幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ……いや割とマジで   作:とるびす

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奇跡は儚き信仰の為に(前)

 終わりはいつだって唐突だった。

 

 気付くのはいつだって終わってからだった。

 

 

 

 

「うわぁ……星があんなに! すっごく綺麗ですねお師匠様! このまま飛んでいけばいずれ月まで飛んでいけるのでしょうか!?」

「ゲホ……そ、そうね……! が、頑張ったら行けるんじゃないかしら……!? ゼェ……ゼェ……!」

「あれ、高度落ちてる?」

 

 呑気にはしゃぐ早苗を抱えながら、ボーイングゆかりん号ただいま絶賛墜落中! このままでは諏訪湖に胴体着陸する羽目になってしまう。

 くっ、調子に乗りすぎたわ……! 早苗に空を飛ぶ感覚を覚えさせようと彼女を背負って宙を駆けたわけだけど、もともと自分一人が精一杯なへっぽこ妖力では1分と持たなかった! 

 

「凄い速度です! 空を飛ぶ事を極めるとここまでのスピードで飛べるようになるんですね! 楽しみです!」

「あばばばば!」

 

 早苗さん違うんです。これって自由落下運動っていうんですよ。錐揉み回転したくてしてるんじゃないんですよ。

 く、くぅ……! こんな間抜けな死に方あって堪るもんですか! 

 身体中の妖力をこれでもかと掻き集め、その全てを飛行へのエネルギーにのみ充てていく。反動力が高まったことによるGで早苗の色んなものが背中に押し付けられていくが、鋼の八雲メンタルはそんなもの気にしない! ていうかそれどころじゃない! 

 

 地表に到着する頃には若干の浮力を取り戻し、華麗に着地──なんて器用なことはできず、私の足首を犠牲に捧げることで無事生還となった。

 

 懸念していた一般人による目撃は恐らく回避できたと思う。周りを見ても街灯ひとつない雑多な林ばかりだ。守矢神社から離れた場所で飛んでたのが功を奏したわね。

 

 取り敢えず死にかけたというのにはしゃぎ回ってる早苗を尻目に、茂みに駆け込み被害チェック。そこら辺にムカムカしたモノを吐き出しつつ、激痛の走る足首に目を向ける。

 あぁぁ……変な方向曲がってる……。これ挫いたってレベルじゃないわ……。

 

 とはいえこの身体は腐っても妖怪ボディ。靭帯断裂一歩手前くらいの怪我なら数時間で治るわ。ふふん、凄いでしょう? 

 まあ、藍とか橙ならこの程度ものの数秒で完治するんだけどね……。

 

 取り敢えず不自然ないように足の形を整えて、と……。もうちょっと吐いてから早苗の元に戻りましょ。

 うえぇ……暫くは飛行恐怖症になりそうね……。

 

 

 ……ん? 

 茂みの奥に気配を感じる。

 耳を澄ませば声まで聞こえてきた。あらやだ近くに人が居たのかしら? 私の嘔吐シーン見られてないか不安だわ……。

 てかこんな真夜中に灯りひとつない闇の中で何をしてるんだろう? 不審者とかなら私の110番が火を噴くが、妖怪や幽霊だとちと厄介だ。正体だけ確認しておこうかしらね。

 

 ゆっくりゆっくり忍び足。時代の荒波を細々と練り歩いてきた私の隠密歩行術……我ながら見事ね! スキマ妖怪の真骨頂である! 

 

 歩みを進めるごとにどんどん声が大きくなっていく。分かったのはそれが言葉の体を成していないこと、そして何か硬いものを比較的柔らかいものにぶつけていること、以上である。

 心なしか水の滴る音もするような……? 

 

 あー、えーっと……もしかして何かイケナイことをしてる現場だったり? もしそうじゃなくても何かけしからん事をしてそうではある。

 ……ま、まあ一応確認だけしておきましょうか。不審者だったらいけないし! べ、別に興味があるとかそんなんじゃないからね!! 

 

「……ぁ……ぁ、あぁ」

 

 声がはっきり聞き取れるくらい近付いたようだ。怪しい、怪しすぎるわ! 

 足首を痛めているのでおっかなびっくりな動作ではあるが、木の後ろに回り込み様子を伺う。八雲紫のホークアイをもってすれば暗闇なんてなんのそのだ。

 

 どれどれ? 

