オーバーロード P+N シャルティアになったモモンガさん 作:まりぃ・F
冒険者組合をあとにしたモモンガは、エ・ランテルの大通りを歩いていた。この街ではもっとも広い道とのことだったが、モモンガの感覚からするとそれほどには感じられない。
(それに、むき出しの土とはなぁ)
道にはアスファルトによる舗装などははむろん、石畳すら敷かれてはいなかった。そのためか、やや埃っぽいのが気になる。
また、馬車の車輪が刻みこんだ幾条もの轍が、レールのごとく走っていた。身体能力が高いため、慣れないヒールの靴にもかかわらず歩きにくいということもなかったが、あまり気持ちのいいものでもない。
(それでも、あの世界よりははるかにマシか)
ガスマスクや人工肺といったしろものに頼らなければ外を歩けない元の世界。あれに比べれば、どうということもない事だ。
もっとも、今のこの身体ならばあの環境でも問題なく過ごせてしまうというのは、そして胸いっぱいに吸い込んだこの清浄な空気も必要としてはいないのは、何とも皮肉に感じられる。
さらに、どこまでも青く澄んだ空とふりそそぐ太陽の光。せっかくの素晴らしい自然環境にもかかわらず、陽光を不快に思ってしまうこともまた。
(さて、まずは宿の確保だな。ガゼフはいいとこをすすめてくれたけど)
ガゼフ・ストロノーフが推薦してくれたのは、「黄金の輝き亭」というエ・ランテルでも最高級と言われる宿だ。一見の客は相手にもされないということで、わざわざ紹介状まで持たせてくれている。
その気配りには感謝しているものの、モモンガには一般の冒険者が利用する宿への興味もあった。そのあたりの情報はイシュペンから仕入れてある。
(とりあえず、いちばんランクが低いとこから行ってみるか)
ちなみに群衆は、組合に入っている間にだいぶ減ってはいた。しかし歩くにつれ、話を聞きつけたのかまた次第に増えてくる。もっとも相変わらず近づいて来ようとする者はいなかった。
(もう無視、無視だ。気にしてたってしょうがない)
うかつに自分から関わって騒ぎにでもなったら、薮蛇である。なるべく視線も合わせないようにして、目的地を目指した。
(うん、ボロいな)
ようやく見つけたその宿の外観は、いかにもといった感じで薄汚れていた。正直、今の自分の力で殴れば倒壊するんじゃないかと思えるほどである。モモンガは一瞬ためらったものの、扉を押し開き足を踏み入れた。
中はやや薄暗かったが、モモンガには何の支障もない。室内の様子は隅々まで見て取れた。
一階部分は食堂になっているようで、テーブルとイスが乱雑に並べられ、真っ昼間から酒を飲む冒険者らしき男たちの姿がある。酔っぱらって管を巻くその姿は、ただのチンピラにしか見えなかった。
(うーん、これが底辺の冒険者ってやつか? )
組合にいた冒険者たちと比べても明らかに雰囲気が弛んでいるが、こちらに向けられる呆けた顔はあちらと違いはない。
奥にはバーカウンターがあり、宿の主人らしき男が酒瓶を並べる手を止めてこちらを見ていた。他にそれらしい場所もないので、宿の受付も兼ねているのだろう。禿頭でゴツい顔と体格、そして大小の傷跡をそなえた男は、山賊の親分にしか見えなかったが。
全ての視線を一身に集めながら、シャルティア・ブラッドフォールンは悠然と歩いてゆく。
(床はしっかりしてるな)
踏みしめる感触からみて、床が抜けるようなことは無さそうだった。扉をあけた時の感じでも、立て付けは悪くはなさそうである。見れば、テーブルやイスなども頑丈そうな作りで、かなりゴツかった。
実のところ、この宿は見た目のボロさとは裏腹にかなり頑丈に出来ている。何せ重装備の、力が有り余った粗雑な連中が出入りしているのだ。柔な作りではあっという間にボロボロになってしまう。もっとも、掃除はまったく行き届いていなかったが。
(だけど汚っ! 何なのアレとかアレとか)
床にこびりついたナニかの成れの果てをさりげなく避けながら、姫君はゆっくりと進む。そして呆気にとられたまま自分を見ている宿の主人の前に立った。
「あの、宿をとりたいのですが」
その言葉に、周囲がざわめく。すでに組合での騒動はここにいる連中の耳にも入っていた。胸に下げているプレートを見れば、冒険者となったこともわかる。しかしこんなボロ宿に泊まりにくるとは、さすがに予想外のことだった。それは宿の主人にとっても同じことである。一瞬意識を飛ばしながらも、反射的に口を開いた。
「帰んな」
即答された姫君が、いくぶん困惑したように首を傾げる。周りのものたちも、驚いたように顔を向けた。
「あの……」
「ここは、お嬢ちゃんみたいなのが来るところじゃねえんだよ」
実のところ、かつてこの宿にも身分のある人間が泊まったことがある。いろいろ訳ありだったのだが、その時にはトラブルが絶えなかったものだ。ましてやこの美し過ぎるご令嬢ともなれば、いったいどうなることか。
「はっきり言って、うちは冒険者相手でも一番ランクが低い。お嬢ちゃんならもっと上の、と言うか最上級のところにしとけ。余計なトラブル起こさんためにもな」
