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夜の海は恐ろしいものだ。
月明かりの無い日は特に。
海と空の両方が漆で塗り潰されたように真っ黒だから、その境界線すら解らない。
しまいには自分がどういう姿勢でどこに居るのかすら解らなくなってきて、恐怖心が浮かび上がってくる。
自分が星空だと思っている輝きは、実は漁船の灯火ではないのか。
波間に揺れる海蛍は、夜空に瞬く天の川の見間違えじゃないのか。
だとしたら今の自分はどういう姿勢だ?
見上げると海が見える?
それならひっくり返っているのか?
立ち上がらなければいけない?
「清霜さん、落ち着いて!」
後ろから飛んできた声に叱咤されて、清霜はハッと我に帰った。
手足を振って確認してみるがどこにもおかしなところは無い。
倒れるどころか、姿勢制御は完璧だ。
軽い前傾姿勢で海上を滑るように航行している。
「大丈夫?」
「あぁ、うん。もうばっちり!」
頭を掻きながら、そう強がって見せた。
本当は少し足が震えていたけれど、弱いところは見せたくない。
特に、長女たれと自分に言い聞かせて頑張っている夕雲には。
「そう? ……よかった。空間識失調は、夕雲もやったことがあるわ」
「姉さんも?」
「えぇ。陽炎さんに夜戦を仕込まれているときに。良い、清霜さん。もしパニックになったら、自分ではなくて計器と妖精さんを信用するの。
艦娘の不思議と不便なところで、何故か計器類は自分で読むことが出来ない位置にある。
背負った缶にくっついてたりするのだから、絶対に無理。
そのため計器を活用するには、妖精さんの助力が必要不可欠なのである。
「なるほど。わかった!」
元気良く返事をして、妖精さんに計器航行をお願い。
たちまち脳内に前後左右の傾斜やら対気速度やらプロペラ回転数やらがバンバン浮かび上がってきて、情報の渦に飲み込まれそうになる。
駆逐艦はせっかちなのが多くまた交戦距離が短いせいで、脳内処理の早い勘や感覚での機動を好むことがほとんどだ。
そのため普段はあまり計器に頼ることをしないので、余計に頭がクラクラとした。
「うえぇ、脳がはち切れそう」
「そのうち慣れるわ」
夕雲がニッコリと満面の笑み。
この長女、最近は陽炎やその上の神通に似てきたと思う。
どこか色っぽいが逆に言えばそれだけだった笑顔にも、今は凄みというか貫禄というかが発揮されるようになってきていた。
「それじゃあ個艦航行の訓練は終わったから……次は巻雲さんたちと合流して、隊列航行の訓練に移りましょう」
今この海域にいるのは、4人の艦娘だ。
夕雲型の上から2人にあたる夕雲、巻雲。
逆に下から2人の早霜と清霜。
夕雲が清霜に、巻雲が早霜に、それぞれ訓練をつける形である。
無線封鎖の訓練も兼ねているのか、夕雲が発光信号を幾度か繰り返した。
すぐさま返答が返ってきて、遠方に白いものがボンヤリと浮かぶ。
高速を発揮したときに蹴立てられる白波は光を反射しやすいために、夜闇の中ではとにかく目立つのだ。
その白波が少しずつこちらへ近付いて。
「夕雲姉さぁ~ん!」
「ねえさん、少し待って。置いていかないで」
巻雲が現れる。
後ろに続く早霜は、さすがにいつもの無表情に焦りを浮かべていた。
無理もない。
清霜も早霜も、夜の海がここまで怖いものだとは思っていなかったのだ。
「来たわね。それでは、今から隊列を組んで帰ります。先頭艦は夕雲。後ろは早霜さん、清霜さんの順。巻雲さんは最後尾をお願いね」
「「「了解」」」
4人の艦娘たちはゆっくりと闇夜に溶け込んでいった。
○
夜間訓練が終わり、もう1時間も経てば太陽の頭が出てきそうな時間帯。
「さささ、寒い!」
桟橋に上がった清霜は、事前に置いておいたバスタオルで体を覆った。
9月に入って、夜は肌寒い。
昼間は30度を少し上回ったりするくせに、夜ともなれば20度にすら達しないなんて事すらある。
陸でこれなのだから、艦娘の仕事場である海の上などもっと酷い。
昼間のうちに太陽熱で蒸発した水が、夜の冷たい空気に冷やされて霧を作るからだ。
これは海霧という季語になるほどの現象で、
