1868年 6月
菫は、客室の襖の前で居住まいを正した。
「失礼します。」
低く落ち着いた声色だ。襖に、まず右手をかけ開き持ち手を左に変え、開ききった。洗練された動きだった。これは、すごい事。というのも、菫がここに働きに来たのは、たった3か月前の事だからだ。
3か月前、菫は吉野の山で倒れていた。
それを見つけたのは、丁度山登りに来ていた少女だった。少女は山から菫を担いで運び、この松実館に預けた。そこで目を覚ました菫は、吉野に至るまでの記憶を無くしていた。
行き場のない菫に気を病んだ松実姉妹は、菫を松実館で雇う事を、父に提案。
最後まで、あやしい人だと反対していた父も最後には折れ、菫は松実館で働く事になった。
「菫ちゃん、お疲れ様。」
客室に配膳し居間に戻ってきた菫に、優しい声で言うのは、松実姉妹の姉、宥だ。
「ああ」
菫は、精一杯の優しい声で返すと、宥の入っている炬燵に私も、と入る。
「菫ちゃん、大丈夫?暑くない?」
自分は平気そうな宥が、無理して入っているだろう菫に気遣う。
「大丈夫だ、私は宥とこうやって炬燵に入っている時間が好きなんだ。」
できれば冬が良いけど、と心の中で付け足す。
襖が開いた、入ってきたのは松実姉妹のこちらは妹。玄だ。菫達が炬燵に入っているのを見ると
「菫ちゃん、暑くないの?」
宥は平気だとわかっているから、菫だけに不安そうに聞く。首をちょいとうごかすと、玄の髪飾りはそれに合わせてちょいと動いていた。
「大丈夫だよ、玄も入ろう。」
そう提案するが
「いやー、私は良いよ〜。」
と一蹴。当然だ、今は冬は終わり、ぽかぽか陽気の春だから。だが、菫は軽くショックを受ける。
というのも、菫はこの姉妹を愛していたから。姉はまるで小動物のように愛らしく、守ってやりたくなる。そして、いい"おもち"を持っている。
(この"おもち"というのは妹の玄が、女性の胸を指す言葉として使っている。)
妹の方はしっかりしているが、時折、"足らなさ"が見える事があり、それが菫の心を惹きつけて離さない。そしてこちらの方もなかなかの"おもち"を持っている。
だが、もっとも大きな点はやはり、彼女達が自分の命の恩人である事に由来するのだろう。
菫は、幸せであった。
「そうだ、折角3人の時間が出来たんだ。麻雀やらないか?」
菫が2人の綺麗な顔を交互に見て、提案した。
「菫ちゃん、お姉ちゃんに勝ちたいだけでしょ?」
玄が軽く笑う。花が咲いた様な笑顔だ。
「いいよー、菫ちゃん麻雀好きだもんね。」
菫は麻雀が好きだった、松実姉妹とやる麻雀が。菫は麻雀の腕に覚えのある方だったが、この姉妹2人もなかなか強かった。そんな2人も同様に、3人でやる麻雀が好きだった。
その夜、菫は松実の父に呼ばれていた。
菫は、その部屋に向かう廊下を歩く間、
緊張の面持ちだった。というのは、松実の父は菫に対して冷たい人だった。
最初に拾われた時も、あやしいと言って追い出されそうになった。しかし、それは仕方ない事だと菫は思っている。
実際に山で記憶喪失の人間が居たら、気味が悪いだろう。松実姉妹の方が聖人過ぎるのだ。松実の父と菫は、普段はあまり話さない。だから菫は松実の父が何を考えているか分からなかった。呼び出しされた、この今もだ。
不安のうちに、松実の父の部屋の前に足を並べた。ノックをする。
『入ってくれ。』
襖の向こうから低めの声が聞こえ、菫はますます緊張した。
失礼します、と仲居の行儀の良い開け方で入る。
「ははは、そんなに緊張しなくてもいい。どうぞ、そこに。」
菫は意外に思った。松実の父は普段とのギャップがあった。菫はその場で仲居の姿勢から立って、部屋を見渡した。
真ん中に低いテーブルがあり、その周りには座布団が4つあった。奥側に松実の父は座っていた。
奥に書斎のある部屋だった。
「失礼します。」
菫はもう一回言直すと、座布団の上に正座した。
