幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ……いや割とマジで   作:とるびす

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姫海棠はたては挫けない

 

 

 地べたを這い蹲るのも案外悪くない。

 パラパラと舞い散る薄紅色の結晶を顔から拭いつつ、天子は岩を仰ぎ見た。

 

 日の光が届かない遥か地底。山を突き破った感触からして地面に空洞がある事は分かっていたが、どうせ卑賤な民共が巣食っているような洞穴だろうと決めつけ、大した配慮もなくそのまま押し潰してしまった。

 だがどうだろうか、自分の周りには確かな建造物の残骸が横たわっており、歓楽街を思わせるほどに華美な一画が存在していたようなのだ。

 まさか地底にこのような煌びやかな建造物の群れが建っていたなどと思いもしなかった。故に、考え無しに押し潰してしまったことを少しだけ後悔した。

 

 しかしその思いは数秒のうちに胸の内からさっぱり消え失せ、代わりに沸沸と、頭の隅に追いやられていた激情が再度込み上げてくる。

 激情の正体は闘争心である。天界で戦った小鬼もそうだが、我が身を地底のさらに下層へと叩きつけた圧倒的暴力を放った一角の鬼。あれもまた、渇きに潤いを与えるカンフル剤であった。

 生まれて初めて受けた強烈な衝撃に、天子は興奮していた。ビリビリと表皮を麻痺させる感覚、頭を巡る脳髄を焦がさんばかりの血液。全てが新しい快楽であり、満足に届き得る一撃であった。

 

「悪くない。むしろ大変良い」

 

 地に膝を付けてゆっくりと立ち上がる。

 景色は完全に開けた。

 

「これこそ私の求めた───」

「四天王奥義『三歩必殺』」

 

 

 

 荒々しい岩肌に腰掛けてなみなみに注がれた杯を傾ける。余韻に耽るように星熊勇儀はアルコール混じりの吐息を吐き出した。あまりにも突然の邂逅。楽しみに興じる間もないままの決着だった。

 そこへ獲物を横取りされた萃香が顔を真っ赤にしながら駆けてくる。

 

「おいおまえー! そいつは私が責任持って相手してた奴なんだぞー! それをおまえって馬鹿はさー!」

「今回はお前の落ち度さ。いきなり真上にあんなのを降らせてくるんだ、旧地獄の顔として一発はぶち込まないと顔が立たないよ」

「それでも三歩必殺はないでしょ。完全にぶっ壊すつもりじゃないか」

「おうともよ」

 

 勇儀は顎で視線を指し示す。その先にはかつての煌びやかな通り、喧騒に溢れていた嫌われ者とはみ出し者のかつての郷。全てを受け入れると宣った幻想郷ですら抱え込めなかった連中が行き着く、最後のフロンティアだった。

 あの天人はその全てを壊した。この自ら禁じた比類なき暴力をぶつけるに足る相手であることは疑いようもない。

 という建前。

 

「で、感想は」

「あいつ本当に生き物か? いやおかしいよ、色々」

 

 二人が目を向けた先には、笑顔でこちらに駆けてくる天人の姿。その背後には底無し穴を思わせるほどに深いクレーターが岩肌を抉り取っており、地獄の釜底が口を開けている。

 それら全て先ほどの『三歩必殺』の空圧のみで作り出されたものである。かつて腕を払うだけで一つの山脈を粉々に崩した勇儀の豪腕、それを以ってしてもあの天人を壊すには至らない。むしろピンピンしている始末。

 

「勇儀の拳も決定打にならないかぁ」

「燃えるねぇ」

 

 再度腕二本ほどの距離を開けて接敵する天子と勇儀。体格差や種族、抱く信念思想は違えど、爛々に輝く二人の瞳は全く同類のものだった。

 興味、敵意、そして歓喜。

 

「やるわね。鉛の味なんて何百年ぶりかに味わったわ。つくづく幻想郷という場所は私を楽しませてくれる! お前が此処のトップか?」

「幻想郷の、なら違う。地底の、でも違う。此処に有った街の、であれば私だな」

「おお、お前でもただの末端なのか!」

 