 

「あ"ー、あ"ぁー」

 

 声と称するにはあまりにも乱雑かつ醜い……強いて例えるなら唸り声。だが獣のそれのような活力は感じられない。本能、意思……何もかもが介在しない只管な雑音。

 彼女(スカートを履いてるから恐らく女性)は何かに跨っていた。股の間から覗く脚を見るに、五体あるモノのようだ。

 

 やっぱりエッチな現場じゃないか! と思った諸君は早急に反省して欲しい。ここにはエロスなど微塵もありはしない。あるのはスプラッタだけである。もう血の滴る猟奇殺人現場だ。

 跨っている彼女が直伸した腕を振り下ろすたびに力無い脚が跳ね上がり、嫌な音とともに辺りへ肉感あるものが撒き散らされる。ていうか肉である。

 

 ……よし、帰りましょうか! 

 早苗待たせてるしね! うん多分映画かドラマの撮影でもやってるんでしょう! そうに違いないわ! ゆかりん賢い!! 

 

 そして私は脚を引きずりながら這い出すようにその場を後にした。『好奇心は人を殺す』──これ、我が妖生における教訓ね。

 

 

 

「あっお師匠様! もー何処に行ってたんですか。急にいなくなったから心配したんですよ。それにさっき連絡が──」

「話は後で聞くわ。今は早急に神社へ向かいましょう、一刻も早く」

「えっ? ど、どうしたんですか!?」

 

 有無も言わさず早苗の手を引きその場から離れる。本当ならすぐにでも警察なりを呼ぶべきなのだろうけど、よくよく考えたら私って指名手配されてるし! ならば逃げるしかない! 

 徹底したリスク管理こそ長生きの秘訣なのよ。

 

 

 ひとまず守矢神社周辺まで早苗を引っ張ってきた。これだけ離れれば大丈夫だろうか。ふぅ……ようやく一安心。

 

「ごめんなさいね。あの辺りに良からぬものを感じたの。あのまま留まっていたならばロクな結果にはならなかった」

「そ、そうなんですか。……えっと、あのー……お師匠様。その、手を……」

 

 指摘されて気付いた。早苗の手を握りっぱなしだったわ。あー、年頃の娘さんからしたらあまり快く思わないかもしれないわね。霊夢なんてここ数年お触りすらさせてくれないし……。

 軽く詫びを入れながら手を放す。すると早苗はじっと自分の掌を見つめ出した。

 やだ、何か付いてた? 手汗大丈夫だったかしら。

 

 そんな私の視線の意味を理解したのだろう、早苗が慌てて訂正を入れる。

 

「あっ、いえ……人と手を繋ぐという事が久し振りでちょっと困惑しちゃったんです。こんな感じだったんだなーって」

 

 oh……。

 

「そ、そんなことよりもですね、さっき静葉さんから連絡があって! あっちで何か起こったみたいです。随分慌ててましたので、大変な事かもしれません」

 

 話題を逸らすように先ほどの話の続きを始める早苗。なるほどなるほど? 

 けど静葉(正確には秋姉妹)って事あるごとに慌てふためいているような気がするし、そこまで大した事じゃなさそうね。

 けどまあ、一応確認はしましょうか。

 

 聞くところによると静葉は今モリヤーランドの入場口に居るそうなので、直接そちらに向かうとしましょう。

 入場口までさほど距離はなく、数分も歩けば街灯によって薄明かりに照らされた外観が見えてくる。秋姉妹の姿もある。

 

「あっ、早苗様! 紫さん! こっちこっち!」

「これを見てください!」

 

 彼女らが指差す先には──【水】

 本来ならでかでかと『ウェルカム トゥ モリヤーランド♡』という歓迎の言葉が乗っけられていたゲートは、墨汁で塗りたくられたような禍々しい【それ】によって塗り潰されていた。

 これは……。

 

「なんですかこれ……」

「ただの悪戯かと思ったんですけど……なんか今までのものとは毛色が違うような気がして。なんていうか、嫌な感じ……」

 

 実際、こうした悪戯はモリヤーランドでは珍しくない。つい最近までは暇を持て余した若者たちが(たむろ)する場所として、私を含めたみんなが警戒しなければならないほどだった。

 ただ連中を注意しに来た早苗に対して手を出してしまったのが運の尽きね。ガチ切れした秋姉妹(とついでに私が)ボッコボコにしてやったわ! 秋姉妹は修行の成果が出てるようで何より。

 

 しかし今回はまるっきりケースが違う。相手しなければならない存在がかなりの脅威である事が明白なのだ。

 これは間違いなく呪術の類だ。それもかなり質が悪く、何故か酷く懐かしい。

 

