「――起きたか」
ゆっくりと目を開けた途端、聞き覚えのある声が耳元で聞こえて女の子はビクリと身を震わせた。いつの間にかベッドに眠らされていたようだ。恐る恐る顔を向けると、いつもの優しいお爺ちゃんがそこにいた。
「何があったか、覚えているか?」
「…………」
女の子はアゼルスタンの問いにコクリと頷く。あの秘密の海岸で助けてくれた、見えない『誰か』のお願いを聞いたら喋れるようになったのだ。歌だって綺麗な声で歌う事ができた。
でも、女の子はそれを中から見ているだけ。実際に喋って身体を動かしていたのは、ジレーヌと名乗ったお化けだった。女の子はジレーヌに身体を奪われてしまったのだ。
「……もう喋れないのか?」
「…………」
再びコクリ。試しに声を出そうとしてみるが、やはりパクパクと口が動くだけだった。
喋って歌って。まるで夢のようなひとときだったが、それはもう終わってしまった。結局、お爺ちゃんに自分の名前を伝える事もできなかった。声をくれたジレーヌは、もうどこかへ行ってしまったのだから。それが悲しくて、ついつい皆の前で大泣きしてしまった。
身体が動かないと気づいた時、最初はヒドいと思った。でも、ジレーヌの気持ちが伝わってくると怒る気がなくなってしまう。ジレーヌは誰かに身体を借りなければ陸に上がる事ができないのだ。ずっと海の上で一人ぼっちだったなんて可哀想だと思う。
それに、オミシュの皆の前で歌を歌うのは気持ち良かった。ジレーヌも本当に楽しそうにしていて、女の子もつられて楽しくなってくる。でも、聴いていた人たちがおかしくなってしまって驚いてしまった。
「あの妙な歌の事も覚えてんのか?」
「…………」
「そうか。聴いてたヤツらは元に戻ったみたいだから、心配すんな」
「…………」
ジレーヌは人の命を食べないと生きていけないお化けだった。歌を聴かせて、生きている人から命を吸い取ってしまうのだ。怖くて残酷な事だと思うけど、人だって動物や魔物の命をとって食べ物にしているから似たようなものかもしれない。
「それにしても……なぁ。まさか尻叩きで治っちまうたぁ……」
「…………」
赤面する女の子。もちろん、最後に受けた『おしおき』もしっかりと覚えている。
心なしか、まだお尻がヒリヒリしている気がする。
「まったく、最後までメチャクチャな奴らだったな」
「……?」
「ああ……。あいつらはもうオミシュを出ていったんだ。お前は丸一日寝てたからな」
「……!」
アゼルスタンから告げられた衝撃の事実に口を開けて驚く。
「やれやれ。野郎どもにわざわざオクトパス狩りまで仕込んでいきやがって。おかげでオミシュにタコヤキの匂いが染み付いちまいそうだぜ」
「…………」
そうぼやきをこぼしながらも、アゼルスタンが密かにタコヤキを好んで食べている事を知っている。女の子はそんなアゼルスタンの様子が面白くて、ついつい吹き出して笑ってしまう。
「ふん。まあ……お前がそうやって笑うようになっただけ、偽善は偽善でもマシな偽善だったな」
ぶっきらぼうな言葉と裏腹に、アゼルスタンの顔には柔和な笑みが浮かべられている。それは、これまで人嫌いのアゼルスタンが見せた事のないような優しい表情だった。
――お兄ちゃん、お姉ちゃん、みんな、ありがとう。
去ってしまった賑やかな人々の顔を思い浮かべ、女の子はそっとお礼を言った。例え声がでなくたって、きっとどこかにいる皆に届くはずだと思いながら。
--------------------
やっと船が直り、その日の内にオミシュを出発した。
訓練した海賊たちを連れていこうかとも思ったが、大所帯になってしまうのでやめておいた。それに、オミシュにオクトパスを供給する大事な役目を与えておいたからな。きちんと班ごとにローテーションを組んで回すように指示しておいたし、そのうちヴァレリア全土にタコヤキの一大ブームがやってくるだろう。
「やだもう、ヴァ〜ちゃんったら、いつまで泣いてるのよ〜」
「う、うるせぇ! ほっといてくれよ!」
「そんなに別れたくなかったんなら、オミシュに残ればよかったじゃない?」
「そ、それは……ダメだ! 俺はデニムとカチュアに会いにいくんだからな! ……グスッ」
さっきから甲板の端で、ヴァイスがグズグズと泣きながら膝に顔を埋めている。どうやら、海賊たちと訓練を共にしてすっかり情が移ってしまったらしい。デネブさんにからかわれていじけている。
「残るなんて絶対にダメカボ。ヴァイスにはお助け料金をきっちり耳を揃えて払ってもらうカボ。食い逃げなんて許さないカボよ!」
「だから、食い逃げって一体なんの事なんだよ!」
「ヒ、ヒドいカボ……。カボの事を食べたくせにッ! あれは遊びだったカボ!?」
