機動六課と燃える街   作:真澄 十

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Ep.16 死の足音

「さあ、可愛い悲鳴を聞かせてください! コルタナ、いきますよ!」

【はい、我が主よ。私は忠実な僕なれば】

 

 コルタナと呼ばれた宙に浮く透明な球体が応える。

 ティアナはその球体の数を素早く数えた。目視できる限りでは全部で六つある。うち五つはエンリコと名乗った男の周囲を不規則に漂っているが、一つだけがエンリコの手のひらの上で静止していた。

 対してこちらは四人。あの球体がどのような攻撃方法を取るのか分からないが、一つ一つが独立して攻撃が可能であるならば全員を一度に標的にすることができる。集団戦を得意とするタイプかも知れない。

 

【Multiple Laser, mode Fourth, Fire!】

 

 次の瞬間に放たれたのは、四つの球体から同時に放たれる四条の光線であった。魔力で編まれたそれは砲撃と言うにはあまりにか細く、しかし銃撃というにはあまりに強力。人の半身を飲み込む程度に大きく、速度に優れるそれが正確に四人を襲う。

 その光線に照らされたエンリコの顔をエリオは見た。まるで能面が張り付いたかのような笑顔。嗜虐的であり、かつ歓喜に満ちたその顔をエリオは心の底から不気味に思った。

 しかし、これもなのはの訓練の賜物であろうか。そのような常軌を逸した表情に直面してもなお、体は目前の危機に対して俊敏に反応した。それは他の者も同様である。

 

 ある者は横に跳躍し、ある者は低く屈み、ある者は跳躍して回避する。打ち下ろすように放たれた光線は、先ほどまで彼女たちが立っていたコンクリートの足場を易々と爆砕した。

 

「なんと、これを避けますか。普通ならば反応すらできないというのに」

【それでこそ。それでこそ我らの渇きは満たされるというもの】

「その通りですコルタナ!」

 

 スバルとエリオが接近を試みる。どうやらあの球体から放った光線は連射が利かないものと見える。また、武器の形状から考えても接近戦が得意であるとは思い難い。ならば距離を詰めて戦った方が勝算は高い。

 しかしその行動はエンリコにとって当然予測して然るべきものだ。だからこそ六つの球体のうち二つを残しておいたのだ。

 先ほど攻撃に参加しなかった二つの球体から光線を放つ。それらは針の穴を通すほどの精度で二人に牙を剥いたが、エリオとスバルにとってこんなものは大した脅威になるはずもない。

 これならばなのはの一撃のほうが重い。

 これならばフェイトの一撃のほうが速い。

 だからこそ、二人は微塵も臆さなかった。スバルは地を踏み抜き、エリオは空を駆ける。偏に目の前の敵を打ち砕くために。

 二人は最小の動作でそれを回避し、光線を後方に送る。自らの後ろで地下水道の壁が爆ぜる音を聞いたが、そんなものに斟酌しているような状況ではない。

 

 スバルとエリオの速度はほぼ同じ。エンリコとの距離もほぼ同じであるため、次の一撃はほぼ同時であった。スバルは鳩尾を狙った強烈なストレート、エリオは肩口から真っ直ぐに斬り下ろす。

 共に必勝を期した一撃。カウンター気味に放つそれを躱すことは難しく、防ごうにも二人同時に放つ攻撃を完全に防ぐなど、それこそアルフレッドであっても難しい筈だ。

 故に必勝。この一撃ならば、なのはやフェイトだって倒してみせるという渾身の一撃。

 

「ディバインバスターッ!」

「紫電一閃ッ!」

 

 スバルの右腕から放たれる近距離特化砲撃魔法。雷電を帯びたエリオのストラーダから放つ斬撃。それらは間違いなく、エンリコを撃ち抜いた。

 回避も防御も許さず、二人の魔法はエンリコを蹂躙する。腹部を砲撃魔法が突き抜け、全身を電撃に嘗め回され、肩は鋭い刃で切り裂かれる。

 

「があッ!」

 

 エンリコは苦悶の声を漏らした。

 さすがにエリオも加減したため、肩が切り落とされるようなことはなかったが、それでも重症であることは間違いない。たまらずエンリコは肩口を押さえたまま膝をついてしまった。そこにすかさずスバルが刃を突き付け、もう抵抗するなという意思をぶつける。

 

「殺人未遂、大規模騒乱罪、公務執行妨害、その他もろもろの罪により逮捕します。ですが貴方には弁護士を雇う権利と黙秘権を行使する権利が与えられます」

 

 この辺りは執務官志望のティアナであると言うべきだろう。油断なく銃口を突き付けながらも、述べるべき事を滞りなく述べる。

 

 しかしエンリコは押し黙ったまま答えない。沈黙の中、付近で天上が崩れるような音。音の方向に目をやると、どうやらアルフレッドが破壊してしまったらしい。それ以上の倒壊はない様子なので無視する。

 

「いやいや、本当に驚きましたよ。子供だと思って侮りましたかね。まさかここまで強いとは」

 

 エンリコはそう言い、くつくつと笑った。重傷を負い、いまだに大量の血を流している者とは思えないほど、その声色には生気が宿っていた。それが不気味で、スバル達は思わず後ずさりしてしまう。

 

