けれど対応はせざるを得ず、傭兵団の面々は、かの天剣授受者さまにどう対応したものか……と頭を悩ませていた。
その中で意気揚々と、マメが出来た手を高々と掲げてハイア・ライアは笑った。
「おれっち! おれっちが対応するさ!」
「……ハイアちゃん、あのね」
掲げられたハイアの手を、呆れ顔ながら優しく下げさせたのは、サリンバン教導傭兵団で頭角を現し、団長であるリュホウの後釜と言われている男だった。
男は、ハイアにとって兄のような立場だった。
このサリンバン教導傭兵団で主流となっているサイハーデン刀争術ではなく、もともと独学で短剣術を修めていた。サリンバン教導傭兵団に来た時点でそれなりの実力を持っていたが、傭兵団に所属したことでさらに洗練され、さらには人とのコミュニケーションを取ることにも長けていた。
元の都市で孤児院を飛び出し、荒れに荒れて大暴れをした末に都市外放逐を宣言されたハイアを拾ったリュホウは、自身の養子としたハイアの教育係に男を指名した。
同僚の念威繰者とケンカしたハイアを仲裁したり、武芸に真摯に取り組んだり、同時期に傭兵団に向かえられたミュンファにキツめに当たったのを叱ったり、一緒にめちゃめちゃ遊んだり……と度々問題も起こすハイアを優しくもキチンと叱り、人間不信になっていたハイアのほとんどを戻したのは、この男の手腕だった。
それでも幼い年齢相応のやんちゃな部分や小生意気な部分は残っており、未だに手を焼かされているのが男の現状だ。
「一応、傭兵団“に”来るってーことはお客さまだからさ……、半端な対応はしちゃーダメなんだよ?」
「分かってるさ、ヴィート。そりゃもちろん。でもここに来る天剣、ウォルターだから……おれっちが対応したいのさ~」
「ハイアちゃん、ウォルターさんが好きだよねぇ……ミュンちゃんもなんか言ってあげてよ」
「えっ!? ……わ、わたしは……その、……ハ、ハイアちゃんは、この中で一番……ウォルターさんとなかよしだし……」
「そ~かなぁ~~~? 俺の方がなかよしかもぉ~~~?」
「ジマンさジマン!! ちゃんと対応できる! できるからおれっちが! おれっちが対応するから!!」
グイグイと挙手すると、男……ヴィートは渋々といった顔で腕を組んでしばらく考え込み、頷いた。
「しょーがないなぁ……一応、俺は同席するからね?」
「やった! ミュンはどうするさ~?」
「わ、わたしは……じゃまになっちゃうから、いいよ……。ウォルターさんと話すの、に、……にがてだし……」
「まっ、ミュンはドジだからなんかやらかしちまうさ~」
「ひ、ひどい!」
「あはは!」
「ミュンちゃんに悪口言うのはほどほどにね、ハイアちゃん。……ホント、ウォルターさんに懐いたねぇ……」
呆れたような表情で苦笑するヴィートに、ハイアは「ふふん」と笑って見せた。
ウォルターと初めて顔を合わせたとき、ハイアはウォルターに完膚無きまでに叩き潰された。
当時、リュホウの教えを正しく自分に反映出来つつあったことで、武芸者として実力がついてきていると思っていた。
だが強かった。ウォルターとハイアには、ただ大きな実力差があった。
ウォルターの方が圧倒的に強かった。
ハイアよりも、ずっとずっと強くて、そしてなにより容赦がなかった。
