目を開けば目の前に広がるのは無限の暗闇だった。
地面と空の境界線も曖昧で、自分が自らの足で立っているのかも分からない。ただ、真っ暗な空間に1人放り込まれたということだけは嫌という程理解することができた。
...んだよ、これ。
力を入れようとしても全く動かない、それどころか反応すらしない。神経すら通っていないのだろうか。まるで感覚がない、そこにある俺の腕は俺のものではないような気がしてしまう。
さしたる変化もないまま現状を受け入れようとしていたら突然視界が暗くなる、そして次の瞬間には瞬く間に景色が変わっていく。
教室の窓際で1人、いつも通りの凛とした態度で本を読む雪ノ下雪乃。彼女の周りには誰もいない、彼女のいる場所だけが異世界のように見えた。
葉山隼人、三浦優美子らの中で一見仲睦まじそうに談笑をする由比ヶ浜結衣。ただ何処かその場にいずらそうにしている、自らの意見を通さず周りに合わせているからだろうか。
副会長や書記に囲まれ忙しなく仕事をこなす会長、一色いろは。初めは城廻めぐり先輩らの助けを得ていたのだろうか、生徒会室には未だに城廻先輩の私物が残っている。サッカー部とは少し疎遠になっているようだった。
たくさんの人に囲まれ楽しそうに騒ぐ川内、その輪の中には彼女の妹の神通や那珂、といった姉妹や緑がかったツインテールを持つ長身の少女や茶色髪のショートヘアなおっとりとした雰囲気を出す女性に囲まれていた。
あぁ、これはきっと彼女、川内の日常だ。
雪ノ下、由比ヶ浜、一色にだってそうだ。これはきっと、俺という人物が存在しない世界だ。
だけどこんなたらればの話に意味なんてない。俺は彼女らと知り合って関わり、関係を築いてきた。
それがプラスかマイナスかなんて俺には分からないし、決めることなんてできない。
ただ、川内のあの笑顔を俺が奪ってしまったというのなら、俺との出会いはなかった方が良かったのかもしれない。そんな後悔を抱いてしまった。
ここで俺の意識はぷつん、と途切れる。
「...ちゃん、お兄ちゃん」
「ん...あ?なに...」
目を開けば目の前には小町がいた。どうやら俺の腹の上に乗っているらしく、状態を少ししか起こすことができない。朝チュンか?朝チュンなのか?朝チュンだ!
「ほら、起きて。遅刻するよ?」
「あぁ...ってかお前、俺の部屋でなにしてんの?」
愛しの小町ちゃんがお兄ちゃんに恋心抱いてギャルゲ的展開!とかだと最高にハッピーで愉快に素敵に踊るんだがそんなことがあるわけがない。それに本気で小町に愛されたら俺の方から拒絶すると思う、多分。じゃあなにしてんのこいつ。
「なに言ってんの、ごみぃちゃん」
そう言うと小町は俺の頬を引っ張って首を動かそうとする。痛い小町ちゃん痛い乱暴な子ね!
「いてぇ...あぁ、リビングで寝てたんか」
「そ、夏休み最後だからって夜更かしでもしようと思ってたの?馬鹿だねぇ、お兄ちゃんは」
小町は肩をすくめて「やれやれだぜ」といった感じの態度をとる、殴りてぇ...。
「うるせ、たまたま寝てただけだ」
恐らく、一週間まえのショックから立ち直れない、というか悩みに悩んでろくに寝れなかったツケがここに回ってきたんだろう。そういえば、何か夢を見た気がする。内容は全く思い出せないけれど、全身の汗や気分と悪さからいい夢でなかったことは察することができる。シャワーでも浴びようか...その前にこの馬鹿をどかさんとな。
「で、小町ちゃん。どいてくれない?」
「にひひ...見て見て。お兄ちゃんの寝顔撮ってみた」
そう言うと小町は本当に俺の寝顔が写っているスマホを目の前に出してきた。こいつ...人の話聞く気ねぇな...。
「おぉ...何やってんのまじで。というか遅刻すんだろ、しっしっ」
俺が手で向こうへ行け、とやれば小町は案外簡単に立ち上がり、こちらを見て笑ってきた。はいはいかわいいかわいい。
「俺、ちょっとシャワー浴びてくっから」
ボサッとした頭をかきつつ、シャワールームの方向へと進めば小町はトテトテついてきた。なに?ドラクエなの?それとも朝チュンの続きなの?