「その年でここまで上り詰めるには、さぞかし面白い過去があるのでしょう。どうです? 私たちと一緒に来てみませんか?」

「話は正当な取り調べの際に聞きます」

「いやいや、私はまだ貴方たちに捕まったりしませんよ」

 

 こんな状態で何を言っているのかという疑問がティアナに浮かんだ次の瞬間、再び背後から耳を打つ大きな音が響いた。今度は崩落の音などではなく、男の声であった。

 

【ガキども危ねェッ!】

 

インセインの怒声が背後から響く。焦りを多分に含んだその声に身を強張らせた次の瞬間、押し殺したような笑い声が水路の奥から響いた。

 何事かとそちらに目を向けた時、その驚きは筆舌に尽くしがたいものであった。あろうことか、エンリコがそこに立っていた。まるで悪戯が成功した子供のような無邪気さを湛えた笑顔であり、それ故に狂気を滲ませている。

 そしてその指先に、迸る魔力の光と魔方陣を認めたとき、スバル達は今とるべき行動を即座に理解した。否――それは正確ではない。

 迫りくる死の足音を聞いて、反射的にそれから逃れようとしたと言うべきか。

 

「――Execute Buster」

【Fire】

 

 それは暗い地下水道を純白に染め上げる一撃だった。炎でも雷撃でもなく、ただひたすらに輝く射撃魔法。九条のそれが螺旋を描き、まるでひとつの砲撃魔法のように作用している。もはやただの射撃魔法というには凶悪にすぎる一撃だった。速度にものを言わせたそれは、如実に相手を殺傷せしめんという意思が宿っている。

 加えて、暗闇に慣れていた目に強い閃光が焼きついたせいで、もはや回避も難しい。反射的に目を庇ったせいで攻撃から逃れる術を逃してしまった。

 

「あっ――」

 

 最後に漏らしたのは誰の声だったか。おそらく漏らした本人にとっても無意識のことで分かるまい。

 その時、四人は確実に死を覚悟していた。ここまで手加減なく人の命を奪おうとする相手に恐怖をも覚えた。

 必要だから殺すだとか、邪魔だから殺すだとか、そういう次元を超えた殺意。殺人そのものに快楽を覚える異常な感性。それをこの一撃から確かに見出した。

 

◇◆◇◆◇

 

【ガキどもォッ!】

 

 アルフレッドはエンリコの攻撃に割って入ろうとしたが、例の障壁に阻まれて妨害すらできない。障壁をたたき割ろうとしたが、並の一撃ではびくともしなかった。

 ならばとナックル・ハンマーを叩きこもうとしたが、それをヴェルディが許さない。アルフレッドが開けた縦穴からアイーダの触手が伸びており、その先端がアルフレッドの四肢を絡め取った。

 

 縦穴の向こうに引きずり込もうとするアイーダの怪力に抗いながら、アルフレッドは四人に輝く一撃が直撃するのを見た。インセインのバイザーはマジックミラーのようになっているが、光度が増すとある程度の遮光性が生まれるようになっている。それゆえ、四人がエグゼキュートバスターの餌食になる、その直前の瞬間まで目に入ってしまった。

 

「エンリコォォォッ!」

 

 アルフレッドの叫びは、直後に起こった爆発にかき消される。そのあまりの光に、インセイン越しに見ていたアルフレッドでさえたまらず目を瞑ってしまった。

 そして、アルフレッドの心中にたった一つの感情が湧きあがる。それは憎悪であった。ヴェルディに向けるものと似て非なる憎悪。

 

「エンリコォォォ! 貴様を八つ裂きにしてやるッ!」

【落ちつけ!】

「落ちついてなど居られるか! またしても、またしても俺の目の前で、俺を慕ってくれた人が……これで落ちついていられるものか!」

【それでもだ! 殺意に呑まれるんじゃねェ!】

 

 そこにエンリコが嫌らしい笑みを浮かべたまま近寄る。障壁越しではあったが、吐息が聞こえるほどの距離であった。

 そしてエンリコが、インセインのバイザーで見えない筈のアルフレッドの目を、蛇のような目付きで射抜く。

 

「そうですよ、アルフレッド? 殺意のまま行動したのでは、私たちと同じではありませんか。それが嫌で離反したのではないのですか?」

「――分かったような口を利くな貴様ァ! 今すぐその顔を潰して、知ったような口を利けなくしてやる!」

「おお、怖い。でもそれ以上に私はヴェルディも怖いので、その願望にお付き合いすることはできませんね」

「そうだぜ、アルフレッド。お前の相手はこの俺だ。エンリコに浮気している余裕があんのか?」

 

 やおら縦穴の向こうからヴェルディの声が聞こえた。それと同時に、アルフレッドを引き上げんとする力が一層強くなる。

物理的に、人類には上方から引き上げようとする力に対して抗う術はない。それでもインセイン・スーツを身にまとったアルフレッドは実に総重量数百キロを数えるのだが、遂には足が地面から浮いてしまう。

そうなると後は一瞬の出来事だった。あっという間に縦穴に引きずり込まれてしまう。しかし地下水道の中が見えなくなるその一瞬の瞬間、エンリコの背後で燻ぶる煙幕が、少しだけ揺らめくのを感じた。

 ――まさか。

 そう思った時にはもう地下水道は視界にとらえることが出来なくなってしまったが、その声だけは聞こえた。

 