しかもそこへ高速航行で発生した対気流が吹き付けるのだから、堪ったものではなかった。
瞬く間に体温が奪われていくのだ。
「へくちょ!」
体の小さい巻雲なんかは、あまりに熱を失ったためかガチガチと震えて、おまけにクシャミまでかましている始末だ。
「はやくお風呂に……」
そう言いかけたとき、なにやら味噌の香りがふんわりと漂った。
魚介の出汁が効いているであろう、ちょっとした潮臭さも同時に。
「なんか美味しそうな匂いが」
「あらあら、清霜さんたら。でも、どこからかしら?」
「向こうから……」
鼻をヒクヒクさせたところを、夕雲に見つかってしまった。
ちょっと恥ずかしかったけれど、それより香りの発生源の方が重要。
周囲を見渡すがそれらしき影は無し。
ううん? と悩んでいると、早霜が酒保棟を指差した。
見れば、普段はもう閉まっているはずの店から明かりが漏れている。
赤い暖簾も掛けたまま、赤提灯も出したまま。
「あれって確か……」
「鳳翔さんのお店ね」
聞いたことだけはあったが、入ったことなど一度もない。
ただでさえ駆逐艦は入りにくいし、夕雲型はまだ新しいから、たまの機会にもありつけていない。
長女の夕雲だけは手伝いをすることがあるようだけれど、それだけだ。
「おいしそうな匂い。巻雲、お腹が空いてきましたぁ」
「本当に。ねぇ、夕雲ねえさん」
巻雲と清霜は、並んで夕雲に訴える。
瞳をウルウルに潤ませて、下から見つめてお願いをするのだ。
この時間ならきっと、大人な艦娘たちもいないから邪魔にもならないだろうし。
「う、し、仕方がないですね。鳳翔さんが許可してくださったら、ですよ」
「ふふっ……良い判断だと思います」
4人は連れ立って居酒屋へ向かった。
サッシをカラカラと鳴らして扉を開けると、一段と濃い味噌の香りが吹き付けてくる。
「いらっしゃい。こんな時間に、それも駆逐艦とは珍しいですね」
「いけなかったでしょうか」
「あら、そんなことはないわ。さぁ、入って入って」
微笑む鳳翔に誘われるまま、店内へ。
カウンター席の左端から隊列順のまま単横陣で席を埋めた。
「今日は出撃かしら? それとも訓練?」
「訓練でした。夜戦の。終わって帰ってきたら、お味噌のとても良い匂いがしたもので」
「あぁ、先ほどまで川内さんが寄ってくれていたんです。夜間発進訓練に付き合ってもらったお礼に。そのときにこれを出したから」
コンロに居座る半寸胴の蓋を、鳳翔が開けた。
これで味噌の香りは三度目だ。
しかも今回のは特に濃厚で、訓練明けの胃袋をチクチクと刺激してくる。
「これは?」
「ブリのアラ汁です。まだ季節には早いのですけど、近海で豊漁だそうですよ」
あの潮臭い香りは、ブリだったのか。
横で話を聞いていた清霜は納得する。
「川内さんはアラ汁をご飯にぶっかけ飯のようにして……」
「「「「それ、お願いします」」」」
「あらあら」
嬉しそうに微笑む鳳翔が出してくれたのは、大振りの茶碗に盛られた白飯。
ぶっかけ飯にするのには飯茶碗が大きくないと困るから、こういう小さな心配りは嬉しいもの。
飯自体も昆布か何かと炊いたのか、ほんのりと色づいてツヤツヤと光る。
「いつ見ても見事に炊けていますね、鳳翔さん」
「ふわ。巻雲、こんなにおいしそうなおコメ初めてみました」
「私も……ふふっ」
「清霜もこんなご飯が炊いてみたい」
あまりにも良く炊けた米飯を前にして、4人の夕雲型は涎が零れそう。
そんなに難しいことはしていないんですよ。
鳳翔はそういうが、手のかかる下ごしらえをして羽釜で炊くのは十分に難しいはずだ。
「はい。こちら、あら汁ね」
続いて配膳されたのが、メインのあら汁。
キメの細かい脂が浮いた米味噌仕立てのブリの味噌汁だ。
木椀にはカマ(エラ蓋の後ろで胸ヒレの部分)やカシラ(頭の半分に割ったもの)が盛り付けられ、そこへ味噌汁が張ってある。
「目、目が合っちゃった」
「呪われます」
「ひえぇ!」
「こら、早霜さん。巻雲さんをいぢめないの」
清霜も口には出さないものの、ブリの頭を前にしてなんとなく気が引ける。
「アラは食べなれないかしら?」
そんな様子に気付いたのか、鳳翔が声を掛けてくる。
微笑は絶やさず、しかし少し困ったように眉尻を下げて。