どうなるのかなードキドキ、と思っていたら朝食を作るらしく、キッチンに入ればフライパンと返しを持ってキリッと決めてくる。かっこいいかっこいい。
「じゃ、ご飯は小町にお任せ!」
後ろ手で返事しつつ、脱衣所に入れば汗で少し重くなったTシャツを脱ぎ捨てたところで小町がひょこっと顔を出してきた。
「ねね、お兄ちゃん。さっきの写真さ、結衣さん達に送っていい?」
「.......」
一瞬、このアホはなにをしでかすつもりだ、と半目で睨んでしまった。
睨まれた小町はてへっ☆と擬音を付けんばかりに頭をコツン、と叩く。あざといあざとい。
「なんちて!お兄ちゃんの寝顔は小町だけのもの!お墓まで持っていくよ!」
「おう、もう寝顔は小町にしか見せねーわ」
「あー...やー、そこまでいらないかなぁ。ぽいっ」
まぁそうだよね、普通兄の寝顔なんていらないよね八幡分かってるもん別に悲しくなんかないんだからっ。
妹の優しさの中にある冷たさに心の中で噎び泣きながら絶対防衛線へと手をかけていく。
「...ねぇ、お兄ちゃん。それ、脱ぐの?」
「え?脱がないの?比企谷家にはそういう風習でも生まれてたの?」
うそん、家庭内カルチャーショック?いつの間にか家庭からもハブられてたのかよ。
「いやまだ小町がここにいるんですけど...」
あぁ、なるほど。どうやら小町の前で全裸になることを危惧しているらしい。ふっ...まったく困った妹だ。俺が妹の前で全裸になるとでも思うか?なるに決まってんだろ馬鹿野郎、迷うことなくなれるわ。
「兄を舐めるな小町、お兄ちゃんは妹の前で普通に全裸になれるぞ!」
脱ぎかけの絶対防衛線、シスコンのドヤ顔を添えて。
「あぁぁお兄ちゃんがへーんたいだーーっ!!」
さすがの小町も兄の裸体を見る気はないらしい、いやあったら困るし正直見られたくないんだがまぁなんだ。朝テンションってやつだな。いつになくはしゃいでしまった、親父に殺されるレベルで。
浴室に移動し椅子に座る。この椅子、少し低いんだけどなんかちょうどいいんだよな不思議だわ。
勢いよく蛇口を捻れば出てきたのは冷水だった。
「うぉっ!つめたっ!冷たい冷たい!」
夏場でもシャワーは熱い方がいいし、冬場でもお茶は冷たいものを飲みたい時だってある。人間は不思議だなぁ、あ、でもMAXコーヒーは夏は冷たくて冬はあったかい方がいいな、なんて考えながら再び蛇口を捻りしっかりとお湯を出す。いやー、いいですなぁー。
ひとシャワー浴び、制服に着替え朝食をいただく頃にはすでに遅い時間になっていた。そろそろ出なければ遅刻するので俺と小町の行動スピードは自然と早くなっていく。
「ちょ、お兄ちゃん早く食べて早く!洗うの小町なんだから!」
「まぁ落ち着け小町、1日は朝食から始まるんだ。朝食くらいゆっくり食べよう」
「そーゆーこと言ってる場合じゃなーいのー!」
ぐいっと俺の口にトーストを押し込んでくる、くるふぃでふこまひふぁんもぐもぐごちそうさまでした。
「ほーら自転車出す!小町まで遅刻しちゃうよ!」
案の定この妹は俺のチャリに乗っかっていくらしい。最近本格的にこの妹の移動手段にされていることに愛しさと切なさと悲しさと自分で歩けよ、という思いをペダルに込めて漕ぐ。あぁぁぁだるぅぅぅぅい!!
