世界一初恋 二次小説にありがちなお話   作:bui

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世界一初恋 二次小説にありがちなお話

目が醒めるとそこは見覚えのない部屋だった。

 

ここは何処だ?なんでこんなところにいるんだ?

身体を起こそうと上半身に力を入れるとあちこちの関節や筋がズキッと痛む。

何かに押さえつけられるように身体が再び落ちようとする。

 

「うっ・・・。」

痛みから思わず声を漏らした高野の傍から「高野さん!」と慌てたような声が聞こえ、勢いよく出てきた手に肩を支えらた。

至近距離で大きく見開かれた翡翠の瞳が高野の視界を塞いだ。

その眥は揺らいで切なそうに見えた。

 

「大丈夫ですか!?まだ起き上がらないで下さい。今先生を呼びます。」

 

「あ、ああ・・・。」

ギシギシと痛む身体に力の入れ加減がわからず、その細腕に体重を委ね痛みを逃すために息を吐いてまた布団に身を沈めると「よかった・・・。」とその泣きそうな顔が説明的な言葉を発した。

 

「乗っていたタクシーが事故に巻き込まれて・・・。」

「事故?」

 

高野は直前に何をしていただろうかと、まだ朦朧とする記憶をたどるように目を瞑るがどうにも現状が理解出来なかった。

 

静かだった。

 

遥か遠くで誰かがしゃべっている声が聞こえる。

滑車の回るようなキリキリとした音は何かを運ぶ台車の音だろうか。

そんな無機質な音だけがかすれるように聞こえていた。

 

「丸1日意識が戻らなかったんです・・・。」

傍から喉に詰まったような泣きそうな声が聞こえた。

 

「だから身体が痛いのか?」

高野は眉間にしわを寄せ、ふっと息を軽く履いて呟く。

 

「ええ、シートベルトのおかげで致命的な怪我はなかったのですが、肋骨と右腕が骨折しています。それと車体に挟まりかけていたために打撲がひどいようです・・・。」

 

ー 取り敢えず俺は事故で負傷して、ここは病院という事か。

 

高野が目だけでぐるりと部屋を見回すと全体は白かった。得てして病院というものはこういうものだ。清潔であることをアピールするような白が重い瞼に眩しい。

開け放たれた入り口のドアから吹き込む風にベッドの周りのカーテンがふわりと揺れた。

 

覚醒を告げるために押されたナースコールの先からは優しいとは言い難い硬質の声が聞こえ、要件を告げると急に向こう側から慌てたようなざわざわとした声が聞こえた。

 

ー 意識不明って事はやっぱり大変な事態だったってことか・・・。

 

高野は思うように動かない身体と現状を改めて認識した。

利き手である右手はギプスが巻かれていて、左手には点滴の管が伸びている。

息をするだけでも身体のあちこちが痛み、特に鳩尾あたりは少し力を入れるだけで鈍痛に襲われた。

そういえば頬も痛い。顔も打ったのだろう。自分がどうなっているのか想像するだけでも鬱になる・・・。

そんな事を考えながら改めてと、高野は先ほどからの疑問を投げかけることにした。

 

「っで、君は誰?」

 

目の前の心配そうな人物が高野の言葉に息を飲み、初めの時より更に大きな目で高野を凝視した。

「・・・。」

一瞬の戸惑った顔は言葉を反芻していたのだろう。そしてその困惑した顔はみるみるうちに蒼白となり、彼は腕で自分の身体を押さえ身体をぶるりと震わせた。

 

硬直したまま質問には答えない彼に、ろくに挨拶もせずに発した己の言葉は何か彼の気に触る事だったのだろうか?

高野は自分の行動を後悔したが、どやどやと訪れた医師が挨拶もそこそこに問診を始めたのでそのままになってしまった。

 

目の前の医師は電子カルテを眺めながら静かに話を始めた。

 

「高野さん、ここが何処か分かりますか?」

「病院・・・。でしょうか?」

「なにがあったか覚えていますか?」

「さっきの方から事故にあったと聞きましたが。」

「あの・・・、さっきの方って・・・、部下の方ですよね?」

「部下?」

 

高野の答えに医師は思惟した後ゆっくりと「高野さん、今何歳ですか?」と聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

⭐️

 

幾つかの問診の結果、高野の記憶は1年間ほどすっぽりと無いらしい事が判明した。

とある時期を境に記憶はなく、それ以前もあやふやなところが見受けられた。

事故のショックか、または強打した事による障害か、怪我の治療と合わせて脳波や精神科医の診察もメニューに書き加えられた。

 

粛々と進む病院側との検査や治療のスケジュールの調整に高野が否と言える訳もなく、使えない右手を恨めしく思う様な書類の山が増えていった。

 

覚醒時に傍にいた部下は小野寺という名前で、1年少し前にエメラルドに配属になったと言う。

そして、病院に運び込まれてから事務的なことから付き添いなどの全てを小野寺がしてくれていたことなどをあらためて聞いた。

しかし高野は、失くした期間とともに小野寺の事もすっぽりと忘れていた。

 

自分には頼るべき家族というものがいない。

両親は離婚し、すでに別々に家庭を持っている。

理由はわからないが父親は血が繋がっていなくて、母親は俺を疎ましく思ってるのは明白だった。

 

それゆえ新米の小野寺が母親とやり取りをして代理人として身元引き受け人の地位を手に入れあれこれと手続きなどをしてくれていたということだった。

そう考えると忘れてしまったことまでも申し訳ない気持ちが湧いた。

 

けが人に課せられるとは思えないほどの過密なスケジュールには辟易するが、どのみち右手を骨折しているのだから落ち着くまでは身の回りのことも思う様に行かないだろう。

高野は深く嘆息した。

 

 

「小野寺君だったかな。色々とすまなかった。」

高野に忘れられていると分かった瞬間の動揺はかなりのものだったようだが、今はそれは見らうけられずごく普通に接してくれている。

 

新米だからか、小野寺は覚えて貰ってもいないのにせっせと世話を焼きに来てくれる。

押し付けがましくなく、いつでもお世話になっていたので当然ですと、その時だけは少しだけはにかんで薄く笑った。

 

事故とはいえ忘れられているなんて不快だろう。

 

今日も高野が礼と共にそのようなことを伝えると小野寺は詮無いことと謝辞を手で制した。

その生真面目な雰囲気だけはいついかなる時も崩れる事はなかった。

 

「それは高野さんの責任ではないのでいいです。むしろ高野さんの方こそ検査が増えてしまって仕事も気になるでしょう。」

 

はにかんで伏せられた睫毛の間から小野寺の翡翠の瞳が揺れて見える。

エメラルド編集部は顔で採用していると言われるほど整った顔の部下がばかりだが、伊坂さんもまた違った雰囲気の奴を入れたもんだ。

堅実真面目、ミステリアス、可愛いタイプに加えて品のいいタイプか?

 

なんだかおぼっちゃま風ななりだが仕事出来てんのかな?

 

高野は小野寺の言葉には返事もせずにその顔をマジマジと見つめ続ける。

あまり無言で見つめるので小野寺が居心地悪そうに「何かありますか?」と聞いてきた。

 

「いや、その仕事だけどどうなってるかと思って。」

1年間のすっぽりと抜けた記憶は今後の仕事にどんな支障が出るだろうか。そう考えると鬱な気持ちになる。

記憶にあるエメラルドはちょうど一年経ち軌道に乗って躍進的な売り上げを見せ始めた頃だった。

 

それは高野にとってはつい昨日の事の様に思えるのだがそれから1年以上経っているのだ。

高野はフーっとため息をついた。

 

「今は羽鳥さんがほぼ仕切ってくれています。高野さんが事故に遭われた日が校了だったのでまだ時間に余裕のある時期です。なのでできる業務は分担しています。」

小野寺は何時も質問にのみを端的に答える。その姿からは真面目さと堅さを感じた。

 

「定期的な連絡は以上です。なにか必要なものがあれば持ってきますがいかがですか?」

 

小野寺は日に一度か二度、短い時間だったが面会に来ていた。高野は退屈な入院生活で少しだけ小野寺が来るのを楽しみにしていた。

 

そしてその際は差し入れとして嗜好品の類いを持ってきてくれていた。

食事一つ取っても病院食というのは華がない。計算されているのだろうけど張り合いがなさすぎてむしろ笑えるほどだった。

 

なので小野寺が甘味系の差し入れもついでと持ってきてくれて少しだけ気持ちを上げるのに役立ってくれていた。しかもあまり甘いものを好まない自分だったがフルーツの入ったものやチーズ系など、そのチョイスは的確で高野はいつも感心していた。

嗜好はわかってるってことか?

高野は小野寺の距離感が掴みきれないもどかしさもあって、行動の一つ一つの意味を知らず知らずに確かめている自分を感じた。

 

「そうだな、営業の横澤は知ってる?」

すると小野寺がピクリと少しだけ身体を震わせ、一瞬初めの日と同じように動揺に揺れた目をした。平日の13時からの面会に訪れる人は少ない。病院の個室の静寂に小野寺の身じろぐ音だけが響いた。

 

「はい・・・、お世話になってます。」

「奴が俺のマンションの合鍵持ってるから、少し身の回りのものを適当に持って来てくれって言って欲しいんだけど。携帯が紛失してて連絡も取れないから、伝言頼んで悪いんだけど。」

高野は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。

横澤は昨晩も見舞いに来てくれて一時間ほどたわいもない話をしたのだが、雑談で盛り上がり言い忘れてしまったのだ。

 

「はい、分かりました。伝えます。」

小野寺は一瞬迷うようなそぶりを見せたが次の瞬間にはスッと元の表情にもどり、高野に了承の意を伝えると会社に戻ると言って部屋を出て行った。

高野はその後ろ姿になにか違和感を感じた。

 

小野寺を見ていると何かいつも言いたいことを飲み込んでいる様に感じる。本当の小野寺はもう少し表情があるのではないのだろうか。

 

しかし、しばし逡巡した後、結局今の自分にはどうにもならないと思考を手放した。

 

気合いや祈りで思い出せるのならとっくに思い出している。

そんな風に自虐的に笑った。

 

 

 

 

⭐️

 

打ち身や骨折は痛み止めが効くので案外どうにかなっていた。

ただ、記憶の障害もあったため結局そのまま個室にいる事になり、怪我のせいもあり行動も制限される高野は、大部屋ならば他人の出す喧騒に退屈を紛らわせることもできただろうにと、仕方がなく多くの時間を小野寺が持って来てくれた小説を読んで過ごしていた。

 

そのチョイスがまた絶妙に好みと合っていて少なからず驚きを感じていた。

 

小野寺は、「高野さんか以前読んで面白いと言っていたものばかりです。」と言っていたが明らかに出たばかりの新刊本も含まれている。

好みを承知してくれているということだろう。

 

小野寺は気の合わない部下という訳ではなかったに違いない。いつも何も言わずにぴったりとしたものを目前に配す。

 

ただ、一方で他の奴らは色々なエピソードを語り記憶を呼び戻そうとしてくれるが小野寺は業務連絡の以上のことを語らない。いつも続く言葉を飲み込んでいるような気もする。

 

記憶がないためにそこは強く突っ込めないが、小野寺は自分と深い接触を避けているような・・・。

記憶を取り戻させたいと思っていないのではないのだろうかと思わせる節があった。

そう考えると、今度は上司と部下として円滑な関係を結べていなかったのではないかとも思えてしまう。

 

記憶がないというのはなんとも不安なことだ。

 

そもそも部下を一から育てるということは初めてのはずだ。

本当はその経緯や内容も聞きたいのだが、高野はどこか壁を感じる小野寺との接し方に戸惑っていた。

 

骨折さえ治れば生活するには不便はないだろう。しかし仕事に戻ったらどうなるんだろう?今までがむしゃらにエメラルドを売れる本にするために突っ走ってきた。

この記憶の欠落は今後にどのように影響するのだろうか。

 

高野がふと小野寺にこんな不安を口にした。

 

すると次の日、小野寺は「これをどうぞ。」と一冊のファイルを高野に手渡した。

 

「俺が入った日からの個人的な業務日誌です。

個人的なことばかりですがエメラルド全体の事も記載するようにしていたので少しは参考にしていただけると思います。」

 

小野寺は相変わらず表情の乏しい涼しい顔でそう言った。

 

手渡されたノートは6冊にも及び、中にはその日の業務や説明を受けたこと、メンバーとその発言内容。雑談から会議の議事録、エピソードと正確な事実の描写、所感が分かれていて、更に格言のように教えられたことをびっちりとメモに残している。

よく整理されて分かりやすかった。

 

こいつは本当に真面目なんだな。

エメラルドの奇跡の木佐ほどではないが童顔のくせに、性格は羽鳥のように生真面目なんだろう。

亜麻色の髪が日に透けてキラキラと揺れて深緑の瞳が冴え冴えとしている。

その姿にはどこか既視感に襲われる。

 

「小野寺君ってさ、前も漫画編集やってたの?」

モヤっとする気持ちをごまかすために発した言葉は、奇しくも高野が初めて小野寺自身のパーソナルな事を聞くことになった。

 

「いえ、自分は文芸の編集でした。」

「文芸から漫画編集にって、そういう希望だったの?」

「いえ・・・、希望は文芸だったんですけど、なぜかエメラルドに配属されました。」

「へえ、伊坂さんも思い切ったことするんだな。」

「そうですね、初日に高野さんには使えねぇって言われました。」

顔をクシャリと歪めて苦笑する小野寺が珍しかったのでつられて高野も笑う。

 

こいつこんな顔もできるのかと見つめると小野寺が急に恥ずかしくなったのか頬を染めて「横澤さんが今日来るって言っていました。」といつもの業務連絡のような口調で話題を変えた。

 

 

 

 

 

⭐️

 

ノックとともに現れたのは大学時代からの親友だった。

家族のいない高野だったので寂しい入院生活になるかと思いきや、夜ともなれば仕事関係だけでも案外と賑わっていた。

そんな中で横澤は小野寺とは異なり友人として見舞いに来てくれるので雑談も楽しめた。

 

「あ、横澤さん。」

小野寺がぺこりと頭を下げると横澤も「おう。」と手を上げて挨拶をしかえした。

 

「じゃあ俺はこれで。」

小野寺はいつものごとく軽く頭を下げて帰ろうとするが「小野寺、後で少し話がしたいからこのまま待っててくれないか?」と横澤が小野寺を引き止めた。

 

「じゃあ俺は席をはずします。」

友人同士のたわいもない話に自分は不要と判断したのだろう。

小野寺が部屋から去ろうとするが「いや、いて構わない。」と横澤が止めた。

 

「でも・・・、」

小野寺は少し困った風に目を泳がせたが横澤が「いいから。」と少し強い声で言うと小野寺は「はい」と俯いて座っていた椅子を少し後方にずらして座り直した。

 

その顔がいつもの硬い表情とは異なり、横澤と名を出した時に見せた動揺は苦手意識からではないようだ。そう、2人の間には何かつながりがあるのだと直感した。

 

「着替え少し持って来た。携帯壊れたんだろ?これ会社支給のだから。」

横澤が高野にスマホのを手渡す。

「仕事でなければ携帯も要らないけどな。」

高野が携帯セットを受けとって無造作に枕元に置いた。

 

「お前、まだ何にも思い出せないのか?」

ベッドの横のパイプ椅子にどかりと座って横澤は眉間に皺を寄せて言った。

 

1年間の記憶、確かに馬鹿にできない期間ではある。

高野自身不安で仕方がないのだが、取り敢えず作家には正直にそう言って行き違いなどは容赦してもらうしかない。

あとは出たところ勝負かと多少開き直る気持ちも湧いてきていた。

 

小野寺の日誌が少し不安を取り除いてくれたということもあった。きっと日々は同じように流れていた筈だ。

 

「ああ、仕事でも迷惑をかけることもあるかと思うがきっと何とかなるだろう。」

高野がそういうと横澤はさらに眉間の皺を深くした。

 

「努力してどうこうなるもんじゃないと思うが、努力しないのも感心しない。少しでも気になることは遠慮せず小野寺に聞け。」

横澤が小野寺を親指でぐいっと指して言うと小野寺がハッとして肩を揺らした。

 

「なんで小野寺君?」

「お前、小野寺君なんて呼んでんの?」

「なにか問題でも?」

「いや・・・、前は呼び捨てだったから。変な感じだ。」

「そうか?」

「ああ。」

「小野寺はこの1年間お前の一番近くにいた。」

「よ!横澤さん!」

「だからなにかあったら小野寺を安心して頼れ。」

横澤の言葉に小野寺が真っ赤になって俯く。

 

ああ、これもこいつの顔かと、いつもの品の良い顔が作ったものであることを確信し高野は何か欠けたパズルのピースの一つがポンとハマったような爽快な感じがした。

 

横澤がそういう風に言うなら確かに小野寺は役立つ部下だったんだろう。

それ以上に気安い部下だったのかもしれない。今の小野寺からはそれは微塵も感じられないのが残念だが・・・。

 

高野はとりあえず今まで持っていた不安を解消できて安堵のため息をついた。

 

 

 

 

⭐️

 