「ここに君を呼ぶことは、3か月前の私からしたら、とてもありえない事なんだろうな。」
その言葉に、菫は身構える。
「ごめん、別に悪い意味で言ったんじゃない。今の私は君を受け入れた。そして、この部屋に招いて話がしたいと思ってる。」
「何でしょう?」
松実の父は、少し姿勢を直す。
「まずは君に謝りたい。この3か月間の態度、正確には2か月程だけどそれはいいや。すまなかった。」
松実の父は頭を下げた。
「いいえ、山で記憶喪失の人間が居たら気味が悪いのも当然です。あのお二人が優しいのです。」
「そうだね、あの子達は優しい。そして、可哀想な子達だ。」
松実の父は座布団から立ち上がり、まるで顔を見せたくないかのように、菫から背を向けた。
「あの子らの母の話は聞いているかい?」
松実の母、その悲話は聞いていた。
何も知らないで不思議に思っていた菫に、あの姉妹の方から話してくれたのだ。
菫は、はいと答えた。
「あの子達の母親、露子はまだ2人が幼い頃にこの世を去った。私は辛かったよ。
愛する者を無くして、だけど」
松実の父が菫の方を向く、その顔は少し紅くなっていた。
「あの子達はもっと辛い。本当に可哀想な子達だよ。」
菫は黙って聞いていた。言葉一つ一つを漏らさずに聞こうとしていた。
「たまに夢を見るんだ、あの子2人を失う。悪夢を。私が死ぬ時もあるんだ、その時は、残された2人が途方に暮れている。
私はあの子達を絶対に失いたく無かった。だから君が怖がってしまったんだ。
必要、以上に。」
少し、沈黙。
菫は、この松実の父が一番に可哀想だと思えた。妻は死に、残った2人の子を失いたく無いと、日々恐怖する。だから、手伝いがしたいと思った。
「君、この家を継いでくれないか?」
その言葉を待っていたといわんばかりに
菫は宣言した。
「私が継いで見せます。あの2人と共に」
「そうか、良かったよ。これで安心出来るよ。」
そう言うと、父は座布団に腰かけ
「ありがとう.....約束だよ」
こうして、後継の約束が交わされた。
次の日、菫は配膳も全て終わり自分の部屋の隅に居た。座り込んで、何かを眺める。
それは、自分の身長の半分以上の大きさの筒であった。筒に掛かった鍵を、菫は小さな鍵で開ける。その筒の中には、筒と同じ大きさの"弓"があった。菫はそれ確認すると、安心したようにしまい、鍵をかけた。
「菫ちゃん?」
突然の呼びかけに、菫は驚く。
「うわあ!びっくりしたな」
「ああ、ごめん」
宥は申し訳無さそうに縮こまる。
「いやあ、いいんだいいんだ。で、何かな?」
落ち着きを取り戻しながら聞く。
「うん、菫ちゃんにお手紙が来てるよ。はい。」
菫は宥が渡してくれたその封筒に、ある予感を感じて受け取った。
「ありがとう」
「じゃあね時間が空いたら、また麻雀しようね。」
「うん、わかったよ」
宥は、菫に少し違和感を感じつつも菫の部屋を去る。
菫はまた隅に戻って、誰も来ないことを確認すると、その封を開けた。
そこにはただ一つだけ、書かれていた。
『お前が必要だ、戻ってこい。』
その予感は当たっていた。悪い予感であった。
それから菫は何の変化もなく、松実館での日々を過ごしていた。父の態度が良い方向に変わった事を除いてだが。父は食卓にて、菫がこの家を継ぐ事を姉妹に伝えた。3人は、明るく幸せな未来に胸を躍らせた。3人でずっとこの松実館で暮らすのは、どんなにいいだろうとそれぞれ思っているからだ。
ある時は麻雀をし、ある時は旅行に出かける。そして、これは菫の野望だが、いつの日か"姉妹丼"を頂こうと菫は企てているのだ。姉妹の白く柔和な肌を想像するたび、菫は鼻の下を伸ばすのであった。
しかし、菫には引っかかり続けるものがあった。あの手紙である。あの一文。菫はそれを思い出す度、海馬の奥へと押し込んだ。
しかしそれでも、来客は来る。 ある雨の日の事だった。
「こんにちは」
通常、松実館に来る客は観光客である為、一人旅でくる客も多かった。