だが丁寧に、舗装された道をしっかりと走る。もうほんと、傷物にされたとかお尻が痛いとかその手のものには困らされたものだ。ただでさえご近所とのお付き合いが少ないこのご時世、比企谷家も例外ではない。大して交流のない隣の子が兄に向かってお尻が痛いだなんだと言っていたらどう思うだろうか。後はご想像にお任せするが。
「いやー、それにしてもお兄ちゃんと同じ学校でよかったよー」
「俺も小町と同じで超嬉しいわー、小町に近寄る害虫駆除できるし」
「そのシスコンっぷりはないわ、きもい。あと駆除とか全然できてないし」
かー、やっぱりある程度放課後拘束して交友関係把握するだけじゃダメか。やっぱり教室に居座らないと!
「だよなぁ、俺小町の教室で授業受けよっかな」
「きもい、まじで無理。あと学校近くで小町降ろしてってね」
「辛辣すぎじゃないですかね...。学校近くで降ろしてってのはあれだよな?ブラコンって噂されるのが恥ずかしいからだよな?そうだと言ってくれ」
「いや普通に見られたら色々とめんどくさいし、ただでさえ比企谷さんのお兄さんって色々してるんだよねって言われてるのに」
陰口、そういうものはいくらでも存在する。俺自身、俺が何かを言われてるのは知ってるしなにが原因なのかも分かっているつもりだ。二年次に学園祭実行委員長の相模南に棘のある言葉をかけ、大いに彼女の精神を傷つけた、まぁ俺本当は悪くないんだけど。相模が悪いんだけどさ。さらに三年次に上がった途端雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、一色いろはをはべらせ部室棟でハーレムを築いてるだのといった噂が流れた。なんかもうね、はは、笑えよベジータ。
今はその誤解は解け...解けたのかしら、解けたの?そこらへんどうなの?
ただ、様々なことが相まって俺が芸能人顔負けのイケメンフェイス(自重)に文系学年トップレベルな頭脳(事実)を所持していることがバレてしまった、てへっ☆
おかげで入学時に比べてそれなりの知名度が生まれた、何人か親しく接してくれる後輩もいる。頻繁に生徒会の仕事を手伝わなくちゃならないし、時には役員顔前のレベルで働いていると思う。それでいいのか生徒会。
というかあれだな、よく考えると陰口って悪いことばっかじゃなさそう!イケメンとか頭いいとか仕事できるとか社畜、調子乗ってる嘘イケメンとかまぁこんなんだろ、なんだ後半泣けるな。
「色々してるって...そりゃいいことのほうだろ、だよね?普通に悪いことしてないと思うんだけど」
「やー、ほら、雪乃さんとかと仲良くしてるからさー。あと可愛い可愛い小町が妹なんだし」
ほう、小町が可愛すぎて俺が嫉妬されると。かーっ、分かってねーな小町は可愛いんじゃなくて超可愛いんだよくそったれどもめ。
「あぁ、確かに小町は可愛いもんな小町まじ天使」
「うわぁ...きも。あ、小町ここら辺から歩いてくから」
小町は俺の発言に割と本気で気持ち悪い、といった表情を浮かべながらチャリから降りて籠からカバンをかっさらっていく。なにこの子酷い。ここら辺から総武校まで歩いて10分かかるかかからないかといったところであろう、小町の足でも十分間に合う距離だ。
「あいよ、遅刻すんなよ。じゃな」
「はいはーい、じゃねー」
人一人が降りた分俺のペダルを漕ぐスピードは格段に上がった。それと同時に、思考を巡らせるスピードも上がっていく。
一週間前、俺のとった行動は本当に正しかったのか。なにか他に選べることはなかったのか。なにをどう考えても、あれ以外に取れる選択肢なんてなかったはずなんだ。
...はぁぁぁ。
思わず長い溜息が口から溢れた。一人でいるとどうしても思考スピードが加速してしまう。自分でも未練がましいとは思う、それに大げさだとも思っている。ただ少し距離が離れるだけじゃないか、連絡先だって知っている。取ろうと思えばいつでだって連絡は取れる。なのになぜ、どうして、こんなにも俺は落ち込んでいるんだ。
どんなに考えたってこの短時間で答えが出るわけなんてない。一週間考え抜いて出なかった答えをたった五分弱で求めるなんて間違っている。
あぁ、小町は俺が考えすぎることを配慮して一緒に登校しよう、だなんて言ったのかもしれない。なんてできた妹なんだろう、つくづくそう思わされる。