横澤と小野寺が帰ってしばらくして、コーヒーでも買おうかと自動販売機に向かうと少し前に帰ったはずの横澤の声がボソボソと聞こえてきた。

エレベーターの前のホールで2人で話をしている様だった。

 

ー ああ。そういえば用事があるって言っていたな。

 

高野は用事があるなら部屋で話しても良かったのにと思いつつ、ひょっとしたら自分には聞かせたくないことだったのかとかけようとしていた声を喉で止めた。

 

「お前それでいいのか?」

「どうなるかわからないですけどこればかりは仕方が無いです。」

「まあ、俺はいつでも言ってくれて構わないが・・・。」

「みなさんにも申し訳なく思ってます・・・。」

 

「片付けはあれで終わりか?」

「一応もうなにも置いてないと思います。個人が特定されなければあとはどうとでも・・・。」

「会社の方とかはどうにもできないからな。」

「なにが残ってるかわからないので・・・。」

「とりあえず今日は飯を一緒に食うぞ。」

「ふふ、横澤さんのご飯美味しいからうれしいです。」

「作るなんて言ってねーし。」

「えー作ってくださいよ。昨日の食材もまだ残ってますから。」

 

横澤と小野寺は本当に仲が良いらしい。

なんとなく2人の会話にイライラして結局自販機ではなにも買わずに高野は部屋に戻ったのだった。

 

 

⭐️

 

 

主だった検査も終わり、骨折などは日にち薬でもあるために2週間ほどの入院を経て高野は退院の運びとなった。

 

そして周りの人たちがもう少し休んだ方がいいと勧める中、エメラルドもそろそろ校了で、溜まった仕事もあるだろうとその翌日から出勤をすることとした。

 

「高野さん。お疲れさまです。」

会社に着くとすでに職場にいた小野寺が高野に挨拶をした。

退院の日も付き添って家では手の使えない高野のために押し付けがましくない様に、邪魔にならない様にと配慮しつつ世話を焼いてくれたというのに律儀なやつだと高野は感心して「何から何まですまなかった。」と感謝の言葉を発した。

 

「高野さん、俺にお礼なんていりません。漫画編集素人の俺を1年間みっちり面倒見てもらったのに恩返しにも足りません。」

 

高野はいつも涼やかに冷静に見えたすました顔の小野寺が挑むようにまっすぐな視線を高野に向けたのに怯んだ。

 

「それでもさ、俺には身内もいないし本当に助かったんだ。」

心からそう思った言葉を短く発すると「それなら。」

と小野寺がさらにまっすぐな視線で答える。

 

「もっともっと鍛えてください。立派な編集者になれるように。必ずあなたを超える編集者になってみせます。」

 

高野は小野寺の瞳にいつにない決意を感じ「わかった。」と短く答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

高野さんが事故にあったと聞いたときはどうやって病院にたどり着いたかも覚えていない。

 

 

いつまでも目を覚まさない高野さんの、動くことのない黒い長い睫毛をこれほど恨めしく思ったことはなかった。

 

いつも優しく笑う端正な顔は打ち身で紫に腫れ、細く長い腕は擦り傷で血が滲んでいた、救急隊から渡された血のりのついた裂けた服は俺と一緒に洋品店で買ったものだ。

バリバリに液晶の割れた携帯、外されたペアリング、そんなものを掴んだまま俺は震えて声も上げられなかった。

 

親族と連絡を取りたいという医師に、絶縁状態だと伝えるけど親族でなければ同意書にサインはできないと言う。

 

会社に連絡をしてやっと探し当てた保証人の母親と無理やりに連絡を取ることはできたが、まさかの来院拒否・・・。

さすがに人の生き死にのかかった今、ふざけるなと怒鳴りつけると正式な委任状を書くのであなたが今後は彼の保証をしろと言われた。

 

俺はたったの紙一枚ではあるが高野さんの同意書にサインをする権利を手に入れた。

こんなもので彼と繋がれるのかと世の仕組みが憎らしかった。

 

 

高野さんが生きられるのならなんでもします。

俺の命と引き換えでもいいです。

 

やっと、やっと思いを伝えてまだ一月しか経っていないのに。

 

たった1人だけの、好きで、好きで、好きで、別離では心が壊れてしまうかと思ったほどほど好きなあなた。

 

 

生きてさえいてくれればと祈ったのは俺です。

 

だから、神様はあなたの命と引き換えに俺への心を持って行ったんですね。

 

 

 

 

あなたがこの世界にいてくれるだけでいい。

 

あなたの隣に俺がいなくても、あなたが幸せであれば。

 

あなたが笑ってくれるなら。

 

俺のこの気持ちも神様の供物とします。

 

 

でも・・・、昔のようにそっと見ることだけは許してください。

 

高野さん、大好きです。

 

あなたは俺の全てでした。

 

 

 

 

俺はもう、何があってもあなたのことを忘れません。

 

 

[律]

 

 

仕事に来るようになって一週間ぐらいだというのに、高野さんは以前と変わらずバリバリと業務をこなしているように見えた。

その、事も無げな所業にさすがだと尊敬の気持ちが増す。

 

でも本当はとても繊細な人。

 

苦しい気持ちをいっぱい閉じ込めているんだろう。

実際に不安げで泣きたいような背中をしている日は、それとなく横澤さんに声をかけてもらえるように伝えたりもした。

そう、そんなこともわかるくらい俺はずっと高野さんの背中を追っていたのだ。

 

 

まだ右手が使えない高野さんなので文字を書く仕事は極力減らし、会議も書記代わりにエメ編の誰かが付いて行った。

 

そんな中でも近くの作家たちは見舞いに訪れ、高野さんは「俺への見舞いは原稿で。」などと蕪村なことを言ったりしていた。

 

散々俺のことを天邪鬼だと言っていたけど、うれしいくせに強がるあなただって十分天邪鬼だと思う。

お互いにもうDNAに刻まれてると言っていいほど強がりたがりの俺たちなんだね。

 

俺だって泣きたいけど泣かずに仕事してる。心の中ではあなたのことばかり考えているのに。

 

 

 

 

そして・・・。

 

以前とかわらない日常が、高野さんが俺との1年間を忘れてしまったことだけを置き去りにして回りはじめて行った。

 

 

悲しい訳はない。

俺は心を引き換えにあなたの命乞いをしたのだから。

 

あの誤解をしてわかれた時のことを考えれば、あなたの顔を見ていられるだけましだ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

高野さんの腕のギプスがやっと取れたある日。

 

「なんで皆指輪してんの?この一年で皆結婚とかしたわけ?」

ふと書類から手をあげて思い出したように高野さんそういった。

 

エメ編のみんなは一瞬言葉につまってお互いに牽制するように目配せをしあった。

 

かく言う俺もどう答えるべきか思考どころか身体まで固まっていると木佐さんがちらりと俺を見たのがわかった。

 

本来ならばこういう雑事に答えるのは新米の仕事だろう。だけど俺はそれをどう説明したらよいかわからなかった。

 

そしてきっと年長者だから仕方がないと思ってだろうけど、木佐さんが猫の首に鈴を付ける役を買ってでてくれた。

 

 

「高野さんがストーカーにあってさぁ。」

「ストーカーに?」

「そう。会社まで女の子が押しかけてきちゃって、井坂さんが怒ってさ。エメ編は皆指輪をしろって業務命令出したんだよ。」

木佐さんが自分の薬指の指輪をくるくると回しながら笑って言った。

 

その指輪は恋人の手作りだと少し前に内緒だよって教えてくれた。

不器用な俺はこんなきれいなものを作れる恋人を心底尊敬した。

 

「そうそう、付き合っている子がいる奴はさっさと結婚して指輪をしろ。そうでない奴はプルタブでもいいから薬指にはめとけ、特に小野寺って言ったんだよね。」

美濃さんはあの時、前のがあるからそれはめるよ。別に今それに気を使いたい子がいるわけでもないしねっていつものやさしそうな顔で言ったっけ。

 

「それでりっちゃんが『プルタブは薬指にはまりません』って泣きそうに言ったらさ、『カーテンリングでもしとけ』ってまた言われてね。」

「き、木佐さん・・・。」

「いま立派なのしてるけどね。」

 

そう、このペアリングは高野さんが買ってくれたものだ。

 

指輪の裏には高野さんと俺のイニシャルの刻印と高野さんの瞳と同じ黒いダイヤがはまっている。

高野さんのリングは事故の時に俺が預かってそのまま俺の家にある。

 

「それでね、高野さんそのストーカーの時にさ、昔もストーカーにあったことがあるって言ってたからまた指輪をした方がいいんじゃない?」

「昔も?」

「うん。高校生の時って言ってたけど。」

「高校生のときのストーカー?」

「あれ?覚えてない?記憶のある時期のことだよね?まあ冗談だったかもしれないけどね。案外嬉しそうだったから。」

 

木佐さんが追い詰めるように言うので少しだけ動悸が早まった。

 

高校生のときのストーカーって俺のことだ。

高野さんがあの時嬉しそうにニヤニヤしていたのは俺をからかうためだったんだから。

家に帰ってから俺のかわいいストーカーってたっぷり・・・。

 

 

「ああ、そんな事もあったな。でも全く覚えてなかった。」

「そうなの?」

「もう10年以上前のことだし辛いことだったから殆ど忘れてた。」

 

高野さんの無表情な顔と言葉が胸に刺さった。

 

嵯峨先輩がどんなに辛い10年を過ごしたか横澤さんからも聞かされていた。

嵯峨先輩は俺に婚約者がいると知って荒れて自暴自棄になったんだ。

 

でも出会った時の高野さんはそれでも俺のことを忘れられなかったって言っていた。

実際はこんなものだったのか・・・。

 

 

俺が高野さんを忘れていたように、高野さんの中でもある程度精算されていたのだろう。

俺さえ現れなければ・・・。俺があらわれたから高野さんはまた押し込めた気持のバンドラの箱を開いてしまったのだろうか。

 

胸が何かにわしづかみにされるようだ。

 

痛い・・・。

 

 

 

 

「だから高野さんも誰かと付き合う予定が無いんだったらまた指輪しないと井坂さんに叱られるかもよ。」

「そうなのか・・・。以前の俺は指輪をしてたんだな?」

「うん。無いの?」

「う・・・・、ん・・・。探してみるけど・・・。でもまあ、俺もいい年だし、そろそろ誰かと本気で付き合ってみてもいいのかもしれねーな。」

高野さんはパソコン画面を見ながらそんな風につぶやいた。

 

そうだ。高野さんには幸せな家庭を作ってもらいたい。

本当は二人で慎ましく[[rb:十姉妹 > じゅうしまつ]]のカップルみたいに暮らそうと思っていた。

 

だけどそれはもう叶わない。

俺を好きだと言ってくれた高野さんはもうどこにもいない。

かつて嵯峨先輩を一人残して消えた俺のように・・・。

 

 

高野さんがあの俺との別れを辛い思い出としか思っていないのだからなおさら知られるわけには行かない。

 

再開したあの一年はこれから先寄り添って生きていく二人にとっては必然だった。

 

辛く苦しかったお互いの傷を再度切り開き、中にたまった膿みを掻き出し、やっと乾燥して乾いた傷にできたのに・・・。

 

 

 

そう考えると喉の奥から苦いものがせり上がってきた。

 

苦しい・・・。

 

 

 

「トイレ行ってきます。」

俺は堪えきれずガッと椅子から立ち上がり編集部を足早に出た。

 

 

 

 

泣くな!俺!笑え!

 

ぐうっと大きく息を吸って目尻に気合を込める。

雫が垂れないように・・・。

 

せめてあのドアの向こう側まで。

 

涙が喉で止まるように。

 

 

 

 

高野さんが幸せになるのだったら俺は心を石にする。

 

壊れないダイヤモンドのように強くなれ。

 

 

 

俺の恋はこうやって昇化されて供物となっていくのだ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[五年・・・。]

 

 

その漫画はもともとは月刊エメラルドのおまけとしてスタートした小冊子だった。

 

発行されてから異例の人気を博し季刊誌となり、今は月刊アメジストとして丸川の少女マンガ部門の売り上げ上位冊子の一つとして独立した存在になっている。

 

 

 

もともとは小野寺が武藤先生の新ジャンルの漫画を小冊子にしたことが発端だった。

 

その漫画はきらめいていた。

 

小野寺はそれにほれ込み、エメラルドに掲載したいと強く押したのだったが、エメラルドとは若干異なるジャンルのために本誌掲載は反対意見が多すぎた。

 

いきり立つ小野寺を前に高野はその漫画をいかに世に出すかを考えろと宿題を出した。

 

感覚だけで押しても怒鳴りあっても企画は通らないと。

 

 

作品自体のクオリティーの高さは疑いようのないものだった。

 

誰だってきっとおもしろいと思うに決まっている。

 

では実際スピリチュアル系の漫画を好む読者はどの程度の層にいるのか、またどうしたら本誌冊子の邪魔にならず気楽に読んでもらえるかを集計データから割り出した結果、試験的におまけの小冊子として発行するという企画を小野寺は作成した。

 

 

企画の内容は市場調査のデータも集客アンケートも問題なく、乙女な女子たちには受けそうだとゴーサインが出た。

 

しかし実際の運用は丁度高野が記憶をなくす事故にあった頃だった。

 

企画の発案者ではあるがサブ担当のみの仕事をするはずの小野寺だったが、結果は新米ながらもその冊子をほぼ1人でまとめたに等しいもので、その上その漫画は単発の読みきりのはずが読者に指示を得てその後も同様の小冊子を発行することになった。

 

 

 

そして、やがてそれが売れると踏んだ井坂によって、エメラルドの妹冊子として年4回発刊することになったのだった。

 

当然担当ははじめから携わっていた小野寺だった。

 

その冊子はファンタジーや不思議系の漫画とそのスピンオフの少女向け小説を載せていたため、案外制約がゆるく、内容としては何でもありなところがあった。

しかし小野寺はその利を暴走することなくコンパクトにまとめ、雑誌としてのカラーを丁寧に作っていった。

 

掲載中の漫画のスピンオフを小説として同時に載せるというところに漫画系が好きな女子と活字系が好きな女子を取り込もうとした意図もうまく絡み、きらきらときらめく感性を持つ人気小説家宇佐美秋彦氏を(無理やり口説き落として)見開きのエッセイを掲載するなどしたために、季刊誌当初細々とエメラルドの中に存在していたのに、やがて発行冊数もふくらみ月刊誌となったところでエメラルドにおんぶに抱っこと言うわけには行かなくなり、独立しその横の島に小野寺を編集長として新しい編集部はすえられた。

 

 

 

高野が若干27歳で編集長になった経緯を思えば30前にしての編集長は取り立てて大抜擢と言うわけはなさそうに思えるが、しかし若い編集長であることには代わりはなかった。

 

しかも双方独身、編集部だけでなく丸川中が色めき立っても仕方のないことだと言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

[横澤]

 

 

 

「黒い編集長と白い編集長が一緒に会議らしいわ。」

 

編集会議の際に、総務課の女性たちがわいわいとうわさ話をしていた。

 

横澤はやれやれとため息をついた。

営業部の課長として同じ会議に出る身としては女子のようにキャピキャピとはしてはいられない。

 

何よりあいつらと戦うのかと思うと気持ちがやや重い。

 

高野を上司として丸川で育った割には小野寺のタイプは高野とは異なる。

 

高野のような直感力がないことを早々に悟った小野寺は理詰めで物事を進める。

 

 

しかも[[rb:影日向 > かげひなた]]のない努力家で、自己肯定力が低いくせに頑固でプライドが高く、できないと言うことを嫌う。

 

誰かができないなら自分がやってやるといつも涼しい顔をしていながら闘志を燃やしている。

 

 

一見品が良く穏やかに見えるあの容姿もいけないのだろう。

 

誰もが小野寺の作ったダンジョンにはまった事に気が付かず、そして気付いた時にはもう抜け出せず降参と手を上げるしかなくなる。

 

今回だってきっとそうだ。

 

高野と物流ががなりあっている間に体力を温存していて、ここぞというときに実は静かにもたげていた鎌首を振り下ろすのだ。

 

 

 

昨年の実績、他社との比較、実際に運用となった場合の当社の利益率と損失の差、ついでに言うのであれば先ほど高野さんが提案されていた企画のバックアップとしてアメジストでスピンオフの短編を一つ書きましょう。実は共感を受けていた先生がすでに発表寸前のものを上げています。

 

コミカライズに乗せるようにひそかに温存していたテーマは今回の企画にむけての不思議回帰ともぴったりあっています。

 

ちなみにコミカライズにおける実績は当社比としてグラフをご覧ください。

今回の監督の●氏のネームバリューを持ってすれば駄作であっても期待値としての売り上げは見込まれますが、試作の段階で一部のファンの感触でも内容的にもデータ上では何も問題はないはずです。

 

そもそもこのグラフの上位と下位を除いた平均でも予想を上回りますし、顧客データからのABテストでもすでにこの先生の作品が優位を得ていることは証明されています。

現在のホットな状況を逃すのはマーケティングの手法からもおかしいと思われますし、物流が反対する理由がコストのみであるのであればそれを上回る予測数値を得られるデータをご覧いただければ問題は即解決だと思われます。