主人にしても、金払いの良さそうな客を断るのは惜しかった。しかし経営者としての勘が、これはまずいとささやいている。店を潰しかねない行為であると。
いくらかの問答の末、結局モモンガは宿泊を諦めた。代わりに、宿の中をひとまわり案内してもらうことにする。
(まあ雰囲気ぐらいは感じられるかなぁ)
主人に連れられて姫君が二階に消えると、その場にいた全てのものたちが大きく息を吐いた。そして呪縛から解き放たれたかのように、姿勢を崩す。
「ふぅ、なんなんだありゃ」
「スゲーな、いろいろと」
「ったく、ウワサなんて全然あてになんねーじゃん」
聞いた話から想像していた姿など遥かに上回る美しさに、惚けた表情で男たちは口を開いた。みな在らぬ方を見ながら、今しがたの光景を反芻している。そのまましばらく浸っていたが、ふとあることに気がついた男がいた。
「なあ、いつものアレ、洗礼どーすんだ」
その言葉にはっとなった男たちの視線が、とある一点に集まる。その先にいる今回の当番である男が、慌てて立ち上がった。
「いやいや、無理無理無理だって!」
いつもの、というのは新人に対して行われるちょっかいのことである。元々は冒険者の柄が悪いゆえに起こるトラブルだったのが、いつの間にか度胸試しのような恒例行事として定着していた。
しかし、あのような美しく身分の高そうな少女に仕掛けるのは、さすがにためらわれる。もし威圧的に出て泣かせでもしたら。足を引っかけ転ばせ、怪我でもさせてしまったら。
「俺は絶対にやらんからな!」
どう考えてもロクなことにはならない。それだけははっきりと言えた。
そこに、扉の開く音が響く。男たちが目を向けると、赤い髪の女性冒険者が入って来るところだった。
「なんだブリタか。どうした、なんかいいことでもあったんか」
「アンタらにゃ関係ないね」
少し浮かれたような表情をしていたブリタが素っ気なく応えるが、すぐに口もとが少し綻んでしまう。
(もう少しでたまる~)
ブリタは治癒のポーションを買うために金を貯めていた。それが今回の依頼をこなせば、目標額に達しそうなのである。しかしそんなブリタにも、この場に妙な雰囲気が漂っていたのは感じることができた。
「ところで、なにかあったの」
宿の主人が差し込んだ鍵をひねると、ガチャリと大きく耳障りな音が響いた。開かれる扉の蝶番が軋む音も、どこか勘に障る。かつてモモンガが住んでいたボロアパートでさえ、ここと比べたらだいぶマシだ。
促されて室内に足を踏み入れたモモンガは、あたりを見回す。わずかに開いた窓から差し込む陽光だけが頼りの薄暗い部屋だが、むろん支障なく見て取れた。
「うわっ、汚っ」
「くっ」
狭い個室の中の様子は、一階のものとさして変わりはない。思わず漏れた姫君の正直な感想に、宿の主人は言い返せず詰まった。
(それに臭いもすごいな~。こんなトコに泊まるのなんて無理だろ)
傘の先で寝台の上のボロ布を突っついたり持ち上げたりしながら、モモンガは内心首を振った。もとのものより遥かにスペックの高いシャルティアの身体は、感覚も比較にならないほど鋭敏になっている。とても耐えられる気がしなかった。
それでも大部屋に比べればまだマシなのだと、この後すぐに悟らされることになるのだが。
「ええ~、少しおおげさなんじゃない」
組合に現れた美姫の話を聞いていなかったブリタは、男たちの話を一笑に付した。近くのイスを引っ張り寄せるとどっかと腰を下ろし、やれやれというように手を振る。
その態度に男たちが何か言い返そうとした時、誰かが階段を降りて来る気配がした。それに気がついた男たちが、一斉に振り向く。異様とも言える光景にギョッとしながらも、ブリタは男たちの視線の先を追った。
(うわっ)
まるで舞踏会に招かれた来賓の登場のように、ひとりの少女が階段を降りて来る。女神のごとく美し過ぎる姿を見ていると、見慣れたボロ宿が貴族の屋敷のように感じられた。
すべての視線を集めながら床に降り立った少女は、従者のように引き連れていた宿の主人のほうを、舞うような優雅なステップで振り返る。
「いろいろお騒がせいたしました」
「あ、ああ、まあいいさ」
スカートを摘まんでちょこんとお辞儀をするシャルティアに、宿の主人は頬をかきながらどこか戸惑ったように答えた。本来ならこのような高貴な人間に対しては、丁寧な応対が求められる。しかしこの姫君は気品ある姿勢を保ちながらも、相手のいささか品のない態度も咎め立てるようなことはなかった。
そのためつい地が出てしまうのだが、相手は全く気にする様子がない。
(こいつは大物だよなぁ……いや、本物って言うべきか)
かつて宿に泊まった貴族が気位ばかり高く人を苛立たせるだけだったのに比べると、この姫君の落ち着いた物腰は好感をいだかせるものだった。それは、理想の貴族とでも言うべきかもしれない。
くるりと背を向けて歩き出したシャルティアが、ふと足を止めて首を巡らせた。その視線の先にいるのは、女性冒険者のブリタである。
(ひ、ひいっ!な、なに?)