先ほどまでは全くと言っていいほど感じなかった太陽の照りつけ、首元を垂れる汗、そして胸元につっかえるような気持ち悪さ。今、何かできることがあるとしたら、それはきっと、いつも通りの比企谷八幡として、振る舞うことなんだろう。
「あ、ヒッキーおはよー」
「おう、おはよ」
教室に入り、席に着けば早速由比ヶ浜に声をかけられた。つい、反射的に口をついて挨拶が出る、それが普通なんだよぼけ。夏休みに何あったか覚えてんのかよ、こいつ...覚えてるんだろーなぁ、それでも声かけられてんだよなぁ、まっこと強か女よなぁ。
「うわっ、ヒッキーが普通に挨拶した。きも...」
じと、と半目で睨むような視線を送ってしまう。由比ヶ浜は慌てたように手を胸の前で振り
「や、やー!ヒッキーが普通に挨拶するのが珍しかったというか!なんというか!」
急に紡がれた言葉は先ほどとなんら変わりのないものだった。思わず笑みが零れる。その笑みには侮蔑も嘲りも含んでいなかったつもりだが由比ヶ浜には何か感じたのだろう、じと、と見つめられ先ほどとは真逆になる。
「んだよ...別になんでもないっつの」
とりあえずは言葉を並べるが由比ヶ浜が素直に聞くか...まぁ聞かないな。はぁぁ、めんどくさい。
「ふん、何も言ってないし。とゆかさー、今日部活行くー?」
俺に向けられる感情はどうでもいいということだろうかなにそれ酷い、由比ヶ浜は次の話題を出してくる。
「あー、まぁあるなら行くな。どうせあるんだろうけど」
「じゃー、一緒に行こー!」
「はいはい...分かりましたよ」
俺の言葉を聞いてか聞かずか、由比ヶ浜はさっさと自らの席に戻っていく。聞いてなかったら結構酷いよな、これ。ガ浜さんまじひどい。
これで、よかったのだろうか。俺は俺らしく、いつも通り振る舞えただろうか。そんなことが頭を離れない。そもそも俺らしくとは、一体なんだろう。あぁ、川内。お前が少し離れるってだけで俺は壊れかけている、お前はこんな俺を見て、なんて言うんだろうな。
この日何度目かわからないため息が口から漏れる。今日までにどれだけの幸せを逃したんだろーなー、帰ってこねーかなー。
ただただ文字列を追う行為を繰り返す。内容などほとんど理解してしないのにそうすることを強いられているかのようにページをめくる。
「...比企谷くん。ため息がうるさいのだけれど」
「お、おぉ。すまん、気をつけるわ」
どうやらまたため息をついていたらしい、雪ノ下がページをめくる手を止めて顔を上げる。由比ヶ浜はそんなことは気にせず、ケータイをポチポチいじっていていた。気にせず、というよりも気にしないように努めている。というのが正しいのかもしれない。
なんとなく、二人は俺の調子が悪い、何かを抱えている、それくらいは分かったらしい。
けれどそれ以上踏み込んで来ようとはしない、それくらい一人で解決しろ、との事なのか今は無理に話させるべきではない、なのか。俺には分からないが今はとりあえず放置、らしい。こういう時に放っておいてもらえるのは正直助かる。
部室全体を包み込む静寂。これを壊そうというものは部室の中には存在しない。それを壊すということは、確実に誰かの心を傷つけることだと、分かっているからだ。
しかし、外部からの人間がそれを飲み込んでくれるとは限らない。
こんこん、と扉を叩く容赦ない音が教室内に響く。
「邪魔するぞ」
扉を開けて入ってきたのは平塚先生、奉仕部の顧問だった。
「ん?どうした、やけに静かだな。まぁいい、君たちに頼みたいことがあるんだが」
平塚先生は椅子を引っ張ってきて俺の近くに座る。なんでですかね...。
「平塚先生、用事はなんですか」
呆れたのか、ため息を零してから雪ノ下が口を開く。
「あぁ、いやなに、また文化祭を手伝ってもらおうと思ってなぁ」
文化祭。あまりいい思い出のある単語ではない。
一年次はなにをしたか特に覚えていないし、二年次は相模なんとかさんに振り回されたことしか覚えていない。仕事の内容は忘れた、と言いたいところだが生憎体にはしっかりと刻み込まれている。体に教え込まれてしまったわけだ、社畜適正高すぎだろ。
「はぁ、俺たち受験とかあるんですけど」
「君たちのことだ、もうほとんど対策は終えているのだろう?知っているぞ、雪ノ下と比企谷がA判定を貰ったこともな」