一方的にハイアが売ったケンカを、気だるそうに買ったウォルターは、あっという間にハイアに勝利した。
ハイアの右のあばら骨二本、左の膝の骨、右腕尺骨と橈骨を折り、上腕骨を砕いて肩骨を抜き、鎖骨も骨を砕かれた衝撃で砕かれた。相手が子どもだという容赦は一切なかった。
そうして痛みで地面に倒れ込み、細いうめき声と歯を噛み締める音をこぼし、自分を叩き潰した天剣を睨みつけた――が、当の本人はすでにハイアへの興味をなくしていた。
冷え切った萌黄色の双眸に見下され、ハイアはさらに強く歯を噛みしめる。叩き潰されたハイアの自分の実力の足らなさを、悔しさを、すべて無視するように。
表情一つ変えない萌黄色の双眸の男は、元々興味がなかったこともあり、ますます興味を失った目で進行方向にいる動けないハイアをまたぎ、傭兵団の放浪バスへと足を進めていった。その背を引き止めることなど微塵も出来なかった。
しばらくして大慌てで放浪バスから飛び出してきたヴィートに抱えられながら、ハイアは呻いた。実力の足らない自分が悔しくて、情けなくて……外傷によって痛む身体よりも、出来損ないの自分の心臓の方が、ずっとずっと痛かった。
その件から少し経ったころ、あの天剣授受者デルボネの念威の探査をすり抜け、突然槍殻都市グレンダンの外縁部に現れた老生体がいた。
突然の老生体の出現に、いくらグレンダンが汚染獣との戦いが多いとはいえ大混乱を巻き起こした。外縁部にも武芸者は常駐していたし、傭兵団もいた。けれど、そのうちの一体何人が老生体に対応できるのか? ほとんどの人間がそうではない。
突如現れ外縁部の多くの人間たちを恐怖に陥れた老生体は、外縁部にいた武芸者諸共踏み潰し、噛み砕き、鏖殺する。そしてその死の塊は、外縁部に放浪バスで停泊していた傭兵団――ハイアとミュンファの目前に迫っていた。鋼鉄で出来た放浪バスの腹を食いちぎり、暴れまわり、再び腹を食いちぎり。
恐ろしかった。
戦う術を学んでも、実戦経験が浅く幼かったハイアは、到底老生体などとは戦ったことなどなかった。傭兵団も好んで老生体と戦おうなどとはしなかった。グレンダンには天剣授受者がいる。十二人の、強大な力を持つ武芸者たちが。
ハイアたちの眼前に、おおよそ逃れられない死が現れた。
慌てて、後ろにいたミュンファをかろうじてかばうようにして下がる。動揺でもつれた足が後ろにあった通路を通るパイプにつまづき、ハイアは地面に倒れ込んで両手と膝を強かに打ち付けた。ミュンファも後ろに尻もちをつき、ハイアは両手を握りしめて上体を起こし、身体を反転させてミュンファを自身の背に追いやると、目と鼻の先でがちがちと歯を鳴らす汚染獣を睨みつける。
暴力的で残酷な歯を並べた巨大な山のような死が眼前に迫る。錬金鋼に触れる手が震える。剄を奔らせなければ。ミュンファを守らなければ。立たなければ。武芸者として、師に技を教わったものとして、生き残るために、戦わなければ。立たなければ。ここで立たないのであれば、ハイアは一生役立たずだ。ゴミ溜めで生涯を終えるはずだったハイアに手を伸ばしてくれた師に、なにも返せなくなってしまう。立たなければ。あの天剣に、もう一度挑まなくてはならない。立て、立て――立て!