玄や宥などは、その客もそのうちの一人
だと思っているだろう。しかし、菫はこの顔を"知って"いた。菫は顔を青ざめる。
部屋案内役に当たってしまった菫は、宥や玄に押し付けられるわけもなく。仕方なく案内することになった。
お互い、沈黙のまま廊下を歩く。ギシと床が鳴る音が響いていた。
部屋の前に着くと、菫は何食わぬ顔で。
「こちらがお客様のお部屋となっております。ごゆっくりどうぞ。」
それは、菫の顔をじっと見る。何かを確認するように。
「何でしょうか....お客様....」
菫が慄く。
「もう止めて、わかってるから。」
「そうか....」
「とりあえず、中で話そう。菫もそれがいいでしょう?」
私には仕事がある、と言い終わる前に
「客の面倒を見てた、って言えばいい。」
仕方なく、わかったと言う。
菫は、客室へと入っていった。
久しぶりのその後ろ姿、自分より少し小さめの背を見て。そして、あの日々を"思い返す"のであった。
「座って。」
赤みがかかった髪の彼女が、荷物を隅に置いて言う。菫は黙って従った。
菫に続き、その彼女も菫の向かいに座る。
彼女は重たく問う。
「いつまでこんな事続ける気なの?
記憶を喪失した振りなんかして。」
菫は記憶を喪失などしていなかった。身元を隠す為の都合のいい嘘だったのだ。
彼女は続けた。
「京都は、いや幕府は今菫を必要としている。唯一の弓術師範、弘世菫を。」
弓術師範、それが菫に与えられていた称号だった。菫は、新撰組に所属していたのだ。
「私は戦から逃げたんだよ。照。」
目を伏してそう言う。罪の意識に苛まれながら。
「あの日から、ずっと逃げ続けてきた。」
菫の矢は完璧であった。いかなる状況でも、それは確実に的を射抜いた。新撰組はそんな菫の矢に信頼を置いていたのであった。しかし、事件は起こる。
正月の天満屋、そこでは新撰組隊士らが酒宴を催していた。すっかり盛っている隊士ら。菫や照もそこにいた。
そんな中、襲撃をしたのは海援隊だった。
天満屋は凄惨な戦場と化していた。
決して広くはない場で乱れあう混戦状態。菫は心して狙いをつける。だがその時、燈火が消される。ぱっと部屋が暗くなった。敵を見失う。その状況に菫は困惑したが、瞳孔をを開き、なんとか再び狙いをつけようとした。そして、菫は敵を捉え、射った。先ほども言ったように、菫の矢は完璧であった。その矢も然り。敵を捉えていた。その矢は、敵の太腿に命中した。
よし、と思った瞬間。変わる。その敵は新撰組隊士だった。菫は顔を青ざめる。
確かにあれは敵であった。しかし、矢を当てた瞬間に姿を変えたのだ。
何処からかこ声が聞こえる、こちらを馬鹿にする様な声風。
「残念だったねえ、弓術師範?」
その時、暗闇の中から少女がぬっと現れた。菫より少し年下くらいの少女だ。
海援隊の制服を着ているが、その少女は一切の武器を持っていなかった。長い金髪は多方向にうねうねと不気味に広がっている。
「弓を使うなんてずっこいからねえ。
だから、利用させてもらったよ。」
それは、そう言って笑うのだった。
菫は恐怖した、ただひたすら闇の中で。
仲間の悲鳴が聞こえる。血の匂いが鼻につく。菫はとうとう腰を落としてしまう。仲間を射った罪悪感、何も出来ない自分への欠乏感からだった。
そんな菫を照や他の新撰組隊士が命懸けで守り、その場を脱した。
死者は4名、負傷者は3名を出してしまった。
幸い、菫が射ってしまった隊士は一命を取り留めたが、菫は心に大きな傷を負った。
その後の菫を、誰も責める事は出来なかった。あの少女の異常性には皆が気付いていたからだ。
その2週間後、菫は突然姿を消した。
「もう私は戻れないよ、照。私はあの日から、弓が射れなくなった。」
菫は自分の、その歳の少女にしては大きめの掌を見る。
「震えてしまうんだ。弓を構えると。」