退路を色々と絶たれていくこの流れ...恐らく何が何でも手伝わせようという先生の策略だろう。さすが平塚先生、平塚先生汚い。だが甘い。
「はぁ...けど由比ヶ浜がいるじゃないですか。志望大学がどこかは知らないですけど、相当やばいんじゃないですか」
由比ヶ浜のアホさは本気でやばい、なんかもうやばい。なんでこの学校に入れたか不思議でならないくらいやばい。
「ヒッキーうるさい!わたしだって勉強してるんだからねー!」
はいはい、というかこの時期に勉強してねえ方がやべえから。あの戸部だって勉強してるっぽいぞ。
「ああ、由比ヶ浜もほぼ問題ないよ。この前の模試ではA判定に近いBだ」
...はぁ?由比ヶ浜がA判?幻聴かな?ん?それとも志望大学がしょぼいとかいうオチだろうか。
「とにかくー、わたしは大丈夫だから!やろ!ね?」
雪ノ下の目線だけで確認を取る。
彼女はふるふると首を横に振って見せた。諦めろ、ということだろう。
うーむ、と少しは唸ってみせる。だって文化祭いい思い出ないし...。
「いいじゃーん!ヒッキーとゆきのんは去年いろいろやってたけど、わたしはやってないし!」
「いやまぁ色々やったけどよ...」
管轄内の仕事もやったし、管轄外の仕事もやった。わけわからん言い訳されて体良く仕事を押し付けられた記憶もある。全部やり遂げたあたりに社畜適性を感じてしまった。
「...まぁ、やるか」
「やたーっ!ヒッキー、ありがと!」
「でもいいか。持ってきた仕事は元のところに戻しちゃダメだぞ、自分で世話するんだぞ」
「そんな犬みたいなこと言われても!」
実際持ってきた仕事を手元で世話してもらわないと困る、特に俺のところとかに持ってこられるともっと困る。働きたくない。
だがそんな心配をよそに、文化祭実行委員は淡々と進んでいった。
特に揉めることもなく、俺の仕事が特にあるわけでもなく、去年の某相模さんの如く調子に乗って実行委員長に立候補する輩もいなくて、どこか寂しさを感じながらも文化祭の日を迎えた。あんなクソめんどくさい実行委員長がいなくて寂しいと感じる自分の未来が本格的に不安です。
一応、なにその、川内さんにも文化祭の存在を伝えておいたがいつもより忙しい日常を理由に考える事を放棄してただただ仕事をこなすことに徹していた。確か返信も来ていた気がしたが、眠さ半分でなんと返したかもうろ覚えだった。
当日、仕事あるんだろうなぁ、と体育館の袖に行った時雪ノ下から今日の仕事はないわよ、と言われなんだよもっと早く言えよ、と小声で悪態をつきつつ校門の前で何かをするわけでもなく1日突っ立っていた。去年よりも酷く寒く感じたが気温はなんら変わっていなかったらしい。
この時、本当に遠くに行っちまったんだな、と夏休みの終わりに実感したあの不甲斐なさを、無力さを改めて実感したが何か出来ることもなくかといってしようという気力も起きず、高校生活の残りを川内を忘れようと躍起になって過ごした。
結局、忘れることもできず連絡する勇気も出ずに重さの変わらないはずのスマホがどこか軽くなってしまった。
「おい小町、あんまはしゃぐなよ。迷子になっちゃうでしょうが」
ぐい、と小町のマフラーを掴んで引き寄せる。
「んぐ、お兄ちゃん痛い!」
「はいはい、すまんね」
身を切るように吹く海岸線からの風。なのに今日もなぜか人が集まるディスティニーランド。そしてその集団に交わる俺と小町、そして由比ヶ浜結衣に雪ノ下雪乃。珍しいといえば珍しいだろう、成長し大学生になったとはいえ俺も雪ノ下も人混みは得意ではない。だが、小町の高校卒業記念となれば行くしかないのだった。
大学生になった今、簡単に切れると思っていた俺らの関係は切れなかった。由比ヶ浜とは同じ私立大学だが学部が違う、たまに同じ授業を受けることがあっても他に関わりがない。雪ノ下に至っては違う国立大学に進んでいて関わる点を探す方が難しいくらいだ。
だが不思議と縁は切れない。これが昔の俺が望んだ本物というやつなのだろうか。きっとそうに違いない。表面上、やってることは昔と大差なくても深い部分では分かり合えている、そういうことだろう。俺たち3人の間には、以前の奉仕部の空気が未だに残っている感じがする。
「でもしょうがないよー、小町ちゃん。パレードやる前だからすごい混んでるし...」
