窓から差し込む月明かりが、ハイム城の執務室を淡く照らしていた。この城の主であり、いまやヴァレリア王国の君主となろうとしている若き英雄は、窓際に立って夜空に瞬く星々をただ見上げている。
「……良かったのか、あやつを行かせてしまって」
その後ろ、テーブルの一席に腰掛けた老人、大神官モルーバが声を掛ける。
「……良いんです。あの人は、僕の下に納まるような人じゃない。もし彼が側にいてくれれば、それほど心強い事はないでしょう。ですが、僕はきっと頼りすぎてしまう」
「そうか」
「それに彼はこう言っていました。『俺にはお前の側にいる資格はない』と……。きっと、自分の出自が明確でない事を気にしているのでしょう。彼の存在を伏せるように言われたのも、それが理由でしたから」
「ヴァレリアが一つになった今、出自など気にする必要などないというのにな……」
モルーバはフィラーハ教団のトップへと返り咲いた。もともとブランタと派閥を二分していたのだから、ブランタ亡き今それを再び一つにするのは容易い。
フィラーハ教の教義は『父なる神フィラーハの前にすべての民は平等である』というものだ。熱心なフィラーハ教徒だったドルガルア王は、その教えに従って民族融和を唱えた。
教団の表も裏も知り尽くしたモルーバからしてみれば、それが叶わない理想である事は理解している。だがそれでも、救われない者達に希望が与えられるなら、それこそが信仰の力だと信じていた。信仰によって、人々の力によって、いつかは民族の壁を超えてヴァレリアが一つになれると信じていた。
「……僕は、無力ですね。いくら皆が望んでいても、本当に僕に王など務まるのでしょうか……」
「お主しかおらん。おらんのだ、デニムよ。他の誰が玉座に座ろうと、民衆は納得すまい」
「ですが、僕に対しての反発も強まっています……」
「……むぅ……『バーナムの虎』か……」
ヴァレリア中央のバーナム山脈を根城とする武装ゲリラ組織『バーナムの虎』は、解放軍にとって大きな頭痛の種となっている。彼らは『真のヴァレリア人の国家』を提唱し、王女ベルサリアを謀殺したとしてデニムを声高に批判していた。
しかし、現在ではバクラムやガルガスタンの残党が合流し、もはや志と実態が乖離しつつある。ゲリラ活動は次第に過激化しており、彼らに暗殺された要人も数多い。非常に危険な組織だった。
解放軍による討伐も何度か試みられたが、どうやら解放軍内部にも内通者がいるらしく、不意討ちは一度も成功していない。その度に頭領や幹部たちを取り逃している有様だ。
ベルゼビュートが本腰を入れて討伐しようとすると、蜘蛛の子を散らすようにバーナム山脈から逃げ出していったという。さすがのベルゼビュートも、一人で全てを捕らえる事は難しい。それでも幹部の半数を捕らえてきたが、一時的に沈静化しただけで焼け石に水という状態だった。
「わかっているんです。僕は王に向いていない。皆の上に立てるような器はない。本当の王の器があれば、こうして悩む事もないでしょう。…………僕よりも強い、あの人なら――――」
「それ以上はいかんぞ、デニムよ。それは、お主を己が主君として戴こうとしている者達への裏切りだ。お主が口にすべき言葉ではない」
「…………はい」
そして、英雄は再び頭上に広がる星原を仰ぐ。
決して手の届かぬ星々は、英雄を遥か下に見下ろしている。
まばゆい、煌めきを放ちながら。
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空中庭園の地下、長い階段を下りると、そこは何やら広い空間となっていた。足場は台地になっており、周囲には深い暗闇が広がっている。肌を舐めるようなヌメリとした空気と、亡者が湧き出てきそうな雰囲気が、死者の宮殿での生活を思い出して、ほっこりするわぁ。
空間の中心の広場には、まるで地球にあったストーンヘンジのように石が環状に並べられており、何かの怪しい儀式の跡のようにも見えた。世界の七不思議とかオカルトが大好きな俺としては、ワックワクしてくる光景だ。まさかドルガルア王は俺の同志だったのか?