「ておああッ!」

 

 あの四人のものではない、男の声。この声は知っている。

 ならば安心だ。あの男の実力ならば、そうそう遅れを取ることはあるまい。そして四人も無事に決まっている。そうでない筈がない。

 何故なら彼は盾を冠するほどの実力者。あの四人の子供たちを、身を挺して守ってくれたに違いない。

 

 ほっとしたのもつかの間、アルフレッドは引き上げられた勢いそのままに、地上の瓦礫にむかって猛スピードで投げ出された。姿勢を整える暇すらなく激突してしまい、その瞬間に身を突き抜ける衝撃に苦悶の声を漏らす。

しかしその苦痛に甘んじるほど腑抜けたつもりはない。即座にバイザーに映し出されていたシステム情報のいくつかにエラーが表示されているのを確認すると、現在の情報を確認する。

 パッケージシステムに異常はないが、排熱口の一つが潰れてしまったらしく冷却がうまくいっていないらしい。加えてマキシマイズのせいで負担を掛けていた右椀の第二肩関節のパワーアシストが出力低下を起こしている。現在、通常アシストでは通常の六割程度しかパワーを発揮できない。マキシマイズは当然のこと、フルアシストにすら耐えられないだろう。

 

 だがアルフレッドにとって、そんな事はもはや些末な事だった。今はそんな事を考える前にする事が二つある。一つは目の前の敵を叩きのめす事。もう一つは今から片づける。

 

「インセイン。子供たちの誰かにつなげ」

【んじゃ、指揮官役のティアナ辺りに】

 

 インセインがそう言うと、インセインの画面にティアナの顔が映し出された。顔が煙で汚れているが、やはり命に別状はない。さすがの彼だ、安心して任せられると改めて安堵する。

 

「ティアナ、今の状況は」

『交戦中です』

「すぐに逃げろ。今更だが、アイツは冗談にならないくらい強い。頼もしい援軍が来たとしてもすぐに撤退すべきだ」

『――了解。アルフレッドさんもすぐに撤退してください。あの男と一対一では危険です』

 

 やはり傍目から見てもヴェルディと自分では実力差があるか、とアルフレッドは自嘲する。だがそんな事は最初から分かっていたことだ。それを承知でここに居るのだ。

 

「それは出来ないな」

『えっ』

「正直、この状況であいつから逃げられるとは思えん。一通り殴ってから逃げることにするよ」

 

 通信終了、と一方的に通信を切る。

 この間、ヴェルディは退屈そうにこちらを観察しながら煙草を吹かしている。まだ戦う態勢ではないアルフレッドを襲ったところで、何も面白いことは無いと判断したか。そのおかげでアルフレッドには頭を冷やす時間ができた。

 体を動かしながら冷静を保てるほど、アルフレッドの脳は上等ではない。冷静になるためには、アルフレッドには時間が必要なのだ。

 

【遅れてはいるが、まあ俺との約束通りアイツらは逃がす方向に動いてくれて安心したぜ。少しは冷静になったか?】

「冷静なフリを出来る程度には。本当はまだ煮えたぎっている」

 

 だろうな、とインセインは笑う。

 

【だけど気を付けろ、相棒。さすがにこれ以上の無茶はヤベェ。次にマキシマイズ状態で右腕を使ったら、肩から先が無くなるぞ】

「腕一本であいつが殺せるなら安いものだ」

【腕一本でどうにかなるなんて言ってねェよバカ】

「そうだな。俺はバカだ」

 

 アルフレッドはヴェルディにゆっくりと近づく。排熱に問題が生じ始めたため、必然的にまだ機能している排熱機関が通常以上の稼働を余儀なくされ、ゆらりと揺らめく陽炎がその身から漂っている。

 内部温度も徐々に上昇を始めている。額にじわりと汗が浮かび始め、内部の空気循環にも悪影響が出ているのか湿度が上昇しているため蒸してきた。

 四肢の動きも若干鈍い。普段よりも反応速度が遅いことは明白だ。戦闘とマキシマイズによるダメージは想定よりも大きい。

 

 だがそれら全てを思考から除外する。そんな事はどうでも良いのだ。

 二十メートルほどの距離を取り、ヴェルディと対峙する。そして二丁のサブマシンガンを彼に突き付けた。

 それを戦闘の合図と受け取り、ヴェルディは煙草を投げ捨てて同じく構える。脇を閉じて掌を開いたまま腕を前に軽く突き出す、独自のフォーム。これこそがヴェルディの構えである。

 

「俺はまともな教育を受けてない。義務教育は後半からすっぽり抜けている。計算機に頼らないと数学は四則演算が精いっぱい、語彙力は無いし、協調性もないし、道だって覚えられない。だから、後先なんて考える能力など無いッ! 俺に出来るのは、常に全力で敵を叩きのめすことだけだッ!」

【Cool! シチ面倒くさい事を考えている奴より、よっぽどイカしているぜ相棒ゥ! 限界なぞクソ喰らえだ。だったら俺に命令すべき事は自明だよなァ!】

「インセイン、フルアシスト!」

【イグニッション! 覚悟しやがれアルコールホリックゥゥゥッ!】

 

◇◆◇◆◇

 

