それはほとんど一瞬の出来事だった。
長方形の氷の鏡がいくつも現れて半球状に一面を囲っていく。揺れる水面が波紋を広げるように瞬く間に硬く冷たい氷面の床へと変貌する。急速に冷やされた霧が氷霧となって昇華していく。ナルトの頬の血が、体に付いた水滴が、音を立てて氷に変わる。
これは白の対人用の奥の手の一つだった。
――完成。
ナルトは周囲を見渡している。少なくとも見た目は冷静さを欠いていない。
逃げ場を探しているのだろうか。でも、それは無駄なことだ。これは云わば氷の結界。開いているように見える鏡体の隙間からも、逃げることはできない。
先ほどまでは、ここはナルトの領域だった。
「これで、僕の領域だ」
白は告げる。体は既に『鏡の中』に入っている。
白はナルトと闘って一つわかったことがあった。彼女の『瞬身の術』は強力だ。しかし、対策はあった。推測ではあるが、ナルトはあの術を使いこなせていない。あの術の速度は忍の動体視力の限界を超えている。ある程度開いた距離でしか使ってこないのがその証拠。それ以上近くで使えば、本人ですら意識が追いつけないからだろう。
つまり、この術のように空間を区切ってしまえば、あの速さで動くのを封じることができる可能性が高い。
だが、それだけであのような大言を吐いたわけではなかった。
無数の鏡が半球状の球体を成すこの空間内の支配者は、紛れもなく自分自身であるとの自負から出た言葉だった。
そして奇しくもこの術の真骨頂もまた、―――速度だ。
「―――ッ!!」
瞬間、ナルトの体が跳ねた。その真横を白は通り過ぎて行った。
躱された。攻撃は腕に軽く掠らせただけ。
白は今日何度目かの感嘆をした。
「……凄いですね、これも初見で躱せるんですか?」
白の一撃は単純だった。ただ通り過ぎながら斬りつけるだけ。ただそれだけの攻撃。ただ一点違うのはその速さが先ほどまでの比ではなかったこと。まさに一瞬の光と呼べる速度。
鏡の反射を利用した鏡から鏡への高速移動。それがこの術の正体だ。その速度はナルトの『瞬身の術』にも劣らない。しかも白は完全に自分の動きを制御できる。
それをこの少女はギリギリのところで察知して躱したのだ。まるで白がこうするのを知っていたかのようなまったくロスのない動き。
この状態を見て推察したのだろうか。だとしたらやはりとんでもない少女だ。
戦いを長引かせるのは不味いかもしれない。この少女に時間を与えてしまうと、何をしてくるかわからない。今流れが優勢の内に勝負を決するべきだろう。
白の決断は早かった。
「ですが、これを避け続けるのは不可能でしょう」
白は十数体に分身し、それぞれが鏡の中へ。
「行きます」
降参してくれ、とはもう言わなかった。
―――強すぎるってばよお!!
ナルトは内心で叫んだ。
超高速で動き回る白に対してナルトは無我夢中でこの空間内を無軌道に飛び跳ね続けていた。チャクラに触れる微細な変化。それを感じ取ってほとんど反射だけで動くのを繰り返す。猿飛の術の修行を応用した行動だった。白の動きそのものはまったく見えておらず、直感頼りの回避だが対応はできている。体はどんどん切り傷だらけになっていくが、さほどダメージはない。……痛いけども。
あの修業の経験がなければ、もうすでに屍を晒していただろう。さきほどの悪態も忘れてナルトは三代目とミザルに感謝の念を送っておく。
だが、ジリ貧でもあった。
本気の白がまさかこれほど強いとは。もちろん強いことは知っていたが自分自身の想定の甘さがあまりに大きい。
前回は相当手加減してくれていたのだろう。今になって戦いの中に含まれた多大な気遣いを察せずにはいられなかった。
―――ちょっと調子に乗ってたってばよ。
海上の肉弾戦での手応えで少し思い上がった自分を戒める。やはり、今はまだ自分は格下だ。
今だって、もしナルトが白の動きをまったく捉えていないと知られれば、勝負はあっという間もなく付くだろう。そうなっていないのは恐らく白がナルトを過大評価しているから。その評価が妄想であると気付かれるまでの短い猶予で、どうにかしてこの状況を打破しなくてはいけない。
鏡に映った白たちが一斉に千本を投げつける。
本体は一人のはずだがまったく見極められない。跳び上がって回避。
―――方法は、ある。
けれど、できれば今回使いたくはなかった。氷の鏡を蹴って次の攻撃を回避する。ナルトは白と二回、闘うことを想定していた。いまさら本来の話をしても仕方ないが、できれば二度目の時にこれを使いたかった。
なぜならこれがナルトの底の底だからだ。
これを見せてしまえばもうナルトの全力を全て余すことなく見せてしまったことになる。これ以上はない。
