サクラは最初に、カカシから任務の概要を聞いたとき、疑問がなかったといえばウソになる。
護衛任務を受けるには自分たちはまださほど経験を積んでいたわけではなかったから。
しかし、こうも思ったのだ。これはチャンスだ、と。
サクラはあの日、第三演習場での訓練以降、猛烈に修行に励んだ。朝早くに起きてまずは運動をして、任務前まで勉強。任務を終えたら復習を行い、寝る前まで勉強。忍術の理論書や戦術論の本、体術の指南書とありとあらゆる知識を吸収しようとした。チャクラを練る訓練も毎晩行った。
ナルトに追いつくために。
そして積み重ねた分だけ自信もついた。前の自分とは明らかに違うと感じるほどに成長できた。
だからこそ、これはチャンスなのだ。
ちょっと難度の高いCランクの任務。おあつらえ向きじゃないか。なによりナルトの前で動揺している姿を見せたくない。
あの演習でサクラは、『負けた』と思った。何がどうというのは自分でもハッキリ言葉にできないが、あのとき確かにそう思った。
うずまきナルトに、春野サクラは負けた。
誰かに負けたと感じたときそれを払拭する方法はただ一つ。
即ちリベンジだ。
サクラは負けるのが嫌いだった。
負けたままで居続けるのはもっと嫌いだった。
―――実力を証明しなくちゃいけない。
そう意気込んでいた。
だというのに。
ナルトが蹴り飛ばされたとき、サクラの体はまったく動かなかった。水面に叩き付けられるナルトを呆然と見ていただけだった。その前に再不斬に威圧されただけで、サクラのか細い戦意は簡単にかき消されてしまっていた。
白い仮面の忍。見た目はまだ自分たちよりも少し上くらいの子供だ。
信じられなかった。あのナルトがこんな簡単にやられてしまうことが。
応戦するサスケを見ながら、サクラは辛うじてタズナを背後に庇った。ここを放棄すれば、もはや忍ではない。だが、さほど意味のある行動とはとても思えなかった。
分が悪い。明らかにサスケが押されている。狭い足場、揺れる船体、慣れない船上での格闘戦はサスケの動きを鈍らせていた。しかし相手はまったくこの戦場を苦にしていないように見える。まるで地上で戦っているかのように動作が淀みない。
助けを期待してカカシを見る。
船を庇いながら再不斬と斬り合っている姿が霧の向こうにあった。だがこちらにまで手を回す余裕があるようには見えない。
どうしようもない現実が目の前にあった。
ああ、これがそうなのか。
サクラはようやく理解した。
これが忍の戦いなのだ。
命と命のやり取り。実戦。言葉では理解していたつもりのこと。しかしまったく覚悟できていなかったこと。
苦痛を押し殺した声と、座り込む音。
サスケが、足を押さえながらうずくまっている。そこには鈍く光る千本が突き刺さっていた。すぐに引き抜いていたが、足に力が入らないようだった。恐らく秘孔を突かれたのだろう。
思わず悲鳴を上げた。
サスケはクナイを握りしめながら、戦意を保っている。
だが、勝負はもうついた。アカデミーでならそろそろ先生が終わりを告げているだろう。
だけど、これは実戦。
終わりとは即ち、死。
サクラは思わず、縋るように呟いた。
―――ナルト。
水柱が吹き上がり、何かが飛び出して来た。水中から弾丸のように飛び出してきたそれを、白は冷静に躱した。
見覚えのある物体。
―――これ、部下の人ですね。
確か、鬼兄弟といったか。それが後方に着水するのを視線で追い、前に戻す。死んだのだろうか。それがわずかに気にかかった。無駄な雑念。
あと一歩だったのだが。黒髪の少年の秘孔を千本(針のような忍具)で突き無力化し、震える無力な少女を無視し、標的に狙いをつけ、そして始末する。
金髪の長い髪の少女。頬を血で赤く濡らしていた。その瞳には強い意志が燃え盛る炎のように、強く熱い信念となって宿っている。そう感じた。
美しい。そう思った。
最初から標的以外は殺すつもりはなかった。ただ戻ってくる時間を稼げればいいと考えていた。顔を蹴ったのは少し腹が立ったからで、再不斬の顔を蹴ったことへの意趣返しのつもりだったが、仕事として手を抜いたわけではない。
―――予想以上に早い。
一瞬、小舟に倒れた黒髪の少年に視線を移したかと思うと、彼女の濡れた金色の髪が、ザワリと持ち上がって蠢いた。それはまるで獣が毛を逆立てる姿のようだった。