 その凶悪な魔法が自分を貫く寸前、スバルは全力で防御呪文を展開しようとした。

 ただ、自分の防御では完全に防げる確証もなければ自信もない。絶対に貫かれないという自信こそが防御の要であるとアルフレッドは言っていたが、自信なんてものが一朝一夕で身に付くはずもない。

 

 だから、半ば死を覚悟した。この魔法は自分たちが使っているような致死性の無いものと違い、相手を殺すための魔法だ。だからこれに貫かれて死ぬだろう。

 しかしその予感を裏切ったのは、予期せぬ援軍がその場に飛び込んできたからだった。

 

 視界に最初に移ったのは、青い毛並を湛えた獣の姿。前足に手甲を纏い、逆立つ毛を揺らすその姿を、確かにスバルは知っていた。そしてそれがザフィーラである事に気付くのに時間は必要なかった。

 

「ておああッ!」

 

 気合いと共に現れる防御魔法。驚くほど堅強なそれは、迫りくる死の気配を驚くほど呆気なく弾いてしまう。

 四散したその魔法は周囲の壁面を砕き、爆発を伴って消失する。爆発によって天上から堕ちた埃が自分の髪を汚したが、そんな事に構っている余裕などある筈もなかった。

 頭脳を何故、という疑問。何故ここに居るのか。何故ここが分かったのか。

 

 今回の作戦では補助部隊的な運用がされているロングアーチといえど、戦闘に長けたものは前線に送られている。そして本作戦の目的地点が空港である以上、この付近にザフィーラが居ること自体は何の不思議もない。

 しかし、このタイミングで地下水道に姿を現すというのは、偶然とは到底のこと思えなかった。私たちがここに居ると確信できる理由があったか、と言われれば怪しい。現状ではAMFとジャミングのせいで近距離通信すら満足に行えない状況だ。こちらの位置を正確に判断できた理由が思い至らない。

 

「なんで……?」

 

 だからつい思ったことを口にしてしまった。何故ここに居るのか、という素朴な疑問。だがザフィーラは少し曲解してしまったのか、不服そうな顔を浮かべた。

 

「む。助太刀は無用だったか」

「いやそうじゃなくて! なんで此処に居るんですかってことです!」

「ああ、そんな事か。何、はやてからのお願いでな。お前たちが心配だから合流してくれ、とな。今朝の時点で六課に残しているロングアーチと通信が取れたのだろう? その時に位置情報は把握していたため、単純に空港との直線経路を行こうとしたら、何やら地下のほうが騒がしかったので来たまで。つまり、半分以上は偶然ということだ。幸運に感謝することだな」

 

 逆に言えば幸運に恵まれなかったら死んでいたという事だ。ぞっと背筋が寒くなる。

 あと少しでもザフィーラの到着が遅れていたら、自分たちは間違いなく死んでいただろう。幸運に感謝しろと言うのならば、平身低頭して神なり仏なりに感謝しなければなるまい。もちろん、ここで言う神とはエンリコ達が崇め奉る神とは別ものだが。

 

 だが幸運に感謝したいのはザフィーラも同じだった。あの威力の魔法、しかも致死性を孕んだ一撃。スバルの実力を侮るわけではないが、今はまだあの威力のものを防ぎきれるほどの境地には至っていまい。そしてスバルに防げないということは、ここに居る誰も防げないということだ。

 すなわち死。欠ける事があってはならない、誰ひとりとして失ってはならない、自分たちが守るべき子供たちを死なせてしまうところだった。

 ザフィーラの肝は冷えたどころの話ではない。肝が潰れたというレベルですらない。一難去った今ですら、噴き出る冷や汗と動悸のせいで指先の間隔が痺れ、若干ながら視界が白んでいるほどだ。

 平静を装ってはいるが、到底平静でいられるような状況ではない。

 

 しかしザフィーラと全く同じ胸中のものが一人いた。残念ながらと言うべきか、それとも幸いというべきか、ザフィーラのように無理に平静を装って無理をしない性質であったため、遠慮なく胸中をぶちまけたが。

 

「――ああ~! 心臓が飛び出るかと思ったですよ!」

「え、リイン曹長まで!?」

 

 ザフィーラの毛の中に隠れていたのだろう、やおらリインがそこから現れた。毛で隠れてしまうザフィーラと違い、傍目で見てわかるほど脂汗をかいている。心臓が飛び出るかと思った、という言も嘘ではない。

 

「今朝まで部隊指揮補佐をしていましたが、ザフィーラと一緒にフォワードメンバーとの合流をはやてちゃんから仰せつかったです。皆さん、無事ですか?」

 

 ざっと各々の状況を確かめあう。ティアナ、エリオ、キャロルともに目立った外傷はなかった。四人を代表してティアナが全員の無事を告げる。

 

「そう――間に合ってよかったです」

 

リインはほっと一息つきたくなるのを堪えて、気持ちを引き締める。今は煙で視界が晴れていないからあのエンリコという男も手をだしていないに過ぎない。こちらに損害が皆無であることを知ったら、また戦闘になることは明白だ。

 

「今の内に現状を確認します。ティアナ、アルフレッド二等空尉は?」

「もう一人の敵と交戦中です。もう一人は、十本の帯が付いた杭型のデバイスを所持。相当の実力者と見えます」

「もう一人いるですか!? これは不味いですね……」

 