「フン、ここがカオスゲートか……。チッ、粘っこい、嫌な感じがするな」
えっ、ここがカオスゲートなの? では、俺の手でこの素敵なストーンヘンジを叩き壊さなくてはいけないの? そ、そんなぁ。古代のロマンを、大いなる謎を台無しにするなんて、俺にはできそうにないぞ。
律儀に俺達が来るのを待っていたらしいバルバスは、独りごちると封印を解く作業に入ろうとする。
「……待て。封印を解けば、ここと魔界がつながるのではないか?」
「チッ。…………ああ、そうだ」
バルバスは露骨に舌打ちしつつも、俺を無視するような真似はしない。やっぱりツンデレだなコイツ。
「何せドルガルア王の遺産ってのは、奴が愛する妻子を蘇らせるために求めた、悪魔の力の事だからな。このカオスゲートの封印を解けば、俺達も魔界へと旅立つ事ができる」
「魔界へ行ってどうする?」
「ふん、愚問だな。究極の力とやらを手に入れるに決まっている!」
バルバスは胸を張ってドヤ顔をしているが、果たしてそんなうまい話があるのだろうか。魔界へ行ったって、悪魔たちの餌食にされてオウガの餌になるだけじゃないの? やっぱり見た目通りの脳筋だったのか?
俺はさっきから黙ったままのアンドラスに視線を向ける。
「……貴公も、そのような力を欲しているのか?」
「…………」
アンドラスは瞑目したまま答えない。俺には、彼の気持ちが何となく理解できた。祖国が蹂躙され、国民は奴隷の扱いを受けている。そのような現実から抜け出すには、奇跡にでもすがりたくなるだろう。
「仮に魔界へ行けたとして、力が得られるとは限るまい。結局、力を求めたというドルガルア王は死んだと聞いているが」
「ふん、奴は死んではいない。魔界へ旅立ったきり、帰ってきてないだけだ。敵の介入を防ぐため、奴はカオスゲートに『
「む? つまり……ドルガルア王は生きているというのか?」
「ああ、そうだ。ブランタの陰謀で死んだ事にされちまったわけだ。覇王とまで呼ばれた癖に、間抜けな野郎だな。ガッハッハ!」
バルバスが豪快に笑うが、俺は笑う気にはなれない。妻子を思い、必死に力を求めて、最後には部下に裏切られる。覇王と呼ばれた男には、あまりにも悲劇的な結末だった。どうしてもそこに、同じ覇王と呼ばれるデニムを重ねてしまうのだ。
「さて、ここは譲れんぞ。俺は力を手に入れるために、こんなとこまでやってきたんだからな」
「…………止めはせん」
俺がそう言うと、俺と戦ってでも封印を解こうとしていたバルバスは拍子抜けしたように眉を上げた。
「あぁ? なんだと?」
「貴公らを止めはせんと言ったのだ。魔界へ行きたいのなら行くがいい。だが俺は、お前達が旅立った後にカオスゲートを破壊させてもらうぞ」
「なッ! なんだとッ!?」
「ッ!」
俺の言葉に、バルバスとアンドラスは驚愕を隠せなかったようだ。
だって、魔界とのゲートなんて開けっ放しにしてたら、何が来るかわかったもんじゃないだろ。嫌だぞ俺は。せっかく地上を満喫できると思ったら、神話のオウガバトルが始まるみたいな展開は。
「ふざけるなッ! カオスゲートが壊されたら、戻ってこれないだろうがッ!」
「だが貴公らの目的は究極の力なのだろう? 魔界へ行ってそのような力を手に入れれば、戻ってくる事も容易いのではないか? ……貴公ほどの男なら可能だろう」
「…………お、おう。そうか?」
バルバスはなぜか少し照れた様子で、何度も頷いている。目を合わせようとしないが、チラチラとこっちを見るのはやめてほしい。ラヴィニスの仕草に似ていて本当に辛い。こんなムサいオッサンやだぁ。うう、会いたいよラヴィニス。
当然、アンドラスはこんな言葉に騙されるはずがない。しかし、彼は何か考えこんでいる様子だった。おおかた、不退転の決意でも決め込んでいるのだろう。もっと前を向いて生きてほしいが、俺が言うべき事ではないんだろうな。
「……ふ、ふん、ならば封印を解くぞ」
「ああ。好きにするがいい。だが、俺は魔界には行かんぞ」
なんせ、俺は地上でバカンスするんだからな! 魔界でバカンスなんて…… この世界ってサキュバスとかいるのかな? い、いないよな。 ……よしいない! 俺にはラミアさん達がいるんだ! いや待てよ、もしかしたら魔界にもラミアさんが……。