「ですねー...ってあれ、雪乃さんは?」
キョロッキョロッ周りを見る小町とクエックエッする由比ヶ浜。クエックエッはしてねぇな、キョロッキョロ周りちゃんと探してるっぽい。
「そういやいねぇな...迷子だろ、探してくるからそこいろ」
しょうがなく並んでいる列から少し抜け、離れたところで雪ノ下雪乃の姿を探す。
ただこの人ごみ、人一人簡単に見つかるはずもない。と、思っていたが雪ノ下は案外近くにいた。ここから少し離れたところ、ベンチに大人しく一人で座っていた。闇に溶け込んでしまいそうな、雪と一緒に儚く消えてしまいそうな雰囲気を出してただ一人、そこに座っていた。
「...おい、雪ノ下」
人混みをかき分け話しかける。何もない、なのになぜか酷く緊張した。
「比企谷君...ごめんなさい。人混みが激しくてはぐれてしまったから...」
雪ノ下は俺と違って淡々と返す。それもそうだ、緊張する理由がないのだから。
「いや、別に構わねえよ。この人混みだしな、はぐれることくらいあんだろ」
「そうね、人混みがなくてもはぐれている人もいるのだし。講義の時とか」
「あぁ、そうだな。講義の時俺の周りに人いねえし、てかなんで知ってんの?」
甚だ疑問である。なんで講義の時の俺知ってんの...。人間そう簡単に変われると思ったら大間違いである。高校と大学の差が全く見当たらない、奉仕部の代わりにバイトが入ったくらいしか違いが見当たらない、辛い。
「つかこの人混みだと戻れねえよなぁ...」
よっこいせ、と雪ノ下の隣に腰掛ける。雪ノ下を見つけた代わりに由比ヶ浜と小町を見失ってしまったようだ。うんうん、世の中等価交換だからね。ルール守って楽しく錬成!
「まさか、あなたとまたここに来るとはね」
「あぁ、高2の時以来か。俺はこの人混みに来ること自体予想してなかったわ」
ほんと、なんでこのくそみたいな人混みに来てるのかが不思議である。
だがこのくそみたいな人混みの中で得たものもあるから不思議である。
「...失恋の傷は癒えた?」
「は?」
思わず間抜けヅラで返す。失恋?俺が?
一体いつ失恋しただろうか。大学生活、これまでの2年間は色恋沙汰とは無縁だったと思う。確かにサークルやらなんやら、高校時代とは違ってコミュニケーションを取ることを強いられているため何度か会話こそしたもののそれ以上はない。ならば、雪ノ下の言う失恋とは。
「高校3年生の頃の話よ」
ガツン、と頭を殴られたような強い衝撃。忘れようと、心の奥底に沈めても失うことのできなかった記憶。それがふつふつと蘇る。
「あー...まぁ、なんだ。あれから何年か経ったからな、さすがに忘れたっつーか...諦めた、の方が正しいんだろうな。俺が関わってきた中で唯一、俺の力じゃどうにもなんねぇって思ったことだと思う」
つい反射で喋りすぎた。そしてそれは違うと思う、俺が関わってきたことはどれも俺の力ではどうにもできなかった。何かを利用して、策を弄して、なんとかできたことだ。背中を押した、といえば聞こえがいいがその先は奈落。俺がしたのはそういうことだと、自覚している。
だが雪ノ下はそれすらも肯定してみせる。
「そうね、あなたは何でも一人で乗り越えてみせた。方法が正しくなくても、褒められたものでなかったとしても、これは事実よ。ただあの時、何があったのかは今もまだ分からないし、分かろうとも思わないけれど、あなたでも何もできないことが起きた」
雪ノ下は昔を懐かしむように、楽しげでいてどこか後悔を感じさせるように言う。
「でもあなたはそれでも変わらなかった。心を折るような出来事に直面して、何もできなくてもあなたは変わらなかった。それは褒められることじゃないかしら」
雪ノ下はこちらを向いて、母親のように子供に何かを諭すように言った。
だがそれはきっと違う。変わらなかったんじゃなくて、変わりたくなかったんだと思う。いつも通りの比企谷八幡を演じていればいつかきっと、また会えるんじゃないかってそんな期待を抱いていた。いつもの日常のまどろみの中にいればきっと、彼女が現れてくれるんじゃないか、と。
「さぁ、どうだろうな。変わる変わらない、じゃない。変わるものがなかったんだろ。俺に選べる選択肢は一つで、きっと何一つ、これからも変えられねえんじゃねえか」
「...何一つ、変わらないのね。変わらないというのね」