ちなみに懸案である場所に付いてですが市場調査団体から情報を得ています。

こちらの別紙データをご覧ください。

 

統計学的において、カイ二乗検定では・・・。

 

「わかった小野寺。もういい。」

「井坂さん。せっかく用意したプレゼンですから最後までやらせてください。」

「お前文系の俺たちにABテストやカイ二乗検定まで出してきてどうしようって言うんだ。」

「失礼しました。ではご許可いただけるということでよろしいでしょうか?」

「高野とお前らがタッグ組んでたらそりゃチートすぎるだろう。」

「え?私と高野編集長は打ち合わせも何もしてませんけど。」

「まじか?」

「だってこうやってお声を拝聴するのだって久しぶりです。まあ、隣の島なので漏れ聞こえる声を別にすればと言うことですが。」

 

俺たちの驚きをよそに小野寺はにっこりと笑った。

 

 

そうなのだ。

 

小野寺と高野は表現自体は異なるが根本となる感性が同じなのだ。

ずっと昔、小野寺はひたすら高野の読書を追ったという。

恋しくて恋しくてその姿をひたすら追いかける間に高野の読んだ本によって高野の好みを植え付けられたのだろう。

 

エメラルドとアメジストが双璧をなしている故がそこにある。

 

あいつらがあのまま恋人だったらどうなったのだろうか。

高野は小野寺におぼれ、小野寺は高野に依存し現在の白黒編集長は存在しなかったのかもしれない。

 

横澤は常に外ではそれぞれの形で強がっている二人の横顔を交互に見つづけた。

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

 

「小野寺、今日この後暇か?」

 

「あ、横澤さんおつかれ様です。」

 

会議のあと横澤がファイルをぶんぶん振り回しながら小野寺に声をかけていた。

 

社長の出る会議はいつだって疲れる。うちの社長はのらくらとした仕草をしながらその実鋭いので気が抜けない。

 

「夜ですか?」

「そうだ。久しぶりにうまいものでも食いに行こうかと。」

「あ、いいですね。実はこの間ひよりちゃんからラインで横澤さんが今週は一人だって聞いたところです。」

「え!ひよのやつそんなことを・・・。」

「部署の子がおいしいお店を教えてくれたので行きませんか?」

 

丸川はなぜか結婚しない男が多い。

横澤も小野寺もその一人だ。

 

まあ最近は不便がなければわざわざ結婚しなくてもいいという淡白な考えをする連中が多いとも聞く。

 

かくいう俺もあっちから言われて付きあった女性もいたけど、やっぱり本気になれず結局ひとりが楽だって思い知って現在に至る。

 

 

適齢期の女子はすぐに結果を求めたがる。

 

そっちは盛り上がってもこっちはその気になんねーのに一生を誓うって無理だろう。

 

付きあってればそのうちにそういう感情も沸くのかもしれねーけど押されすぎると引くってもんだ。

 

 

 

押されても嫌じゃななったのは後にも先にも一人だけだ。

 

写真の一枚もない相手の顔ももう覚えていないあいつ・・・。

 

なぜあいつが消えたのかもわからない。

ひょっとして俺が記憶をなくしたように、あいつにも何かがあったんだろうか。

どうせなくすならあの数カ月の記憶を持ってってくれればよかったのに。

 

さらさらと気持ち良く指に触れる髪の毛の感触、それだけは今でも指先に残っている。

 

 

お前は今どこにいるんだ?

 

 

 

 

 

リツ・・・。

 

 

 

 

 

[律]

 

 

「小野寺さんって何で髪を伸ばしているんですか?」

 

アメジストの新人の通称ケーちゃんが俺のしばられて馬の尻尾のようになびく髪を見て言った。

 

「髪の毛?」

 

「何か聞いちゃいけないことでもあるのかなと思って先輩衆に聞いたんですけどみんな知らないって言うし、アメジストの編集長だから何かげん担ぎとかあるのかなって。」

 

「そうだね・・・。げん担ぎかな?アメジストができた頃忙しくて切りに行ってる時間もなくて、わらわらしてるうちにアメジストが爆発的に売れて切ったら落ちるような気がしたんだよね。」

 

「あ、やっぱりそうでしたか。何かそういう理由があるんだろうって思ってました。」

 

「でも最近は少し切ったりしてるんだけどね、ばっさり切る勇気はないんだよ。」

 

ケーちゃんは納得したようでアメジストの他のメンバーのところにいそいそと小走りで向かった。

きっと今から「聞いたよ」とその情報を皆に開示するのだろう。

 

 

 

 

でもね、ケーちゃん、本当は違うんだ。

 

この髪は高野さんが漉いてくれた髪の毛なんだ。

 

あの事故に会う直前まで、さらさらとして気持ちがいいって目を細めて・・・。

 

お前の髪、大好きだって言ってくれた。

 

 

 

 

 

 

だから切れないんだ。

 

 

もう高野さんの指の感触も忘れそうだ。

 

あの細くて長いちょっと冷たい指先に触れたいよ・・・。

 

 

高野さん・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

なんとなく手にとって読んだ小説が実は大あたりで、この小説の続きが読みたいと思った。

 

検索したら最寄の図書館は貸し出し中で借りられなかったが、横断検索をかけたところ丸川とは反対側の区にある図書館に在庫が一冊あると表示された。

 

そういえばあっち側ってあまり行ったことがない。

寂しいことだが今は家と会社の往復で、たまに必要に迫られて都心方面に出るという状況になっていた。

 

うーん、俺って結構寂しい中年じゃね?

 

ま、独身なんてそんなもんかと一人ごちる。

 

休日の午前だから散歩がてら行ってみるか。

 

そんなラフな気持で駅に向かった。

 

 

 

 

 

その駅を降り立ったらその道は桜並木だった。

 

今週になって一斉に咲き始めたばかりの桜の花が薄桃色に広がりアーチとなって人を招いていた。

 

見上げる空が霞む。

まだ少し冷たい風が頬をなで、マップでは駅からほんの数分となっていた図書館までの道が気重なものに変わっていた。

 

春はあいつとの出会いを思い出すから嫌いだ。

だからどんなに誘われてもそれメインの花見はしたことがない。

 

なのにこんなに祝福されるみたいに咲き誇る桜の中を歩くなんて・・・。

やはり今日は出かけるべきじゃなかったのかもしれないな。

 

 

 

 

だがいまさら家に戻るのもそれはそれで違うだろう。ここに来て本さえも手に入れないなどあり得ないことだ。

自分に叱咤して足を機械的に運ぶ。

 

横に広がる低い木の柵の小さな公園は、いかにも植えられましたという風体のパンジーが、寒さを脱したはずなのにまだ縮こまっているように見えるロゼットたちとのつりあいの悪さを目立たせていた。

 

しかしここは、わずか数駅移動しただけなのになんと閑静なことだろう。

 

気重な桜に気を取られつつも環境の良いその小さな駅には魅力を感じなくもなかった。

 

 

 

桜の回廊はまだまだ続くようだったので俺は公園を回ろうと低い木の柵を乗り越えた。

正式な門はぐるりと廻った向こう側らしいが背の高い自分にはこんな柵をまたぐことなど造作もないことだった。

 

すると遠くから人の声が聞こえたと思ったら、後ろから強い衝撃が襲ってきた。

 

前に動こうと体重を移動したところだったので俺はそのまま斜め前に倒れ、何ものかに馬乗りになられ、そいつは顔中をベロベロと嘗め回し始めた。

 

手を付いたところが日陰の土だったためにぐちょぐちょの泥の感触が気持ちが悪い。

ひざも尻も冷たい。

 

「ああ!ノア!なんて事を!どうしよう。」

遠くから走ってきたらしい飼い主は自分の犬の狼藉を見て心底うろたえていた。

 

 

「すみません。俺の家近くなんで良ければ一旦来てもらえませんでしょうか。って?あれ高野さん!?」

飼い主はすっとんきょな声で俺の苗字を呼んだ。

 

「小野寺!?」そこには泥だらけで尚も大はしゃぎの犬を懐に抱え込んだアメジストの編集長で元部下の小野寺が立っていた。

「す、すみません・・・。あの・・・。とりあえず家に来てもらってシャワーなど・・・。」

 

やっぱりこの駅最悪だ・・・。

 

俺はそう思いながらも提案されたことしか道はなさそうなのでしぶしぶと小野寺の後ろに続いた。

 

 

「それ、お前の犬なの?」

「そうです。すみません。元気で・・・。」

「いや、いいんだけど。すげーパワーだった。」

「ジャックラッセルテリアは軽カーのボディにF1のエンジンと言われている元気なわんこです・・・。」

「顔見てると愛玩系にみえるけど。」

「もともと猟犬なのでエボルタ君ばりのハイパワーです・・・。」

小野寺は心底申し訳ないという風に頭をたれていた。

 

「このところ長い散歩にも行ってあげられなかったからはしゃいじゃって、リードが手から外れちゃったんです。」

 

小野寺の謝る態度が今度は逆におもしろくてくくくと笑ってしまった。

 

 

 

 

 

小野寺の家は公園の反対側で先ほどの桜の回廊の終点地点だった。

 

丈の低い木の柵は先ほどの公園と類似していると思ったら、公園と思ったそれは実は自宅の庭で、区から公園として貸し出しを求められそのようにしているのだと言っていた。

 

「広い庭を管理できずボーボーに草をはやすよりそのほうがいいと思って。」

小野寺はあまり感情を見せず事実を淡々と語った。

さっきのうろたえた顔の方がいいなと、その横顔を見て思った。

 

 

小野寺の住んでいる家はもと小野寺出版の重役だった大叔父の隠居の家だったそうで、大叔父は生涯独身で、どうりで小野寺の重役の家にしては小さいものだった。

 

亡くなる時に、本好きの小野寺に遺言としてこの家を管理してくれと言ったらしい。

 

 

 

「この家は大きな書庫が中二階にあってなかなか圧巻ですよ。高野さん本好きですから是非見て帰ってください。洋服は乾燥機にかけてもおそらく何時間も乾くのにかかりますから。」

 

小野寺は手早くドリッパーでホットコーヒーをつくり手元にことりと差し出した。

本人のイメージどおり部屋は余計な飾りはなく簡素で片付いている。

 

俺が湯船にゆったりと浸かっている間に、洗面台で犬の身体を洗っていた。

 

風呂からあがると犬は疲れたのか大きな丸いクッションに包まってすよすよと気持ちよさそうに寝ていた。

 

 

「やっぱり俺の服ではツンツルテンですね・・・。」

新しい下着とスエットを借り受け着替えるが足首がややスースーとして居心地が悪かった。

 

 

 

「いぬ、なんて名前だっけ?」

 

あまり話すこともないので無難に犬の話をすると

「ノアールです。」

と小野寺が答えのみを返してよこした。

 

「ノアール?黒ってこと?」

「そうです。でもクロとかじゃやっぱりと思って。」

小野寺が犬の方を愛おしげに見て笑った。

 

 

「黒くないけど?」

「そうですね。黒いのは瞳です。黒曜石のようじゃないですか?って言ってももう寝ちゃってるか。」

小野寺が曲げた指を鼻にあてくすりと笑った。

 

その顔が妙にきれいでどきりと胸が鳴る。いつも涼しい表情で理詰めの攻撃を仕掛けてくる奴とはとても思えない。

この茶色の髪には窓から見える桜並木の薄桃色が似合っている・・・。

 

 

目の色・・・、そう聞いて思い出したことがあった。

 

すでにもう亡くなっているが昔かわいがっていた猫の名はソラ太だった。

猫の目は赤ん坊の頃は青いって知らなくて空色のその目の色にちなんでソラ太と名づけた。

 

大人になったら金茶になったのだけど・・・。

 

小野寺の目は深緑なんだな。

いつもめがねをかけているから気が付かなかった。

 

なんだか懐かしい気持ちがして心地がいい・・・。

 

そこへ犬がクンと鼻鳴いて小野寺の傍らによって来た。

 

俺は何を考えてんだと現実に引き戻された気がした。

 

 

 

 

「本・・・。」

「はい?」

「書庫、見せてもらってもいい?」

 

急に居心地が悪くなって言うと

「どうぞ、入り口の前にある階段はそのまま書庫に続いてます。」

 

と小野寺が愛しそうに犬をなでながらつややかに笑った。

 

 

 

 

 

[律]

 

 

この家は高野さんと暮らすために相続した家だった。

 

あの夏の日、俺は高野さんにこの家で暮らしましょうと言ってプロポーズのような告白をした。

 

高野さんは俺を強く抱きしめてうれしいと笑い泣きをしながら俺の髪をいつまで漉いていた。

 

 

 

 

高野さんに告げる前に俺は実家に行って小野寺から勘当をしてもらうように両親に土下座をして頼んだ。

 

母は取り乱して話を聞こうとしなかったが父が二人っきりで話をしようと言って書斎に俺を連れて行った。

 

そこで引き出しからこの家の権利書と実印を渡され、冬に亡くなった大叔父がお前にこの家を譲ると走り書き程度の遺言を残していたことを知らされた。

律は本が好きだからきっとこの家も大事にしてくれるに違いないと近しい人々に言っていたそうだ。

 

 

「大叔父は生涯独身だったので株や大きな不動産、現金の相続でかなりもめて公正証書ではなかったその遺言書までは手が回らなかった。だからお前に伝えていなかったのだが、私の方で手続きは済ませてある。お前が結婚したらしばらくは二人で住んでもいいのだろうと思っていた。」

 

 

父の言葉に俺は胸がぐっと何かに掴まれるように苦しくなった。

俺の好きな人は男性だから結婚なんてできないんだ。

でも彼と生きたいから小野寺から離れたいと思ったんだ・・・。

 

 

「とうさん、俺は結婚しません。」

搾り出すような声だったと思う。

かすれて力も何もないような・・・。

 

すると普段あまり感情のこもったしゃべり方をしない父が

「お前がなぜイギリスに留学したいと言ったのか、私が知っていると言ったら?」

とやわらかく言った。

 

「!?」

短い言葉だった。聞き漏らすこともないような・・・。

しかし俺は言われていることが瞬時には理解できなかった。

 

 

「高野君だったかね。今の彼の苗字は・・・。」

続く父の言葉に顔がカッと熱くなって覚悟を決めていたはずなのに手がぶるぶると震えた。

 

「大叔父も独身だった。結婚しなくても会社を運営するのに困ることはない。ただお前が小野寺を継ぎたくないと言うのであれば気にしなくてもいい。優秀な後継者を立てればいいだけだ。」

 

父は俺が何を言いたくて何をするつもりなのかを理解していた。

そう、小野寺を継ぐのであれば結婚して子どもをもうけて一族の繁栄と循環のために貢献しなければならない。

おれはそう刷り込まれている。

 

そして過大なプレッシャーに俺が立ち向かう度胸もないことも・・・。

 

「会社もお前も私のかわいい息子だ。だからどちらも幸せになってほしい。こちらはどうにでもなるから好きな道をすすみなさい。」

 

父の言葉に涙がぼろぼろと流れた。

 

 

「でも、母さんには言わずにおいてくれ。」

最後にとばかりに父がそっと告げた言葉で父が家族を確かに愛していることを強く感じた。

 

「はい・・・。」

 

俺は小さくうなずいてつぶやくような返事をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

春とはいえまだまだ日が短い3月終わり。

そろそろ夕食の準備を始めよう。

 

高野さんといた頃は食事なんてどうでもいいと思っていた。

でもノアを飼いはじめて俺が倒れたらこの子はどうなるんだろうと思った。

ノアは高野さんが飼いたがっていた犬種なのだ。

「俺がこっちに引越して落ち着いたらさ、犬飼おうぜ。」

そう言った高野さんの笑い顔が目の前に浮かぶ。

 

あの事故はまさに引越しの準備をしている最中の出来事だったのだ。

 

そして、その後の寂しさから迎えたこの子。

高野さんの瞳と同じ色のこの子を健康に育てなければ、と・・・。

 

そう思ったら高野さんが一生懸命俺に食事の管理をしてくれたあのありがたさがわかった。

 

 

食事を作るのは大変だ。

些細なものでも一つの素材だけでは済まない。

料理するためには肉や野菜だけではなく調味料もいるし、それぞれに合わせた調理方法もある。

 

目玉焼き一つ作るのにだって適した火加減と味加減が存在した。

一つ一つが俺たちの身体を構成する大事な素材だとありがたく思えるようになった。

 

高野さん、ありがとう・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「高野さん起きてますか?」

書庫にはドアはついていない。

湿気がこもると紙が痛むので基本開けっ放しだ。

ぴょこりと首を突っ込むと間接照明のみの薄暗くなったそこに、高野さんが本を広げて幸せそうに読みふけっていた。

 

「何だよ、こんな書庫見て寝てられるかよ。」

秘密を見られた子どもみたいに少し照れた風な高野さんはすねた口調で文句を言った。

 

 

「はいはい、わかりました。食事の支度ができたので一緒にいかがですか?」

「え!?もうそんな時間?」

「7時ですよ。」

「や、悪かった。」

「別に悪くないです。こちらこそなかなか洋服が乾かなくてすみません。」

 

高野さんは本を片付けながら本当に恐縮そうに何度も謝った。

 