近付いて来る人外の美貌に見入っていたブリタは、宝石のように美しい真紅の瞳に見据えられ、何事かと竦み上がった。もっとも、モモンガはたいしたことを考えていたわけではない。
(お、女性冒険者か。組合にもいたみたいだけど、近くで見るとまた感じ違うな~)
化粧っ気のまったくない、さらには清潔感にもいささか欠ける姿ではあった。だが顔立ちは悪くない、というかなかなかに思える。美人というよりは愛嬌があるといった感じではあったが。
「こんにちは」
「は、はい!こんにちはです!」
シャルティアの挨拶に慌てて立ち上がったブリタが、直立不動で返した。いささか滑稽とも見えるが、それを笑うものはここにはいない。むしろ声をかけられてうらやましい、と思うだけだ。
唯一の例外であるシャルティアだけが、口許を綻ばせる。端正な顔立ちに浮かんだ微笑みは、さらなる彩りとなってその美貌を輝かせた。
(うわああああ)
それを間近で見てしまったブリタは、完全に固まっている。その胸元に下げられた鉄のプレートに、シャルティアの視線が向けられた。
「銅級冒険者、シャルティア・ブラッドフォールンと申します。入ったばかりで不慣れなので、ご指導よろしくお願いいたします」
モモンガにしてみれば、自分が新人であるがゆえに定型文で先輩を立てただけである。しかし、周りから見ればそれはありえない程の光景であった。
そんな周囲の驚愕をよそに、シャルティアはブリタに軽く一礼して歩き出す。そして扉の前までたどり着くと、室内を振り返った。
「それでは、失礼いたします」
扉の向こうに姫君の姿が消えると、まるで太陽が沈んだあとのように暗く感じられた。いつもと変わらぬ見慣れた光景のはずが、いつもより暗く薄汚れて見える。
宿の主人は、姫君が漏らしたこの宿の寸評を思い出していた。
「……少し気合い入れて掃除すっかな」
いくつかの宿を回ったものの、結局モモンガは「黄金の輝き亭」にたどり着いていた。目の前にそびえ立つ、これまでのとは段違いの豪華な建物を見上げる。
(うわぁ、高そうだなぁ……)
根が庶民であるモモンガにとって、それはなかなか気後れするものだった。しかし、ためらっていてもどうしようもない。モモンガは覚悟を決めて、装飾過多にも思える扉の前に立った。
その瞬間、扉が内側に音もなく滑らかに開いて行く。思わずビクッと震えそうになるのをこらえて、モモンガはそのまま開ききるまで待機した。
「いらっしゃいませ」
中に足を踏み入れた姫君に、両脇の従業員が丁寧に頭を下げる。小市民な身としてはつい反射的に自分も頭を下げたくなるが、なんとか我慢した。
中は風除室になっており、正面にもうひとつ扉がある。従業員は姫君の美貌に目を奪われながらも辛うじて職務を思い出し、素早く移動してうやうやしく扉を開いた。
(落ち着け、落ち着け)
モモンガはともすれば緊張で震えそうになるのをこらえながら、努めてゆっくりと歩を進める。こんな状況でも意識せずとも姿勢を綺麗に保ったまま歩けることが、たいへんにありがたかった。
(おお、広いな)
一階ロビーは、今までの宿とは比べ物にならないほど広く明るい。内装の豪華さも言わずもがなだ。飾られている絵画など美術品も、審美眼に自信のないモモンガから見てもいいものに思える。
左手には受付カウンターがあり、数名の受付嬢が並んでいた。正面には舞台のように広い踊り場のある階段が、右手はラウンジになっており、先程まで談笑していた客が驚いたようにシャルティアを見ている。
全体的に広くゆったりとしたつくりで、かつて古い映画マニアなギルメンに見せられた作品の舞台に似た雰囲気があった。
(まあ、ナザリックのほうがすごかったけどな。だけど……)
確かにナザリック地下大墳墓の最奥は、これと比較にならないほどの豪華な美を誇っていた。しかし、あれはあくまでデータに過ぎない。作るための難易度を考えれば、実際に存在しているこれと比較するのは間違っているだろう。
足を止め辺りをゆっくりと見回していたシャルティアが、受付カウンターに向かって歩み始めた。進む先にいる従業員はすべて凍りついたように固まって、近付いて来る姫君の姿を見ることしか出来ないでいる。
「こんにちは」
「は、はい、いらっしゃいませ!」