「あら〜。ダメよ、ヴァ〜ちゃん。男の子なら、きちんと責任はとらないとね♥」
「ひ、人聞きの悪い言い方はやめろォッ!」
カボちゃんまで加わって主従でヴァイスをからかっている。いや、からかっているように見えて、励ましているのだろう、多分。しかし、ヴァイスにそんな趣味があったとは意外だったな……。
三人の漫才を眺めていると、船室から出てきたラヴィニスがこちらへと近づいてくる。ショートカットの銀髪がさらさらと潮風に流されている。ロングも好きだったけど、ショートもやっぱりかわいい。
「ベル殿、この後は予定通りクリザローへ向かうのでしょうか?」
「そうだな。船の行き先を変えてもらうわけにもいくまい」
もともとクリザローへ向かう予定だったのに嵐に巻き込まれたのだ。ラヴィニスはひとつ頷くと、上目遣いで問いを重ねてくる。
「……その先の予定は……?」
「なにせデニム達の居場所がわからないからな……。恐らくアルモリカ周辺にいるとは思うが、姿を隠しているだろうから会うのは難しいだろう」
「やはり、そうですよね……。どうしてデニム達は襲撃を知る事ができたのでしょうか……」
「わからん。仮説を立てるとするなら、俺たちの存在によって歴史に変化が生じてしまったという事なのだろうが……。そもそも、この世界が俺たちの知るものと全く同じ歴史を辿っているという保証もないしな」
「……厄介ですね。知っているからこそ、かえって足元をすくわれそうです」
暗い表情を浮かべるラヴィニスから視線を外し、波の穏やかな海に目を向ける。日の光が海面に乱反射して少しまぶしい。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
「……ベル殿、この先の予定について提案があるのですが」
「ほう。聞こう」
再びラヴィニスへ視線を戻すと、彼女は決意を感じさせる表情で俺を見据えている。
「私がデニムに勧誘されて解放軍へと出戻るまでに行なった事なのですが……」
「というと?」
「バルバトス枢機卿の元からコリタニ公を救い出すのはいかがでしょうか。それによって、枢機卿の大義名分を奪ってしまうのです」
バルバトスが中心となって建国したガルガスタン王国ではあるが、実のところその国王の座には彼自身ではなく幼いコリタニ公が就いている。バルバトスはそれを補佐するという名目で摂政となり、国を実質的に動かしているのだ。
どうしてそんなややこしい事をしているのかといえば、やはり民衆の支持を得るためなのだろう。コリタニ公はもともとコリタニ地方の領主だったオルランドゥ伯の末裔で、知名度も権威も十分というわけだ。
逆に言えば、コリタニ公がいなければバルバトスの支持率は大幅に下がってしまうだろう。民主主義ではないからといってその影響を無視する事はできない。なにせ、ヤツの手足となる兵士達も民衆の一部なのだから。
「私が救出した時にはすでにガルガスタンと解放軍との戦争が佳境に入っていたため、戦争の行方に影響はありませんでした。それでも、コリタニ城陥落後にガルガスタン軍の多くが抵抗せず降伏したのは、コリタニ公救出の影響が少なくないと思っています」
「ふむ……。今この時期にコリタニ公を救出してしまえば……」
「間違いなく、バルバトス枢機卿は本格的な開戦を躊躇するかと。戦争後期のように、ガルガスタン国内が大きく二分する可能性もあります」
確かに、足元が覚束ない状態で戦争なんてやってられないだろう。
「なるほど。悪くはない……が……」
俺は少し言葉を濁しながら、ラヴィニスをじっと見つめる。
「……それをすれば、俺たちの知る歴史からは確実に乖離する事になるだろうな」
「……はい」
しっかりと頷くラヴィニス。どうやら彼女に躊躇はないらしい。
俺はどうなのだろう。これから何が起こるのか、知っていれば悲劇を防ぐ事もできる。でもそれは逆に、新たな悲劇を生み出す可能性もあるだろう。もはやデニムのたどる道筋が不明瞭である以上、デニムの身にイレギュラーが起こらないとも限らないのだ。
それならば、いっそ……か。
船が作る波の軌跡を眺めながら、俺は無言で頷いた。変化を恐れていたら、何もできなくなってしまう。こうして俺たちが何かするたびに、物語にもどんどんと波が立っていくのだから。
--------------------
結論から言えば、僕の『提案』は熱気を持って受け入れられた。
ただ、もちろん満場一致というわけではない。ヴァレリア解放戦線の内部には様々な派閥があり、別の思惑を持って参加している人たちもいるのだ。中にはブランタとの政争に敗れてハイムを追放された人がいたり、外部勢力であるローディスに対する危機感から参加する人もいたりと多種多様だ。