「おなか空いたんじゃないですか?ビーフシチューができたのでどうぞ。」

 

2客しかないダイニングテーブルの椅子を勧めてキッチンストーブで温められた茶色いそれを目の前にことりと置いた。

 

今日のメニューはビーフシチューとカニと野菜のサラダ。ライスとバケット。マッシュポテトに赤ワインだった。

 

 

 

 

「ワインまでご馳走してもらっちゃって良かったのか?」

「ええ、俺下戸なので誰かお客様が来たらって思っていて、ここのワインセラーは大叔父の遺産の一つで、小さいんですけどどうやらいいものがいっぱいらしいので気に入ってもらえれば何よりです。」

 

「小野寺って料理するのな。」

「一人暮らしなので簡単なものなら。」

「ビーフシチューってどうよ?」

「今日は高野さんがいらっしゃったから特別です。でもルーは市販のものなので煮ただけです。サラダも野菜を切ったり手でちぎっただけです。」

「俺なんて最近めっきりコンビニ飯だぜ。」

 

それは以前の俺みたいだな・・・。

 

 

 

食事の話題に花が咲き、それから書庫の本に話が飛んだ。

 

高野さんは少し酔っているのか饒舌で相槌程度の俺に弾丸のように話を続けてきた。

 

「今日はさぁ、読んでた小説の続きが読みたくてそこの図書館に来たんだけど、ここの書庫にあんのな。」

「そうですか?どうぞお持ち下さい。」

「いや、もう読んだ。すげー楽しかった。」

「相変わらず読むの早いんですね。」

「そうか?」

「ええ。」

まあ、あなたが本を読むのが早いって言うのは大昔の記憶ですけどね。

 

「ここ駅から近いのな。桜も咲きはじめてきれいだった。」

「そうですね。今日は桜の日ですから・・・。」

「そうなんだ。」

「高野さん、だいぶ酩酊ですが大丈夫ですか?」

「平気だ。」

「あーあ・・・。」

 

ソファーの上でノアを抱きこんでウトウトとする昔の恋人の髪を掻き揚げると面差しは嵯峨先輩に良く似ていた。

あの繊細な少年は蕪村な大人になって何にも知らずにここにいる。

 

鼻の奥がツンと痛くなる。

 

あ、また俺泣きたい気持になってるんだ。

 

久しぶりに触れた高野さんの額から熱があがるような気がした。。

 

やっぱり何年経っても好きな気持を捨てる事ができない。

 

 

 

 

 

 

 

天の神様ありがとう。

 

今日はきっと俺に誕生日のプレゼントをくれたんですね。

 

 

それが気まぐれだとしても俺は今日はとても幸せでした。

 

 

また明日から少しだけがんばって生きていける気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高野さん。大好きです。

 

 

きっとこの気持が褪せる日なんて来ない・・・。

 

 

 

[高野]

 

 

目を覚ますとそこは見覚えのない部屋だった。

天窓からは朧月が見えて夜半であることがうかがえる。

 

そう言えばと眠る前の事を思い出し、ここがどこか思い当たった。

 

なんだか久しぶりに楽しくて酒が進んだんだ・・・。

 

壁のデジタル時計が光って夜の12時を知らせている。

 

案外すっきりしている割にはそんなに長い時間寝たわけでもないんだと、一旦身体を起こした。

 

枕元にはペットボトルのミネラルウオーターが置いてあった。

ワインを飲むと喉が渇くんだよな、律儀な奴、と顔がにやける。

 

小野寺って不思議な奴だ。

会社で見るあいつの顔はいつだって静かに笑っていて、激高するどころか怒ったところも見たことがない。

しかしその実、すべてを拒否するようにその表情を崩すこともまたない。

 

メディア開発に移動になった木佐の昔話で、りっちゃんと俺のバトルが懐かしいと言っていたことがあったが想像できずにスルーした。

 

あいつとバトル?今は問答にさえもならない。うかつに突っ込めば理詰めでやり込められるのがおちだ。

でも今日の小野寺は少しだけ人間味のある表情をしていた。

そう、いつもどこか引いてある、人を越えさせない見えないラインがはずされていたように感じた。

 

別に明日はしなければいけないことがあるわけでもない。申し訳ないけどこのまま泊めてもらうとして、ちょっとトイレでも借りるかとそろりと控えめにドアを開けて外を伺う。

目の前の廊下は踊場と言ってよいほど短く、昼間トイレと案内された場所はダイニングの数段上がったところだったが、寝ていた部屋はそのトイレを折り返しにして数段上がったところにあった。

 

この家は造りがおもしろい。

 

書庫も中二階にあったしあちこちが多層構造になっている。

年寄りの隠居所と言っていた割にはバリアフリーとは無縁な感じだ。

 

ふとまだダイニングに明かりがついていることに気がついた。

 

この階段は吹き抜けになったアイランド型のキッチンの奥の壁側にあたり、反対側のリビングに座る小野寺の姿が見下ろせた。

 

小野寺は組んだ長い足を投げ出すように伸ばし、出窓にもたれかかるように頬杖をついて遠くを眺めていた。

膝にはパワフルでありながら小型の件の愛犬がちょこりと乗っていて、その犬の背を細い指がサワサワとなでていた。

犬は気持ちよさそうにその身体を小野寺にゆだねている。

 

少しだけ開いた窓は春先の冷たい風を吹き込んでいるようで、風呂上りなのか結わえていない長い髪がふわふわとゆれていた。

 

きれいな横顔だ・・・。

 

今日何度小野寺の顔を見てそう思っただろう。

 

いつもの感情のない顔と異なり、愛しい思いを隠そうともしないような甘い横顔だ。

しかしその頬から光るものが一滴[[rb:零 > こぼ]]れ、小野寺が小さい声で何かをつぶやいてひざに抱いた犬を抱きよせた。

 

その表情と涙の違和感にうろたえ身じろぎをした瞬間床板がギシリと鳴った。

 

犬がピッと耳を立て小野寺の腕から飛び出して俺めがけて突進して来る。

俺はまたいたずらを見つかった子どものように居心地の悪い気持ちになった。

 

まさか小野寺は見つめられていたとは思っていまい。

あわてて不自然ではないように身を整えて足元に寄ってきた犬を抱き上げ、静かに階段を下りて行った。

 

 

「目が覚めました?」

小野寺はいつもの張り付いたような微笑に仮面を差し替えた。

 

「迷惑かけたみたいだな。悪かった。」

俺は居心地の悪い気持を隠しながらそう告げた。

 

「いえ、高野さんは覚えてないでしょうけど俺も散々酒ではご迷惑をかけてるんで。それに高野さんのは迷惑でもなんでもないですし、明日朝の用事がないのであればこのまま朝までごゆっくりどうぞ。」

「そうなんだ・・・。記憶をなくした時のことを小野寺から聞くのははじめてのような気がする。」

「そうでしたか?」

小野寺は窓を閉め手振りで椅子を勧めた。

 

「本当は色々と聞きたかった。」

かつて自分の不安を小野寺のノートによって解消されたことを思い出していた。

 

「そうですか・・・。」

小野寺はキッチンでお茶の用意をしながらも話が途切れないように合いの手のように返事を返した。

 

「あの頃は俺も少なからずショックだったんだと思います。高野さんが忘れた一年にすっぽりと俺が入っていたことが・・・。」

小野寺の言葉にキュッと胸がきしむ。

そう。忘れたのは俺には責任のないことだと言い続けた小野寺の、その心情の裏側には辛い思いがあったのだと今ならわかる。

 

「悪かった。たまたま乗ったタクシーが事故にあうなんて運が悪かったと思う。」

昔、何度か繰り返された言葉をまた俺は発してしまった。

小野寺がなんと言うか想像できているというのに・・・。

 

しかし小野寺の言葉はいつもとは少し違った。

 

「俺は運命の神様に感謝はしましたけどね。」

「神様に感謝?」

「ふふ、高野さんが死なずに済んで良かったって。」

 

短く積まれた形のよい爪が、細くて長い指先をきれいに飾っている。

その指がガラスのソーサーを運ぶと、目の前の白木のテーブルがコンと小さな音を鳴らした。

 

カップからは夏の草原のようなよい香りが立ちのぼっていた。

 

「カモミールの入った花茶です。カモミールは安眠効果があるようですよ。」

小野寺はカップの横にビスケットの入った木製のボウルと湯の中で花が咲いたように開いている茶葉の入ったガラスのサーバーを置いた。

 

「安眠もいいけどもう少し小野寺と話がしたい。」

 

茶を一口すすりながら思ったことを口にすると小野寺が少しだけ驚いた目をした。

その大きな翡翠の瞳を見て「眼鏡って伊達だったの?」と言うと小野寺がふっと息をもらし口角を上げた。

 

「伊達ではなくてパソコン眼鏡です。目の色素が薄いので明るい画面はどうにも見づらくて・・・。」

「目の色、珍しいよな。」

「そう言われます。目の色はメラニン色素の量などで何段階かに分かれるようですが、俺の場合は外国の人のような緑色をしているわけではなく、あくまでも光線の加減ですけど。」

 

その緑の目には既視感があった。そんな目をした奴を俺は知っている。

 

瞬間的に脳裏に浮かんだ言葉を脊髄反射的に発しようとしてなぜかそれをぐっと喉元で押さえた。

そうしたら何を言おうとしていたのか、浮かんだ言葉が空中で霧散した。

 

「どうしました?」

「いや・・・、なんか言おうとしたんだけど、喉まで出かけたのに瞬間で忘れた。」

 

小野寺が顔をくしゅりとゆがめてくくくっと声を殺しながら可笑しそうに笑うので

「ぼけたとか思ってんだろう。」

と俺は不本意そうにわざとすねた口調で返した。

 

それに答えはなく部屋はまた静になった。

沈黙に耐えられない関係は苦しいが、なぜか今の俺にはお互いに何も音を発しないこの時間が心地よく感じた。

 

「あの書庫いいな。」

ビスケットをねだる犬に上げてもいいかと身振りで問いながら言うと小野寺は骨の形をしたいかにもな犬用のビスケットを手渡しながら「いつでもいらっしゃってください。」と微笑んだのだった。

 

 

 

 

 

[律]

 

 

 

4月の人事異動で高野さんは編集統括部の部長になった。

現在も編集長という肩書きは付いていても大きな決済の絡む案件以外のエメラルドの実働は副編集長の羽鳥さんが仕切っている。

 

羽鳥さんはあちこちの部署から移動の声をかけられているけどエメラルドから動く気はないと言って断り続けていた。

今回高野さんの後任は当然副編集長の羽鳥さんだ。

 

美濃さんも木佐さんも既にジョブロテで別の部署に移動になっていて、あの楽しくも地獄のようだったエメラルド編集部は名残の夏のような寂しさを俺に与えた。

 

かく言う俺も高野さんの暴走を止められるのはお前だけだと井坂さんに謂れのない(ある意味では光栄な?)言葉と共に編集長兼任で統括部の部長補佐の仕事が割り当てられた。

 

俺が高野さんを止められるわけがない。あの人を止められるのはあの人自身だけだ。

いつだって気分で動いているように見せて、その実人々の思惑を観察し緻密に計算をしている。

横暴に振舞うのは隙を付くためだ。相手の感情を逆撫でして、そこにできる油断を誘っているだけで、俺など何を武器にしても勝てたと思ったことなど一度もないのだから。

 

補佐などしたくない。近寄りたくないはずなのに、うれしいと思ってしまう自分もいる。

 

それはきっと大昔の初恋のかけらを胸に抱いたままぎゅっと四方八方からねじくれた強い力で押し込められたもう一人の俺のせいだ。

 

押さえ切れない恋しい気持ちが[[rb:刻 > とき]]を経て発酵し、入れ物の中でパンパンに膨れ上がっている。

 

壊れないはずの入れ物があっけなく崩壊するのはいつなのか。はじけた時にはその外に向かうベクトルがどんな作用をもたらすのか、考えるだけでも恐ろしい。

 

そろそろガス抜きしておかないとまた俺は暴走してしまうかもしれない。

 

 

硬い銀色の表側をパキリと強く押すと、そのタブレットは薄いアルミ箔を破り手のひらに落ちてきた。

 

一日二錠まで。

 

処方の紙にはそんな文言が書いてある。

 

薬に頼ってどうする。自分の身ぐらい自分で律して行かなければ。名前負けもいいところだ。

そう思えば思うほど心は追い詰められていく。

 

給湯室でコップを抱えながら錠剤を見つめて思案していると、後ろからタイミングよく声をかけられた。

 

「小野寺、今日飲みに行こうぜ。」

その頼りがいのある低くて通る声に俺は肩を飛び上がらせながらも眉間に込めた力が抜けるのがわかった。

 

「横澤さん・・・。」

いつだって横澤さんは俺を深みの縁から引き上げてくれる。

 

横澤さん・・・。ごめんなさい。

 

 

 

 

[桐嶋]

 

 

「桐嶋さん、今日は何ですか?」

 

隆史から今日は小野寺と飲むからと簡素なラインメッセージが来た。

せめてハートの絵文字ぐらいサービスしたってよさそうなもんだろうに、あいつはいつだってツン多目のツンデレだ。

 

ひよも大学生になって都内の国立に進学をした。

 

若い娘がいる家に他人のおっさんが出入りするのも気が引けると言うので、最近では隆史の家に出向くことが増えた。

ひよはお前のことを本当の身内のように思っているが、それが世間の目ってもんだって俺もわかる。

隆史が嫌がることを強く押し付けることはしたくない。

 

だからいい加減小野寺のお守りも卒業して俺のことばかり考えてもらいたいもんだけど、あればかりはと因業なことも言えない。

 

小野寺の立場を思えばせめて慰める役ぐらいは買って出てやりたいだろう。

あいつはいつだってだめな奴をほっとけないみんなのオカンなんだから。(俺を含めてな)

 

だからさ、俺は俺で勝手に憂さを晴らさせてもらう。

 

好きだ好きだといい続けて嫌がる小野寺を無理やりに自分のものにしたくせに、当の本人は記憶をなくして簡単に小野寺を放り出した。

 

自分がもし小野寺の立場になったらと思うと、俺も隆史もヒトゴトではいられない。

 

まあ俺だったら無理やりもう一度引きずり倒すけどな。

 

人前で宣言して、おおっぴらに嘆き悲しむことのできないマイノリティーな恋。

誰にも言えない苦しさがわかるのは、同じ立場にいるものだけだ。

 

生きていてくれさえすればいいと小野寺は祈ったはずだ。一度愛しいものをなくした俺にはその気持ちがわかる。

でも実際にこんな風になるとは思いもしなかっただろう。

 

それでも傍に居たいんだよな小野寺は・・・。辛いな・・・。

 

 

 

 

 

「いや、嫁が不在だから、少女マンガ部門の部長になったお祝いしてやろうと思ってな。」

高野は眉間に寄せた皺を隠そうともせず嫌そうな顔をした。

 

「ここって個室になってるから内緒話にはうってつけなんだ。」

「桐嶋さん俺と内緒話をするんですか?」

「そう。隆史がかわいいって話をな。のろけられる奴も他にいないし、たまにはいいだろ?おごってやるからつきあえよ。」

「いまだに信じられないんですよね、桐嶋さんと横澤が付きあってるって。」

「そりゃそうだろう。お前その辺すっぽりと忘れてるからな。」

「はあ・・・。」

 

高野の忘れた一年間は、高野にとって本当はひどく大事なことが詰まった一年だった。

それを本人だけが何にもわかってないのがむかつく。

 

隆史がお前にどれだけ泣かされたと思ってるんだ。

なのに簡単に忘れたとか言ってんじゃねー。

 

本当はそんな風に言いたいけどそれは言えない。隆史がなかったことにできるならそれでいいと高野をまた赦したから。

 

お前はどんな覚悟があって小野寺を選んだんだ?

なぜ隆史はあんな辛い酒を飲んだんだ?