とはいえここで負けてしまったら温存することになんの意味もなくなってしまう。使うしかないのだ。
覚悟を決める。
猿飛の術の第三段階は自分以外のチャクラを感じること。これをナルトはできなかった。だから未だナルトの使っている術は完全ではなく、正確には猿飛の術とはいえない。が、しかし、ナルトはどうにかして今の段階で猿飛の術を使えないか考えた。
そして一つ思いついた。
第二段階の、自分のチャクラで周囲を認識すること、これはできる。チャクラを体に纏わせてその周囲を認識する、ここまでは習得している。
それなら自分のチャクラをさらに大きく放出して辺りを全て埋め尽くせばいい、と。もちろんそんなことすればチャクラを集約することができなくなるので、そもそも瞬身の術すら使えなくなるのだが。
螺旋丸と似たような悩みだ。一人で右を見ながら左を見ることはできない。放出と集約は同時にはできない。
まあそれなら、解決する方法も簡単だ。
―――なにかしてくる。
白は悟った。空気が変わったのを感じたのだ。
見たことのない十字の印。チャクラを練るよりも早くに攻撃を仕掛けるが、また躱される。
音を立ててナルトは三人に変わった。
分身系の術か。白は理解した。しかしだからどうだというのだろう。多少人数を増やしたところでこの術は破れない。チャクラの消費をしてくれて、むしろありがたいことだ。
相手の意図が読めず、白は攻撃を止めて警戒する。あるいはそれが相手の狙いなのか。三人の分裂したナルト、その一体が、結界の中央に目を閉じて座り、印を組んだ。
―――なにをする気だ?
白はその考えを即座に振り切った。何かをする前に、倒す。そうするべきだ。千本を構え、突撃をしかける。と、ほぼ同時に白は大きな風に衝突した。体勢を崩し、驚き、そして理解。ぶつかったのは風ではなく、チャクラだ。結界内にチャクラが溢れている。
白は体勢を立て直し、状況を把握した。ナルトの恐らく分身の方がチャクラを放出して、結界を埋め尽くしている。だが、それにどんな意味があるというのか。チャクラに物理的な力はほとんどない。これほど広く薄く発してしまえば、なおさらだ。
白は再び突撃。今度は止まらない。
見えるはずのない速度で接近。その手に持った千本を振るい、―――掴まれた。
目の前には目を瞑ったナルト。
口元には笑み。
「……これで、オレの領域だ」
止められた。不味い。どうやって止めたのか、そんなことを考える暇はない。高速で移動するには鏡の中に入る必要がある。ここで止まってしまったら一旦鏡に戻らなくてはならない。
咄嗟に掴まれた千本から手を離し、反対の手で座っている方のナルトに千本を投げつける。
「おっと」
防がれるが、時間は稼いだ。再び鏡の中へ。危なかった。しかしどうやって対応してきた? なぜ目を閉じている?
高速の回転音に意識を戻される。
二人のナルトがなにかしていた。
青白い光の球体。それが掌の中で圧縮されていくのが見える。なんだあれは? 疑問は留まらない。だが、直感だけでもわかることはある。あれを喰らったら、死ぬ。ぞっ、と這寄ってくる死の気配に背筋が泡立つ。
できうることならここから出て、ナルトに攻撃を仕掛けたい。だが、それは恐ろしくハイリスクな気がした。
見えていないはずのナルトが、こちらを向いた。
「―――いくぜ、白」
白は素早く鏡から飛び出していた。別の鏡に高速で移動する。
黄色い閃光がそれを遮った。
「なっ!?」
顔を蹴り上げられ、後ろへ転がる。仮面が砕ける感触が頬に当たった。転がりながら背後の鏡に逃げる。ナルトは相変わらず目を閉じた姿。
再不斬のように耳だけでこちらの動きを読んでいるのか。それにしては反応が鋭すぎる。
そしてあの速さ。あれは『瞬身の術』だ。しかもさっきまでとはまるで違う、完璧に制御された動き。
ナルトの姿が掻き消える。白は即座に隣の鏡に飛んだ。僅かな間もなく、ナルトの足が白の一瞬前にいた鏡にぶち当たった。鏡が罅割れる。視線が交差する。目を閉じているのに、ハッキリとこちらを見ているのがわかった。
白は次々に鏡に逃げ飛んでいく。それを正確に追従してくるナルト。
この速度の領域で、完璧に相手の位置を把握して距離を詰めてくる。
白とナルトの速度は互角。だがジリジリと彼我の距離は短くなっていった。
ナルトの術の衝撃に耐えきれず、直る時間もなく全ての鏡に亀裂が広がっていく。
外目からは氷のドームの中で二つの光が瞬いているようにしか見えなかっただろう。だが中の二人は勝負の優劣が決まりつつあるのをハッキリと感じていた。
―――追いつかれる!!