……けれど、ハイアは無様にも尻を床に貼り付けたまま、茫然と眼前に迫った死を見ていた。
立たなければ。
そう思っているのに足が震えて力が入らない。
呼吸を整えなければ。
そう思っているのに呼吸はか細く震えている。
戦わなければ。
そう思っているのに脳の奥が恐怖ですべてを拒絶しようとしている。
戦意を喪って茫然と眼前に迫る死を見るハイアの眼の前で、光が弾けた。
「……え?」
弾けた光は、赤と黒の髪を揺らす青年を吐き出し、その手に握られた細身の白金色の錬金鋼が、放浪バスの切れかけた電灯でチラチラと光を零す。全身に活剄が張り巡らされ、彼は踏み出す。
一閃。上段から下段への振り下ろし。高密度の残線型の剄が巨大な汚染獣の下顎を食いちぎる。
活剄で強化されているだろう片足が地面を弾き、その姿が回転する。上方から襲い来る巨大な爪を振り上げた足で蹴り飛ばす。蹴り飛ばされた爪が放浪バスの天井だったものにぶつかり、甲高い金属音を立てる。バス全体に張り巡らされたパイプの一部が千切れ、一気に蒸気が噴き出した。その音にミュンファが悲鳴をこぼし、ハイアの服を強く握りしめる。
刃が翻る。
下段の錬金鋼の峰は下にあった。しかしハイアのまばたき一つのうちに、その峰が上にあった。
汚染獣の堅牢な甲殻は斬り裂かれ、轟音とともに地面に崩れ落ちた。
絶命している。間違いなく。斬り開かれた断面から体液が溢れ出し、飢餓を宿しぎょろりとした目は虚ろに濁っていた。
「……絶命確認。戻る」
(ウォルターさん、いけませんよ。安否確認を現場でもお願いします)
「そっちで終わってンだろ。いるか? オレ……」
(よろしくお願いしますね)
「……ハァ……」
男の目線の高さへやってきた蝶型の端子に眉根を寄せ、大げさなまでのため息を吐く。眼の前の黒と赤の髪の男……ウォルターは手にしていた錬金鋼を基礎状態に戻し、剣帯へと差し込んだ。
軽く振り返り、肩越しに冷めた萌黄色の目が、無様にも床に座り込んだままのハイアとミュンファを見ている。
身体中が硬直し、動けなかった。
幾度となくハイアを叩き潰したウォルターに、その度、次は勝つと言っておきながら、肝心なときに立てず。
こんな無様を晒した自分が恥ずかしかった。情けなかった。悔しかった。
ウォルターに負けたときよりも、ずっと、ずっと。思わず涙がこぼれてしまいそうになるほど、悔しくて……怖かった。
「おい」
不機嫌そうに、低い声がハイアたちに向けられる。それにびくりと肩を揺らし、ハイアは思わず視線を逸らし、俯いた。
心臓が忙しなく脈を打つ。
なにを言われるのだろうか。
なじられるだろうか。蔑まれるだろうか。嘲笑われるだろうか。
汚染獣との対峙よりも恐怖を感じている。情けなくて、こんな姿を見られたことが恥ずかしくて、消えてしまいたいような、喚き散らしてしまいたいような衝動に駆られ、それをグッと堪えた。
「おい。……ケガ、ねぇか?」
「……え……」
言葉に驚いて視線をあげたハイアに、ウォルターは怪訝な表情をした。そうして改めてハイアと後ろにいるミュンファを見る。
「あ? ……ケガしてンのか? ……膝、と、手か……」
言われてハイアは自分の膝と両手を見た。膝にも手にも血が滲んでいて、地面に落ちていたであろう金属を気にせず手をついたせいで、手のひらの皮膚に深く食い込んでしまっていた。
「ほんとさ……」
「気づいてなかったのかよ。……とっとと立て。そっちのお前はケガねぇか。ないなら立て」
「……わ、……わたし……」
「……ハァ」
二度目の大きなため息が頭上から降り注いで、ハイアは再び肩を揺らす。
ハイアの服を強く握りしめていたミュンファの身体を、ウォルターが片手で持ち上げて抱える。同様にハイアのことも抱えあげ、地面に伏した汚染獣の死骸を踏み越えながら放浪バスを出た。
ウォルターに抱え上げられたハイアは、状況が飲み込めず、気づいたことでじくじくと痛む手でぎゅっとウォルターの服を握りしめた。
「……なんで……」