 

全部なかったことにして、皆言いたい事も言えずに心の中ではのた打ち回るほど苦しんでいる。

 

お前のせいじゃないかもしれないけどやっぱりお前のせいなんだ。

何もかもお前の覚悟が足りないから・・・。

お前が知ろうとしないから。

 

 

 

「ほら、聞こえるか?隣の部屋の声。」

「え?」

 

隆史がかつての恋がたきを慰めている声だ。

あの隆史が人を傷つけてまでも手に入れたかったお前の、あの初恋の相手は襖の向こうにいるんだぞ。

 

知らないだろうけどな。

 

 

 

「横澤と小野寺ですか。ずっと意外だったんですけどあの二人本当に仲がいいですよね。」

「そうだな。小野寺って危なっかしいから放って置けないんだろうな。」

「はあ・・・。」

 

高野は差し出された徳利を杯で受け、それをぐいっと飲み干し、返杯とばかりに俺の手から徳利を取り同じように差し出した。

 

いい年になったのに、いまだに女子社員にキャーキャー言われる整った顔。

聡い奴だとは思うがちょっとつつけばすぐにぼろぼろになりそうなくせに、全部ばらしてやりたいけどそれをすると隆史に怒鳴られそうだから我慢してやる。

 

だけどもしここで何かを聞いたとしてもそれは俺のせいじゃないからな。

 

 

「小野寺が危なっかしいって言うのは初耳ですね。あいついつだって涼しい顔してませんか?」

「そう思うのか?」

「ええ。少なくとも俺の前では・・・。」

 

お前の前だけなんだよ、あいつが強がってんのは。

 

本当にお前むかつく・・・。

 

 

 

 

 

 

 

[律]

 

 

横澤さんと訪れたのは、今となっては定番の地酒と食事のおいしいお店だった。

 

昔、とっておきのお店だと言って桐嶋さんと横澤さんに拉致されるように連れられて、そこで散々慰められ励まされ、俺は酔っ払って泣いて管を巻いた。

 

それでも気持ちが軽くなり、何度か続くうちにこの店に来ると条件反射か食事をするだけでもすっきりするようになった。

 

「いつもすみません。俺がだめなばっかりに・・・。」

またこんなだめだめな俺かと思うと、情けない気持ちが沸きあがりついつい自省的な言葉が出てしまう。

 

「お前がだめだと思ったことはないし、今日はうまいメシが食いたかっただけだから気にするな。だけどあまり薬に頼るな。いつだって俺に言ってくれてかまわないから。」

 

ああ、やっぱり見られていたんだと思うと申し訳ない気持が増す。

 

「ありがとうございます。」

だから感謝の言葉しか出てこない。

 

この人が俺にこんな風に言えるまでにどれほどの苦しい想いをしたんだろう。

 

同じように眠れぬ夜をすごし辛さに結んだ唇を、噛み締めた歯で噛み切ったりしたんだろう。

 

俺はいまだにそれを捨てられないのに、俺にこんなに優しくしてくれる。

 

俺もあなたのような人になりたい。何もかも包み込めるような自愛あふれるそんな人に・・・。

 

「強くなりたいです・・・。」

ぼそりとつぶやくと

「もうそれ以上強くならなくてもいい。お前は十分傷ついている。」

と横澤さんが同じように小さい声でつぶやいた。

 

「厳しいことを言うようだがお前の恋人はもういない。」

「はい・・・。」

「だからって忘れる必要はない。」

「え?」

「好きだという想いを持ったままでいいんだ。」

涙があふれた。

「もういない恋人を想う気持ちを誰が咎める?」

バタバタと涙が滴り落ちた。

「横澤さん、ごめんなさい。あの時約束したのに。俺・・・。俺・・・。結局誰も幸せにできなかった。」

 

あんなにえらそうに宣言して置きながら、あんなに好きだと言ってくれていた高野さんを一年も待たせた。

いや、その前に10年もの間嵯峨先輩を傷つけ続けた。

 

だから罰があたったんだと思っていた。

 

今度は俺が苦しまなければ赦されないとずっとずっと思っていた。

 

「お前にも俺のようにもう一度全てをささげても悔いがないと思える相手が現れるかもしれない。」

「もう一度?」

「そうだ。」

横澤さんはいつもの凛々しい瞳を少し細めて愛しい人を見つめるような優しい目をした。

 

 

「桐嶋さんはこんないいお嫁さんをもらえて幸せですね。」

「お前まで俺を嫁とか言うな。」

「ふふふ・・・。」

涙が止まらないのに笑えてる自分が不思議だった。

考えた事がなかった。高野さん以外の人を好きになるなんて。

 

 

でも横澤さんがそう言うのならそうかもしれない。

この気持をきちんと整理できたなら、やがてそういうこともあるのかもしれない・・・。

 

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

「小野寺には死に分かれの恋人が居たんですか?」

「まあ、死んだって言うか消えたっていうか、まあそんな感じだ。」

桐嶋さんはつまらなそうにそう言ったが俺はもやとした嫌な気持ちを堪えきれずにいた。

 

小野寺があの時悲しい目をしたのは知っていた。

それはいなくなった恋人を想っていたからなのだろうか。

 

イライラする。

 

この間から俺はおかしい。

あの書庫の本を読みたくて仕方がない。

そして犬と遊んで小野寺とメシを食べたい。

 

 

ただにっこりと優しく笑う小野寺と、時間の流れから外れたようなあの場所でゆったりと過ごしたいだけだ。

 

 

それでいいじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

 

「またノアがなんだかやったみたいだぞ。」

 

この賢くてちょっと間抜けな犬は人のことを良く見ている。

 

人間が片付けた「自分の欲しいもの」を、その時はもう忘れましたと言わんばかりに知らん顔を決め込むのに、いつまでもそれを忘れない。

人がちょっと部屋を空けたりすると、待ってましたとばかりにそこに行き、引きずり出して悪さをしたりする。

そして自分のやったことを振り返るのか、人が戻ってくると「やっちまった。」と盛大に反省した態度を取るのだ。

 

「あ、尻尾インですね。これ・・・。」

「自分でなんかやりましたって白状してるみたいなもんだな。」

「ノア!何やったの?」

 

小野寺が強く言うと、いよいよまずいと感じたようで身体をブルブル震わせて床に伏せて降参のポーズを決める。

 

「ならやんなきゃいいのにな。お前利口なようで馬鹿だよな。」

 

耳を下げたノアを抱き上げると、赦してもらうチャンスとばかりに俺の顔をベロベロと舐めまくった。

そんなかわいいしぐさに結局降参するのはこっちなんだけどな。

 

「あ!そういえばダイニングテーブルの上にあったクッキーがない!」

「椅子しまっとくの忘れてた?」

「ああ、もう・・・。」

 

小野寺はノアに向かってだめでしょと怒って見せるが、俺の腕の中のノアはもう謝ったもんと言わんばかりに尻尾をぶんぶん振っていた。

 

あの日から・・・、はじめて小野寺の家を訪れてから半年以上が過ぎた。

飲み屋の一件で少しだけ吹っ切れた俺は、立派な書庫目当てに休みがかぶれば小野寺宅に押しかけるようになった。

 

もちろんかわいい小野寺の息子へのプレゼントを持参することは忘れていない。

 

 

ノアは俺のことを歓迎してくれているし、小野寺もノアの前では能面のような笑顔を崩す。

小野寺のいなくなった恋人のことは気になるが今いない奴に気兼ねする必要もないはずだ。

 

俺は小野寺の書庫と犬が気に入っているのだから。

 

元の持ち主が出版者の重役だったというだけあって、図書館のように何でもありとは行かないが蔵書の質は高く、興味深いものが揃っていた。

一日中篭っていても飽きることのない書庫は小野寺出版からも定期的に新刊が送られて来るようで、それもまた興味深かった。

 

 

小野寺は書庫にいる俺を構わない。

勝手に出かけたりするし食事やお茶でさえ、没頭してる時は声をかけない。

 

いい距離感だと感心する。

悔しいが小野寺は俺のことをよくわかっている。

 

 

今日も書庫に篭って既に何時間経ったんだ?と腕時計を見ると午後2時を少し過ぎていた。

 

腹が減ったなあと、ダイニングを覗くと小野寺はいなかった。

 

今日はうまいと評判のパン屋のサンドイッチをおもたせに持参していたので、それを一つ口に咥えて見渡すとノアががりがりと壁を引っかいていた。

 

出窓の下の、壁に見えるそれは、良く見ると少し浮いていて扉になっているようだった。

 

この家はところどころに小さな工夫が凝らしてある。

 

元の持ち主だった小野寺の大叔父はきっと洒落の好きな人間だったのだろう。

書庫の棚の一つをずらすと小さな書斎が出てきたり、柵の奥にもう一つ隠れた棚があったりして小野寺がおもしろがってあちこち説明してくれた。

 

これもその一つだろう。それにしても良く擬態できているな・・・。

 

ノアは自分のおもちゃが取れないところに転がったり、他のものと一緒に棚にしまわれたりするといつまでもそこにあることを忘れないので取ってやるまでクンクンがりがりとうるさくねだる。

 

「またおもちゃをしまわれたのか?」

 

俺はノアにそう声をかけて、引くべき所のないその扉の溝に爪を差込みついっと引っ張ると、大きな板が真ん中からいくつかの蛇腹に折れ曲がり中からは棚が現れた。

 

「ノア、何が欲しかったの?」

 

ノアを見ると欲しかったものはこれとばかりに箱の一つに鼻を突っ込んで尻尾を勢い良く振りながらにおいを嗅いでいた。

 

「何だ?こん中か?」

 

クンクンと嗅ぎまくるノアをのけて、箱を手前に引き寄せるとそこには見覚えのある刻印の入った本が一冊入っていた。

訝しく思ってその本を手に取り開くと一枚のカードがひらひらと足元に落ちてきた。

ノアにかじられてもたいへんだとすばやく拾い上げたカードを見た瞬間手が震えた。

 

そこには『嵯峨政宗』『織田律』と、続いて並んだ手書きの見慣れた文字があった。

 

 

 

そうだ、この本はあの図書室の本だ。

そしてこのカードは図書貸し出しカード・・・。

 

なんで小野寺がこれを・・・。

 

ぐるぐるとした思考の隅でこれは見てはいけないものだ!と直感した。

 

あわててカードを本に挟んで箱に戻して柵の扉をバタリと閉めた。

 

動悸が止まない。指先が冷えて行くのがわかる。

 

なぜ!!!???

 

そればかりが頭の中で渦巻いていた。

 

 

 

その時玄関のドアが開いて小野寺が入ってくる気配がした。

 

ノアはまたさっきの壁をカリカリと引っかいていた。

 

 

「あ、高野さん。活字の旅からお戻りですか?お昼は召し上がりましたか?」

 

小野寺は手に野菜を持っていた。

 

近くの無人販売所には安全な地元の野菜を安く売っている。

頼めばタマゴや牛乳も購入することが出来るそうだ。

 

小野寺は時々そこの野菜を買っていた。

今もそこに行って野菜を買ってきたのだろう。

散歩ならノアを連れて行くはずだから・・・。

 

 

「あ、ああ・・・。サンドイッチを一つつまんだ。」

 

「そうですか。じゃあお茶を入れますね。」

 

小野寺は野菜をキッチンに置き電機ケトルをセットした。

 

 

「ノ、ノアがさっきからそこの壁を引っかいてて、気になってるんだけど。」

 

「え?」

 

本当に気になっているのはなぜノアがあの本を気にしているのかだった。

あれはなんだと問い詰めたい気持を隠して、小野寺がどう反応するのかを見たかった。

 

しかし小野寺がノアの顔をじっと見つめると、ノアはしまったとばかりに耳をたれた。

 

「ここも隠し扉なんです。ノアの欲しそうなものは入ってないはずなんだけどな・・・。」

小野寺はカリッと爪をあててそのドアを躊躇することなく開いた。

 

 

「あれ?」

そして小野寺はそこにあったあの本を見つけて目を輝かせた。

それは困惑ではなく歓喜だった。

 

「何?それ?」

俺は疑問を小野寺にぶつけた。

それが何かを説明してくれと祈るような気持だった。

 

「あ、すみません・・・。俺の通っていた学校の図書室にあった本です。図書室が改装になるって連絡が来た時に、処分するという本の中からこれをもらってきたんです。」

 

その時、小野寺は見たこともないような優しい顔で笑った。

 

「俺にとっては大事な本だったんです・・・。」

 

 

 

 

 

[律]

 

 

ノアは何でこの本を欲しがったのだろうか。

ノアの前であの扉を開いたことなどなかったのに・・・。

 

ノアの中に何が起こったのかは分からない。

 

 

もしかしたら高野さんに知らせてくれるつもりだったのかもしれない。

あの学校の図書室が電子化され、蔵書を整理するという情報を入手したのは高野さんだった。

二人で学校に行き頼み込んでこの本を貰ったのも高野さんだった。

「欲しいのは本よりもこのカードだけどな。」と言って。

 

いまさらそんなことを思い出しても仕方がないのに。

 

もう何もかも元には戻らない。

 

 

 

高野さんを好きだった気持ちを忘れなくてもいい。

横澤さんがそう言ってくれて俺の中で何かがすとんと落ち着いた。

 

俺はずっとずっと嵯峨先輩に好きになってごめんなさいと謝り続けてきたような気がしていた。

 

俺が好きにさえならなければ高野さんに苦しみを与えなくても済んだのにと・・・。

 

 

でも、高野さんは以前昔のことは忘れたと言っていた。

苦しい過去は思い出したくないと・・・。

 

きっとあの再開の時に、俺があのリツだと気が付かなければそのままリツのことは忘れたままだったんだろう。

 

あれからずいぶん長い年月が経った。

もう俺は贖罪の日を送らなくてもいいのかもしれない。

 

 

 

嵯峨先輩は俺のこと好きですか?

 

今なら「ああ好きだよリツ。」そう答えてくれるはずだったと信じられる。

 

 

 

そして消えてしまった高野さんは、

 

あの、止まった時のままの高野さんとして俺の胸の中だけにいる。

 

 

高野さんは俺のこと好きですか?

 

 

でも高野さんは、例え妄想でも答えてくれない。

 

 

 

 

 

でもそれでいい。

 

俺が高野さんを大好きだから。

 

 

 

 

 

 

 

それでいい・・・。

 

[律]

 

 

夏を過ぎたあたりからメディア関連はいよいよクリスマス商戦の大詰めとばかりに動き出す。

まだ残暑も厳しいのにクリスマスを考えるのかと気乗りしないのに、仕事は待ってはくれない。

 

とにかく気持を無理やりにでも上げていくしかない。

 

アメジストで連載をしている魔法系の漫画が4月からアニメ化された。

 

丸川では作品が他の媒体と相互的に扱われることが多い。

 

要するにアニメ化やコミカライズされることが多く、フリーダムな気質からかスピンオフや二次的なものも受け入れやすい環境だ。

 

そのアニメ化された漫画のグッズの打ち合わせが映像系の小さい事務所とあった。

 

おもちゃ会社の担当者からはオーブ型のきらきら光るアイテムと、電池を入れるとくるくる廻る星の付いたステッキの形のおもちゃの(高額な)クリスマス向けの最終的な試作品が来ていた。

 

一つ数千円・・・。

 

しかも物語の中でレベルアップしたりするとアイテムも変ったりするんだよな・・・。

 

親御さんも大変だな・・・。

 

「おおむね良いようですね。」と試作品を舐め回した各担当はゴーサインを出した。

それは何度も打ち合わせを重ね、小さい子が多少乱暴に扱っても壊れないように、軽くて危なくないようにと最新の注意を込めたグッズとなった。

 

良かったこれで一つ片付いた。

 

アメジストの仕事はほとんど各メイン担当とサブ担当を設けてある。

よほどのことがない限り編集長や副編集長が出張って行かなくてもいいようにしてあるのだけどこれは武藤先生の漫画だ。

ことの始まりは武藤先生だったため、俺の中でも武藤先生は特別な感じで担当をしていて今に至る。

 

でも武藤先生も新しい担当に引継ぎ済みだ。これで本当に前線での仕事は終了。

あとは全体を統括する統括部で紙媒体以外のメディア関連を見て行くことになる。

 

 

感慨深いなと思いながら「ではこれにて」と立ち上がると

「失礼ですが小野寺さんはお子さんは?」

とグッズの製作会社の担当が片付けをしながら軽い口調で俺にそう聞いた。

 

結婚は?ではなくお子さんはといきなり言われたのにはやや戸惑を感じる。

確かに30過ぎればそういう感じだろう。

 

「あ、その・・・、犬なら・・・。」

おい俺!突然だったとはいえもう少し気の利いた切り替えしは出来なかったのかと、返した言葉が口から飛び出した瞬間既に後悔する。

データや推敲した案件なら滑らかに話しも出来るのに・・・。

 

「甲斐性なしなので独身です。」とか「妻募集中なのでこれから。」とか言えばよかったのか?

あーもう・・・。だからやなんだ。外向けの仕事は・・・。

 

「じゃあいくつか持ってきたのでだれか小さいお子さんのいらっしゃる方に差し上げてください。」

さすがに営業慣れした担当者は俺の苦悩などお構いなしに紙袋を押し付けるように差し出した。

 

「あとで是非感想を、よろしくお願いします。」

勢いあるってすごい。俺は断ることも出来ずその紙袋を呆然と受け取り、結局今それを手に電車に乗っている。

 

紙袋からちょこんとはみ出したピンクのステッキはなんともファンシーだ。まあいかにもなビジネススーツを来た男(ヤロウ)が持ってるからには仕事かお土産かと言う感じだろうけどね。

 

感想か・・・。リサーチってことだよな。困った当てがない・・・。

 

アメジストのメンバーをざっと思い浮かべるけど不思議系雑誌だけにメンバーも皆個性的だ。

唯一の既婚者のユー君も確かお子さんは男の子だったよな・・・。しかもまだ生まれて数ヶ月だ。

 

エメラルドの人たちはどうだったか?と頭の中でメンバーの顔を思い出して考えている最中に、

そう言えばと思い出したのは5年間の期間を経て去年フランスから帰ってきた杏ちゃん。

フランスに留学していた杏ちゃんは、向こうで知り合った彼と結婚した。

 

だんなさんはホテルを経営している会社の跡継ぎで、プロバンスの良い雰囲気のホテルで修行をしていたと言っていた。

 

俺は結婚式に招待されて南フランスのお洒落なオーベルージュで杏ちゃんとだんな様の幸せを祝福した。

 

花の咲き誇るプロバンスは恋人達にお似合だった。

フルーツの香りや花の香りが似合う街で幸せそうに笑う杏ちゃん。

 

杏ちゃんは一人っ子の俺には姉であり、妹であり、そして何より大切な幼馴染だった。

 

そして杏ちゃんにはいつだって助けてもらった。

 

杏ちゃんに何度も背中を押してもらった。

 

付き合う事にした時俺達は杏ちゃんや横澤さんたちお世話になった皆さんを食事に招いて簡単な報告はした。

・・・。

 

 

なので本当は杏ちゃんにも色々説明しなければいけないと思いつつも時間がこんなに過ぎてしまって、結局もう今更とそのままになっている。

 

そう、こんなつまんない話をしなくてもいいだろう・・・。

 

杏ちゃんの幸せは俺にとっても幸せだ。

 

幸せそうな杏ちゃんにこんな嫌な気持ちを伝える必要はないよな。

 

 

 

 

 

 

 

日本に戻ってきた杏ちゃんからは時々メールをもらっていたけど、幼馴染とはいえ用事がなければ会う機会もなかなかない。

 

丁度お嬢さんがこういうのを喜ぶ年齢なんじゃなかっただろうか?