 星熊勇儀を末端呼ばわりする者など天地開闢より振り返っても誰一人としていないだろう。頂点に立つことは一度もなかったが、間違ってもそんな呼び方をしていい存在ではない。勇儀は大して気にした様子も見せなかったが、あまりの物言いに萃香は大笑い。

 

「あら、もしかして間違ったこと言った?」

「……いんや何も。間違っちゃいないさ」

「まあいいわ。私は幻想郷で一番偉くて、一番強い奴に会いに来たの。ちょうどいいわ案内してちょうだい」

「おっと残念。お前の言う妖怪はちょうど(萃香)と一緒に天界に行っててね、入れ違いになった形になる。運が悪かったね。……いや、運が良かったのかな?」

「あっそう。ならそいつが帰ってくるまで暇潰しに幻想郷を制圧してやるわ。手始めは末端のお前たちからね」

 

 落胆した様子も見せずポジティブに鬼二人を挑発する。

 ある意味潔し、と。別ベクトルで感心しながら、勇儀は萃香から瓢を奪い取り、杯に再びなみなみと注いでいく。

 

「よし、ハンデを付けようか」

「あらそう。どんなハンデをお望み? 両手を縛って、ついでに目隠しでもしてあげましょうか?」

「お前のじゃない、私のだ!」

 

 杯を突き出す。今にも溢れ出さんとしている酒が表面張力によってぎりぎり形を保っている。少しでも杯を傾けてしまえば一瞬の間も置かず縁から流れ出てしまう、そんな状態。

 これぞ星熊勇儀お得意の自分ルールである。

 

「この杯から一滴でも酒が零れた時点で、お前さんの勝ちだ。無事に此処(旧地獄)から出してやる。但し負けた時点で───」

「実現しない仮定の話はしなくていい」

 

 天子の指から放たれる掌サイズの要石。勇儀の顔面を狙ったそれは容易く躱されてしまうが、内包していたエネルギー、振動を齎す性質を鑑みれば躱す他なかったのだ。いつも通り肉体で受ける事を選択していれば、杯の酒は今頃宙を舞い、勇儀へと降りかかっていたことだろう。

 あの星熊勇儀に回避行動を取らせた。なんてことのない戯れの応酬ではあったが、密かに瓦礫の中から観戦している旧地獄の面々には冷たい衝撃が走っていた。

 

「私は知っているぞ。この血塗られた幻想郷の歴史を」

「へぇ。で?」

「とある妖怪に泣き付かれてね、人助けなんて柄じゃないけどこんな面白い世界を教えてくれたお礼もあるし、それに私の強さに責任を持たせてみるのも悪くない。勧善懲悪も娯楽のうちよ」

 

 所謂ノブレス・オブリージュというやつだ。

 身に余る責任すらも天子にとっては戯れに過ぎない。そういう点ではやはり鬼二人との共通項は多いように思えた。

 

「鬼退治ほど古来から親しまれてきた勧善懲悪は然う然うあるまいよ。我が覇道の幕開けとしては悪くない。善きかな善きかな」

「変に盛り上がってるみたいだけどさ、お前さん何が目的なんだい? 犇く幻想郷の強者達を全て打ち倒し、幻想郷の長たる八雲紫を降して、果てに望む物……それが知りたい」

 

「美しい世界」

 

 あっけらかんと言い放つ。

 注意すべきは、その美しいの基準が完全に天子の主観に依るものであること。

 

「この醜い世界全てを創り直してやろう! 幻想郷だけじゃない。天界も、此処の下にある地獄も全部! 誰も悲しむことなく、誰も苦しむことなく、誰も退屈することのない桃源郷!」

「はっはっは。ぶっ飛んでるねぇ」

「こりゃあ紫の採点基準以前の問題か。面接なんかしてる場合じゃなかったね、反省しなきゃ」

 

 カラカラ笑う古豪の強者達。しかし天子の視線はもはや彼女らを捉えてはいない。静観する者、怒りを抱きながら此処に向かう者、こそこそと様子を窺っている者──その全てに向けて宣戦布告を言い放ったのだ。

 