受付嬢は、はじめてここに立った時よりも緊張しながら頭を下げた。様々なVIP を出迎えてきた彼女から見ても、その美しさといい纏う雰囲気といい、すべてが桁違いの存在なのである。
そんな少女に圧倒されている受付嬢の隣に、奥から出てきた身なりの良い壮年の男性が立った。
「いらっしゃいませ、お客様。こちらのご利用ははじめてでございますか?」
「はい」
「紹介状はお持ちでいらっしゃいますか?」
シャルティア・ブラッドフォールンは小さくうなづくとどこからともなく書状を取り出し、カウンターに置かれたトレーの上にそっと乗せる。ここは冒険者組合ほど高くはないので、問題なく届いた。
「ありがとうございます。それでは、拝見いたします」
男性は綺麗な姿勢で一礼すると、うやうやしく取り上げて中をあらためる。一通り目を通してから、書状を丁寧に畳んだ。
「いらっしゃいませ、シャルティア・ブラッドフォールン様。『黄金の輝き亭』はお客様の御逗留を歓迎いたします」
「それでは、失礼いたします」
部屋まで案内してくれた女性従業員が、深々と頭を下げて退室した。ひとりになったモモンガは、あらためて室内を見渡す。紹介状を受け取った男性、この宿の支配人によると最上級のスイートルームとのことだったが、その言葉に偽りはないようだ。
(いや、これ広すぎるよね)
今いるこの部屋だけでも広いというのに、他にも寝室などいくつかと、使用人のための部屋まである。さらには立派なバスルームまで完備していた。
この部屋の雰囲気は、どことなくナザリック第9階層の自室に似ている。というより、あれがこういったホテルの客室を参考にデザインされたのだろう。
(さて、まずは建物の構造からだな)
はじめて泊まる場所なのだ。いざという時のために把握しておかなければならない。襲撃があった場合の防衛ポイントや、逃走経路の設定も必要だ。むろん宿のほうでも考えているのだろうが、任せっきりというわけにもいかないだろう。
とりあえず部屋を守るための魔法を色々かけてから、モモンガは案内の従業員を呼ぼうとテーブル上のハンドベルに手を伸ばした。
「そう言えば、そろそろディナータイムでございます。お食事はいかがなさいますか?」
宿の中をひとまわりして帰ってきた部屋の前で、案内してくれた従業員が尋ねてきた。その言葉にモモンガは少し考えこむ。
(食事をする必要なんてないけど……しないわけにもいかないか)
しないで誤魔化すことも不可能ではないだろうが、出来ることを無理に避ける必要もないはずだ。それに無理を通す機会は、そのうち訪れるかもしれない。そういう手は、そんな時のためにとっておくべきだ。
ただ、ひとつ不安がある。
(俺、こんなトコで飯食ったことないよ……)
もともとが場違いな上に、ここは異世界なのだ。きちんと振る舞える自信など皆無である。そんなモモンガの頭に、あるアイディアが浮かんだ。
「部屋に運んでもらうことは出来ますか? 」
結局モモンガは、少し遅めの時間に部屋で食事をとることにした。従業員が帰ったあと、さっそく行動を開始する。
使用するのは〈遠隔視〉の魔法だ。これで食堂の様子を観察し、食事の作法などを予習しておく。その上で慣れない異国のことだからと言い訳して、間違ったところを直してもらう。
一から聞くのは恥ずかしいが、これならなんとか大丈夫なはずだ。あとはこの身体のスペックの高さに期待するしかない。モモンガは対抗や妨害への対抗呪文を唱えはじめた。
(なんとかなったな~)
撤収していく従業員たちを見送ったモモンガは、ほっと胸を撫で下ろした。結果はおおむね満足できるものだったろう。
(見栄をはるのもありだけど、はり過ぎないようにしないとな……適度に人を頼ったほうが良さそうだ)
そう結論づけると、柔らかなソファーに深く身を沈めた。そのまま、今しがたの食事に想いをはせる。
自然の食材で作られた料理は、かつて暮らしていた世界ではとうてい手の届かない高級品であった。それが、ここではすべての皿がそうだったのである。モモンガの常識からすればあり得ないことだ。
今回のメインディッシュであったステーキなど、本物を口にしたことがない。モモンガが知っている肉の味は、液状食料ステーキ味などといったシロモノだ。
(うん、悪くない。悪くないな)