 不幸中の幸いか、この呪いは私たちに向けられたものではないのが救いである。ていうか方向性が定まってないのよね。あっちこちに拡散している感じかしら? 藍が居てくれれば何かわかったかもしれないが……私にはこれくらいが限界ね。

 

これ(ゲート)はもう廃棄してしまった方がいい。ついでに園内に変なのが入り込んでないかを確認……いや今の状況で軽率に早苗を連れて行動するのは危険ね。静葉、穣子……お願いしてもいいかしら」

「大丈夫です」

「ひとまず出入口を閉めたらそっちに向かいますね」

 

 取り敢えず今は諏訪子と神奈子の元に急がなくては! 貴重な武闘戦力である秋姉妹に園内の完全封鎖を任せ、私は早苗の護衛をしつつ本殿を目指す。変なのが出てきても私のスキマチョンパで返り討ちよ! 効かなかったら逃げるしかないけど!! 

 

 

「お師匠様。あの、茂みで仰ってたものとはコレの事を指していたのでしょうか? 『良からぬものを感じる』……みたいな」

「どうかしらね」

 

 茂みの中で見たアレが今回の件に関連するのかどうかは分からないが、こんな事がほぼ同時に私たちの身の回りで起こるのはどう考えてもおかしいわよね。何らかの繋がりは存在するはずだわ。

 壁穴の件とか手首の件とか他にも色々あるし、同一犯の犯行だとすれば悪趣味この上ないわね! 取っ捕まえたら後が酷いわよ! 

 

 なんとも言えない気味の悪さを感じつつ、本殿へ急ぐ。あそこなら万が一にもモリヤーランド全域を対象とした呪が発動しても、すぐに侵食されるということはないはずだ。なんたって全盛期の神奈子&諏訪子が造った社なんですもの! 呪物に対する抵抗力は中々のものでしょう! 

 

 本殿内部へと続く古木板を踏み鳴らし、神域と現世を分かつ境界の役割を持つ障子へと手を掛ける。この中に入れば安心────。

 

 

「来るなッお前たち!」

 

 境界の先から轟く、怒声のような叫び。どうやら早苗の方にも念話として発していたようで、彼女の肩がびくりと跳ね上がる。

 この声は、神奈子か! 

 

「今の……神様の声、ですよね!?」

「……早苗、貴女は階段を降りて待ってなさい。賽銭箱より後ろ……いえ、もしもの時に備えて境内から離れておいて」

「い、嫌です! 私も一緒に──」

「早苗」

 

 緊張を押し殺して早苗を睨む。らしくもなく、精一杯の威圧を演じながら。

 私の想いは伝わったようで、早苗は大きく肩を震わせると、唇を噛み締めながら後ろに下がっていった。

 

 尋常じゃないことが起こってる……私のへっぽこ危機感知レーダーが凄まじい勢いで警鐘を鳴らしているのだ。

 ……いや、よくよく思えばこの警鐘は今に始まったものではなかった。諏訪子に痣ができた時もそう、手首を見つけた時だってそうだ。

 

 完全に油断していた。

 モリヤーランドに着いてから今に至るまでの間に、安全な瞬間などひと時すら存在しなかったのね。幻想郷から離れる事ができた解放感で勘を疎かにしてしまった……! 

『君主危うきに近寄らず』の精神で幻想郷をぬらりくらりと生き延びて来た私だが、まさかよりにもよって外の世界で、こんな致命的な失敗をやらかすとは、思ってもみなかったわ。

 

 境界の先には、ズタズタにめくれ上がった木の板と、消耗した様子で膝を着いている神奈子。そして部屋の中央、依り代となる神鏡を前にして座り込んだまま動かない諏訪子。

 これは一体……? 

 

「なぜ入ってきた愚か者……ッ! 逃げろ……早苗を連れて早く! 遠くへ!」

「……!?」

時間切れ(タイムリミット)だ、紫……! 間に合わなかった!」

 

 ちらりと諏訪子の方を見遣る。

 背を向けているため彼女の今の表情を伺い知ることはできない。だが、それは私にとって幸運だった。変わり果てているだろう諏訪子が恐ろし過ぎて、直視することすら憚られるからだ。

 

 数日前、腹部の痣を見せに来た諏訪子と会ったのが最後だった。彼女はどこまでも悠々とした態度で自らの無事を誇示し、早苗のことを心配し続けていた。無理してるのは流石の私でも分かったわ。それでも、それに甘えなきゃ立ち行かないほどに切迫していた状況では……私は見て見ぬ振りしかできなかった! 