「邪魔をしても構わない、私はその悉くを踏み越える。虎穴入らずんば虎子を得ず──痛みを伴わなければ実は得られないのだから。常識よね」

 

 どこか小馬鹿にする様に、天子は笑い飛ばすのだ。

 

 

 

 *◆*

 

 

 

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 案山子のように白い空を見上げながら、はたては茫然自失にそう呟く。ついさっきまで存在していた広大な大地は何処にも無く、岸壁となってその身を曝け出している。天界を覆っている雲海も、まるで隕石が落ちた後のようにポッカリと巨大な穴が空いている。

 はたては自らの思考をズラすことに専念していた。もし至極当然の結論に達してしまえば、自分の頭が壊れてしまいそうだ。

 

「──はあぁぁぁぁ……」

 

 だがその努力も虚しく、はたての口から大きなため息が漏れ出した。案外自分は図太かったんだな、と。冷静に分析できる程度には余裕があった。

 

 妖怪の山から飛び出して、椛の千里眼の裏を突くようにそのまま上へ上へ逃れた、その先が天界だった。つまり、いま自分が居る場所は妖怪の山のちょうど真上あたり。

 このプロセスが完成した時点で、はたての憂慮は現実のものになっていると判断するしかなかった。

 

 妖怪の山は被害を受けている。

 これはほぼ間違いないだろう。

 問題はその余波によって旧友達が被害を受けているのか否かである。文は危険を感じれば即座に殆どの矜恃をかなぐり捨てて逃走するだろう。だが椛は逆にその場に踏みとどまろうとするに違いない。

 心配だ。何かの奇跡が起こって被害ゼロに終わってないかと、願わずにはいられない。

 

「……これからどうしようか」

 

 他人の心配ばかりもしていられない。今後の身の振り方も考えなければ。

 ひとまず身を隠せる場所を探して念写をしよう。幻想郷と天界の様子を確認しつつ、自分の立ち回りを考えるのだ。

 

『私は先に幻想郷に行ってるわ! 頼んだわよほたて!』

 

「……緋想の剣、だっけ。どっかで聞いた事あるけど」

 

 ふと、あのアンポンタン天人の言っていたことが頭を過ぎる。剣を探して欲しいとの事だったが、それがあれば今の状況を打開することができるのだろうか。

 正直、妖怪の山を壊されているだろう事はむしゃくしゃするし、横暴な言動を謹んで欲しいと思う程度には彼女に悪印象を抱いている。ついでに名前を間違えられるのもムカつく。

 でもそれだけだ。妖怪の山ははたてにとって『故郷』であるのは当然だが、場所自体に対しての良い思い出は皆無に等しい。はたてが愛おしく思っていたのは自分に対して優しく、親しくしてくれたそこに住まう者たちだけだ。

 天子が自分に新しい風を齎らす救世主足り得る存在であることには変わりない。

 

 もし──彼女の言っていた事が本当で、少しでも可能性があるのなら。過ちを有耶無耶にできる未来が一欠片でも存在するのなら。

 

「緋想……。探してみよっかな、緋想の剣」

「もし。そこの天狗の方? 何か気に病むことでも?」

 

 ──見つかった。

 即座に逃走態勢を整え、相手を視認するなり飛び立つ準備に入らんとする。だが、中断せざるを得なくなった。その声の主が問題だった。

 そうだ。何か大きな出来事が起きた時、この妖怪はいつもその渦中に身を置いている。念写で現在地を確認するべきだったのだ。

 

 何度も賢者会議、そして写真越しで見てきた畏怖の対象。だが肉眼で、この姿で面と向かって会うのは初めてのことだ。

 幻想郷の最高権力者、八雲紫。

 ゆらりと周りを見渡しつつ、此方に近付いている。

 

「ゆ、かり……何故……」

「あら、私の事をご存知みたいですね。光栄ですわ。ところで天狗の貴女が何故このような場所で、しかも途方に暮れているのです? 何分『悲壮、悲壮』などと呟いてるものですので、気になりました。……もしや伊吹萃香に何かされたりとか?」

 

 やはりだ、伊吹萃香を天界にけしかけたのは八雲紫だ。あの鬼を顎で使える存在など、この隙間妖怪をおいて他にいない。いるはずがない。

 