「ザコに期待なンぞしてねぇよ。騒がず静かにしてろ」
「おれっち……、……だって、戦えなくて……」
「お前程度がなにをできるって? 誰も期待してねぇって言ってンだろ。大人しく運ばれてろ」
素っ気ない態度はいつものことだ。けれいまはそれが必要以上に心に突き刺さって、ハイアは俯いた。
ミュンファが先に手当を受けることになり、ハイアは少し離れた場所に降ろされた。建物の壁だっただろう大きな瓦礫の上に腰掛けて、順番が来るのを待つ。ハイアは軽傷で、活剄も使える武芸者だ。だからトリアージの順は遅かった。ウォルターは横に座っている。座り込んで俯いたハイアのことは気にした様子もなく、念威端子越しに天剣授受者のひとり、デルボネと状況確認のやり取りを続けていた。
────なにも、できなかった……
なにも、なにひとつ。
悔しくて、情けなくて、視界が滲む。ギュウッとズボンを握りしめた手が白む。頬を水が流れて、顎を伝って落ちていく。
「……なんにも、できなかった……」
絞り出すように出した声が、嗚咽で掠れる。
ようやく吐き出せた言葉は、苦渋に滲む。
「ライア」
いつのまにか、隣に座っていたはずのウォルターはハイアの目の前に膝をついていた。
救護所として設置された場所自体は、すでに大急ぎの清掃が行われたが、ハイアたちがいる場所まで手入れは届いておらず、グレンダン外縁部の簡素な金属の地面の上は、多くの砂塵と汚れにまみれている。
名前を呼ばれて視線をあげて、今日はウォルターの髪がきちんとセットされていて、いつもの服装よりもずっと質の良いスーツを着ている、とようやく気づいた。
しかしハイアとミュンファを抱えたため、その部分だけ砂塵や二人の血で汚れていて、ハイアは口を結んで再び俯いた。
「……手」
トン、と強く握りしめすぎて白んだ手の甲を、ウォルターの人差し指が突く。痛みと不安で震える指先をゆっくりと開いて、おそるおそる視線をあげた。
ウォルターは怒ってなんていなかった。呆れてもいない。いつものように、淡々とした視線で……けれど、ほんの少しだけやわらかい視線が、ハイアに向けられていた。
「……お前があいつを庇っていなかったら、今頃あいつは汚染獣の腹の中だ」
息を呑む。
「お前にやれることを、お前はじゅうぶんやっただろ」
声を詰まらせる。
ウォルターのほんの少しだけやわらかい視線が、ハイアの血が滲む手に向けられた。
その指先が、わずかにマメが出来始めている小さな手の指に触れる。
「それでも悔しいなら、泣いてる場合じゃねぇだろうが」
どこから出したのか、手早くハイアに手当を施したウォルターは、仕上げとばかりにハイアの手を軽くポンと叩いた。
「いった!?」
「剄息はどうした。活剄で身体の治癒は?」
「え、……ええ……?」
「……やれることはたくさんある。ひとつひとつ、できることを、やれることを積み上げて、できないことをやれるようにしていくンだろうが」
言われて、師が自身をすくい上げてくれたときのことを思い出す。師に武芸を習い始めたときのことを思い出す。
武芸を始めたころ、ハイアは師がわたしてくれた素振り用の棒を持ち上げるだけで精一杯だった。
それが次第に軽々と持ち上げられるようになり、重量を増やし。最初はうまく練れなかった剄も、練習を重ねてうまく練れるようになり、サイハーデンの刀争術を扱えるようになり。
そうやってハイアは、武芸者としての技術を身につけてきた。
敗北と失敗、鍛錬と研究を積み上げて、積み上げ続けて、そうしてウォルターに挑んできた。
「違うか?」
これからもそれは変わらない。武芸者としての実力を、人間としての成長を、ハイアはそうやって獲得していく。
やることも、しなければならないことも、なにひとつ。
「……ち、違わない……」
「だろ。ンなら、
「なっ!? ぜ、ぜったい勝つさ! ぜったい!!」
「そーかい。期待せずに待ってンぜ」
「お、おれっちはこれからだから!! ちょっとは期待してくれてもいいと思うのさ~!」