 

早速画像付きのメールを送信して、まるでスチーマーの中のような都会のアスファルトの道をムニエルの気持になって足だけを機械的に動かした。

 

都会の四季は一日で変る。

 

昨日まで夏だったはずなのに翌日は秋になる。

 

早く去れ、夏。

 

9月は嫌いだ。あの事故の日を思い出すから・・・。

 

 

 

 

 

 

会社のエントランスに付いた時に杏ちゃんから返信があった。

 

丁度こちら方面に来ているので後で会社に寄るという。

 

「一件打ち合わせがあるからお待たせするかもしれないけど会社の一階のラウンジで合おう。着いたらメールを頂戴」と俺は返事をした。

 

 

 

 

打ち合わせは社長の井坂さんからの呼び出しだ。

 

一体なんの話しだろうかとアレコレ想定できることを思い浮かべるけどそれはきっと考えるだけ無駄だろう。

 

井坂さんはいつだって柔軟で斬新でびっくりするようなことを言ってくる。

 

 

 

 

先日はアメジストの売り上げが連続1位だったことで、井坂さんに「もう高野から卒業だな。」って言われた。

 

俺はやっぱり今でも高野さんとセットと思われるんだなと思った。

 

 

 

現在のエメラルドの編集長である羽鳥さんは緻密ですばらしい。

 

無言実行とはあの人のことだ。

 

 

漫画に不慣れな俺のことを、いつも丁寧に解説して手取り足取り優しく指導してくれた。

 

会社の中のルールや部署間の微妙な機微はいつだって羽鳥さんが教えてくれた。

 

だからこそ俺のライバルはいつだって他社の漫画雑誌ではなく自社エメラルドだ。

 

エメラルドに勝たなければ勝利とは言えない。

 

 

 

 

でも、アメジストがエメラルドに勝利しても高野さんは先に進んでしまっている。

 

高野さんを越える編集になってみせますとあの日俺は言ったのに、いつになったらその日は来るのだろうか。

 

背を追うのではなく横に並んで歩きたいと思ったのはあの幸せだった暑い夏の日。

 

だらか高野さんの人生を自分に下さいと伝えた。

 

 

それは若い自分の思い上がりだったんだろうか。

 

あの時はあと少しがんばれば手が届くと思っていた。

 

 

でも高野さんは逃げ水だ。

 

必死で走ってやっと近づけたと思うとまた同じだけ遠くに行ってしまう。

 

 

 

今の高野さんは何を見つめて進んでいるのですか?

 

俺の目にはあなたの背中しか見えない・・・。

 

 

高野さん。

 

 

 

あなたはいつでも近くて遠いです。

 

 

高野さん・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[杏]

 

 

娘が4歳になってから、アニメのキャラクターなりきり現象が日々繰り返し起こっている。

 

家ではそんなにテレビを見ないのにどこで情報を得てくるのやら?通い始めた幼稚園の影響かしら?と首を傾げたくなる。

 

「マジカルララのお洋服が欲しい」とか「マジカルミミの髪型にして。」とか「魔法ステッキが欲しい」とか・・・。

 

そして娘にべたべたのパパは「かわいい、かわいい」と言って「そんなの買ってあげなよ」ってなんでも言いなり・・・。

 

だけど、アニメが終わったら要らなくなってしまうようなグッズは絶対に買いたくない。

 

欲しいモノを何でも買ってもらえるっていう環境は子どものために良くないし、すぐに飽きてしまうだろう。

 

だから無駄って思っていたら、律ちゃんから要らない?って写真つきのメールが来た。

 

 

本屋のくせにこんなもんまで扱ってるの?ってびっくりしたけど、考えて見たら原作は律ちゃんの会社よね。

 

たまには娘の夢をかなえる優しいママになってあげようかと、律ちゃんに返事をした。

 

 

 

 

 

 

 

丸川の一階にはホテルのようなラウンジが小さいながらもついている。

 

従業員の出入り口とは反対側でこちらは外向け、ポスターや雑誌が宣伝のように置いてある。

 

学参などを多く扱う小野寺出版とは少し趣が違う。

 

丸川はなんでも派手よね。

 

律ちゃんが漫画の編集をやるって聞いたときには絶対に無理って思ったのに今はそれに何の違和感もない。

 

さすがに仕事にも慣れたみたいで昔みたいに時間のすべてを仕事に忙殺されると言う感じでもなさそう。

 

 

「あ、杏ちゃんごめんねおまたせ。」

「ううん、全然。歩いて疲れてたから丁度休憩になって良かったわ。」

 

連絡をしたら程なくして律ちゃんがあらわれた。

 

律ちゃんが入り口に見えたとたんに頬を若葉の香りを含んだ風がなでたような気がした。

 

 

いつだって律ちゃんの姿を見ると胸がきゅっとする。

 

少女の頃の恋は特別だって再確認する。

 

律ちゃんのさらさらの髪の毛が好き。

いつもまっすぐに見てくれる目が好き。

細い指も、長い足も、いつも優しく杏ちゃんって呼んでくれる声も、

 

みんなみんな大好き。

 

 

女の子の恋は上書きだって誰かが言ったけど、そんなのうそだ。

 

大切な恋はいつまで経っても宝物。

 

だから胸の中の特別な場所に飾っておける。

 

 

 

 

 

 

「試作品なんだけど、今まで出てたものより請ったやつらしいよ。」

律ちゃんがそのステッキのボタンを押したとたんに、ステッキは大きな音でメロディーを奏で、先についた星が光りながらくるくると回って主人公の決め台詞が流れた。

 

「わ・・・、思ったより響くね。」

驚いた律ちゃんは目を丸くして飛び上がるようにあわててスイッチを切った。

ラウンジにはそれほど人はいなかったけど注目を浴びて恥ずかしかったみたい。

 

こうやって顔を赤らめて申し分けなさそうにする顔も好き・・・。

 

 

 

 

すると横から低くて通る声が聞こえた。

 

「無表情の部長補佐さんがあわてる顔もまたいいもんだな。」

 

そこに立っていたのはかつての律ちゃんの恋人「となりの人」だった。

ファイルを片手にお客様らしき人と「ではこれで。」と分かれる挨拶をしていた。

 

「高野さん。すみません騒いでしまって。」

律ちゃんはとたんに顔つきをスッと変えた。

 

『無表情の部長補佐さん』という部分が脳内でリフレインされた。

 

 

詳しいことは知らないのだけど、あの後二人の間で別れの何かがあったことは分かっていた。

まるで学生の時の律ちゃんのように律ちゃんから笑顔が消え、律ちゃんの周りからこの人の影が消えた。

 

 

そして今確信した。

 

あれから何年も経っているのにまだこの人は律ちゃんを泣かせ続けているんだ・・・。

 

律ちゃん、律ちゃんはどうしてこの人じゃなければ駄目なの?

 

そう思ったら居たたまれなくなった。

 

 

 

 

 

「律ちゃんありがとう。じゃあこれいただいていくわね。」

 

私が伝票を掴んで立ち上がると、律ちゃんが「杏ちゃん伝票は置いていって。」と優しく手を掴んだ。

 

その手を見てとなりの人が眉をきゅっとよせ顔をゆががませる。

 

あなたは今でもまだそんな顔するくせに、律ちゃんをどうしたいのよ。

 

そう思ったら急に怒りが混みあげて

「律ちゃんを泣かさないでって言ったのに、あなたの覚悟ってその程度だったのね。最低・・・。」

とつぶやいてしまった。

 

「?」

 

意外にもとなりの人はまさに『鳩が豆鉄砲を食らった』というような表情をした。

 

「あ、杏ちゃん!違うんだよ。高野さんは事故で・・・。」

律ちゃんがあわてたように掴んだ手を引き寄せて、小さな声で

「記憶をなくしたんだ。だから杏ちゃんのことは覚えてないよ。」

と言った。

 

 

 

[高野]

 

 

あいつは優秀な部下で気に入った書庫の持ち主でかわいい犬の飼い主だ。

 

あいつがひょっとしてリツかもしれないと思った時、俺はどうしたらいいか分からなかった。

 

十何年も前の恋人との偶然の再会を喜びあって「じゃあまた明日から仕事でよろしく」とクールに言うにはリツの存在は俺の中では特別過ぎた。

 

しかし、今更それを蒸し返しておまえはリツなのか?あの時何で消えたんだと問い詰めたとして、それで小野寺との関係がギクシャクするのはいやだ。

 

それに問いたださなくても、リツかもしれないと思って見れば見るほど小野寺はまさにリツそのものではないか・・・。

 

今更そんなことを考えるよりこのまま友好的に小野寺との関係を続けていく方が建設的だ。

 

そう、俺が口を噤んでいれば済むことなのだろう。

 

何度考えてもその結論しか出ない。

 

 

 

なのにラウンジで小野寺が女性と話をしていただけでイライラする。

 

それにあの子はどうやら俺を知っているらしい。

あの1年間の間になにがあった?

 

『最低・・・。』

 

そう言っていたことが気になって仕方がない。

 

一体俺の知らない何を知っているんだ。

 

 

やっぱりイライラする。

 

 

 

 

 

 

「おい高野!?」

 

「あ、横澤・・・。」

 

「何度も呼んだけど?」

 

「あ、スマン・・・。」

 

今は打ち合わせの最中だった。と言っても俺と横澤と物販の課長の三人だが・・・。

さっきまで物流のことを横澤が説明をしていたから油断していた。

 

「部長さんがお疲れだからちょっと休憩しよう。」

横澤がぱたりとファイルを畳んで嫌味を含めそう言った。

 

さすがに仕事中にボーっとするなんてと居心地悪くて横澤から目をそらし鼻の下を意味もなく擦った。

 

しかし物販の課長は「丁度良かった。ちょっとトイレに行ってきます。」とパイプ椅子を静かに引いて席を立って行った。

 

決まり悪そうにしていると横澤が背側にあった自動販売機のコーヒーを買って手渡してきた。

そして俺があわてて小銭入れを出そうとすると「別にいいから。」と手で制して「なに?」と言葉を発した。

 

「は?」

聞かれている事が瞬時には分からず相槌のような間抜けな言葉を返すと

「お前がボーっとしてる時ってなんか駄目な事考えてるときだろう?」

と眉間の皺を深くして言った。

 

 

「駄目な事ってなんだよ・・・。」

「それは俺にはわからんから聞いてる。じゃあ何考えてたんだ?仕事中に。」

そう言われると二の句もつけない。

 

仕事中によそ事を考えていたのは事実だ。

横澤は言葉を待つようにペンを親指の背でくるくると回した。

おまえ、それ上手だなとまたよそ事を考えているとまたじろりとにらまれた。

 

どうせお見通しだと諦め、仕方なく白状する。

 

「小野寺がさ・・・。」

「小野寺?」

 

横澤が少し意外そうに眉を上げる。

ほらな、だから言いたくなかったんだ。

どうせお前さ、仕事の事かって思っただろう?

 

でも違うんだぜ・・・。

 

「さっきラウンジで女と会ってて、なんか仲よさそうだったからなんだろうなって思ってただけだ。」

「小野寺が女と?」

「そう随分仲よさそうだった。小野寺の事律ちゃんって呼んでて、俺を知ってるみたいだった。俺に向かって最低って言って・・・。」

「え・・・。」

 

横澤が顔色を曇らせた。何か思い当たることがあるのだろうか?

横澤と小野寺は仲がいいから。

 

 

「それはアレだ・・・。」

 

横澤は少し言いにくそうに語尾を濁したが

 

「小野寺の元婚約者じゃないのか?」と続けた。

 

 

 

横澤の言葉に俺はざっくりと何かで脳天から足の先まで貫かれたような衝撃を感じた。

 

 

 

 

 

 

[杏]

 

 

 

ゆるせない!ゆるせない!ゆるせない!

 

私がどんな気持で律ちゃんのことをあきらめたと思っているの!?

 

それなのに覚えていないってなんなの!?

 

一人で平気な顔をして!

 

律ちゃんをまた泣かせて!

 

絶対にゆるせない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんばんは。」

 

遠くからでもあの人の姿はすぐにわかる。

背が高いしなにより認めたくないけどやっぱりカッコいい。

だからここにいれば絶対にあなたのことを見つけられると思っていた。

 

あの人の住むマンションのエントランス。

 

 

 

「・・・。」

「そんなに嫌そうな顔をしないでもいいじゃないの?」

 

突然攻撃を仕掛けられるとは思ってなかったでしょう。

武装されていたら勝ち目はないだろうから奇襲したの。まんざら失敗でもなさそうな顔つきで良かった。

 

何で律ちゃんがこの人に何も言わないのかはわからない。

 

律ちゃんのことだからアレコレ考えて、考えすぎてぐるっと一回りして、結局言いたいことも言わないであきらめて我慢してるに決まってる。

 

もしもう律ちゃんがこの人のことを好きではないのだったら別にそれでもいい。

 

でも言わなくては気がすまない。

 

だって私は、私がどんだけ辛い思いをして律ちゃんの幸せを祈っていたかをこの人に知ってもらいたい。

 

あなたなんて、あなたなんていつだって律ちゃんに愛されて、なのにそれをいつもなんにも知らない。

 

私がもしあなただったら何を忘れても律ちゃんのことだけは忘れたりしないわ。

 

だからこれは私からあなたへの最後の意地悪なの。

 

 

「アンタが何者かも知らないのにそんなに怖い顔されても困るんだけど。」

「あら?私は精一杯穏やかにお話をしているつもりですけど?」

「っでなに?」

「あなたからもらったプレゼントのお礼をしていなかったからそれを持ってきたの。」

「プレゼント?」

「ええ。忘れてしまったかもしれないけど私の気がすまないから。」

 

握った手を差し出すとあの人は訝しそうにしていたけどそれでも仕方なくと手のひらを私に向けた。

 

「俺はなにをプレゼントしたんだ?」

 

「見てもらえば分かるわ。」

 

その人の手にポトリと落としたのは小さいメモリーカード。

それを見てもらえばあなたが何を忘れたのか分かるはずよ。

 

律ちゃん大好き。

 

だから泣かないで。

 

いつだって私が律ちゃんを守ってあげる。

 

そして律ちゃんごめんなさい。

 

今度こそ律ちゃんに叱られるかもしれないけど・・・。

 

 

 

律ちゃん大好き。

 

 

だからがんばれ・・・。

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

俺が何をしたって言うんだ。なんであんなに好戦的なんだ。

小野寺の元婚約者ってことはあのときの噂の子ってことだろ。

って事は俺なんかよりよほど小野寺に近いって事だろう。

 

リツに婚約者がいたことを知った時、本当に俺はどん底の気持だった。

幸せだと思ってたあのすべてが気まぐれかまやかしだったと知って荒れた。

 

なのになぜ俺はあの子を知っている?

なくした一年間の間に何があったんだ?