鏡に逃げ込んだ白は咄嗟にチャクラを集中して防御の構えを取る。そこにナルトの恐るべき力を込められた球がぶつかった。
氷晶の壁が崩壊していく。そこには力なく落下する黒髪の少年と、傷だらけだが無事の様子なナルト。
その二人の明暗が、同時にカカシと再不斬の動揺の差を生み出した。
「馬鹿な」
再不斬は呻いた。その隙をカカシは逃さなかった。再不斬に向かってクナイをねじ込む。首を狙ったが、腕で辛うじて受けられた。だが、これで右腕を封じた。
空いた胴体を力を込めて蹴り飛ばす。
内臓に深く響いた感触。追撃をかけるか一瞬の判断だったが、迷わずサスケたちのところに戻る。再不斬を殺すことが任務ではない。それに船を囲っていた影が、離れていくのも見えた。
「今がチャンスです、脱出しますよ」
「あ、ああ。わかった! しかし漕ぎ手がみんな……」
「この船の使い方はわかりますか?」
「一応は波の国育ちじゃ、大体はわかるが」
「では、すみませんがお任せします」
備え付けられたエンジンのリコイルスターターのワイヤーをぎこちない動作で引いているタズナを横目に、サスケとサクラの様子を見る。
サスケは千本の跡があること以外はさほど傷はなかった。重要器官にはいずれも深刻な怪我をした様子もない。
サクラは、見た目は無事だ。だが、精神的なダメージは深そうだ。初の里外任務がこれでは、無理もない。
「とにかく、二人とも生きていてよかった」
カカシは敢えてそう言い切った。
「すまない。オレのミスだ」
「カカシ先生ぇ……」
サクラは涙を流した。よほどの恐怖だったのだろう。全身が青白く冷え切っていた。
「サスケもサクラもよく頑張ったな。いい動きだった」
エンジンの駆動音が響いた。
「う、動いたぞ!」
「―――よし、ともかく今は生きてここを脱出しよう。思うことはあるだろうが、まずはそれだ、いいな」
「……うん」
船の振動が強くなっていく。
そして、未だ感じる殺気にカカシは振り返る。
腕から血を流している再不斬が、少し離れた水面に立っている。
その漲る戦意はまったく揺らいではいない。だが、動く気配はなかった。
「わかったぞ、あの娘の正体が。……金髪に、瞬身の術、そしてあの術」
「…………」
「木の葉の『黄色い閃光』の忘れ形見、まさか本当に存在していたとはな。なるほどそりゃあ『特別』だ」
「………黄色い閃光……?」
サクラが小さく溢した。カカシはなにも答えなかった。
そして船は動き出す。加速を付けて大きく水面を波しぶきで叩く。
最後まで視線は外さなかったが、再不斬は追ってこなかった。
「ナルト! 乗れ!」
進行方向に立っていたナルトに呼びかける。
「―――おう!」
軽い感じに返事が返ってくる。
船が横切ると同時に、全身傷だらけのナルトが船に飛び乗った。そのまま、船は危険な領域から離れていく。殺気は遠ざかり、危機は一旦は終わりつつあった。
再不斬がこれで終わるとも思えないが、すぐに戦闘再開はない。伏兵も十中八九ないはずだ。あれが斥候だったなどという恐ろしい事実がなければ、だが。
ナルトは後ろを振り返っている。
その横顔を見た。見た目に反してさほど大きな怪我はないようだ。
―――アレは、『螺旋丸』だ。そしてさらにもう一つ………。
この少女はやはりとんでもないものを隠し持っていた。それも予想以上の。
だが、恐らくこれが底ではあるまい。
―――黄色い閃光の忘れ形見、か。
再不斬の言葉がカカシの頭を過った。