今までモモンガは、食事など腹さえ膨らめばそれで良いと思ってきた。しかしその認識も変わりつつある。これほどの料理が、簡単に食べられるのだ。
この件についても、自分を変えていくべきなのかもしれない。モモンガは、少し食に興味を持ってもいいかと考えはじめていた。
目を閉じてソファーの心地良い感触を堪能していると、寝室にあったベッドのことが思い出された。その感触が気になったモモンガは、ふわっとソファーから飛び下りる。そのまま弾むような足どりで寝室に向かった。
(やっぱりデカイな~)
目の前に横たわるベッドは、かつてモモンガが使っていたものよりはるかに大きい。いくらなんでも無駄に大き過ぎないかとも思ったが、贅沢とはこういうものかと思い直した。
モモンガはそっと手を伸ばし、掛け布団をポンポンと叩いてみる。さらにぐっと押し込んだ。
(おおっ、柔らかい)
すべてが自然素材でできた高級品の感触は、はるかに進んだ文明からやって来たモモンガから見ても素晴らしい。あちらの最高級品などとんと縁がなかったが、これならばひけをとらないのではないだろうか。
シャルティア・ブラッドフォールンの白いかんばせが不意に上げられ、室内の様子をうかがう。誰もいないことはわかっているものの、つい反射的に動いてしまったのだ。
(うう、止めようかな。でも……)
一瞬ためらいながらも、モモンガはベッドにダイブする。巨大なベッドはシャルティアの小さな身体を優しく受けとめて、弾ませた。
(おおっ、すごい)
そのままベッドの弾力を堪能しながら、ゴロゴロと転がる。大きなベッドの端から端まで使いながら、何往復も。そうやってしばし楽しんだあと、頭から布団の中に潜り込んだ。もぞもぞと這いずり回り、顔だけをひょっこりと覗かせる。
(柔らかくて、あったかいな~)
全身を包み込む極上の感触に、しばし目を閉じて浸った。それは身心ともに安らぎを与えてくれる、素晴らしいものである。しかし───
(これはちょっと……)
どれほど心地良かろうとも、当然のごとく睡魔が訪れるようなことはなかった。身体も休息など必要とはしておらず、安らぎも意味がない。
このような状態で一晩を過ごすなど、ある意味拷問にも等しかった。
(いずれ、夜の過ごし方とか考えないとな)
そんなところに、数名の女性従業員がやって来た。これは、風呂の用意をするためである。
出迎えたモモンガに頭を下げてから浴室に消えていくが、ひとりだけ銀の盆を持った従業員が近づいてきた。
「お客様、冒険者組合から書状が届いております」
見れば、盆の上には一通の封書が載っている。封に押された印は、組合で見た紋章と同じものだ。そして文字が読めない以上、とるべき手段はただひとつ。
「読み上げて下さい」
内容は、指名依頼が入ったので明日組合まで来てほしいというものだった。今日登録したばかりなのに、なんとも素早いことである。これも、第三位階魔法の威光なのだろうか。
(まあ、さすがに最初っから重要な仕事は来ないだろうな。まずは実力の確認と顔繋ぎってとこか)
それでも上手くこなせば次に繋がるだろうし、いずれはいいコネになるかもしれない。ここは失敗するわけにはいかなかった。モモンガは闘志を燃やして、こぶしを握り締める。
そんな姫君を見ている女性従業員は、なんとも微笑ましいものを見たような表情を浮かべていた。
「準備が整いました。こちらへどうぞ」
かつて暮らしていた世界でモモンガは、風呂などほとんどスチームバスで済ませていた。前にまともに湯槽に浸かったのは、いったいいつだったか。
妙に心が沸き立つことに、モモンガは首を傾げた。それは豪華な浴室のせいか、それとも磨きがいのありそうな身体になったせいか。
そう、けっして邪な考えのせいではないのだ。
「いってらっしゃいませ! 」
従業員に見送られ、モモンガは玄関前に停まっている馬車に乗り込んだ。これは魔法で作ったものではなく、宿に頼んで呼んでもらった普通の馬車である。
とりあえずなるべく目立たないように、この方法を選んだ。いずれもう少しこの街に馴染めば、普通に外を歩けるようになるだろう。
(焦ることもないか)
服装は、今までと同じ漆黒のボールガウンだった。勿論シャルティアのアイテムボックスには、他の服がいくらでも収納されている。しかし、慣れてしまったこの服以外に袖を通すのはいささかためらわれた。