「それに、こんな所に居ては天魔に叱られるのではなくて? ……悪い事は言わないから妖怪の山へ帰りなさい。私は黙っていてあげるから」

 

 にこり、と。気が遠くなるほど妖しい笑みを浮かべながら、紫はそんな事を言う。

 いつもの皮肉だ。

 天魔(はたて)だと知っていて、妖怪の山は存在しないことを知っていて、わざとあんな事を言っているのだ。天魔としての自分を相手にする時のような高圧的で、身の毛がよだつ程に恐ろしい皮肉。

 

 何度逃げ出そうとしたことか。はたては八雲紫との会話がいつも怖くて怖くて仕方なかった。実際逃げ出そうとして椛に捕まったことだってある。何が嬉しくて幻想郷最強の妖怪に毎度喧嘩を売らなければならないのか。

 だが、紫に対しての感情は恐怖のみではない。

 尊敬の念も抱いていた。

 

 上に立つ者としての苦しみを自分同様に感じているのが、他ならぬ八雲紫という妖怪であるはずなのだ。表では堂々としていても裏では人には見せない弱さが垣間見える時があった。時には涙している時さえ。

 自分だけじゃない。あの紫だって苦しんでいる。それも自分以上の苦しみを背負っている事は容易に想像がつく。なにせ幻想郷のトップだ。それでも常日頃からあれだけの威を放ちながら、平然と振る舞っている。

 それが大きな心の支えになっていた。

 

「お見通しなのね、全部」

「ええ申し訳ないけど」

 

 ならば話は早い。

 

「頗る滑稽でしょ? 私にはもう帰るべき場所がないわ」

「あら。亡命」

「賢者会議の時、視界が開けたような気がした。意のままに動けば何かが変わると思ったの。私がいなくなれば、みんなもっと上手くやれるんじゃないかって、そう願って逃げ出した。その結果がこれよ」

「それは災難だったわね」

「私は……許されるなら、貴女のようになりたかった。とても羨ましい」

 

 鼻の奥が湿っぽくなる。

 

「そう、そういうこと」

 

 対して紫は微かに目を伏せる。口元は広げられた扇子(※予備)で見えないが、大体の感情は見て取れた。はたては息を飲んだ。

 その感情は──怒り。

 

「私は貴女の目指す先になるほど落ちぶれてはいない。低く見られたものね。そもそもの根本から違うのだから、並べる事自体がナンセンスな話よ」

「あ、え……」

「とはいえ、その気持ちが分からないほど私は短慮ではありません。貴女の苦しみは十二分に理解できる。だからアドバイスを差し上げましょう。他ならぬ貴女のために」

 

「責務をやり遂げずして逃げ出す事は許されない。逃避自体を否定しているわけではないわ。寧ろ私は肯定している。……でもね、いま出来ること全てをやり切って、その後存分に逃げなさい。自分は最善を尽くしたと、残した者達に対しても胸を張れるように」

 

 自分の責務をやり遂げる。自分がやり残した負の遺産を、他の者に引き継がせない。

 様々な思いがはたての胸の内を駆け巡る。

 

「貴女が逃げて一番害を被る者……そうね、例として射命丸文を挙げるとしましょうか」

「文?」

 

 紫の口から意外な人物の名前が飛び出した。確かに文はその実力から天狗の重鎮と言っても差し支えないだろうが、実務経営には全く携わっていない。天魔としての自分との交友関係は対外的に見ても皆無に等しい筈。

 だというのに彼女の名前が挙がったというわけで、紫ははたて個人の交友関係まで把握しているという事になる。

 

「もし貴女の投げ出したモノを彼女が背負うことになったらどうなると思います? 私が貴女であれば、恐ろしくて夜も眠れないでしょうね」

「……」

「貴女も理解できて?」

 

 ぐうの音も出ない。

 そうだ、自分が逃げ出せばその皺寄せは間違いなく文に向くだろう。もはや天魔に成り代わる事のできる天狗など、文を除いて他にない。

 天狗から一定の距離を置く事で無関心を装っている文だが、その天狗が八方塞がりのどうしようもない状況になれば、自らの心さえも捨て去り、やがては──。

 