思わず立ち上がって抗議の声を上げる。眼の前に膝をついて屈んでいたウォルターはわずかに瞠目し、まばたきを挟み表情を戻して立ち上がった。
「もう大丈夫だな」
「……あ……」
「オレは行く。ちゃんとした手当はここの救護班にしてもらえ」
軽く膝の砂塵を払ったウォルターは、早々に踵を返して戻ろうとする。
お礼を言おうとした。でも喉の奥で言葉が引っかかってしまって、王城へ戻る背に言葉はかけられなかった。
疲れたように頭を掻き、肩を回しながら去っていく背を見送る。
天剣授受者は、たったひとりで戦況を変えられる。
そういうものだと理解していた。そういうものだと知っていた――しかし、それを目の当たりにしたのは初めてだった。
ハイアには、ウォルターの技を見切ることはできなかった。あの斬撃は、間違いなく剄技であった。普段は大刀を扱っているウォルターが、今回ばかりは可動域の狭さからか、ハイアたちと同じような刀を扱い、刀術を扱った。
その一切を見切ることは敵わなかった。練られた剄を見ることすら敵わなかった。翻された刀の軌道も見えなかった。
ハイアが修めようとしている、サイハーデン刀争術とは違う派閥の刀術士。
それでも、憧憬を抱くには、充分だった。
ニコニコのハイアとオロオロのヴィートは、ラフな普段着で傭兵団の放浪バスに現れたウォルターを迎えた。
「ウォルターこんにちはさ~!」
「……ライア、と……ウェーバーか」
「すみませんウォルターさん……、こんにちは。団長のリュホウはいま、別件で招集されておりまして……、代わりにおれと、あとこちらのハイアがご対応させていただきます」
「……ああ、仕事の話が進むンなら誰が対応でも構やしねぇよ」
興味がないとばかりに頷いたウォルターにオロオロのヴィートは苦く笑う。
ニコニコのハイアは意気揚々とウォルターを放浪バスの応接部屋に案内する。
手狭な放浪バスの中は団員の居住空間がほとんどであり、多少の食事場所とキッチンと、そして王城の豪奢な応接室と比べれば、倉庫にも満たないほんの小さな応接部屋だ。
槍殻都市グレンダンが誇る、女王に次ぐ権力者である天剣授受者を招くには、あまりに質素で簡素な部屋。必要最低限の掃除、必要最低限の家具。部屋の端の棚に積み上げられた別件の書類の山、棚にパンパンに詰め込まれた書類の数々。
中央に置かれたソファは、王城の調度品と比べる方がかわいそうなほど質素なソファではあるが、この放浪バスの中では来局用の多少は見栄えも座り心地もいいソファだ。
案内されたウォルターは気にした様子もなくドカリとソファに腰掛け、ヴィートが差し出したお茶に口をつける。
そうして向かいのさらに質素な椅子に腰掛けたヴィートは、用意していた書類をハイアに渡した。
「ハイア、これ」
「こちら、ご依頼の報告、です!」
「……ああ、たしかに」
「ウォルターが来てくれてうれしい、さ!」
「こら、ハイア。……天剣授受者の方にわざわざ出向いていただいてしまって、大変申し訳ありません」
「仕事が進むならオレはどっちでもいい。……資料は間違いなく受け取った。じゅうぶんだ」
「ありがとうございます」
「……ウォルター! 仕事終わりさ?」
「ハイアちゃ~ん、お仕事するんじゃないのぉ?」
「だ、だって報告わたしたら終わりだって……」
「終わりだけどさぁ~……、まったくもう、すみませんウォルターさん……」
「別にいい。仕事には差し障りない」
ヴィートが作った資料をしまうウォルターの横で、ハイアは意気揚々と手をあげた。
「ウォルター、おれっち手合わせしてほしいさ~!」
「ねーお願いだからハイアちゃん、ほどほどにね? ほどほどに頼むよ? 団長いないときにトラブル起きて怒られるの、俺ヤだよ~」
「このくらいじゃウォルターおこんないさ」
「ウォルターさんは仕事に差し支えなければ興味がないだけなの! 知ってるでしょハイアちゃん」
「おれっち、新しい技使えるようになったのさ~! 今度こそ通用させるさ、ウォルター手合わせしてほしいさ~!」
