その日の夜、ナルトは修行を切り上げ帰ってきたカカシたちを出迎えた。
驚いたことにサクラは全身がびっしょりと濡れ、疲労困憊の様子で今にも倒れそうによろめきながら家に入ってきた。肩にかけた大きめのタオルもすでに水浸しになっていてあまり役立っている様子はない。
ふらつきながらナルトの横を通り過ぎる。ナルトがいることにすら、もしかしたら気が付いていないかもしれない。
「サクラ、寝る前に風呂には入っとけよ」
カカシが声を掛ける。
「………」
サクラからの返事はなかった。
ナルトは困惑しながらサクラの消えた扉を指差した。
「サクラちゃんどしたの?」
「ああ、今日は流石にグロッキーだな。木登りの修行は終わったんだがその次の修行に手間取ったからな」
「次ってまさか、水面歩行の術のことか」
「ああ、まだ早いって言ったんだが」
それはナルトにとっても意外なことだった。
水面歩行の術はチャクラコントロールも必要だが、その上で要求されるスタミナが木登りの修業とは段違いに多い。体を浮かし続けるだけのチャクラを放出しつづけるのはそれだけでスタミナを大きく消耗させ、体への負担も大きい。かつてのスタミナお化けのナルトですら長時間維持するのは難しかった術だ。
いくらサクラがチャクラコントロールが上手かったとしても水面歩行の術は結局、絶えずチャクラを放出する技術の高度な形に過ぎない。扱うにあたってチャクラは最低限これだけは必要という目安が存在し、それを下回った場合は容赦なく水に沈む。
今のサクラのスタミナでこれを習得するのは、やや性急に思えた。
びしょ濡れだった理由については理解したが、わからないことが新たに増えた。
「反対するつもりはないけどさ、焦らずに木登りの修行でしっかりスタミナを鍛えた方がいい気がするんだけど」
サクラがあそこまで修行にのめり込む姿は初めて見た。これが良いことなのか悪いことなのかは、ナルトの中では判断が付きかねた。
「サクラが木登りの修行を一日で終えたことにはあまり驚かないんだな」
と、カカシはやや意外そうな顔。
「サクラちゃんはチャクラの扱いが上手いのは見てればわかるから」
と知ったようなことが自然と口から出た。
「そうか、よく見てるな」
カカシは何かが引っかかった様子もなく頷く。それを見ながらナルトはふと思った。
―――なんか自然に嘘つくようになったなぁ。
これはあんまりいい傾向ではないとナルトは内心で少し自省を感じた。嘘を吐くのはしょうがないのかもしれないが、あんまり気軽に使うようになってもいけない。
「お前の意見には賛成だが、本人がいたくやる気なんでな。それならやらせてみようとオレは思う」
「そっか」
「反対か?」
「だから反対するわけじゃないって。ただ、ちょっと急ぎすぎだと思っただけだってばよ」
前回のサクラは木登りの修行を一日もかけずに終えられて、それからはほとんど修行には参加していなかった。なにかしらの心境の変化があったに違いなかった。だが、悪い変化とは決めつけられない。
前のサクラなら嬉々としてサスケについていたはずだ。それを想定して落ち込んでいたのだが、なんだか拍子抜けした気分だった。
「あいつは早くお前に追いつきたいんじゃないかな」
「―――オレに?」
ナルトにとってそれは意外な言葉だ。
「昨日の戦闘で随分思うところがあったみたいだしな。ま、お前に負けたくないんだろう」
「んー? あー………」
―――そっか。なるほど。
ナルトは頷く。
「そうか、サクラちゃんはやっぱ努力家だなあ」
感心してナルトはそう言った。考えてみれば前回と違うことといえば一番大きいところはそこだ。恐らくサクラは任務を遂行するにあたって自身の能力をもっと強化する必要を強く感じたのだろう。サクラの責任感の強さを、ナルトはよく知っていた。
納得して頷く。
「お前な、サクラの前で絶対そういうこと言うなよ………」
そう言われて顔を上げると、カカシは溜息を吐きかねない呆れた様子。
意味がわからない。
「なんで?」
「うーん、いや、多分言っても意味ないんだけどね。とりあえずお前はサクラと仲良くしたいみたいだからオレからの忠告だ」
「わ、わかったってばよ」
頷く。会話の糸口になりそうな気がしていたので惜しかったが、無視して強行する気にはなれるはずもない。サクラとは最近すれ違ってばかりなことを思い、ナルトは肩を落とした。
「あれ、そういやサスケは?」
思い出して、カカシの背後をのぞき込んだが誰もいない。