 ポロポロと涙が溢れ出した。

 はたては一時期、文を恨んでさえいた。三人の中で唯一夢を叶えて好き勝手やっているあの烏天狗がどうしようもなく憎かった。

 でも違う。実情は異なっている。

 文が天魔になれば自分よりも良い治世を築ける筈。だけど、そのやり方に付いて行ける天狗なんて殆どいない。彼女は天狗が生き残る為なら、妖怪の山を河童や八雲紫に売り渡すことだって躊躇しないだろう。非常に合理的であっても、それに賛同できる天狗が少数である事は明白である。

 それを文自身も痛切に実感している。やろうと思えば上層部の頭を物理的に挿げ替えることだって可能だが、そんな事をしても天狗を導くことには繋がらない。あくまで天狗全体を変えなければ。

 

 外患は文が抑え込んでいた。積極的に各勢力と関わりを持ち、少しでも力のある存在との親善を欠かさない。マスコミ活動だってそれらの行動の一環に過ぎないのではないかとすら思える。

 ……彼女はもしや期待していたのではなかろうか。自分と椛が天狗の内憂を取り除いてくれる事を。

 だが椛は上と下の衝突を防ぐことに苦慮し、自分は只管上の操り人形。

 

『私は貴女たちのようにはできないわ。とてもとても』

 

 嫌味たらしく言っていたあの言葉でさえ、文からの期待が込められていたのかもしれない。自分は文のように上手くはやれない。だがそれは逆も然り。

 このままじゃ彼女に顔向けすらできそうにない。

 

 

「終われない」

 

 私がまだ一番何もできてない。

 

 やっと気付くことができた。

 自分が取るべきだった指針。全てを投げ打つ覚悟。

 

「紫……ありがとう。おかげで決心がついた」

 

 はたては空を見上げる。天子と萃香の戦闘の余波によって雲は消し飛び、晴れ晴れとした色素の薄い青空が広がっている。

 いま改めて、自分が自由であると実感した。

 

「私に優しくしてくれたみんなが少しでも幸せになるために、頑張る。それまでは何も投げ出さない。……逃げ出さないわ」

「そう。『勇』を得たのね」

「ええそうよ。与えてしまった痛みの対価は私で終わりにするの。友人達にこれ以上の業を背負わせるわけにはいかないから」

「ふふ……いい威勢ね。存分に頑張ってちょうだいな。願わくば貴女の勇翔が幻想郷に大いなる風を齎さんことを」

 

 望んでいた答えが返ってきたのだろう。紫はたちどころに怒りを収めると、満足げに頷く。そして収納用のスキマを開き、ひょいっと細長いモノを取り出した。

 それは剣の柄だった。しかし刀身はなく、鍔すらもない。一見するとただの鉄の棒である。

 不可解に思ったのも束の間だった。

 空を撫でる天女の羽衣を思わせる美しい所作で、紫が柄を振るう。蒼天の空が軽く揺らめき、柄より出でた真紅の刀身をありありと示す。

 

 美しい、余りにも。

 はたては無意識に携帯電話を取り出し、その幻想的な姿形を納める。感嘆のため息すら零れ落ちた。

 彼女の美しさは何度も画面越しに眺めてきた。だけどやっぱり、目の前のリアリティには全く敵わない。直接目にする感動体験には勝らないのだ。

 

 紫は一通り赫刀を眺めると、一笑に伏しはたてへと投げ渡した。空を舞う最中に刀身は掻き消えて柄だけとなり、はたての手に収まる。

 

「『勇』を得た貴女にはその(つるぎ)を差し上げましょう。何の役に立てるかは貴女次第ですわ。さてそれでは、このあたりで私は……」

「待って紫!」

 

 剣の正体は確かめずとも分かった。これこそ間違いなく、天子の言っていた『緋想の剣』であろう。感じるエネルギーの気質が天子の物と酷似している。

 この際、紫が何故それを持っていたのかについては突っ込まない。はたてと天子の目的を把握している件についてもスルー。

 聞きたいのはそんな事じゃない。

 