いずれは動きやすい男ものっぽい服を仕立てる必要があるのかもしれない。そう考え込んだモモンガを乗せて、馬車はゆっくり動き始めた。
指定された時間より早めに馬車は組合に到着した。昨日来た時にくらべてだいぶ早い時刻に、建物の中に足を踏み入れる。
(おっ、けっこう多いな)
組合の中は冒険者たちでごった返していた。閑散としていた昨日とは大違いである。ピークは過ぎたとは言うものの、この時間はまだラッシュアワーに含まれているのだ。
そんな喧騒を一瞬で静寂に追い込み、漆黒の姫君は道を開ける冒険者たちの間を優雅に進む。その先には組合長のアインザックが立っており、シャルティアを手招きしていた。
「おはようございます」
「おはよう。ではこちらに」
アインザックに連れられたモモンガは、小部屋に案内された。交渉や相談など多目的に使われる部屋のひとつで、ここは特に隠密性が高い。部屋の中には、恰幅の良い老人がひとり待っていた。この人物が依頼主なのだろう。
「申し訳ございません。お待たせしてしまいました」
「いえいえ、私が早く来すぎてしまっただけですよ」
立ち上がって出迎えた相手に姫君が頭を下げると、その老人はにこやかに応えた。簡単に挨拶と自己紹介を済ませ、席につく。まずはアインザックが口を開いた。
「こちらのロフーレ氏は、エ・ランテルでも有数の商会を率いていらしてるのですよ」
「はは、息子に譲って今は気楽な隠居の身ですがね」
このロフーレ氏のような先代のご隠居たちが集まる会合、その護衛が依頼の内容だった。それにしても、今日の午後からというのは、なかなか急な話ではある。
「まあ会合といっても、老人どもが定期的に集まってお茶を楽しむだけのものですよ」
(これは、出番は無さそうだな)
街の有力者たちの定期的な集まりならば、護衛体制もしっかりしていることは想像できた。となると、ほんとうに顔繋ぎだけという可能性が高い。
組合長のアインザックが立ち会っている以上なにか裏があることは考えにくいし、提示された報酬も妥当なもののようだ。街の有力者たちと顔見知りになっておくのも、悪くない。
「はい、依頼をお受けします。……ところで、服装はこのままではまずい、ですよね……」
「いえいえ、かまいませんよ。魔法詠唱者ならば武装もいらないでしょうし、そのまま私どもの中に紛れて下さい」
これが罠であったと、この時のモモンガは気づくことは無かった。
(そうか、これが目的か。騙された。おのれ、組合長もグルだな~)
モモンガは内心罵りつつ、表情は変えずに自分を取り囲む老人たちを見渡した。
広い室内には綺麗に飾られたテーブルが並べられ、大皿小皿やカップなどが置かれている。モモンガからすれば、映画などでしか見たことがないような外国風のお茶会といった絵面だ。
会合が始まってすぐ、給仕のメイドたちに引っ張られて上座とおぼしき席に着かされ、あっという間に囲まれてしまったのである。周りの様子を見るに、護衛も含めて他の全員が承知していたようだ。
ロフーレ氏をはじめご隠居たちは皆笑みを浮かべ、敵意などはまったく感じられない。しかし何というか、弄る気が満々といった雰囲気だ。
(これは……退屈してるご隠居たちの暇潰しに呼ばれたな……)
とは言うものの、この待遇を考えるとそう悪いことにはならないだろう。わざわざ街の有力者を敵に回す必要もあるまいしと、モモンガは抵抗を諦めた。
姫君の警戒するような、少し張り詰めた雰囲気が緩んだと見てとるや、老婦人がそっと杯を差し出す。そのタイミングの良さに、モモンガは思わず受け取ってしまった。
一瞬しまったと思ったものの、飲まないのも失礼にあたるだろう。どのみち致死性の猛毒であろうが効かない身体だ。
湯気とともに立ち上る甘く豊潤な香りが、鼻腔をくすぐる。そっと一口含むと、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
(美味しい。チョコ……いやココア? 心が安らぐな~)
シャルティアの瞳が満足気に細められる。周囲のものたちは、どうやら大丈夫だと胸を撫で下ろした。