 

昼からのイライラと定まらない思考に更にイラつきを感じて、部屋に入るなり靴を蹴るように脱ぎ、荷物をソファーの上に放り出した。

口の空いたバッグから書類やペンがこぼれ出た。

 

『なんだって言うんだこれ!』

 

手に握った小さい欠片を遠くに投げつけたい気持をぐっとこらえて乱暴にパソコンのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

 

[世界一初恋 高野政宗の場合]

 

 

 

そのメモリーカードは動画のアプリを立ち上げた。

 

柔かい音楽が流れ始め、文字がグルグルと回りながら正面に着地した。

 

パワーポイントを使った動画のようだ。

 

 

 

高野政宗 ○年12月24日 東京某所にて誕生

 

小野寺律 ○年3月27日 東京某所にて誕生

 

 

律が15歳、政宗が17際の時に図書室で出会った。

そんな二人が別離を越えてやっと結婚することになりました。

 

 

こんな表紙画像が数秒間音楽と共に光っていた。

 

 

 

動画はいきなり始まった。

 

「あ、やだ!なに撮ってんですか!?」

 

小野寺は真っ赤になって嫌そうにレンズを押さえている。

 

「いいんだよ、今日は二人の記念日だから。」

 

画像から流れる声は高野のものだった。

それぞれの表情は異なるが発せられている気は幸せそのもの。

 

高野が小野寺の指を引き「ほら指出して!」と言うと、

小野寺は「もう・・・、誰にも見せないでしょうね。」と赤い顔を伏せながら指を指し出した。

 

「じいさんになったらまた二人で見て懐かしがろうぜ。」

「もう、仕方がないからずっと一緒に居てあげます。」

「おまえ急にデレるなよ。」

 

小野寺は顔を赤くして俯くが高野はその身体をぐっと抱き寄せる。

そして二人でレンズの前に指を差し出して写真を撮るように静止した。

 

そこに移っている指輪は常に小野寺の指に光っているリングだった。

高野は自分の指にも同じリングがはまっているのを見て驚いた。

そう、あのリングはペアリングだったのだ。

 

「はい、おそろいの結婚指輪です。リツ好きだよ。」

「あ、なに言ってんですか。」

 

小野寺が画像の中で真っ赤になってまたレンズを手でふさぐ。

その指の隙間から漏れるように見える映像は見慣れた高野の家だった。

 

 

「りつは?好きって言って。」

「ば、ばかじゃないですか?」

「りーつ。」

「・・・。」

「りーつ。」

「もう、す、好きに決まってるじゃないですか。」

「はい、正解。」

 

高野は小野寺の顔を引き寄せ頬にキスをした。

 

 

 

そしてシーンが変った。

 

「今・・・、りつが寝ています。」

ささやくような小さい高野の声が聴こえていた。

薄暗いそこは寝室だった。

 

「昨日は新婚初夜ってヤツです。キスマークです。」

画像は寝ている小野寺の首元をズームしている。

赤い花びらのような痕が見える。

 

「ん・・・。た、かの、さん・・・?」

「あ、寝てな。まだ早いから。メシ作っとくから。」

小野寺はまだ眠いらしく声もかすれ気味だ。

 

高野はそっとつぶやくと小野寺の髪をさらりと梳いた。

 

「は・い・・・。って!なに撮ってんですか!?あんた!?」

がばっと起き上がる小野寺を高野が手で支える。

「奥様はお目覚めのようです。」

 

また高野が小野寺の髪にキスをした。

 

 

画像がぐるりと反転して次のシーンになった。

 

 

「おかえしです。マサムネ君の寝顔で~す。」

 

今度は小野寺のひそひそ声で動画を撮っていた。

自撮りしている顔はいたずらっ子のようだった。

 

「睫毛長いです。」

顔に向けてズームをすると寝ていた高野が気がついて目をパッと開けた。

 

「おまえ!なに!?」

珍しく高野が顔を赤くして抗議している。

 

「なに言ってるんですか。お返しです。」

「メモリアルフォトに入れてやるからそれ俺に送って。」

「え~~~。」

「うるせー。」

 

 

 

 

「はい。二人の名前の入った図書貸し出しカード、嵯峨政宗君と織田律ちゃんです。」

二人はあの図書貸し出しカードを持って顔を寄せていた。

 

どのシーンも小野寺は少し恥ずかしそうに嫌がっていて高野が嬉しそうにしているように見えたが小野寺はそれでも動画に治まっていた。

 

「もう俺の黒歴史を・・・。」

「結果オーライだからいいんだよ。」

「額に入れておこうぜ。」

「絶対嫌です。」

 

 

 

 

「今日はソラ太が来て居ます。」

「横澤さんと桐嶋さんは仲良く出張です。」

「黄色の目なのにソラ太です ふふふ。」

「本当に赤ん坊の頃は青かったんだよ。」

「ま、そう言う事にしておいてあげます。」

 

 

最後は二人の笑った静止画になり、そこに高野のナレーションが入っていた。

 

色々とお世話になった3人に俺たちの記念の動画を律には内緒だけど無理やり送るから。

これからは末永く幸せになるからよろしくな。

 

 

動画は終わった。

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

 

これは・・・。

 

気がついたら俺の目から涙がばたばたと滴り落ちていた。

 

あの子が怒るのは当然だ。

 

小野寺のこんな豊かな表情を見たのは初めてだ。

 

いつも能面のような顔をしていた。

 

二人の間では過去のすべては清算されたことだった・・・。

 

 

 

 

 

でも・・・、本当に何も思い出せないんだ。

 

あんなに幸せそうな顔をした小野寺も

 

あんなに愛しい目をした俺自身も

 

何も覚えていない。

 

 

 

 

どうして誰も教えてくれなかったんだ。

 

 

 

なぜ!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[律]

 

 

このところ高野さんがこの家に来ない。

 

先日井坂さんに告げられた仕事にかかりきりになっていて高野さんとろくに話しもできなくなっていた。

 

 

その時に打診を受けていた業務がもうすぐ正式に発表になる。

 

特に肩書きや待遇に変わりがあるわけではないのだけど生活は大きく変る。

 

だから、正式に発表される前に伝えたい。

 

だから話があると何度かメールもしたのだけど返事がない。

 

 

 

 

そこで初めて高野さんが俺を避けているのがわかった。

 

 

 

 

鈍いな・・・。

 

考えなくても分かりそうなもんだ。

 

どんなに忙しくてもたったの数分の時間を作れないわけはないじゃないか。

 

 

こんなにあからさまに避けられる程嫌がられているならもう静かに離れるしかない。

 

 

 

俺は高野さんが近くに来てくれることに浮かれていたんだ。

 

いつだって俺は侮って、先走って失敗する。

 

高野さんには必要以上に近づかないようにしていたはずなのに・・・。

 

 

 

ほら、また涙が出ている。

 

 

泣くな。

 

 

小野寺律・・・。

 

 

 

 

 

違う、泣いているのは俺じゃない。

 

 

俺の中にあるあの人を恋しいと思う恋心だ。

 

 

 

 

 

あの人はもう俺には届かない・・・。

 

[律]

 

 

イギリスの秋は日本とは比べ物にならないほど寒い。

 

井坂さんから新しいプロジェクトの仕事に携わるようにトップダウンで言い渡され俺はここにいる。

 

理由は一言、「おまえ英語得意ジャン。」だった。

 

ワンマンなことは最近は少なくなった井坂さんだけど、たまにこんな風に[[rb:間 > あいだ]]を飛ばして指令が降って来る。

何かをなさねばならないと思うとき、そこに規約や人垣が多く存在して結果初動に遅れが出るのは常だ。

だからと言ってそれが過ぎるとそれは独裁だけど井坂さんの行動のテンポは苦笑するレベルなので皆が認める。

 

そういうものが経営の才能と言われるものだろう。つくづくと俺は小野寺を継ぎますと言わず良かった。

いつだって迷って悩んで機を逃す。

 

そしていつまでもグズグズと後悔の海に飲まれ深く沈んで行く。

何かを明らかにして結果を聞くのが怖いんだ。

 

 

あの遥か昔のイギリスの滞在時は欝な気持を持ちすぎてこの街を愛することは出来なかった。

 

先輩は自分の全てだった。なにをしても『先輩なら』と考える癖がつきすぎて心に先輩のない自分は抜け殻だった。

 

俺が欲張ったりしなければ、俺が先輩に好きだと伝えなければ、俺が先輩を見つけなければ、俺が俺がとどんどん消去して行ったら最後に俺がいなければにたどり着いた。

 

だけどそんな思いでたどり着いた異国は有機物としての俺を消してはくれなかった。

 

だから心を消した。

 

ずっとそうやって生きてきたはずなのに再会が深海に沈んでいたはずの俺の心の入った箱を引き上げてしまった。

 

そしてまた性懲りもなく俺は欲張りな自分を解放した。

 

 

 

高野さんの記憶がなくなって冷えた目で見られた時に『今度こそこの人に否定されたら生きていけない』と思った。

 

だからまた昔の箱を引っ張り出してそこに心を押し込んだ。

 

なかったことにしよう。再会も、甘い言葉も、愛しい日々も。

 

 

 

そしてまた俺はこの街に来ている。

 

そう、たとえ泡沫だったとしても先日までのあのほんの少しのご褒美の日々は、これからの俺を動かすエネルギーにはなるだろう。

 

枯渇するまでは・・・。

 

 

あの鬱々とした昔とはちがう。今はこの美しい国をきちんと見る事ができる。

 

どの国も若者は同じだ。ハロウインやガイ・フォークス・ナイトではそれなりに楽しみを謳歌する。でもやはりこの国の若者はどこか気取っている。それが可笑しい。

 

そして日本人には理解しやすい古い物を愛する気質を持っている。

 

この国を楽しもう。から元気だとしてもいいじゃないか。

 

 

 

 

古い街のちょっとした影には精霊がいそうで、そうやって日々を過ごす自分はアメジストにかなり毒された証拠かもしれない。

石畳の多い街を仕事でリサーチするために小さいオフィス用の物件を不動産屋と交渉しなければならない。

 

 

結局高野さんには不在がちになることの説明は出来なかった。

 

今の高野さんの傍には補佐と呼ばれる人たちが俺以外にも何人もいる。俺一人いなくても何にも困らない。

 

 

仕事のことなのだから上から説明も入るだろうし私的に説明をする必要もなかった。

 

ただ書庫を気に入ってくれていたので、そのことを説明したかったけど実際にはその必要もなかった。

 

 

高野さんはもう書庫にも飽きてしまったんだろう。それならそれで気が楽だ。

 

上司と部下の関係ももうすぐ変る。

 

だからせめて仕事くらいはちゃんとしよう。

 

 

 

 

イギリスの夜は暮れるのが早い。尖塔の上に月がかかる。

 

歌の一説が頭の中に浮かんだ。

 

 

In other words, hold my hand

In other words, darling, kiss me

 

 

 

In other words, I love you

(つまり・・・、愛しているのよ・・・。)

 

 

つぶやくぐらいは許してくれるよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

 

少女漫画、少年漫画、映像、音楽、ライトのベルの若者向けの各編集と、物販、書店営業の業務を統括する販売総合統括部の会議が始まった。

 

今回は年内の締めくくりとして社長が出席する大きな会議で各統括部は順番に進捗を報告することになっている。

 

中でも今回は編集部として意を決して立ち上げた配信アプリ「MFC・マルっとフルコミ」の初動の報告が大きな議題となった。

 

これはスマホやタブレットで無料アプリをダウンロードして会員登録してもらえれば丸川の各雑誌で好評連載中の漫画や映像の番外のようなショートショートの配信サービスが受けられる。

また別途サービスとして無料ラインスタンプを定期的に受け取れたり、図書は一般的に値引率が低く、各書店でもポイントカードを作ることにも躊躇があると言われるなかで、利用率によってサイト内で購入することの出来るポイントをためられたりもする。

それはデジタルツールを買うときの値引き対象となったり、丸川ギフト券と交換できるという便利なサービスもあり、書籍購入の代引き購入でも図書カードエクストラを利用できる宅配サービスも設けており全方位的なサイトとなっていた。

 

何より先行される情報の開示や利用できるツールの多彩さ、毎日見たくなるような無料プチゲームの充実などでまずまずのスタートを切っていた。

 

 

少女漫画部門からは既存の丸川書店の海外事業部とは別の社長直轄のプロジェクトとして、もっと市民と交えることの出来る丸川ストップが設けられ、語学に堪能な小野寺が現地スタッフと共に拠点を整備していた。

 

10月頭の販売総合統括部の会議でそれが告げられたときに俺はひどくうろたえた。小野寺が俺と連絡を取りたいとしきりに言っていた意味がわかった。

 

1週間から2週間単位の出張がざらにあり、直接の部下でありながらそちらのプロジェクトにかかりきりで姿を見かける事も少なくなった。

 

あのままになっていた事が気になって、一度ノアはどうしているかと短いメールを小野寺に送った。

律儀なあいつが返事を寄越さないとは思ってもおらず、毎日返事を待ったが結局来なかった。

 

そして留守の間の家のことなどは従兄弟に見てもらっていると、あのあと再度連絡を寄越した元婚約者が言っていた。彼女には小野寺の色々なことを聞くことが出来た。

 

 

小野寺にメールをしたけど返事がなかったと横澤に言ったら、「そんなのいつものことだ。昔はもっとひどかった。あいつはおまえからの電話も無視するしメールも拒否されていた事があったぞ。」と笑った。

 

それはあのなくした一年間のことなのだろう。でも拒否ってちょっとひどくね?

 

それでも小野寺の不在の間、あの家でノアは一人で寂しく部屋にいるのだろうか。

 

暗い部屋で丸くなって寝ているノアの姿を想像して、昔の一人ぼっちの自分とダブってしまい「俺が面倒を見ようか?」と喉まで出かかった言葉が、しかし外に出る事はなく空に霧散する。

 

小野寺はメールの返事さえ寄越さないのに・・・。

 

こんなに怖気づいていたらあの元婚約者に今度こそ本当に張り倒されるな・・・。

 

そう、はじめにあいつを無視したのは俺だ。

 

あの時、どうしたらいいかわからず、私的なことで面と向かえば恨み言を言ってしまいそうで避けた。

 

 

でも今になって考えてみれば小野寺の立場でそんな事言えるはずがない。

 

記憶のない俺にいきなり自分が昔付き合っていた織田律だ、今はあなたの恋人だと告げて受け入れられるとは思うまい。

実際にそう告げられたとしたらおそらく最悪の態度をあいつに取っただろう。

 

 

 

あの過去があった二人なのだから・・・。

 

俺が記憶を亡くしたとわかったときのあいつの驚いた顔とその後のよそよそしさを考えれば、今の状況は当たり前のことだ。

 

学生の頃、小野寺は俺を3年間書棚の影から見ていたと言う。

 

あいつはそんなやつだ。今回だって俺さえ近づかなければきっと一生そうするつもりだっただろう。

 

俺とて小野寺の『消えた恋人』が自分だと言われても今だって信じられない。

 

遠い目をして涙をするほど忘れられない恋人が俺だったと言われても結局全く思い出せない・・・。

 

 

 

俺は遠い目線の先にいるそいつに嫉妬している。胸ぐらを掴んで殴って詰め寄ってめちゃめちゃにしてやりたいぐらい腹がたつ。

 

 

何度あいつを泣かせれば気が済むんだ。本当にお前は駄目なヤツだ!

 

いつだってお前は後悔しているくせに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会議も一段落し、ノックされたドアの開閉の音と共に失礼しますと聞き覚えのあるアルトの声が響いた。

 

「おう、小野寺。こっちこっち。」

 

井坂さんに手招きされ小野寺が俺たちの横を通り前の方に歩いて行った。

 

確か先週からまたイギリスに行っていたはずだ。戻ってきたんだと久しぶりに見た小野寺の姿にドキリとした。

 

あの長かった髪が切られている。

 

 

 

 

他の部長や役員連中もそれに気付いたようで少しだけ揶揄うようなざわめきで場が揺れた。

 

 

「他に報告事項はないでしょうか?」

 

司会がそう告げるが特に挙手もなく最後の社長のお話となった。

 

小野寺は隣に立ったまま井坂さんと何かを短く話していた。

 

 

 

 

「じゃ、みんなゴクローサン。アプリも順調で何よりだ。今はネット社会でデジタルツールは雨後の竹の子状態だ。そんな中で情報規制とツールの追いかけっこで先行きは不透明でそういうもろさもあるががんばって欲しい。そして紙は紙で必ず需要がある。紙の良さとデジタルの便利さを両輪にして、丸川はどんどん未来に切り込んで行くからこれからもよろしく。」

 

相変わらず本音の見えないフリーダムな雰囲気だ。

隣で涼しい顔をしている朝比奈さんと足して2で割ればと思わせるところが結局いいコンビの二人ってことだろう。

 

 

「それで、試験的にはじめていたプロジェクトが結構順調に行ってるから、小野寺が年明けからあっちにしばらく滞在することになった。

報告書はまた追って順次バッグログの課題であげるから見ておくように。」

 

場が少しだけまたざわめいた。

 

「しばらくってどれくらいですか?」

「おそらく年単位になると思います。」

「アンテナ的な位置づけから腰を据えて多彩な支店(みせ)に展開するから。」

 

え!?年単位?