「紫はなんで、賢者になったの?」

「……?」

「私は知ってる。貴女が今の地位を築くまでにどれだけの辛酸を舐めてきたのかを。並大抵のことじゃない。とても、凄いことだと思う」

 

 裏表のない正直な気持ちだ。

 

「貴女に酷いことを言い続けた(天魔)が言うのは可笑しな話だけどさ、とっても勇気づけられた。魑魅魍魎の跋扈するこの世界におけるキーパーソンであり、最高権力者。それ故に数多の悪意に晒され、時には害を齎される事だった多々あったわよね。それでも全く挫けないその姿は、称賛に値する」

「あら、どうも」

「けど終ぞ、その原動力の源となる要因は分からなかった。……良かったら教えてくれない? それが分かれば私も、もっと頑張れるかもしれない」

「……うーん」

 

 先ほどまで見る者全てを震え上がるような冷徹な相貌はみるみるうちになりを顰め、困ったように目を逸らす。あの八雲紫が答えに窮しているのだ。

 それほどまでの機密事項なのかと、まるでマスコミの真似事のように追求したい欲に駆られる。はたては新聞記者の卵を夢見る乙女である。

 

「いざこうして言語化を求められると、少々苦しいわね。だって人を動かす要因は決して一辺倒なものじゃありませんから。民のため、友のためと高尚な事を宣ったとしても、それは誰かに仕組まれているかもしれない。或いは自分すら窺い知れない本音を隠すための言い訳なのかもしれない。自らの想いだけが自分の行動の全てを握っていると考えるのは傲りでしょう」

 

 ギクリ、となる。

 八雲紫の皮肉はまだまだ健在のようだ。

 

「要するに、要因は無いってこと?」

「それは違うわね。決意には何かしらの理由が付き物ですもの。私だって、無意味にこんな事(幻想郷運営)をするほど酔狂ではありません。賢者になった理由というなら、どのような経緯があったとはいえ、『夢』を叶えるためですわ」

 

 夢というならそうだ、文とはたてが天魔を目指していた理由もまた、夢だ。天狗を盛り立てていきたかった、天狗……椛や天魔に誇れる存在になりたかった。

 色々ある。紫の言う通り、一辺倒ではない。

 

 でも、やっぱり一番は────。

 

 

「美しい世界」

 

 幽遠な雰囲気を醸し出しながら、遠い目で呟く。

 

「争いに溺れる醜い残酷な世界で、唯一の安息地たる場所を作りました。天界も地獄も関係ない。悲しむ者、貧する者、苦しむ者……みなを等しく受け入れる。そして、そこに住まうみなが仲良く暮らしていけたらいいな、なんて安直な動機。荒唐無稽な夢です」

「とってもいいと思う!」

 

 なんと言う事だろうか、と。何故もっと早く気付かなかったのかと。八雲紫という存在を歪んでいるとばかり思っていた自分を恥じた。

 八雲紫は歪んでいるはずだ。

 念写でたびたび盗み見ていたから。あの怪物でも苦しんでいるのだと、自分を半ば安心させるためにそう思い込むように心がけていた。だがそれでもやはり、自分と紫の間には埋め難い隔絶された差があるように思っていた。八雲紫の最終目的は、自分のモノなんかより遥かに壮大で、及び着かない領域であると。

 

 そんなことはなかった。

 八雲紫の夢はあまりにも弱者の等身大そのものだった。自分達のモノと酷似していたのだ。

 

 感極まったはたては喜色満面の笑みで、泣きながら紫の手を握る。そして上下にブンブン振り回した。

 

「ありがとう紫! ごめんね紫! 私誤解してた。いつも酷い事ばっかり言ってごめんねぇ! 私の事を許してくれてありがとう!」

「落ち着きましょう?」

「夢、叶うよきっと! 応援するよいっぱい! 私はもうダメかもだけど、文ならきっと叶えてくれるから!」

「えっとね?」

「紫がんばって! 私もたくさんがんばる! みんなでがんばればきっと幻想郷も平和になるもんね! だから諦めないで、一緒にがんばろう!」

「ありがとう?」

 

 

 