「とりあえず、うまくいって良かったね」
「デニムったら。もし受け入れられなかったら、どうするつもりだったの?」
「最悪、賛同してくれる人たちだけに協力をお願いするつもりだったよ。なにもヴァレリア解放戦線の全員の協力が必要というわけじゃないんだから」
「……なんだか最近デニムが悪い子になってしまったみたいで、姉さんは悲しいわ」
「あはは……。色々あったからね。こういう事も覚えなきゃいけなかったんだ……」
兵士達を鼓舞するための演説は何度も経験している。そして新生ヴァレリア王国の玉座に就いた時、貴族達や有力者達との折衝も必要だった。王様だからって何でも好き勝手にできるわけではない。おかげで、すっかり腹芸のような事も覚えてしまった。
「すまないな、デニム。本来は私の役目なのだろうが……」
「いいんだ、父さん。僕の提案なんだから、きちんと僕が説明しないとね」
長年ゴリアテで神父をしていた父さんがやると、演説というよりも説教になってしまうかも。それはもちろん冗談だけど、あまり父さんを矢面に立たせたくないという気持ちがあるのは確かだ。それは恐らく、父さんの死を見てしまっているからだと思う。
少し空気が重くなったところで、僕達に与えられた居室のドアがノックされる。僕達は顔を見合わせて、返事を返した。木製のドアがギシリと音を立てて開かれると、そこには白髪の人物が立っている。
「……あなたは……」
「家族で
「ええ、どうぞ」
白髪の人物、ハボリムさんはドアを閉じて中に入る。盲目にも関わらず、まるで見えているような振る舞いだった。椅子を勧めると、彼は礼を言って綺麗な所作で腰掛ける。
「私はハボリムと申す者。故あって名乗るべき家名はないが、許してほしい」
「ええ……。その、失礼ですけれど、その目は……?」
姉さんが控えめに尋ねると、ハボリムさんはゆっくりと頷く。
「ああ。お察しの通り、両目とも盲目だ。不便ではあるが、もうすっかり慣れてしまった」
「そうですか……。それで、ご用件の方は?」
「……デニムくん、といったかな。君の提案は実に興味深いものだった。だが、あの提案の実現にあたって気になる点がいくつかある。それを聞かせてもらいたくてね」
「ええ。何でもお聞きください」
大体の見当はつくが、ここにいる僕はまだハボリムさんの事を詳しくは知らない。
ハボリムさんはこちらに顔を向けてくる。見えていないはずなのに、まるで射抜かれているようなプレッシャーを感じる。この人は一見すると華奢な男性だが、東方のジパングから伝わる刀という武器を扱う達人なのだ。うっかりすれば、一刀でバサリと切られそうな鋭さがあった。
「暗黒騎士団……君はその存在を知っているはずだね? だが、君の提案の中にはかの騎士団に対する処遇については触れていなかった。君は奴らをどうするつもりなのかな?」
「僕達の最終的な目的は、民族融和によるヴァレリアの平和的な統一。それはつまり、ローディス教国からの干渉を跳ね除けるためでもあります。当然、彼らは僕達の動きを妨害してくるでしょうね」
「……つまり、暗黒騎士団とは対立すると?」
「はい。ですが、場合によっては一時的に手を結ぶ事もありえるでしょう。ガルガスタンの強大な力に対抗するために、戦力は多い方がいいのですから」
僕の言葉に、ハボリムさんは渋い表情となる。彼は暗黒騎士団となにがしかの因縁がある。当然、そんな相手と一時的にでも手を結ぶなど面白くないのだろう。
「……奴らはそんな生易しい相手ではないぞ、デニムくん。利用価値がなくなれば相手を切り捨てる事もためらわない、冷酷で非道な奴らなのだからな」
「……それは十分に承知しています。なにせ本来であれば、僕達の故郷は暗黒騎士団によって襲撃されるはずだったんですから」
「なに……!?」
ハボリムさんの表情が大きく動いた。話すつもりはなかったが、僕にとって彼もまた大事な仲間の一人だったのだ。付き合いはそう長くはなかったが、信頼できる相手である事もわかっている。
「長い話になりますが……よろしいですか?」
「……ああ。ぜひ聞かせてくれ。私の直感が聞くべきだと言っている」
彼らしい言い回しにクスリと笑いながら、僕達は顔を見合わせて頷きあった。
どうやら、今日は夜更かしする事になりそうだ。
予定よりもだいぶ長くなってしまいましたが、オミシュ編は終わりです。
最後が少し足早になってしまいましたが……ペース配分について反省しきりであります。
デニムくんたちはハボリムさんとナイショのお話……。
ベルさん達も何やら企んでいるようですね。各陣営の思惑が入り乱れてまさにカオスルート。
なおアゼルスタン爺さんは残留。今後の活躍にご期待ください。