 その時である。ティアナの端末に通信が入った。近距離通信すら満足に行えないとはいえ、至近距離ならば何とかなる。四人とアルフレッドは地下と地上という隔たりがあるものの、百メートルも離れてはいない。

 

『ティアナ、今の状況は』

 

 いきなりの通信にやや驚いたが、すぐに冷静を取り戻して現状を報告する。

 束の間の膠着状態というのが正しいだろうが、変に誤解を生むような表現を避けて伝えることにした。

 

「交戦中です」

『すぐに逃げろ。今更だが、アイツは冗談にならないくらい強い。頼もしい援軍が来たとしてもすぐに撤退すべきだ』

「――了解。アルフレッドさんもすぐに撤退してください。あの男と一対一では危険です」

 

 その言葉にリインは怪訝な顔をした。

 アルフレッドも実力は確かだ。フォワードメンバーと模擬戦を行った時は不意打ちや騙し討ちを多用していたとはいえ、四人同時に戦って一応の勝利を収めている。

 さすがに次に戦えばフォワードメンバーが勝つ可能性が高くなるが、それでも決して貧弱な魔導師ではない。あの冗談じみた防御性能とパワーは、単純ながらそれ故に一対一の状況で絶大な力を発揮する筈だ。

 だからこそ腑に落ちなかった。アルフレッドと一対一で戦って、アルフレッドのほうが危険と言えるような相手は、それこそ六課の隊長や副隊長クラスの実力者でなければ考えられない。

 そんな疑問をよそに、アルフレッドは言葉を続けた。

 

『それは出来ないな』

「えっ」

『正直、この状況であいつから逃げられるとは思えん。一通り殴ってから逃げることにするよ』

 

 そう言うや否や、こちらの返答を待たずに一方的に通信を切ってしまった。こちらから通信を繋ごうとしても、通信を拒否しているのか一向に繋がらない。

 こちらから通信するのは諦めよう、とザフィーラが言った。見ればそろそろ煙が晴れてしまう頃合いだ。悠長に作戦会議をしている時間は、もう残り僅かだろう。

 

「ティアナ、アルフレッドが戦っている男というのはそれほど強いのか?」

「強いです。以前戦ったナンバーズに匹敵するくらい――いや、それよりも強いかも知れません」

「我々が今戦っている相手――エンリコと呼ばれていたか。こちらは?」

「アルフレッドさんが戦っている相手と同等とみていいかと」

 

 その言葉にスバルは無言で同意した。

 ヴェルディとエンリコは、二人とも冗談にならないくらいの実力者だ。まともにやり合って勝てる見込みは、四人だけでは乏しかっただろう。

 

「もう時間がない。最後に聞くが、エンリコはどんな戦い方をするんだ?」

 

 スバルとエリオが顔を見合わせる。どうやら考えは一致しているようだった。スバルが代表して答える。

 

「射撃魔法がメインの攻撃方法です。――それ以外にも何か使っているようですが、私にはわかりません」

 

スバルには不可解な事が残っていた。

 確かに先ほど自分が放った一撃はエンリコを貫いた筈だ。確かに手ごたえも感じた。幻術だとしても、本体と入れ替わるような隙は無かった筈だ。いや、それ以上にやはりあの質感は紛れもなく人間だったと断言できる。

 ならば、エンリコが二人現れたのはなんだったのか。双子、なんて都合のいい話がある訳がない。

 

「詳しく話せ」

「確かにエンリコに一撃を入れて、行動不能にした筈です。ですが、気が付いたら別の場所にエンリコがもう一人いて、そっちから攻撃を受けました。そこを助けて頂いた次第です」

「確証はありませんが、心当たりがあります」

 

 割って入ったのはティアナだった。このメンバーでの頭脳担当という事もあり、何か気付いた事があるのだろう。全員の視線がティアナに集まった。

 

「あれは幻術かと思います」

「でもティアナ。確かに一撃を入れた筈なのに、消えたりしなかったよ? それにいつ入れ替わったの? 少なくともエンリコの攻撃は本物だったよ?」

 

 例えばティアナの幻術、例えばナンバーズのクアットロが使っていたシルバーカーテン。幻術というのは攻撃を受けると簡単に消失してしまうのが常である。使い手によってはある程度まで耐えることは可能だろうが、それでもあの一撃を喰らっても消えないというのは不可解に過ぎる。

 それに幻術は攻撃手段を持たないのが大原則だ。幻が人間に危害を加えられる筈もない。もしそれが可能ならば、それは幻術ではなく別の何かである。

 しかし、ティアナはそれでも意見を曲げなかった。

 

「もう一人のエンリコが攻撃を行なう瞬間、無力化した筈のエンリコが掻き消えるのを見ました。あの消え方は、私の幻術が破られたときと似ています。だからあれはきっと幻術です。

 きっと最初から幻術と戦っていて、デバイスだけ本物だったのだと思います。デバイスが本物だから攻撃も本物。だからそれと気づけなかったのだと思います。攻撃を受けても消えなかったのは、恐ろしく耐久力のある幻術であるからとしか言えません」

 