「…………」
潤んだ青い瞳は怒りで輝いて見える。
白は手順を立て直した。難度が高いが、彼女を無力化しなくてはいけなくなってしまった。
千本を構える。彼我の距離は二十歩ほどで、この少女なら一歩で埋められるだろう。
油断なく、視線の先の少女を見据える。
水面が爆発した。そして次の瞬間には目の前に近づいている。拳をもうほとんど振り抜く瞬間の姿。
油断はなかったが、白の意識はその速さについてこなかった。辛うじてこちらも水面を蹴って真横に跳びすさる。なんて速さだ。白は感嘆した。速さだけならこの少女は上忍に近い領域にいる。水面が爆ぜる前動作が見えなければ、瞬間移動だと思うかもしれない。また水が爆発し、拳が目の前に迫る。何も考える間もなく首だけで避ける。ギリギリの回避。体を離しつつ、千本を数本、放る。
避けられた。でも、速度は先ほどに比べれば遅い。これは普通の速さ。
続けて何度も千本を投擲する。転がるように回避する少女。水面の爆発。
跳び上がって避ける。その体勢のまま、また千本を投げる。
あらぬ方角から剣戟の音が聞こえる。再不斬とカカシが打ち合う音だろう。
そちらに意識が持っていかれそうになる。あの男は強い。場合によっては再不斬が負ける可能性のある相手だ。
―――否、僕は道具だ。道具は命令を果たすだけ………。
意識を逸らしたわけではなかったが、白が水面に着地するよりも早くナルトが飛んでいた。拳を避けきれずに腕で受ける。重い感触が響く。速い。この少女も強い。自分よりも年下の子でここまでの強者は、白の記憶には存在しなかった。
相手の腕を掴み、咄嗟に片腕で印を切る。組んだのは水遁の印。少女の目が見開かれ、腕を振りほどかれた。だが、反応は不可能のハズだ。水面が一瞬で巨大な壁となり、少女を包み込むように衝突。
水がぶつかり合って破裂する音が響く。
白はその音で理解した。―――外した。だが、少女はどこへ行った。
上だ。真上から拳が降ってくる。暗転する視界、転げるように水面を抉っていく。
―――強い。
片手印を初見で見切られることは多くない。大抵の忍は虚を突かれて動きが鈍るものだ。
強い。思っていたよりも更に。体勢を立て直して勢いを殺しつつ水の上に膝立ちする。
「はぁ、はぁ、はぁ………」
さきほどの黒髪の少年は海上戦に慣れていないようだったが、こちらの少女はどうやら戦い方を知っているようだ。
正当な怒りを拳に乗せるようにして一撃、一撃を、白に叩きつけてくる。
真っすぐな綺麗な目だ。穢れを知らない、無垢な瞳。
ちくり、と胸を刺すものがあった。自分とはまるで違う、対照的な姿。
近くで見ていて、白は少し気が付いたことがあった。この少女の瞳は確かに怒りに燃えているが、それだけではない。
その光に、白は興味を惹かれた。
だが、考察している余裕はなかった。
霧に紛れようと真後ろに連続で飛ぶ。しかし、引き剥がせない。
加速の勢いが乗った拳が突き刺さり、水面が大きく爆ぜた。
「くっ…………!」
体術の応酬。海の上での戦闘には些かの自信があったが、その自信も僅かに揺らぐ。少女の速さに対応しきれず、拳を身に受ける。防御は間に合ってはいるが芯に響く重さがある。腕が痺れる。喰らい続けるのはまずい。
距離を離すのはもっと悪手だった。あの『瞬身の術』に、白は対応できない。もし自在にあの術を扱えるのなら勝負にもならなかっただろうが、幸い完全には使いこなしていないようだ。
水遁を織り交ぜつつ、千本、体術、防御、攻撃、回避、目まぐるしく戦闘が推移していく。白は再び感嘆した。一見互角に見える勝負だったが、違いがあった。少女は白の攻撃をほとんど躱しているが、白は相手の攻撃を避けきれず防御で対処している。クナイの方はなんとか回避しているが、その分、打撃はそうもいかなかった。
鈍い音が積み重なり、白は思わず呻いた。
姿を見せて近接戦を挑んだのは、白の傲慢だった。霧に隠れ、隙を窺う戦い方をすべきだった。
上段の蹴りを受け流せずにまともに受けて体が真横にズレた。その勢いに乗って愚策と知りながらも距離を取る。
荒く息を吐く。
痺れる腕を抱えながら、白はやはり、少女の目に不思議な色を見た。
悲しみ? それとも恐れを隠している?