 早苗の才能云々以前の問題だった……? 彼女らの道は信仰を得られなくなったとうの昔に終わっていたのかもしれない。

 

 神奈子の言葉に従いゆっくりと後退を始める。この空間があまりにも危険であることを私の本能が告げている。逃げなきゃ……! 

 諏訪子から目を離さないように後ろ歩きでしっかりと距離を…………。

 

「……っ……ひ……!」

 

 最初は何気ない違和感だったのよ。だけどそれは徐々に確信へと変わっていって、やがてその正体に気付くまでに至った。

 

 最初から諏訪子は私を見ていたのだ。

 神鏡に映る私の姿をずっと……意志も信心も持ち得ない生き物の眼で。真っ黒な闇を横断する黄色の線。両生類特有のそれだ。

 

 背筋を駆け巡る冷たい衝撃。咄嗟に悲鳴を喉で押し殺そうとしたのだが間に合わない。か細いそれが喉を通過してしまった。

 この時ようやく互いが互いの存在を認知するに至り、諏訪子が動くというトリガーとなって私へと齎される事となった。

 

 ひたり、と。四つん這いになった諏訪子はゆっくり此方へと体を向けて、私との距離を詰めてくる。手をつく度に木製の床が間抜けな音を立てながら腐っていった。

 

「──そぉらあッ!!」

 

 諏訪子の横っ腹を飛来した御柱が貫き、身体ごと本堂の壁を貫通。祟り神を縫い付けた。ぼとりと、黒々しい何かとともに脚が下に落ちた。

 御柱といえば神奈子! 力を失っているというのにまだこれだけの芸当ができたのね! だけど、彼女はこれが精一杯だったようだ。

 

「──神は、自らの身体が滅びる時、これまでに受けた信心の分だけ周りに祟りをブチまける。諏訪子が古代から積み上げていた信仰は絶大……! もうそいつは土着神などではない! 諏訪の地を、この国を呪い滅ぼす邪神の存在よ」

 

 苦々しい顔で戦神はそう告げる。

 

「だが幸いだ。悔しい事だが守矢の大注連縄が在る限り神は社から出ることはできない。本殿はもう無理だろうが、鳥居の方は持ち堪えるはず! 分かるだろう八雲紫、私の言わんとしたい事が!」

「ええ、分かりますわ。だけど──」

「私はいい、お前がいる。……頼んだ」

 

 噂に聞くフェムトの力という奴ね……! 注連縄は神を封じる力を持っているという。故に神奈子の本体は境内から離れることができず、それは今の諏訪子とて同じだろう。

 

 つまり、自分も諏訪子も見殺しにしろと、彼女は言っているのだ。

 

 そんなこと、私が許すはずないでしょーが! 見捨ててなるもんですか! 私はね、人が喪われるところなんて見たくないのよ!!! 

 不退転の意志を示すべく、私は笑う膝を無理やり動かし、一歩を踏み出す。ぴくりと、諏訪子の身体が震えた。

 

 ぷるるる……と、電子音が響き渡る。

 

 無線による呼び出し音。おそらく静葉か穣子が連絡を入れたのだろう。瞬間、諏訪子の身体が跳ね飛んだ。自らの肉を千切り這いずるように私へと向かってくる……! 

 

 神奈子の叫び声も、無線の音も……! 何も聞こえない……! 私と諏訪子は組み合うようにして崩れ落ち、障子を突き破り、境内へと転がり落ちた。彼女のお腹から流れ落ちた呪いが私の身体に張り付き、そのまま蝕む。

 

 まるで底無しの沼に落ちていく感覚。

 いつのまにか組み伏せられ、諏訪子は私に覆い被さるようにして一心に私を祟る。禍々しい触手のようなモノが諏訪子の小さな身体を幾多も突き破り私を絡み取っていく。

 虫のように、支配され、朽ち逝く瞳。

 

 ダメだわ……自分の身体が今どんなことになっているのか、それすら分からない。瞳を動かすことすらできない、この気怠さ。抗い難い。

 

 ……そういえば、早苗は今、私のこの醜態を見ているんだろうでしょうね。彼女に諏訪子の姿は見えないから、私が一人で勝手に苦しんでるように見えてるのかしら。

 間抜けね、私って。

 

 