 あの一瞬の出来事の中でよくそんな観察眼が働くものだと感心しながらも、ティアナの意見をリインは真剣に吟味する。

 確かに幻術の精度を上げれば、攻撃を受けても簡単には消えないように出来るだろう。敵の意識を操作すれば、空を切った筈の攻撃に手ごたえを感じさせることも可能だろう。

 しかし、それが出来るとなると確かに恐ろしいほどの魔導師だ。

 ざっと見積もっただけでも、幻術の操作、デバイスの遠隔操作および攻撃、敵対者の感覚に対する意識操作、そして四つのデバイス全ての目を掻い潜る程の強力な隠密。これら全てを同時にこなしていた事になる。

 ティアナの意見に矛盾はない。だが、それを可能にするほどの技術と魔力がエンリコという魔導師に備わっていることが前提だ。

 信じられないという訳ではないが、信じたくない。

 ナンバーズと言い、この短期間でこうも強力な敵が立て続けに出るような事態を受け入れたくない。

 

 いや、現実を見なければとリインは己を叱責する。おそらくエンリコという男にはそれほどの実力があるのだろう。

 ティアナがこの短時間でその実力を疑うことすらしていないという事自体がその裏付けというべきか。

 

「もう煙が晴れる」

 

 確かに辺りを覆っていた煙は既に薄くなり始めている。この爆炎の中で下手に動き回れば煙を吸い込み窒息する恐れがある。だからこそエンリコも手出しはしてこないのであって、煙が晴れればその限りではない。

 

「みなさん、アルフレッドさんは逃げろと言いましたが、却下です。いくらインセイン・スーツが頑丈でも彼が危険です。こちらは六人いますです。可及的速やかにエンリコという男を捕縛し、アルフレッドさんの救援に向かうです。良いですね?」

 

 全員が無言でうなずく。もとより、その場の誰もがそのつもりだ。

 いくらなんでも、こんな窮地に彼一人を置いていけるはずがない。エンリコを捕縛できないにせよ、どうにか機を伺って合流すべきだ。

 

 閉ざされた視界が次第に晴れていく。スバルは自分の頬に汗が伝うのを感じた。

 あの人は怖い。

 刀のように研ぎ澄まされた狂気。ただ発散されるだけの狂気と違い、理性を砥石として刃を形成した狂気である。

 ゆえに一見、理性的にも見えよう。だが違う。理性がある振りをしているだけだ。

 その根本は溢れかえるばかりの狂気で成されている。そうだ、あの目はジェイル・スカリエッティと同じ目だ。

 目の焦点が合っているのやら、何を考えているのやら、その狂気の矛先がどこに向かうのやら。理解できない感情と衝動に支配された、あの目だ。

 

「――おや、やはりお仲間が割り込んでいましたか。しかし、何とも楽しげな仲間ですね。察するにユニゾンデバイスと狼ですか。ふむ」

 

 相変わらずの張り付いたような笑顔。その表情からは感情の変化が読み取れなかった。焦っているのか、それとも無駄な足掻きだとあざ笑っているのか。

 その様子が少々癪に障ったのだろう、やや刺々しい口調でザフィーラが問いかけた。

 

「大人しく投稿しろ」

「貴方がたはそれしか言えないのですか? やれやれ。社会に隷属し、飼い慣らされ、疑問すら持たず、思考を停止した奴ばらはこうも愚鈍になれるのですか」

「安い挑発だ。そのよく滑る口を閉じ、質問にだけ答えろ」

 

 ああ、ザフィーラの心中は穏やかではないのだろう。

 その場に居る誰もがそう思い至った。いや、当然のことだ。罪もない一般人を殺戮し、地上に地獄を築いた者に対して何も思わぬ筈がない。こうもあからさまに侮蔑されて腹が立たぬわけがない。

 

「最後の警告だ。デバイスの機能を停止し、投降しろ」

 

 そう言葉を発しながら、ザフィーラはその姿を変貌させる。全身の毛は消え失せ、その代わりに後ろ足がより発達する。四足歩行の獣から二足歩行へ。狼から人へとその姿を変える。

 ザフィーラにとっては久しぶりともいえる人型への変化だった。主人に気を使わせまいと狼の姿で過ごしていたが、あの姿ではいざ戦闘となった時に不利だ。

 いや、ただ相手を倒せば良いという状況ならば姿は大した足かせにはならない。むしろ鋭い牙と必然的に低く保たれる頭部は大きなアドバンテージとなるだろう。

 しかし、ガジェットドローンと戦うのとはわけが違う。ザフィーラの牙で食いつかれれば致命傷になりかねない。魔法で攻撃しようにも、あの楔を突き出す魔法攻撃では相手を殺めてしまう。

 機動六課は、いや管理局は聖光教示会とは違う。相手を殺めるのをよしとしない。

 

 それ故に人型。相手を殺めず、しかし拳で相手を叩きのめすための姿である。

 ただし決して手加減ではない。そんな気は毛頭ない。ただ単純に、相手を殺めずに済む確率が高い方法を選択したに過ぎない。

 

「ほう、人の姿にもなれるのですか。それとも幻術の類でしょうか?」

「貴様ならともかく、我にそんな器用な真似はできん」

「……あらら、バレていましたか? そちらにも優秀な幻術使いが居るのでしょうかね。――では問題です。私は本物? それとも幻術?」

 

 本物だろうと答えようとして、ザフィーラは答えにつまった。

 会話すら普通にこなしているため本物であると思い込んでいたが、そう問われれば断言できる根拠などない。強力な魔法攻撃を受けても消滅しない幻術を作り出せる相手である。会話どころか、体温や呼吸まで再現できていると考えなければなるまい。