いやそうではない。この目にはどこか覚えがあった。だが、それは思い出すのも難しいほどの遠い記憶から響くものだ。
ぼろぼろになりながら、なんとも不思議と、苦しいだけではない気がした。
距離が開いたことで戦闘の流れが一旦、途切れた。
「……キミは強いですね。確か、うずまきナルト君、でしたっけ?」
白は思わず話しかけていた。
「ああ、そうだ。木の葉の下忍うずまきナルトだってばよ」
音程の高い少女特有の声。下忍とは思わなかったので意外に感じながら言葉を続ける。
「僕は白と言います。元霧の忍です」
「ああ、そうみてーだな」
「ナルト君、標的の方をこちらに渡してくれませんか」
「…………駄目だ」
「でしょうね。でも、このままやれば死ぬのはキミですよ」
ブラフと思われただろうか。真っすぐ射貫くような視線が白を捉えている。
「なんか、おかしな話だな」
「そうでしょうか?」
「ああ、だってよ、殺せるなら殺せばいい。警告する必要なんてない」
「…………」
「まるで、本当は殺したくないって風に聞こえるってばよ」
殺したいと思ったことはない。しかし、そんなことを言う必要もない。
「…………無駄な労力を避けたかったんですよ。これをやれば酷く疲れる」
これは嘘ではない。この術はチャクラの消費が激しく、気軽に使いたい代物ではない。
だが、他の手段もなさそうだった。
「駄目だ。依頼人は渡せねえ」
「残念です」
「オレも残念だ。お前ともう少し話がしたかった。でも、そんな時間はねーな」
白は虚を突かれた。一瞬の静止。それはあるいは隙と呼べるものだったかもしれない。
この少女は嘘を言っていない。真っすぐすぎる視線でそれがわかる。殺し合いをしている相手に本気でこんなことを言うとは。
綺麗な子だな、と白は思った。
―――どうしてだろう?
白は自問した。
印を組む。これは一瞬あればいい。
―――この子のこと、嫌いになれそうだ。
――秘術 魔鏡氷晶――
「強いな、白と互角以上とは」
振るわれる刀を受け止めた状態で静止。すさまじい膂力に足が水面に僅かに沈む。視線だけ動かして隣の戦場の様子を探る。目の前で再不斬が目を細めた。
「だが、白には勝てねえ。あいつは特別だからな」
無数の氷がナルトと白を覆い尽くしていくのが、遠目に見えた。中は見通せず、どうなっているかはもはやわからない。
「なるほど、氷遁、血継限界か……!」
焦りが内心に浮かび上がる。だが、決着はまだ付きそうにない。ナルトに任せるしかなかった。
「くくく、諦めな。お前の相手はオレだ」
「……ああそのようだッ」
丹田に力を篭め、刀をかち上げる。再不斬はそれに逆らわず距離を取った。
「だが、一つ言わせてもらおう」
クナイを構える。
「そっちの子と同じようにうちのナルトも、少々『特別』だ」