「ねーハイアちゃ~ん! ウォルターさんお仕事中だからさ~!」
ジッとハイアはウォルターを見上げる。ウォルターは軽く息を吐き出してヴィートに視線を向ける。その視線にヴィートは肩を竦めて見せて、「お時間はいいんですか」と問うた。
「ああ、この後は帰るだけだ。……ガキひとりを叩き潰す程度の時間はある」
「潰すのが決定してる……」
「勝つ! ぜったい勝つ! 外出るさ~!」
「お前が言うのかよ。活きのいいガキだな」
「ハイアちゃんお願いだからところどころの言葉遣い~~~!」
意気揚々と応接部屋の扉を開けたハイアが振り返る。
呆れ顔ながら、それ以上は気にした様子もなくソファから立ち上がるウォルター。その様子を気にかけながら、顔全面に苦笑を浮かべたヴィートに、ハイアはニカリと笑って見せた。
手早くシャワーを浴びて身なりを整え、自室で制服に着替えてハイアは廊下に出た。
ちょうど、隣の部屋からミュンファが顔を出して、片手をあげる。
「ミュン。おはようさ~」
「おはよう、ハイアちゃん!」
「……そのハイアちゃん、っての、本当にすっかり定着しちまったさね……」
「ヴィ、ヴィートさんが呼んでたから……うつっちゃった……」
困り眉で笑うミュンファに、力を抜いて笑う。
ミュンファが武芸を学び始めたのは、ハイアよりずっと後だ。
あの一件で汚染獣を酷く恐れるようになったミュンファは、元の内気な性格もあり、武芸者としての訓練を開始するのがかなり遅れてしまった。結果、リュホウが没し、一時的に団長代理を務めたヴィートから団長の任についたハイアが改めて指導することになった。
刀と弓で戦いの分野が違うことは理解しているが、それでも未だに殺剄は甘いし、追跡も下手。
武芸者として未熟さは残るものの、それでも構わなかった。
少しずつ、できることを積み上げていくこと。それはいつだった変わらない。
他愛ない話をしながら廊下を歩いてリビングへと向かっていくと、キッチンからふわりといい匂いが鼻をくすぐった。
朝食の乗ったトレイを持ってキッチンから現れたウォルターと視線が合う。
あの頃よりもずっとやわらかくて穏やかな視線が、ハイアとミュンファを見た。
「おお、ライア、ルファ。おはようさん」
「おはようさ~、ウォルター」
「おはようございます、ウォルターさん」
「これ今日の朝ご飯な。ンで、こっちが弁当な」
ウォルターからトレイを受け取り、ミュンファと一緒にリビングのテーブルに配膳を進める。
飲み物を出し、配膳を手早く済ませて弁当をカバンにしまう。カバンに用意した今日の教科一覧を見て、そういえば今日は筆記テストがあったなと思い出してほんの少しうんざりとする。
軽く頭を振って眼の前に並んだ料理にハイアは胸をふくらませる。山盛りの焼き立てふかふかのパン、つやつやのジャム、とろりととろけたバター。簡単に味付けをされた分厚いベーコンと目玉焼き。添えられたカップにいれられた温かいスープ、サラダ。デザートのぴかぴかなフルーツが混ぜられたヨーグルト。
今日は久しぶりにしっかりと朝の運動をしたし、腹はじゅうぶん減っている。
ハイアは意気揚々とパンを手にとった。
「いただきます!」
泣いている。
大きな目がじわりと歪んだと思うと、堪えきれず滴った雫がぱたぱたと落ちて、地面に、ズボンに丸い黒点が生まれる。
別に、傭兵団の誰が死んだわけでもない。
目の前で、先に手当に入ったあの子どもを、汚染獣に食い殺されたわけでもない。
なにをそんなに泣くことがあるのか、ウォルターには分からなかった。
どこを見るわけでもなく涙を零し、手が白むほどズボンを握りしめ。そうして強く引き結んだ口元がかすかに緩められ、吐息とかすかな音をこぼして……歯を噛み鳴らす。ウォルターに手合わせで負けたときのように。
「……なんにも、できなかった……」
無意識だろう。本人には、おそらく全身に強く力をかけている意識はない。活剄を使うこともなく、ただただ悔しさで全身を強ばらせている。