 

「答えられませんか? ふふ、そうでしょうとも。すぐに幻術とわかる幻術など阿呆の極みです。幻術に惑わされている事すら気づかせず、意識の間隙に入り込み、人を掌の上で転がしてこその幻術。それこそが極意というものです」

 

 いつ幻術と入れ替わったのか、今目の前にいるのは本物なのか。いや、そもそも相手に幻術であることを悟らせずに騙すことが幻術の極意。

 そうだ。確かにそうだ。

 ティアナはその言葉に反論の余地が無いことを腹立たしく思った。ナンバーズに偽のレリックケースを掴ませた時、あの行動こそが幻術の極意だ。

 惑わされたことに最後まで気づかせず、それに気付いた時にはとうに手遅れ。奸計と機転によって相手の行動を誘導することこそが、幻術が目指すところ。

 

 しかし、口で言うのは容易くともそれを実現するのは困難を極める。特に戦闘においてそれを為すのは至難の業であることは言わずもがなだ。激しい戦闘であればあるほどそんな策略を巡らす余裕はなくなるし、何より相手を倒すだけならばそんな事をせずに直接的に攻撃するほうが早い上に確実だ。

 

 だから戦闘では幻術はあくまでサポート。そうティアナは考えていたが、ここまで鮮やかに惑わされると感心どころか怒りを覚える。

 エンリコの手の上で踊らされ、それ故に嘲笑うかのようなあの笑みを突き付けられているのかと思えば思うほど、冷静でなくなっていくのが分かる。

 

 ――いや、もしかすると冷静を欠き始めている事すら、既にエンリコの術によるものかも知れない。しかしそれを確かめようにも何も分からない。

 何かの妖怪のような掴みどころの無さと気味の悪さが、より一層のこと精神から冷静さを刈り取っていった。

 

「さて、私に対する恐れと困惑の視線はとても心地よいですし、もう暫くは皆さんと遊んでいたいのですが。――そろそろ別の仕事の時間が差し迫っていましてね。今回は大切な仕事の前に、軽い頼まれごとを片づけに来ただけでして。そうそうに片づけましょうか」

「言わるまでもないッ!」

 

 ザフィーラが飛びかかる。左腕を前に付きだし、右腕は弓のように引き絞る。

 一切の躊躇を踏み越えた、紛れもなく本気の拳である。アルフレッドのそれほど破滅的な威力を秘めているものではないが、それでも人間相手には過剰と言えるほどの魔力と筋力に裏打ちされた拳は、まさしく殺人的といえる威力を秘めていた。

 

「おやおや、ふふふ。頭に血が上っているようですね?」

【Force impulse】

 

 エンリコの周囲に浮遊していたコルタナ。その一つから不可視の衝撃波が放たれる。前方に向けて扇状に拡散するその衝撃は、狙い違わずザフィーラを捉えた。

 しかし、迎撃が放たれることはザフィーラとて重々承知している。まるで打ち合わせたように淀みなく、ザフィーラは前方にバリアを展開した。

 

「――なんと」

「ておああッ!」

 

 そのバリアは完全に衝撃を防ぎきる。ザフィーラは弾き飛ばされることもなく、また飛びかかる速度に衰えを見せることなく、エンリコに迫った。

 そして勢いのままに放つ拳。目の前のそれが幻術であろうとなかろうと、そんな事は関係ない。その真偽が定かではない以上、全力を以て一撃を叩き込むしか術はない。

 ザフィーラの拳はエンリコの顔面に吸い込まれるように叩き込まれた。あまりの威力にエンリコは吹き飛び、頭からコンクリートの地面に叩き付けられる。

 

 しかし――

 

「残念、今のは幻術でした。さて、次の私はどちらでしょうかね?」

 

 また別の方向からエンリコが姿を現す。

 ザフィーラは内心で舌打ちした。なるほど、確かにスバルの言う通りだった。確かな手ごたえを感じたにも関わらず、それが幻術であると言う。

 倒れ伏したまま沈黙する幻術のエンリコを睨み付ける。さきほどの攻撃は確かに本物であった。ならばその周囲に浮かぶ六つの水晶のうち、少なくとも一つは本物のデバイスだ。新たにエンリコの姿が現れたからといって、こちらを無視することは出来るのか?

 

 その一瞬の逡巡の間にリインが動いた。

 

「捕えよ、凍てつく足枷! フリーレンフェッセルン!」

 

 対象者の周囲を瞬時に凍結させるリインが得意とする魔法、フリーレンフェッセルン。

 凍結魔法ということもあり、湿度の高いこの地下水道では通常よりも威力が上乗せされる。エンリコの足元に魔法陣が浮かんだかと思った次の瞬間には、一瞬で氷塊がそこに現れた。

 まさしく氷の監獄である。下手を踏めば対象者を窒息死や凍死させることになるが、即時にそうなる訳ではない。とにかく短い時間でも無力化することが重要だ。

 

 誰の目から見ても、今のエンリコが幻術であれ本物であれ、回避は不可能であったように思える。事実、回避できたようには到底思えなかった。

 リインも手ごたえ自体は確かに感じているようで、油断なく氷塊を睨む。そして同時に、周囲の警戒も怠らない。

 