ここに並べられた品々は、たとえ王族であっても満足させられるようなものばかりである。それでも大丈夫なのか不安にさせるほどの神掛かった雰囲気を、この少女はそなえていたからだ。
「いかが? これうちの店でも特に人気の品なのよ」
「はい、とても美味しいです」
姫君は柔らかな微笑みを浮かべると、ふたたび両手で包んだ杯をゆっくりと傾ける。周囲すべてが見守る中、悠然とした態度を崩さずに味わっていた。
空になった杯を、そっとテーブルに置く。それを見て老婦人は姫君に近寄った。
「あらあら、口元が」
白いハンカチを取り出すと、シャルティアの口元を優しく拭う。それを気恥ずかしく思ったものの、何となく拒絶する気にはならなかった。
モモンガは祖父母というものを知らない。もし居たらこんな感じだったのだろうか。
(こういうのも、悪くない……かな)
周りを取り囲むのは、もとの年齢を考えてもはるか歳上ばかりだ。そのせいもあって、普段より自分を子供っぽく感じているのかもしれない。
「さあ、次はワシじゃ。お抱えシェフに作らせた逸品じゃぞ」
「なに言うとる。うちの果樹園で採れたばかりのこれらにはかなうまい」
新しい皿が、次々と押し寄せてくる。こうなったらとことん付き合ってやると覚悟を決め、モモンガは次の皿を受け取った。
(ああ、大丈夫かなぁ、シャルティアちゃん)
組合の受付に座りながら暇をもて余していたイシュペンは、初仕事におもむいたシャルティアのことだけを考えていた。誰も来ないのをいいことに、さぼりまくりである。
「こら、仕事に集中しろ」
それを見咎めたアインザックが声をかけた。イシュペンの様子をチラチラうかがっていた他の職員たちが、そっと目をそらす。
「だ、だって心配なんですよ~。組合長は心配じゃないんですか~」
「大丈夫だろう。あのお嬢さんは、人に好かれるタイプだしな」
依頼は相手の人となりを見極めたうえで関係の是非を決めるためのものだが、アインザックはおそらく是となるとみていた。
「そうですか? だけど、素性もはっきりしてないんですよ。もしも、もしも~」
「そんな素性も知れない人間のことを、こうも心配してくれる奴がいるくらいだ。上手くいくさ」
少し落ち着きを取り戻したイシュペンが、上げかけた腰を下ろす。そして大きく息を吐き出した。
「それにしても、ずいぶん急な依頼でしたよね」
「ああ、会合が今日なのは前から決まっていたし、次の機会を待ってたら、先を越されるかもしれんしな」
実際、他にもそういう動きはあったのである。結果的にタイトなスケジュールで強引に進めたことが功を奏したかたちだ。
「隠居の身ってことで、フットワークも軽いからな。だからこそ最悪、問題があれば自分たちを切り捨てる、って考えてるんだろう」
「縁起でもないこと言わないで下さい!」
いちおう賭けになっているところもある。もっともアインザックは、失敗の可能性はほぼないとみていた。
「大丈夫だって」
「ホントですかぁ」
「……というわけなんじゃよ」
お茶会の話題は、老人たちの昔話に移っていた。いちおう苦労した話ではあるが、結局のところ成功したという自慢話である。周りの連中も聞きあきているらしく、容赦ないヤジが飛び交っていた。
「そりゃ盛り過ぎじゃろ」
「そうね、確か実際は……」
とは言え、この世界に根ざし暮らしている人たちの話は興味深い。モモンガも内心ツッコミを入れたりしながらも、話にはきちんと耳を傾けていた。
なにせ、もはや身内に話そうとしても、そそくさと逃げられてしまうような話題である。それを綺麗な姿勢で拝聴してくれる少女に、皆の好感度は急上昇していた。
「ところでな、ウチの孫は男前と評判でのう。どうじゃ、嫁にこんか」
「なに言うとる。あんな唐変木、釣り合いがとれんわい。ワシのとこのほうが……」
「あんなデブいかんじゃろ。それに比べ……」
「なんじゃなんじゃ、それならうちの……」
そして、いつの間にか話はシャルティアの婿選びになっていた。それは牽制し合うような舌戦から、次第に単なる口喧嘩へと移行してしまう。飛び交う怒号のまっただ中、姫君はいささか落ち着かなげに視線をさまよわせた。
(えー、冗談、冗談だよね)
とても本気とは思えない話だが、白熱した雰囲気からは何とも言えない。微妙な顔を隠し切れずにいると、パンパンと手を叩く音が響いた。