照は弱気な菫を哀れんでいた。照が知っている菫はもっと凛々しく、強かった。
「菫、そんなこと言わないで。皆、菫を待っている。誰も菫を攻めない。」
「すまん、照。私はもう戦えない。新撰組にいても足手まといになるだけだ。それに。」
菫は少し元気な声になる。
「家族が出来たんだ、この松実館で。」
照は少しだけ唇を噛んだ。
照は松実館には3日間滞在していた。その間、菫とは口をきかなかった。
吉野を発つ日。照は玄関で見送りの菫に
「もうじき、倒幕軍との戦いになる。この辺の治安も荒れるでしょう。」
菫は照の言おうとしてる事に気付き、胸をきゅっと掴まれる。
「いつか菫は弓を使わざるを得なくなる。そうでなくても、菫がここに居ることはいつかは暴露る。菫の存在に気づいた倒幕軍は菫の命を狙いに来る。そうなったら、この松実館は危険に晒される事になるよ。」
菫は薄々気付いていた、その可能性に。
それは頭の奥で構築されていた、ある一つの。
最悪なシナリオだった。
「ロン、12000。」
宥が牌を倒す。菫は面喰らった。
「わあ、宥はやっぱ強いなあ。」
「ふう、良かったあ。菫ちゃんのおかげで2位になれたよお。」
玄が無邪気に言う。今日は流石に菫も玄も炬燵に入ってはいない。
「君ら二人、ズルくないか?ドラが集まったり、牌が偏ったりで」
3人の麻雀は、菫にとっていつでも平等に楽しいものだった。菫の心の奥に引っかかっている、悪い予感があったとしても。
麻雀を打ちながら3人で雑談をする。
いつもの事だ、だがそこでいつもと毛色の違う話題を牌を河に捨てながら玄がふる。
「菫ちゃんって、記憶をなくす前どんな人だったんだろうね。」
菫は鼓動が早まるのを感じた。
「火消しさんじゃないかな?暖かそうだし、菫ちゃんに合ってるし。」
宥が意見する。それに玄が、おもち鑑定士だよ、という事を言っている。
それを半ば聞きながら、考える。自分の過去をしったら、この姉妹はどう思うのか。考えた菫は、姉妹に質問した。
「なあ、もし私が....そうだな仲間を裏切る様な悪いやつだったらどうする?」
具体的過ぎたかと、泥棒でもいいぞ、と付け足す。
姉妹は顔を見合わせた。答えは二人、一緒の様だった。
「私達は今の菫ちゃんが好きだから、どうもしないし、どうもなんないかな。」
口を開けたのは宥だった。玄が隣でうんうんと頷いている。
「それに、菫ちゃんはそんな事しないよー。きっと、前の記憶の菫ちゃんもいい人だよー。
玄が付け足す。
「ああ、そうか。....ちょっとトイレに行ってくるよ。」
菫は座布団をたった。
襖を閉めると。そっともたれる。
菫は目に涙を溜めていた。あの姉妹は味方の命を危険に晒し、心を病んで逃げてきた、こんな情けない自分に、無償の信頼を寄せてくれている。そんな姉妹を見て、菫は出来ることなら、3人で暮らしてい。そう、切に願った。しかし、いつか自分は戦場に赴くのだ。菫はそんな予感がしてならなかった。菫は半ば覚悟をしていた。
それから少し経つ。松実館では、宥達が配膳が忙しい時間だった。外では、山の方から宵闇に、影がいくつか松実館の様子を眺めていた。
「きゃあああ!!」
女性の悲鳴だ、松実館の入り口から聞こえた。松実館の仲居、客含めての人達は慄いた。野盗だ、4、5人いるそれらは刀を構えていた。だが、刀は震えている。
外壁や設備を攻撃していた。
どうやら手練れでは無さそうだ。京都の野盗はこんなものでは無かったぞと、菫は物陰からそう考える。
案外、冷静じゃないか、とこの時が来るのを予期していたかの様に菫は思う。
そんな冷静な菫だが、冷静ではいられない様な事が起きる。
「松実の娘はどこだ!?」
野盗は、松実姉妹を人質に要求したのである。目的がなんなのか、それは今の菫にはわからなかった。
「くそっ!野盗の癖に小癪な手を使う!」
「お姉ちゃん...どうしよう...」
その様子を二人で抱き合って見ていた
松実姉妹の玄が不安そうに言った。