俺の重大な葛藤をよそに、バルバスは黙々と封印を解く作業に取り掛かり始めた。ストーンヘンジの真ん中に石碑が置かれており、その前に陣取って解読を始めている。古代の神聖文字を読む姿に、本当に同一人物なのかと疑いたくなる。
「……アンドラス、貴公も魔界へと旅立つつもりか?」
「……ああ。私には力が必要だ。何者にも負けない、本当の力がッ」
「そうか」
拳をギュッと握ってみせるアンドラスに、何も言えなくなった。しかし彼は、俺の顔を見据えて頭を下げてくる。その姿はどこか、デニムを連想させた。
「礼を言おう。あんたのおかげで、俺は自分の目標を再び思い出す事ができた」
「……俺は何もしておらんが」
「フッ。もし機会があれば、ヴァレリアの王に、デニム王に伝えてほしい。我らニルダムは定められた運命に抗うと。もし教国の脅威がこの島を襲うなら、共に並び立ち向かおう、と」
「……わかった。覚えておこう」
なんか、すごい伝言だなぁ。ひょっとしてコイツ、ニルダム王国の偉い人だったりするんだろうか。だとしたら俺、さっきから失礼な事を言いまくってる気がするぞ。『全力を尽くしたのか?』とか何様だよって感じだ。やべぇよやべぇよ。
若干挙動不審になりながら、バルバスの作業を見守っていると、どうやら石碑の解読が終わったらしい。バルバスは立ち上がって、ブリュンヒルドを天に掲げる。
そして、神聖文字をゆっくりと読み上げ始めた。
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「……我は聖天使より与えられし聖剣ブリュンヒルドを持つ者なり」
バルバスの低い声が、カオスゲートの封じられた広場に響き渡る。
「神聖なる御名において、我は願う。呪われし魔神たちを封じし聖なる門よ、主の許しを受け、その扉を解放せよ……!」
だが、その長い詠唱が終わっても、一向に変化は訪れなかった。密閉された広場には風も吹いていないのに、どこか隙間風が吹いたかのように三人の間に沈黙が落ちる。ベルゼビュートとアンドラスの胡乱げな視線に晒されたバルバスは、冷や汗を流した。
「……何も起こらないぞ?」
「……そうだな」
アンドラスの問い掛けに、頷く事しかできないバルバス。その目は石碑の上を彷徨っており、どこに間違いがあったのかを探している事は一目瞭然だった。
「――――いや、まて」
ベルゼビュートがそう口にすると、次第に地面が揺れ始める。地の底から何かが近づいてくるかのように、揺れは大きさを増していく。その間、バルバスは得意げな表情をしていた。
次の瞬間、ストーンヘンジの中央に暗黒神アスモデの力が届けられ、地面に巨大な魔法陣のような複雑な紋様が刻まれていく。それらは火が灯ったように赤褐色の光を帯びていた。
同時に、辺りには瘴気とも言うべき淀んだ空気が流れ始める。それはベルゼビュートにとっては馴染み深く、死者の宮殿でも感じられた不浄の気配。『魔』と呼ばれる、この世ならざるモノの片鱗。
やがてベルゼビュートは、魔法陣の中央、その上空に何者かの気配を感じて視線を上げる。
「……鬼……か……」
ポツリと漏らすベルゼビュートの目には、宙に浮かぶ人影が映されている。肌がひりつくような威圧感は、まさしくドラゴンと初めて対峙した時のことを想起させる。しかしそれ以上に濃厚な『魔』の気配が漂っており、ベルゼビュートの目が細められた。
「我ハ、ドルガルア…… ヴァレリアノ神ナリ……」
そこに浮いていたのは、愛する妻子のために魔界へと旅立ったはずの男。
「大地デ足掻ク卑俗ナル者ドモヨ…… 神デアル我ニ、ヒザマズケ……」
魔界で『魔』に侵され、もはや人の形を失い、人の心も失った覇王。
「我ノ帰還ヲ祝福セヨ……!」
闇の住人となり、人を超越し、亜神と化した覇王ドルガルア。その帰還だった。
王の帰還でした。ブランタのせいで、王様は魔界に閉じ込められてしまったのです。
ブランタは王様にひどい事したよね。(なおデニムにダンガンロンパされた模様)
【『魔』】
ある者によれば、魔界には『魔』が満ちているとされる。
『魔』から身を守る術を知らなければ侵食され、異形と化す。
原作においても、詳しい説明はなされていない。