 今のが幻術であれば、まだ本体はどこかに潜んでいる筈だ。いずれ来る攻撃に備え、フォワードメンバーの四人はそれぞれ背中合わせになり全方位を見張る。

 

「残念、今のも幻術です。さて、先ほども言ったようにもう終わりにしましょうか」

 

 その声の元を全員が探した。ただしザフィーラだけはそうしなかった。

 ずっと注意を払っていた、自分が殴り倒した筈のエンリコから声が発せられていたとすぐに知れたからである。おそらく声の元を探られぬように、すでにつくりだした幻術から声を発しているのだろう。

 そう考えたため、その場ですぐ声の主に再度殴りかかる事はしなかった。

 

「私は嘘つきなのですよ。――最初に殴り倒されたのが、本物です」

 

 そう言うと、ザフィーラの足元で倒れ伏していた筈のエンリコが起き上がる。慌てて拳を突き出したが、呆気なくかわされ、お返しとばかりにザフィーラの腹部に蹴りを繰り出した。

 威力は決して高くなかったが、たまらずザフィーラはたたらを踏んで後退してしまう。

 

「綺麗に惑わされてくれたおかげで、術式も完成しました。回避不能、そして至上の激痛をプレゼントです。なあに、心臓が弱い人でもない限り死にはしませんよ。ヴェルディではありませんが、貴方たちに興味がわきました。殺さずにおいてあげましょう」

 

 そう言って突き出した右手の先には、複雑に編み込まれた魔法陣があった。鈍色に輝くそれは、今まで見たこともない理論によって編まれていることを如実に語っていた。

 そしてスバルは見た。いや、スバルだけではない。その場にいた全員が見た。

 薄ら笑いを張り付けて動かなかったエンリコの表情が、今度こそ本心から来ているのであろう、醜悪で嗜虐的な笑みに変化したのを。

 

「ハルシネーション・フェンリア」

 

 次の刹那、魔法陣が光になって爆ぜた。しかしそれだけ。

 一体何が起こったというのか――その疑問が鎌首を上げそうになった次の瞬間、その場に居た全員の脳内で電気がスパークした。

 いや、実際に電気が流れたわけではない。ただ、あまりの痛みに瞳の奥で光がちかちかと瞬いたように思えただけだ。

 そして次の瞬間には、悲鳴なのか断末魔なのか分からない声が全員から発せられる。

 

「あああああああああッ!!」

「おおおおおおおおおッ!!」

 

 頭、胸、腹、腕、足、心臓、胃、小腸、大腸、眼球、喉、舌、耳――ありとあらゆる器官が激痛を発していた。

 四肢の感覚すら一瞬で消え失せ、全員がその場に倒れ込む。あまりの痛みに気絶すら許されない。意識が遠のいた次の瞬間には、人知を超えた激痛が現実へと無理やり引きずり戻す。

 息すら満足にできない。息を吸ったら肺が破裂するのではないかとう激痛が襲いかかる。目も開けられない。この暗い地下水道を照らす最低限の光すら、網膜を溶かすのではないかという程に痛い。

肌のありとあらゆる箇所に、隙間なく寄生虫が貼りついていて、息ながらにして自分を貪っているのではないかと思うほどに。それとも赤熱して溶けた鉄を頭から被っているのではないかと思うほどに。はたまた爪先からゆっくりと血液が凍り付いているのではないかと思うほどに。

 

 痛い。痛い。痛い痛い痛い。

 この痛みから逃れられるなら。もう苦しまなくても良いのなら。

 早く殺してくれ。誰か殺してくれ。

 この激痛の前に、あらゆる矜持も意志も砕けざるを得ない。それほどまでに強烈な痛み。いや、もはや痛みなどというものでは形容できない、人の認識を超えた刺激である。

 

「ああ――これです。この悲鳴が聞きたかった」

 

 もはや混ざり合い、反響して誰のものかも知れぬ絶叫を聞いてエンリコは恍惚の表情を浮かべる。ただ、その顔も声も注意を払う余裕が残されているものはこの場に一人として存在しなかった。

 

「その気になれば一瞬で気絶させることも、ショック死させることもできる魔法です。ですがそれじゃつまらない。死も気絶も許さず、しかし体は一切動かせず。ただひたすらに激痛に耐えるしかない――この微妙な塩梅が最高なのです」

 

 のたうちまわる彼らを見下ろすエンリコの顔は、どこまでも幸福そうだった。

 しばしエンリコは六人の絶叫に耳を傾ける。まるで美しい音楽を愛でるかのように、目を閉じて静かに耳を澄ませた。

 ややあって、エンリコは踵を返す。十分堪能して満足したのか、それ以上手を出すことはなかった。

 

「一分もしないうちにその痛みは消えますよ。まあ、呼吸困難で窒息か、あるいは過呼吸で酸素過多になって死ぬかしなければですが。――聞こえてはいないでしょうがね」

 

 そう言ってエンリコは地下水道を後にする。

 どこまでも嗜虐的な笑い声と、六人の絶叫が地下水道に木霊していた。




 大変遅くなり申し訳ありません。
 修論・新生活準備・部屋の片づけ等で非常に忙しく、執筆の時間が全くとれない状況が続いておりました。
 4月から社会人ということもあり、不定期な更新になるかも知れませんが、可能な限り週一回の更新を目指したいと思っています。

 感想を残してくだされば幸いです。
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