 蔓延る全ての憂鬱を、くはりと、吐き出すようにして、この気怠さに身を溶かす。ごぽりと、口から水が溢れ、黒い泡となって弾ける。

 死を実感する。

 

 でも何故かしらね。

 酷く懐かしい。

 

 私の死を悲しんでくれるだろう人がいる。

 それだけで……私は救われる思いなのですわ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ゆっくりと瞼を開く。

 微かな微睡みに迎えられた私は、霞む目を擦りながら、あぁ「またか」と。ある種の『諦め』を抱きながら辺りを見回す。

 

 色彩のない殺伐とした風景を眺めながら、まるで他人事のように自分の置かれている状況について逡巡していた。

 これは夢だ。夢の世界に来るのは初めてではない、むしろ慣れたものだが、このタイプの夢の世界はかなり稀であり、久し振りだった。

 

 私が訪れる夢の世界のパターンは大きく分けて三つ。最も頻度が高かったのは【ドレミーの居る】夢の世界。しかし彼女が(うつつ)に引っ張り出されて以来、あの世界を見る事はなくなった。

 

 次に【菫子と共有する】夢。ドレミーが居なくなってからというもの、頻繁に菫子と話すだけの夢を見るようになった。何故彼女の夢と私の夢が繋がっているのかは、分からない。けど、その出会いはとても喜ばしいことだと思っている。

 

 最後に【目の前の少女がいる】夢。これが今、私の見ている夢だ。

 大きく深呼吸して、心を落ち着ける。

 ──ダメ。やっぱり直視できない。彼女の眼孔から流れ出る『赤』を、私の『赤』とともに視界に入れることすらできないのだ。恐ろしくて仕方がない。

 

「うぅ……」

 

 あまりの息苦しさに大きくよろけてしまう。そして脱力しながら地に座り込んだ。実体はなく、身体が大きく沈み込む。

 視界が明滅する。私の目から溢れる『赤』が、導師服でもドレスでもない、私の服を染め上げていく。

 

 これは──どういう悪夢なの? 

 永夜異変の前に見てそれっきりだったから油断してた。なんで、こんな時に……。

 彼女は──誰なの? 

 

 途方もない感情が私の胸を埋め尽くす。恐怖、苦痛、警戒……そして興味。彼女の正体が気になって仕方がない。

 貴女と話したくて仕方がない──! 

 

「久し、ぶり……ね。また会えて、嬉しいわ」

 

 私の言葉に、彼女は微弱な反応を示した。意を決して少女の顔を見据える。仄かな光に浮かぶ二つの空洞は変わらず私を見ている。

 何かを訴えかけているのだろうか。

 

「ごめんなさい、ね。今日はこの場所が息苦しくて、堪らないの。……それは貴女が私を、拒絶しているから?」

【……】

 

 彼女は答えなかった。

 唇を強く引き締めながら、やや俯く。眼孔から流れ出る赤が夢の世界を染め上げる。恐ろしくも、魅力的な色だった。

 ふと、背徳的な衝動を覚えた。

 この考えが危険なものであると、私の心が訴えたのだ。慌てて思考を逸らした。

 

「私はね──ずっと貴女に会いたかった。何故だか分からないけど、貴女といっぱい話して、心を通わせて……貴女のことを、たくさん知りたい。それは許されない事なの?」

【……】

 

 やはり答えない。答えられない、というわけではないようだが、何か憚られる理由でもあるのだろうか。くだらない。

 私は起き上がると彼女の手を取る。強く握る。

 

 紛れも無い私の本心を伝えたかった。

 

「私は──貴女に会いたかった。ずっと」

 

 

【──私は、会いたくなかったよ。二度と】

 

 

 ぐわん、と。世界が揺れた。

 点滅していた視界がクリアに開け、私から流れ出ていた『赤』が『無色』に変わる。それが涙であると気付くのに然程時間はかからなかった。

 

 漸く、貴女の声が聞けたのに。

 

 悲しい──。

 

 辛い──。

 

【貴女がここに来る事は誰も望んじゃいない。貴女も、決して望んではいけない】

「私は──ただ貴女のことが知りたいだけで──!」

【私は貴女のことを知る必要なんてない】

 

 彼女は私を引き寄せた。為すすべなく、2人の額が触れ合うほどに。

 空洞が私の瞳に吸い込まれていく。

 彼女の血が、私の身体に入っていく。

 

【これでいいの──あるべき場所に戻るだけ。元に──戻るだけ──】

「っ! 待って! 私を感じて!」

 