「………………ああ、まだ修行中だ」
「結構もう暗いけど、大丈夫なのか?」
「ま、そのうち戻るだろう。心配しなくていい」
カカシは手短にそう言った。その態度は一見すると随分素っ気なく、ナルトは首を傾げた。
だが話を切り上げて椅子に座ってお茶を啜る背中は続きを話すつもりはなさそうだった。
言外にあまり触れてやるなと、そう拒絶しているように見えた。
サスケは今もまだ、一人で森の中で修行しているのだろうか。
「あっ………」
ナルトは察した。
『サスケだけまだ木登りの修行の段階』なのだ。
―――うわぁ。
同情を禁じえなかった。
そもそもサクラがサスケと別行動を選択するとはまったくもって想像すらしていなかったことだ。
修行は必要なのでこればっかりはしょうがない状況なのだが、考えが至らなかったのは確かだった。
班員で一番修業が遅れている状態なのはよくよく考えずともサスケなのだ。
つまり、本来のドベであったはずのナルトが一番上に移動したことによってできた順位の移動―――それが引き起こした誰にとっても哀しい悲劇だった。
想像するだに恐ろしいが、サスケの内心を理解するのは容易だ。
もしナルトが逆の立場だったら相当堪えていただろうし、ましてやサスケはそれに増してプライドがものすごく高い。間違ってもからかえそうにすらないだろう。
これに触れるのは止めておこうと、ナルトは男の情けを以てそう思った。
「そっか、了解」
「そっちはすぐに察するんだけどなぁ………」
「へ?」
「いやなんでも」
カカシは静かに茶を啜った。
その日の夕食後、ナルトはカカシに自分の考えについて語った。
考えといっても結局具体的なことはなにもない。ただ、ガトーの狙いがなにか別なモノなのではないだろうか、という推測だ。
夕食を片付けたテーブルには今はカカシとナルトしか座っていない。
結局サスケは戻ってこなかった。カカシの分身を置いているそうなので、流石に深夜ぐらいまでには戻ってくるだろうから、ナルトはあまり心配はしなかった。しないほうがいいとも思った。
「……ま、」
カカシは頭をかいた。
「そういうこと言い出す気もしていたけどね」
「まじか、流石カカシ先生」
「言いたいことはわかった。しかし問題がある。―――時間が全く足りてない。いくら小さな島国とはいえ数日の間に探せる広さじゃあないしな」
「えっと、それはまあオレの影分身を虱潰しにやればいけるかな~っと」
ナルトとしてはこれぐらいしかないという案だったが、カカシは首を振った。
「やれやれ、どうやらお前は諜報任務の経験がないようだな」
「あるわけないだろ」
何言ってんだ、と思わず突っ込む。
「そりゃ、………、ま、今はいいか。ナルト、影分身を大量に動かせば、当然、相手にもそれが伝わることになる」
「あ、そっか。敵にバレちゃいけないんだもんな」
「そうだ。できるかぎり静かに任務をこなす必要があるってこと」
「ん~~、そっか………」
名案どころか、大分無謀な考えであったようだった。
いい考えだと思ったのだが。
だが、無駄に時間を使うぐらいならば、初めからしない方がいいだろう。未練がましくナルトは唸りながら、方法を思案する。
もう少し情報を集める手段を取ってみるのもいいかもしれない。もしかしたら範囲を限定できる手がかりが見つかる可能性もある。
「ま、それの解決手段も実は持っているが」
ナルトが考え込んでいると、カカシが事も無げに告げた。
「マジで!?」
「ああ。ガトーが行っている漁業の制限や海上交通のルートの閉鎖は一見無秩序な規制に見えるが、島付近に限定して観察してみると、島のある一部の区域を人目から遠ざける形になっている」
「つまり………そこにガトーが本当に必要としているなにかがあるかもしれないってことか?」
「そういうこと」
「流石カカシ先生だってばよ!」
「明日辺りから本格的に探ってみることにしようと思う。ちょっとキナくさいものを感じるしな」
ナルトは頷いた。ナルトが言うまでもなくどうやらカカシ自身も情報を集めていたようだった。別に不思議はない。ナルトが付け焼刃で考えたことをカカシが想定していないと考える方が不自然だ。
後はカカシに任せていれば解決するだろう、とナルトは少し油断した。
「ナルト、お前もオレの仕事を手伝え」
「へ?」
「お前だけ修行ナシでは不公平だからな」
カカシは少し微笑んだ、ように見えた。
「これからオレが、諜報の基礎を叩きこんでやる」