「はいそれまで! いい加減にしときなさい。お嬢さんが怯えているでしょう」
さすがに行き過ぎた自覚はあるのか、声がピタッと止まる。小さく頭を下げるシャルティアに、その老婦人は微笑みかけた。
「それにしても、素敵なドレス。布地はなにかしら。うちの店もデザインは負けてないわよ、今度いらっしゃいな」
「お肌もキレイね~。オマケにこの髪ときたら、まるで銀糸のよう。ねえ、触れてもいいかしら」
「は、はい、どうぞ」
「ホントにサラサラ。一度ウチのお店に、と言いたいところだけど、これは必要ないわね。もし髪型をいじりたくなったら来てちょうだい」
結局、場の主役という立場からは逃れられないのではあったが。
太陽が沈むよりだいぶ前に、シャルティア・ブラッドフォールンは冒険者組合に戻っていた。あくまでも午後のお茶会なので、仕事の時間そのものは短い。それでも精神的な疲労は大きく、やや陰りのある表情で組合の扉をくぐった。
まだ時間的には早いのか、あまり人は多くない。受付もいくつか空いているが、そのひとつからイシュペンがいい笑顔で手を振っていた。それを無視できるほどモモンガの神経は太くない。
いくぶん重い足取りでカウンターに近寄った姫君の側に、大きな影がぬうっとそびえ立った。
(はて、敵意らしきものは感じないけど)
そっと向けた視線の先には、大きな冒険者の男が立っている。身長だけでなく、横幅もある大男だ。にもかかわらずあまり威圧感がないのは、穏やかな表情のせいもあるのだろう。
「こんにちは、私は銀級冒険者『漆黒の剣』のダイン・ウッドワンダーなのである」
「ど、どうも、リーダーのペテル・モークです。昨日は仲間が失礼しました」
(あ、昨日変態を引き取った人だ)
大男の隣に立つ青年には、確かに見覚えがあった。しかし昨日のことはもう済んだ話のはずなのだが。
「改めておわびと……」
「どうぞこちらをお使い願いたいのである」
ダインが差し出してきたのは、木製の台であった。ご丁寧にステップまで付いている。それが受付カウンターの前に、ドスンと置かれた。
「ダインはこういう工作が得意なんですよ」
お立ち台を前に、モモンガはためらう。まるで見世物になれとでも言われたような気がしたためだ。
(いや、今さらだな)
ただ立っているだけでも、何より誰より目立ってしまう身になってしまったのである。モモンガは二人に礼を言って、ステップに足をかけた。
とんとんっ、と可憐に軽やかに艶やかに、姫君は台に登る。それだけのことが、どんな芸術よりも人々の目を惹き付るのだ。
(おっ、ちょうどいい高さだ)
「では、これからはシャルティアちゃん専用お立ち台として、組合の備品にしますね」
去っていくペテルたちを手を振って見送ったあと、シャルティアはイシュペンに向き直った。
「お仕事は無事にお済みですか?」
「はい、これを」
カウンターの上に、依頼完了のサインが書かれた紙が置かれる。それを確認したイシュペンが事務処理を済ませ、報酬が支払われた。
(うわ、少なっ)
いくら指名依頼といっても、しょせんは銅級である。もしかすると、あのお茶会で出された料理の皿一枚ぶんよりも少ないかも知れなかった。
(まあ最初だしな、これからこれから)
「やあ、依頼は終了かな」
アインザックがあらわれ、イシュペンのかたわらに立つ。シャルティアは無言でアインザックを見上げた。
「ええと、いい依頼だったでしょう。あの人たちは街の有力者ですし、今後きっと……」
饒舌なアインザックとは裏腹に、姫君は言葉を発しない。少し頬を膨らませ、いかにも不機嫌そうな目付きで見上げるだけだ。
「……え……あの……その……ごめんなさい」
「次からは、こういうの無しにして下さいね」
最終的に折れたアインザックに、シャルティアはため息まじりで口を開いた。
「ところで、こんな依頼があるんだが。いいとこの独身連中が集まるパーティのゲストなんだけど」
「だめです! そんなケダモノたちのまっただ中にシャルティアちゃんを放り込むなんて! 危険過ぎます! 」
「……何かあったのか? 」
「あーゆー連中がシャルティアちゃんを無事に帰すはずがありません! そんなのポイしましょう、ポイ! 」
「……ポイ」
「ああっ! 」
ぱーとすりーはあるのか()