くすり、と微笑んでいつかのセリフを言う。だがそこにいつかのような断罪は込められていない。今、込められているのは応援だとかそういう、肯定のものだ。
「あなたは何一つ、変わっていない。その考え方も、何もかも」
当たり前だ。俺と雪ノ下が出会い、共有したたった一つのもの。それを途中で失い、もう一度共有したとしても俺のあり方は変わらない。そんな簡単には変われない。例えこのあり方が雪ノ下と由比ヶ浜を傷つけたとしても、変わってはいけない。それが俺が俺たる所以だから。
「...きっと、そういうところが私は好きだったのかもしれないわね」
「......は?」
先ほどよりももっと間抜けな面構えだったと思う。好き?は?誰が?
思考が追いつかない。理解ができない。
「動揺した?でももう、昔の話。昔言えなかった...いえ、それですらないわ。他愛のない昔話をしてるだけよ。違う?」
違う、のだろうか。分からない。ただちょっと意外だった、予想できなかった。雪ノ下雪乃という女の子が、俺に好意を抱いていたことが。
「俺は...どう答えたらいいんだ?」
「.........」
静寂が生まれる。それもそうだ、俺の口から出たのはそれほどおかしなことなのだから。
「さぁ、私には分からないわ。それに告白ではないもの。言ったでしょう?ただの、昔話」
そう言う雪ノ下の頬は少し朱に染まっている。昔話といえど恥ずかしいのか、それとも。
「言えなかったのは、そうね。あなたが由比ヶ浜さんと付き合ったから、一色さんがいたから、あなたに意中の人がいたから。そしてなにより、私が臆病だったから。私が告白したら、関係が壊れると思っていたのよ。これも言い訳かしらね...」
「誰に対する?」
「自分、かしら。大切なものだから壊したくない、だから諦める。しょうがないって」
雪ノ下雪乃は冷静で冷徹な女の子だ。だから自身に対する分析もきっと間違ってない。雪ノ下雪乃がそうだと言うのなら、そうなのだろう。
雪ノ下は二兎を追って両方手放すことよりも片方を確実に得る方を選んだ。
「...昔話はもうおしまい。恥ずかしいもの」
そう言うと雪ノ下はマフラーを巻き直して人混みの中に戻っていく。
「先に行くわ。もう来なくてもいいのよ?」
これも、いつか聞いた台詞。一体いつだっただろうか。考えを巡らせているうちに雪ノ下は人混みの中に消えていく。以前の彼女だったら人混みの中でも見つけられたかもしれない。彼女が変わったのか、俺が変わったのか、その姿はもう見えない。
あの台詞には一体何の意味があるのか。あれを聞いたときは確か、壊れかけた上辺だけの関係を醜く愚かでも繋ごうとした時ではなかったか。
けれど今は、今は違う。ならば、一体どういう意味が。
思考が深まっていく。俺と雪ノ下と、二人の問題。いや、俺だけが抱えているかもしれない問題。彼女は彼女なりに問題に直面し、解決したからこその結果かもしれない。
ただ、どう答えればいいのかが分からない。彼女は昔話と言った。ただの思い出だと。だがそれを信じていいのか。どうも、彼女の言葉の裏が読めない。なぜ、このタイミングで言ったのか。分からないこと尽くしだ。
彼女とはなかなかに会う機会がない。だからこそ、今のうちに答えをまとめたい。まとめなくてはならない。だがまとまりそうにない。
人混みの喧騒から外れて一人考え込む。彼女の事について、彼女と俺の関係を真剣に考えたのは久しぶりじゃないだろうか。失いたくないもの、そう思えた数少ない一人。そんな彼女だからこそ、ちゃんと考えなければならない。
あぁ、こんな時に人の言葉の裏を探ろうとする癖が邪魔だ。何か考えがあるんじゃないか、何か違うことを伝えたいんじゃないか。そんなことばかり頭をよぎる。なんともめんどくさい。
「おぉう!?」
思考を張り巡らせていると頬に急に温かいものが押し当てられた。つい声が漏れる。はずい。
振り返ると俺のちょうど後ろには俺より少し年下そうなツーサイドアップの女の子が立っていた。どこかで見たことあるような...。というか今の声聞こえてたよな、恥ずかしい。
「こういう日はさ、これに限る。よね?」
ぽん、と女性は後ろから俺の手にMAXコーヒーを押し付けてくる。おぉ、分かっていらっしゃる。でもこれ、もらっちゃっていいのん?美人局とかじゃない?平気?