 結局はたては言いたい放題好きなだけ喋りまくった後、渡された柄を大事に抱えながら下界の方へと飛んで行ってしまった。風圧を顔面に受けながら、紫は彼女の姿を見送っていた。

 

「嬉しいはずなのになんか腑に落ちないわね……」

 

 そんな事を呟きつつ、無視していた脳内への着信へ意識を向ける。はたてとの会話中にもけたたましく鳴り響いていたそれだが、そろそろ圧が強くなってきたので無視するのも限界であった。

 なるべく平静を保ちつつ応答する。

 

「ごめんなさいね藍。ちょっと用が立て込んでて出れなかったの」

『……』

「ほ、本当よ?」

『大丈夫ですよ。紫様が何をしていようと、私はその御心に従うまでです。決して無視されていた事に対して腹を立てているわけではありません』

「そう? なら良かったわ』

 

 取り敢えず一安心。ほっと胸を撫で下ろしつつ藍の心の広さに感謝した。流石は最強の九尾、尻尾も器量も並大抵ではないという事だ。

 さて、本題へ。

 

「それでどうしたの。何か問題でも?」

『テロです。妖怪の山を標的とした、それも大規模な』

「あらなんて事。被害の概要はどうかしら」

 

「まあいつかは起こるだろうな」と、たかを括っていた紫にとってはその程度の出来事だった。首謀者は河童あたりだろうか。

 

『順次調査中ですが、未だテロの首謀者との戦いが続いており其方の対処を優先いたしますので、詳しい報告には少しばかりお時間をいただけると。またそれに伴いまして暫く幻想郷は慌ただしくなりますので、紫様は天界に留まっていただくか、帰宅されてお休みになられててください』

「分かったわ。霊夢と密に連携を取って安全第一で対処するようにね。あと妖怪の山麓にも被害は出たのかしら? マヨヒガの橙は無事?」

『建物に損傷は出ましたが橙と配下の猫達に被害はありません。今はちょうど訪問していた犬走椛との調整に当たらせています』

「そう。無事で良かったわ。──あ、守矢……いや、何でもないわ。それじゃよろしくね、藍。毎度苦労かけてごめんなさい」

『……いえ』

 

 最後の間が少しばかり気になったが、まあ気の所為だろう。軽くため息を吐き出しつつも、紫は頗る冷静。むしろ余裕さえあった。

 かなりの面倒ごとではあるが、後始末は後任に丸投げすれば良い。自分は恙無く引き継ぎを済ませればそれで終わりなのだ! 今できることを全てやり切ってから隠居しろ? 今回のは辞任表明後に起きた事なのでノーカン判定。

 唯一の憂慮といえば先ほどはぐれ烏天狗に語った八雲紫の最終目標『みんな仲良し幻想郷』にまた一歩遠ざかってしまった事ぐらい。

 

 それよりも今は早苗と神奈子の安否確認が最優先である。確か今日は人里に神奈子とともに布教しに行くと言っていたので無事ではあろうが、念のため。

 

 目紛(めまぐる)しく移り変わる情勢。慌ただしく動き出す各地の実力者達。幻想郷に齎された比那名居 天子という名のカンフル剤。長年燻っていた姫海棠はたての決意。

 それらが一斉に蠢き出す。

 

 そんな中、肝心の紫は結構呑気していた。




ゆかてん「「Beautiful world」」

東方緋想天のサウンドトラックCDのライナーノーツには、緋想の剣を手にする八雲紫の姿が描かれている。 天子から貸してもらったのか、はたまた奪い取ったのか……ゆかりんと天子の良好な仲が窺えますね♡(なお憑

よくよく天魔の言動を見返すとずっと無言になってるか、ゆかりんを糾弾してるかのほぼ2パターン。操り人形の片鱗が垣間見えます。
ただ一話冒頭で紅霧異変への文派遣に渋ってたり、吸血鬼異変時に山への小悪魔襲撃の報を聞いて慌てて会議の場から飛び出しちゃったりとやや自我が出てる模様。

なお今回も心配したり怒ったり剣を投げ渡したり困惑したりと、情緒不安定だったゆかりん。
その理由は次回にて。

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