 

「現在の進捗はこれから展開する報告書をご覧下さい。社長チェックの後、今日明日中にはあげます。」

「行きっぱなしということは、今後の報告はメディアでってことになりますか?」

「現地の反応などのリサーチならそこまでてこ入れする必要はないのでは?」

「リサーチというか、体感以上にあちらの物を仕入れて逆にこちらでも展開するという流れがあります。侮れません。海外のオタク文化も。」

 

 

小野寺と各部長たちとのやり取りは続いたが俺は思考が停止していた。

 

 

 

俺はいつだってなくしてから後悔する。

 

 

そういつだって・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会議が終わるのを待ちわびた俺は取締役連中にやっと開放された小野寺を無理やりに引きとめた。

 

ここで捕まえなければもう逢えないことを直感していた。

 

 

小野寺はきっと何も言わずにこのまま居なくなるつもりなんだろう。

 

そんなことをさせない。

 

 

 

 

「送別会させて。」

 

 

短くそう告げると小野寺は少し考えた後了承した。

 

 

 

 

 

[律]

 

 

 

新年度からイギリスに行くための大方の荷物はもう片付けた。

今までの短期の出張とはレベルが異なるためにノアも連れていけるように手配した。

 

身軽な一人身、荷物という荷物もない。

 

もともと短期とはいえ行き来が多いことを理由に家もペット可の家具付きのアパルトメントを借りていた。

 

井坂さんからはうまく事が運べばそっちに居てもらうことになると初めから宣言されていたのだから。

 

 

井坂さんは、現在展開されている海外支店からは情報は統制されていて体感が伝わりにくい事を危惧していた。

 

異なる文化、異なる風習を実感するためには現地スタッフと共闘していかなければだめだと・・・。

 

やがては海外事業部に吸収されることになるそうだけど、数年はそんな立ち位置で仕事をしていくことになるらしい。

 

帰りたくなったらいつでも言ってくれ。いつでも戻してやると言っていたことから推測されることは、言わなきゃ戻さないってことだろう。

 

それもいいなと思った。

 

 

 

 

 

ヨーロッパはもうすぐクリスマス休暇だ。

 

日本とは異なりクリスマスは粛々と家族でそれを祝う。

 

日本のお正月のようなものかもしれない。

 

直前まではクリスマスマーケットでにぎわっていたがクリスマスは店などはほぼ閉店なのだ。

 

 

 

俺は日本人だから新年はどうしても切り替えの時期という気持ちが起こる。

 

だから気持も新たに仕事にまた打ち込めばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[律]

 

 

「この時期だからどの店も予約取れなくて、悪いんだけど家飲みでゆるして。」

 

高野さんは申し訳なさそうにそう言って仕事の終わった12月24日、俺を連れて自宅に来た。

高野さんが玄関の鍵をガチャガチャとあけている間懐かしい廊下を俺は見つめていた。

初めてここで高野さんと会った時は即転居を考えたほどだった。

 

 

「ま、入って。」

 

あけられたドアから見える間取りも懐かしいものだった。

「おじゃまします。」と静かに言って俺は玄関で靴を脱いだ。

 

廊下を抜け、通された部屋に入ると、合理的な思考の高野さんなので、特に理由がなければ模様替えもしないだろうと思っていたけどやはりそのままだった。変わったのはラグぐらいのものか・・・。

 

静かな色を好む高野さんだったからカーテンの色さえ変っていない。

 

 

「ケータリングがもう来るからその間少しビールでも飲む?」

俺の上着も受け取り、ハンガーに掛けながら告げるので

「俺、下戸なのでお酒は結構です。」と返した。

酒なんて飲んだらどんな醜態をさらすか、想像しただけでも怖かった。

 

 

「少しぐらい大丈夫だろ?」

「いえ、飲むとご迷惑をお掛けしそうなので遠慮しておきます。」

「別に多少管巻いたって平気だけど。」

「その・・・、本性出るのでやめておきます。」

「そ、」

 

高野さんはそう言って「じゃあコーヒーでいい?」とかちゃかちゃと豆を出しコーヒーの用意を始めた。

 

 

 

何度この部屋に連れ込まれただろう。

いつも強引で俺様で、嫌だと言う言葉をいいように脳内変換されて、煽るなとか言われて・・・。

そう考えると顔に血液が集中するような気がした。

 

 

「なにかお手伝いします。」

 

急にどきどきし始めて居心地の悪さにあわてて立ち上がると

「お客様なんだからいいよ。」と驚くほどの艶顔で笑う元恋人がそこにいた。

 

 

「でも、手持ち無沙汰なので・・・。」

とボーっとしたままストンと座り込みその顔を見つめてしまった。

 

反則だ!

瞬間的にこれはいけないと心に警報が鳴り反射的に顔がきゅっと引き締まる。

 

ここ最近は何かを言おうとすると眉間に皺を寄せて近寄るなという感じで牽制していたくせにそんな顔を向けるなんて・・・。

 

 

「じゃあカップ出してもらってもいい?」

やっと与えられた役割にホッとして素早く立ち上がり食器棚に向かった。

 

しかしそこで俺は心が冷え冷静になるのを感じた。

 

そこには二人で使ったカップもグラスも皿も見知ったものはなに一つなかった。

 

 

 

そう、俺が全て捨てた。

 

二人で居た痕跡を残さないように。

 

悟られないように。

 

何もかもをゴミと一緒に処分したのだ。

 

全て燃えてしまえとばかりに・・・。

 

 

 

 

 

 

「どのカップを出せばいいですか?」

 

声が震えないようにぐっと喉を押さえつけて、ばたばたと暴れる心を箱に押し込めた。

 

 

 

これが現実だ・・・。

 

 

 

 

 

 

12階のからの景色は相変わらず綺麗だった。

 

都心から外れた駅近くの住宅地では電飾に凝る家もあるようで、マンションの反対側の棟の家の窓からもそりに乗ったサンタのシルエットが多彩な色の点滅で浮き上がって見えた。

 

既に一般家庭ではクリスマスディナーは終えて子どもはサンタの到来を待つために早寝を促されている頃だろう。

 

そう言えば俺も幼い日、クッキーとミルクを用意してサンタへのお礼のメッセージカードを添えて枕元に置き、ワクワクとサンタが来るのを待った。

 

サンタはどうやって世界中の子どもにたった一晩でプレゼントを配るのかと真剣に考えたり、物語のサンタの姿を思い出してひげの生えたお年寄りには疑惑を持ったりと、子どもは子どもなりに忙しいクリスマスシーズンだったと昔を思い出して笑った。

 

 

寂しい子ども時代だったと言っていた高野さん。

 

幼い頃、誕生日がクリスマスイブと一緒という偶然を喜んだり残念がったりもしたのだろうか。

 

 

 

俺が知っている先輩は既に寂しい目をしていた。

 

だから俺が先輩のその心を満たしてあげたいと思ったのに、結局一度も高野さんの誕生日を祝うことは出来なかった。

 

再会後のあの一緒に食べたケーキでさえ素直になれない俺はあんな風にしかお祝いしてあげられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

届いたクリスマスディナーはいかにもクリスマスというセットの惣菜で、スチロールの入れ物にはもみの木やリースの柄がプリントされていた。

 

そのまま食卓に出しても違和感のないものだったのに、高野さんはまずはとばかりにローストチキンを取り出し、レンジで温めてからフォークとナイフで切り分けた。

 

その細く長い指に見ほれていると、その他の野菜やパテも大きな楕円の白い皿に移した。

 

それはまるでお店で出されるディナーのプレートのように綺麗でとても出来合いのお惣菜には見えなかった。

 

 

 

 

「急いで電話で頼んだもんだから中身も見てなくて、なんだか妙にかわいいな。これ。」

 

一緒に付いてきたサンタと家や星の飾りのついた四角いケーキも切って小さな青いプレート皿に載せた。

 

「サンタも食べられるんですね。これ・・・。」

 

丸い雪だるまのような形のサンタは砂糖菓子のようだった。

 

再会後のあの高野さんの誕生日はホワイトクリスマスだった。でもきっと今日は雪は降らない。

 

なのにケーキの上の家は粉雪が舞っているように白い砂糖の積もった屋根だった。

 

 

「しょっぱいもん食べると次には甘いもん食いたいって感じ?順番とか考えないで食おうぜ。」

 

インスタントのコーンスープが温まったところで高野さんが席を勧めた。

 

「このパテ、サーモンだな。結構うまい。」

「そうですね、それにローストビーフもきちんとグレイビーとホースラディッシュが付いてますね。」

 

さすがに百貨店のお惣菜だと二人で舌鼓を打ち、料理の感想という無難な話題に終始した。

 

 

 

 

 

「実はさあ・・・。」

 

送別会と言いながらも相手が飲めない俺なので、二人ボッチでは食べる以外になにをするでもなく、そろそろお開きかと思い始めた頃、高野さんが頬杖を付いてちらりと俺を見て言った。

 

「今日俺誕生日なんだよね。」

 

 

知ってます・・・。そんな風にも言えず俺は「あ、そうですか・・・。」と間抜けな言葉を発したのだった。

 

 

 

 

 

[高野]

 

 

 

小野寺に送別会をしようと持ちかけたとき小野寺は少しだけ嫌そうな顔をした。

 

だけど今はプロジェクトの関係で仕事ではほとんどかかわりがないとは言え、上司に向かって断ると言う選択肢はなかったのだろう。

 

祝日の翌日、世間的に言うところのクリスマスイブのその日に無理やりに予定を取り付けた。

 

クリスマスが終えたら年内仕事はほぼ仕舞だ。

 

 

 

これからの攻め方の手順を間違えたら全てを失ってしまいそうで、脳内で何度もその時のことをシミュレートする。

 

 

場所は俺の家、会社のある日だけに料理に手間をかけている時間がない。

 

とりあえず一番高いディナー料理を宅配で配達してもらうように手配する。

 

その日はこの時間しか無理ですというその時間は俺たちには案外程よい時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

「今日俺誕生日なんだよね。」

 

そう告げると小野寺は目を揺らした。もちろんおまえそんな事知ってるんだろう?

恋人同士だったんだから・・・。

心の中の呟きを悟られないように小野寺の言葉を待った。

 

 

「あ、そうですか・・・。」

どう反応していいかわからないというきょときょととした顔が素でかわいい。

能面みたいな顔よりよほどいい。

 

 

「すみませんプレゼントも用意してなくて・・・。」

 

小野寺はすぐに困ったように会釈のように少しだけ頭を前後に揺らした。

 

その拍子に小野寺の短くなった髪がふわりと揺れた。

 

なんで髪の毛短く切ったの?そもそも何で伸ばしてたの?

聞きたい事は沢山ある。

 

でもまずはこっちを片付けなきゃ、おちおち詮索もしてられない。

 

 

 

「じゃあさ・・・。」

 

テーブルに身を乗り出してコーヒーカップに添えられた左手にそっと触れると、小野寺の指が驚いたようにパッとカップから離れた。

俺はその細い指先をつまんで引き寄せ、左の薬指のリングに口づけをした。

 

 

瞬間的にきゅっと引かれた指を逃さないように強く握り腕を引き寄せると、小野寺は立ち上がり身体をねじって離れ、手だけが吊れたように俺の元にあった。

 

「この指輪ちょーだい。」

 

そう言って翡翠の瞳を居抜くような強い気持で目に力を込めて小野寺を見つめた。

 

小野寺は直後はなにを言われているか分からなかったようだったが一拍置いて、ふっと身体から力を抜いて「いいですよ。」と微笑んで言った。

 

そして俺の手から指をするりと抜いて右手で左の薬指からプラチナのリングを引き抜き俺の手にそれをポトリと乗せた。

 

「じゃあさあ・・・。」

 

俺はその左の薬指を再度軽く指でつまみ「俺からのクリスマスプレゼント。」とポケットからがさごそと探し出した少しずつ色の違う刻印の入った金の細い輪をその言葉を言いながらさし込んだ。

 

 

 

1本目の刻印は”RITU”

 

2本目の刻印は”Aries”

 

3本目の刻印は”Noir”

 

4本目の刻印は”Don't cry any more”

 

5本目の刻印は”MASAMUNE"

 

6本目の刻印は”love”

 

7本目の刻印は”Yours forever”

 

 

糸の様に細い金の輪が小野寺の薬指の指輪の痕を埋めた。

 

 

もう一度小野寺の左の薬指を優しく包み口づけをする。

 

 

「七年分だ。俺は離れても、死んで生まれ変わっても必ずめぐり合ってまたおまえに恋をする。好きだ・・・、リツ。」

 

そう告げると小野寺はボロボロと涙を流してその場に崩れるように座り込んだ。

 

俺は小野寺の近くに寄りその身体を抱き寄せ唇に口づけをした。

 

 

 

忘れているはずなのにそれはなぜかとても懐かしい気持がした。

 

 

 

 

 

 

[律]

 

 

なにがなんだか分からなかった。

 

もう今生の別れのつもりで高野さんのディナーに行ったのに、高野さんから告げられたのは思いもよらない幸せな言葉だった。

 

7本の少しずつ色の違う指輪は妙にぴったりとしていて、いつ自分の指のサイズを知ったのか不思議だった。

 

 

 

 

高野さんの腕の中は温かかった。

 

そよそよと髪を梳いてくれるちょっと冷たい指も心地よかった。

 

俺はずっとこうやってこの胸の中で泣きたかったんだ。

 

なぜ、どうして俺を一人だけ置いて行ったと責めて泣き喚きたかったんだ。

 

俺を忘れたあなたの姿が、まるで偽者のあなたのように感じて俺にあなたを返してと叫びたかったんだ。

 

 

 

 

「でも。わるい、昔のことは思い出せねーから、それはあきらめてくれ。」

高野さんはそう言って申し訳なさそうにした。

 

「でも大昔のことは覚えてるから。」

とそっちではいたずらっ子のような顔をした。

 

「俺が好きなのは今のおまえだ。昔の俺と今の俺を比べて俺を嫉妬させるな。」

 

そう言えば昔も同じような事を言われたような気がする。嫉妬ってなんだ?そもそも俺がアンタを好きだってまだ言ってないし。

 

でもこれは無駄な抗議だろう。あのときと同じようにあんたはどんどん押してきて俺を降参させるに違いない。

 

それに逃げまくるなんて・・・・、もうそんな体力はない。

 

俺も年をとったってことか?

 

 

 

 

 

 

 

「し、仕方がないから今のあなたを好きでいてあげます。」

 

 

精一杯の抗議の言葉は高野さんを喜ばせるだけだったようだ。

 

顔中にキスの嵐を降らせ、元恋人は現恋人に突然昇格した。

 

 

 

 

 

 

 

 

[エピローグ]

 

 

「蜜月がたったの一週間なんて短すぎる。」と高野さんは俺の引越しに文句をつけた。

 

しかし冗談ではなくこの調子で一緒にいたら俺は仕事どころか普通の生活もままならない。

(主に身体の点で・・・。)

 

閑散とした俺の家に戻るとノアが久しぶりの訪問者に歓喜していた。

ノアはブリーダーをしている従兄弟のところで案外悪くないクリスマスを過ごしたのだ。

 

 

「ノアも寂しがってたみたいだな。ノアは連れて行くのか?」

そう聞くので

「家族なので連れて行きます。」

と簡素に答えると

「俺が面倒見てやるよ。人質に。」

とまた不穏なことを言い出す。

 

 

「人質ってなんですか・・・。」

「だっておまえ、いつだって逃げ腰だし・・・。なんか保険がないと安心出来ない。」

とまるでノアが叱られたときのように耳垂れ、シュンとした顔をした。

 

 

 

その顔に思っていたことを告げようと目の前に皮製のキーケースを差し出した。

 

「じゃあノアと家で待っててくれますか?一年間・・・。」

 

きっと俺の顔は真っ赤に違いない。

 

「オプションとしてこの家の最後のひみつを教えます。」

「最後のひみつ?」

「そう・・・。」

 

高野さんは少し眉間に皺を寄せ緊張した顔をした。

 

 

「昔の高野さんは知ってたことだったんですけどね。」と意地悪く前置きをして

「書庫の奥の小さい隠し部屋の書斎にはさらに隠し扉があって、そこから下に抜ける階段があるんです。

そこの先にはシェルターになるような地下があって太宰などの貴重な直筆本や初版本が山盛りおいてあります。」

と告げた。

 

「え?直筆本?」

「ええ、セドリでもいい値が付くと思うんですけどマニアに売ったら総額数千万はくだらないかと。」

俺は昔高野さんに教えた時と同じようにニヤニヤと意地悪な笑いをしたと思う。

 

 

「へえー、スゲーな。」

さすが本好き、目の輝きが違う。

 

「だからそれ読んでてください。」

俺はにこりと笑って高野さんの様子を見た。

 

 

「二人だけの秘密だな。そういう貴重品は未来の資料のためにも大事にしねーと。」

高野さんは今度も同じように秘密に反応して嬉しそうにそう言った。

 

お宝と聞いて売っちまおうぜとは言わない。

 

大叔父はこの本をきちんと管理することを俺に繰り返し伝えていた。

これは俺と大叔父だけの、父でさえも知らない秘密だったのだ。

 

ひみつの共有が出来る人・・・。そんなあなただからもっともっと好きになる。

 

 

 

井坂さんは帰りたくなったらいつでも言ってくれと言った。

 

そのとき俺は帰ることはないだろうと思っていた。

 

でも今はさっさと井坂さんにそう伝えなければいけないと思った。

 

 

 

 

「井坂さんに聞いたんだけどさー。」

「?」

「内縁でもカップルには家族枠で年数回渡英の旅券代出すって。だから休みとって行くからよろしく。」

「はあ!?」

「井坂さんもがんばれって励ましてくれたしな。」

「あ、あんたなに聞いてんだ!」

 

俺は羞恥で頭から湯気が出るような気がした。

 

まったく!まったく!まったく!

 

この人は油断ならない。

 

 

 

 

それでもこの人が幸せそうだからいいか・・・。

 

そう、

 

俺達は何度でも出会う。

 

別れても必ず見つけ出す。

 

永遠に愛し合えると信じている。

 

 

 

そして俺たちのお話は終わりです。

 

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

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