そんな俺の心配をよそに女性はぐびぐびMAXコーヒーを飲んでいた。お淑やかだとか、そういうものをゴミ箱に投げ捨てたタイプの女性らしい。
そういえばここで飲むMAXコーヒーは二回目だな...一回目は、いつだっただろうか。そう、川内だ。忘れたくても忘れられない。最後にあってから2年も経っている。たかが2年、されど2年。正直顔はもううろ覚えだし、携帯の方は番号を変えた時に連絡していないのでもう会える手段はほとんどない。
そういえばあいつもツーサイドアップでがさつ、というかお淑やかだとかとはかけ離れていたような...。
段々と記憶が鮮明になっていく。交わした言葉が、風景が、はっきり浮かび上がる。
ゆっくりと、ぎこちなくても、顔を上げていく。
「川...内なのか...?」
声は震えていた。相手に確実に届いたかも分からない。
けれど川内は、あの時と変わらずに人懐っこそうな笑みを浮かべて答える。
「そー、もしかして忘れてた?酷いなー。使い物になんなくなっちゃったから、戻ってきてケータイに連絡しても通じないんだもん。番号変えたなら言ってよね」
言葉の端にきになることは何点かあった、でもそんなのは関係ない。ただ、川内が俺の前にいることが嬉しい。視界が霞んでいく。
思わず、川内を抱きしめる。もう離さない、離してはいけない、そんな念を込めながらだった。
「ちょっ、ちょ、ちょっ!?ひ、人前だから!人前!」
慌てる川内の声に引き戻され自身の行いの恥ずかしさを悔いる。くっ...殺せ!殺してくれ!そう叫びたくなるような行いだ。リア充のことを馬鹿にできたものではない。恥ずかしい。
心を落ち着かせてベンチに戻る。落ち着け、そう落ち着くのだ。落ち着きたいときは?素数を数える。オーケー?
「...あー、あれだ。何があったか、聞いてもいいか?」
隣に座る川内に恐る恐る話しかける。きっと、喋りたい内容ではないと思ったからだ。
「んー...何がって、ちょうど半年前。深海...あー、敵が残り少なくなって殲滅戦、ってなった時に致命傷もらっちゃってお役御免。使えない子は武装を解除して、死ぬか人に戻って好きにやるか選べ、って話だったの。私はこうして人に戻った、だからここにいる。これからも、ね?」
「そうか...それは、よかった...本当に、よかった...」
彼女にとってよかったかはわからない、だが俺にとってはいいことだったんだ。
「はは、大袈裟だなぁ。あ、それでね。私、学力が高校未満だから今度、高校生になるんだ。楽しみだなぁ」
川内の目はこれから起こること、全てが楽しみだ、と言わんばかりに輝いていた。
そっと、川内の顔が近づく。俺が近づいたのか、彼女が近づいたのかは分からない。ただ、事実なのは俺と彼女の唇が近づいて、重なった。それだけだ。
身を切るように吹く海岸線からの風。そして同様に身を切るように寒い冬の空気。人がいるからか、俺の心が満たされたからか、ここは明るく暖かい。
白亜の城にちょうど重なるように火の粉が花をかたどった時、俺と彼女、川内の唇がもう一度、そっと重なった。