宥は玄の腰から両手を引く。
「お姉ちゃんが、行ってくる。」
「ダメだよ!何されるかわからないし!」
玄は泣きながら宥にまた抱きついた。
宥はそんな玄の頭を撫でながら。
「大丈夫だよ。絶対、帰ってくるから。
ちょっとだけだから、待てるよね?」
「お姉ちゃん....でも、嫌だよ......もう家族を失いたくないよ!!」
「玄ちゃん.......お姉ちゃんは居なくなったりしないよ。明日にはまた、3人で麻雀出来るよ。」
「なんで...?なんで私達だけ....こんな辛い
思いしなくちゃ駄目なの?」
『もう家族を失いたくないよ!!』
菫は、姉妹の会話を先ほどの物陰から聞いていた。
玄のその言葉は、今の菫の胸に刺さった。痛かった。
『なんで...?なんで私達だけ....こんな辛い
思いしなくちゃ駄目なの?』
だけど、それでも菫はやらなくてはいけなかった。たとえ、松実館に居られなく
なったとしても。たとえ、家族を失ったとしても。
目を赤く腫らした玄が廊下の奥から、異様な雰囲気の菫を見た。
「菫ちゃん....?」
菫の手には大きな弓があり、背には矢筒が背負われている。
玄の隣には、この状況に成す術のない父がいた。
宥は野盗のもとへ一歩一歩歩いていた。
野盗との距離は4m程だ。震えている様だった。
菫は、全神経を集中させる。構えた弓はもう震えていない、ただ少しだけぼやけて視界が悪いというくらいだった。
そして、射る。その矢が届く時、その瞬間から松実館には居られない。だが、躊躇わなかった。全てで4回。まるで一瞬であった。
野盗は倒れるもの、逃げ出すものがあった。
「これが、最後の"お手伝い"となりました。父上。今まで、ありがとうございました。」
父は驚きで聞く。
「何故なんだ?」
父が聞いた。あんなに綺麗な弓術を見せられたら、仕方ない事だった。
「私は新撰組弓術師範、弘世菫です。」
「違う!何故居なくなるんだと聞いている!!そんな偉そうな名前がなんだと言うんだ!それに君、うちを継ぐんだろ!?ここで、娘達と暮らしていくんだろ!?」
「菫ちゃん....」
宥と玄も、こちらをその綺麗な瞳で弱々しく見ている。
「父上、私は....私は倒幕軍から命を狙われています。私が弓を使った今、いずれ倒幕軍に場所を知られます。そうなったら松実館は危険だ、だから、もういられません。」
「そんな.....」
玄だ。
「行かないでよ....ここにいてよ、菫ちゃん....そんな人達が来たら倒しちゃえばいいんだよ!そしたら大丈夫でしょ?ねえ、だからどこも行かないでよ!!」
玄はまるで無垢な子供だった。菫を失いたくない、また3人で麻雀がしたいと駄々をこねる。そんな子供のようだった。
「玄.....」
そんな玄に菫は
「戦争が終われば、その時は戻ってこれるよ。その時まで、待っててくれないか?」
玄はただ菫に泣きついていた。
宥は、真っ直ぐに菫を見つめた。
そして、自分の愛用のマフラーを外し始めた。菫もそんな宥を真っ直ぐに見る。
「これ、持って行って。」
マフラーを菫にまいた、彼女の体温で暖かいそれは、彼女の優しい匂いがした。
「約束、絶対戻ってきて。そしたら、また麻雀をやろうね。」
マフラーに、雫がこぼれた。
それを見ていた玄は、少し深呼吸をする。
菫の髪が引かれた、玄が髪飾りを付けてくれていた。
「私も、約束。絶対戻ってきて.....それで、その髪飾り....私の髪に付けて」
玄は菫の手を握りながらそう言う。
「ああ、絶対に帰ってくるから!」
姉妹と菫は抱き合った。菫はその温もりと柔らかな身体に、包まれていた。
菫は、3人に別れを告げる。
闇の中へと消えていった。
「うああああ!!」
菫が見えなくなると玄は宥に泣きついた。父は崩れる様に腰を下ろすのだった。
1869年 戊辰戦争は新政府軍の勝利で終結。新撰組は解散。日本には、新たなる時代が幕を開けようとしていた。