その横顔に、別れ際の弟のことを思い出した。
別れ際というのは正しくない。
ウォルターの弟はいま、ウォルターの精神内にある『箱』に収容されていて、意識を取り戻すまで、身体を癒すまで、ウォルターが守っている。決して、死んではいない。……生きていると称するのも難しいが。
泣いていた。
ゼロ領域で崩壊寸前だった弟は、泣いていた。
あのときの記憶が、弟が目を覚ましたときにあるかどうかは分からない。精神が崩壊しつつあったその状態で、なにを言ったか、どういう状態だったか、目を覚ましたときに正しくは覚えていないかもしれない。
それでもウォルターは覚えている。
ごめんなさい。役立たずでごめんなさい。許して。助けられなかった。僕のせいだ。ウォルター。死なないで。生きて。ごめんなさい。なにもできなかった。
なにもできなかったなんて、誰が言える。
ウォルターの弟は、やり方はああだったが、それでも最後にゼロ領域に巻き込まれたのは、イグナシスのせいだった。
なぜ役立たずだったと苦しまなければならなかった。
なぜ自分のせいだと自身を責めなければならなかった。
なぜなにもできなかったと泣かねばならなかった。
ゆっくりと腰を上げ、ハイアの前へ移動する。
この小さな子どもは、ウォルターと顔を合わせるたびに、勝負をしろだの次は勝つだのと宣う。その心意気は本物だと思っている。少し時間が空くだけで、前回の手合わせで埋まっていなかった部分を埋め、悪手を改善し、より技術をあげてくる。
それでも子どもだ。
この世界に生まれたせいで、いずれ来る大戦に巻き込まれてしまうかもしれない子ども。
そうだとしても、将来を約束されなければならないはずの子ども。
あの癖の強い髪を思い出す。武芸者にしては細い体格を思い出す。あれも子どもだった。……少なくとも、人造人間(ウォルター)にとっては。
ウォルターは助けられなかった。
守れたはずだった。
助けられたはずだった。
「ライア」
この子どもは、それをやり遂げた。
躊躇うことなく、死ぬかもしれない恐怖に晒されながら、それでも立ち塞がった。
自分の
怖がりながら、震えながら、それでも立ち塞がった。
それが、いまのウォルターにとって……どれだけ眩しいものか。
それだけ眩く輝くものが、自分のように霞んでしまうのは、惜しい。ああ、そうだ、惜しい。
どうかそのまま、挫けることも、恐ろしいことも、悲しいことも、悔しいことも、すべて身のうちに飲み込んで、自分の血肉にして。
そうして、いずれ成したいこと成せるように。
そのために、少しだけ手を貸してやるのは、悪くないと……そう、思った。
朝食にと作った焼き立てのパンを手に取り、向かいに視線を向けると、嬉しそうにはにかみながら、隣で同じように朝食を口に運ぶミュンファとハイアが話している姿が視界に入る。
あの後も、グレンダンで会うたびに手合わせを挑んできては、悔しさで涙を流すことは多々あった。
けれど、あれほど身体を強張らせていたのはあのときだけだった。
いま考えれば、武芸者であり、武芸者として鍛えられていたにも拘らずなにも出来なかった自分の不甲斐なさやみっともなさ、汚染獣というものと初めてまともに対峙したことへの恐怖があったのだろう、ということはいまのウォルターでも理解できる。
当時はそういったことに関心を持っていなかったので、よけいに考えが至らなかった。
「ウォルターこれ! これうまいさ~!」
「このジャム、甘酸っぱくてさっぱりしてておいしいです……!」
「そりゃよかったな。そンなに喜んでもらえりゃ作ったかいがあるってモンだ」
先日作ったジャムがお気に召したのか、ハイアとミュンファが食い気味で美味しいと伝えてくる。
嬉しそうに二人でジャムをたっぷり乗せたパンを頬張り、今日の授業がどうとか、昼ごはんがこうとか話している姿を見ながら、ウォルターもあつあつの焼き立てパンを千切り、たっぷりとジャムとバターを乗せてかじりついた。