「食べ慣れないというより、初めて食べます」
「それだと、食べる気にはならないかもしれませんね……でも清霜さん。ブリはとても美味しいし、何より験かつぎには持って来いなんですよ」
「験かつぎに?」
ブリで験をかつげるものなのだろうか。
清霜はあまり物知りなほうではないから、そういったことは聞いたことがない。
「ええ。ブリは出世魚。大きくなると名前が変わっていく魚なのよ。だから新入社員なんかに食べさせるという話も、昔はあったらしいわ」
「へぇ~! どういう風に変わるんですか?」
「確か……ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ、だったかしら。地方によって違いますけど、最後がブリなのはどこも同じね」
そう言われても、ブリ自体をあまり見たこともない清霜にはいまいち想像が付かない。
首をかしげていると、鳳翔がポンと手を打った。
「海軍の艦船で言うなら、駆逐艦がワカシで、軽巡洋艦がイナダ。重巡洋艦がワラサ、戦艦がブリという感じかしら」
「おぉ! そっかぁ、戦艦かぁ……戦艦かぁ」
「あの、あくまでイメージのお話ですからね」
「嫌だなぁ鳳翔さんたら、さすがに解っていますって!」
だが戦艦と聞いてブリのカシラに対する忌避感はなくなった。
こうしてみると、大和ねえさんの艦首のようで勇ましいではないか。
なにより、もしかするともしかするかもしれないし。
「さぁほら。冷める前に召し上がってくださいな」
こりゃイカン。
夕雲型4娘は、慌てて料理へ手を伸ばす。
「まずはご飯にかける前に……」
清霜は、あら汁を1口啜った。
溶け出したブリの脂がほのかに甘く、しっかりと煮出されたアラから旨味も出ている。
米味噌は甘口で優しく、夜の潮風で冷え切った身体に染みるようだ。
きっとこういうのが「ほっとする味」というやつなのだろう。
「そしてご飯も1口……うん、おいしい。見た目どおり」
少し固めのご飯である。
だが水の量を減らした代わりに吸水時間は多く取ってあるようで、嫌な硬さは少しもない。
戦艦のローマが、米はパスタの一種として扱われると話してくれたが、良く炊けた固めの米を食べるとそれに頷けるというものだ。
外側はもっちりで、中心はシコシコなのである。
そして本番、ぶっかけ飯。
鳳翔のアドバイスに従い、まずはアラから身をほじくり出してご飯に散らす。
そして味噌汁をドバー!
「ううん、お行儀が悪い」
と口にしては見るものの、内心はウキウキだ。
味噌汁ぶっかけご飯を準備するときほど心躍る瞬間は、そうは無い。
大振りの茶碗に盛られた白米の小山を、茶色のアラ汁が泥化粧。
「では改めて、いただきます!」
ズズズズッと、汁を啜りながら飯を掻き込む。
これが最高。
旨い米飯に旨い味噌汁が絡んで、旨くならない筈がない。
ブリの脂の儚い甘さ。米味噌の優しい甘さ。白飯の素朴な甘さ。
これが一緒になって奥深い味わい。
塩気は薄いが、それが良い。
しょっぱさで無く旨味と甘味でサラサラあっさり食べるものなのだ。
「あぁ、暖まったー!」
「凄く美味しかったです」
ぶっかけ飯だから、食うのは早い。
あっという間に食べ終わった夕雲型4人娘に、しかし鳳翔は悪戯な顔。
いつもの慈愛の微笑みでなく、ちょっと歪んだ嫌らしい笑み。
「な、何かしてしまったでしょうか?」
4人を代表して夕雲が聞く。
すると鳳翔は破顔して、冷蔵庫からバット(ステンレス製で底の浅い四角形のボウルのようなもの)を取り出した。
そこにはヅケ(お刺身を醤油等に漬けておくこと)にされたブリの刺身がずらり。
「食べ盛りで訓練あがりなら、一汁一膳では足りないでしょう? こういうのもあるのですけれど」
温かな米飯が丼によそわれ、その上をブリのヅケが覆い尽くす。
熱飯とかりゅうきゅう等という名前で呼ばれる、漁師メシの一種だ。
ごくり。
誰かが生唾を飲み込んだ。
それは清霜だったかもしれないし、他の姉妹だったかも知れない。
ただ一ついえることは、4人ともが食べ過ぎることになり、破裂しそうな胃を抱えて眠りに付いたということだけだ。
追記。
残念ながら、出世魚のブリを食べても清霜は戦艦にはなれなかった。