 彼女の首にもたれかかる。暖かさも、確かな存在すらも感じない。

 だけど、縋りたい。

 

「私が誰なのか分かるんでしょう? だって……こんなに悲しいんだもの。一度会っただけで……こんなに悲しくなるはず、ないもの……」

【──】

「悲しいに決まってる。だって、貴女は──」

【……──】

 

 優しい抱擁。それは紛れも無い、彼女から私への想いのカタチ。私にはそれがとても残酷なことに思えた。

 やけに頭が冴えている。彼女の血が入り込んだ瞳の熱が、脳髄を焼き尽くすほどに煮えたぎっていた。そう──とても懐かしい。

 

 ずっと昔に味わった感覚だ。

 私はこの想いのまま空を見上げ、月を見たのだ。そして私は気付いたんだわ──自分が、何者であるのかを。

 

 そう、私は──……。

 

 

 わたし、は……? 

 

 

 誰だ? 

 

 違う。これは、私じゃない。

 足元の血溜まりを見る。透き通るほどに真っ赤なそれは私の姿を忠実に映し出している。これは、私じゃない。

 

 背格好も、瞳の色も、服装も──。

 その存在でさえも。

 

 既に変わり果てていた。

 

 

【──】

 

 

 叫び声が耳元を通り過ぎる。彼女からの腰元への強い衝撃により、私は彼女もろとも、あやふやな地面へと沈み込んでいく。

 それと同時に、ずぶり、と。

 私の身体に何か、異物が侵入した。

 

 

 

 どれだけの時間が経過しただろうか。

 今が過去なのか、果たして未来なのか……それすらも分からない。私はこれが夢であると自認しながらも、確かな感触と記憶としてこびりつくこの世界に呑まれていた。

 

 

 いつしか全ての感触は消え去り、ただ一人、私だけが記憶の渦に取り残された。彼女も、私も……存在しない世界。

 デジャヴのように何度も繰り返す。

 抗う術を持たない幼子が夜の闇に放り出されるような、圧倒的疎外感と絶望感。『未知』とは乗り越えるものだが、独りでは無理だ。

 

 

 独りは、寂しい──。

 

 誰か、私を助けて──。

 

 

 夜の闇に抱かれながら、私は誰かを待ち続けた。だけど、誰も助けてはくれなかった。みんなが私を排除しようとするのだ。

 迎えは、終ぞ来なかった。

 

 時間は過ぎ去り、記憶は摩耗し、心が壊れていった。空白と化した過去を必死に振り返る事だけが私の娯楽。月を見上げながら快楽を貪った。

 だけど、いずれはそれすらもできなくなった。

 

 在りもしないモノを思い出すことなんて、できるはずがない。当たり前よね。鮮やかな思い出が大きくなるほど、消えてしまった時の虚脱感が恐ろしい。だから思い出せなくなった? 

 結局、私は何処までいっても異物のままなのだろう。少なくとも、こんな思い出に浸っているうちは、そうに違いないわ。……この世界に私を受け入れてくれる場所なんてないのかもしれない。

 

 ならば自分から動くしかないわ。

 私を迎えに来てくれる人を探す。そして、私のような異物でも受け入れてくれる、そんな世界を用意しなきゃ。

 

 とても罪深い事だ。残酷な決断だった。

 けど、私には到底耐えられなかった。

 

 

 さあ……旅を始めよう。

 大切な人を探す為に歩き続けよう。

 

 この目があれば、別れ道や自らの心に迷うことはない。この目があれば、幻想を見極め誰にも置いていかれることはない。これは私の夢……私の禁忌。何処までも行けるチカラ。

 

 

 ──ひたりと、涙の跡をなぞる。

 

 もう赤は流れていない。

 水面下には私の瞳。何にも勝る『紫色』の贈り物。そう──私に在るのは、この瞳とこの身体だけ。まだ名前がない。

 

 

 ねぇ、(メリー)

 私はどうしよう? 

 誰になろう? 何になろうかしら? 

 

 ……ふふ。

 ならば【(ゆかり)】とでも名乗りましょうか。

 

 縁も()()()も一切ないけど、いずれそれらに満たされる日が来ることを願い、微かに夢見ながら。

 

 私は月へと手を、伸ばすのです。

 

 




今回諏訪子が使用した祟りはなんか内部から腐ってグズグズになって触手が生えてくる系の呪い。オッコトヌシ様かな?
清楚な仙人が出てきた瞬間この始末、やっぱり娘々は最高だな……!

次回か次次回でモリヤー編は終了です

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