波の国滞在から数日が過ぎた。
ここ数日の間、事態が急変するようなことは起こらず仮初ながらの平穏が訪れていた。
サクラやサスケは己の修行に集中し、その成果はナルトには定かではないが、やるべきことをこなしているようだった。
ナルトはその間、昼間はツナミとイナリの護衛を、夜はガトーの隠している何かを探りつつ諜報能力を鍛えている。気配の消し方、標的の追跡の仕方、標的の残した痕跡の分析、自分の痕跡の消し方、諜報というよりは隠密寄りの内容が多い気もするが、ナルトは言われるままにそれらを習得していった。
街中で情報を集める方法も、いくつか学んだ。
そうしていく中で、ナルトはこの国について理解を深めていった。
ナルトの目から見て、この国はやはり、どこかおかしかった。
主要な産業である漁業は制限されて人が街にあぶれて仕事を探しているのもそうだが、街の中でも周辺では、ガトーの手下の姿をほとんど見かけないのだ。もし仮に国を支配したならば、その支配を盤石にするために自分の配下を要所に配置するはずだ。だというのにガトーの手下を見かけないのは、普通ではない。
やはりガトーはこの街そのものには興味がないのだろう。
カカシが言っていた、『ガトーが意図的に隠している場所』は向かってみると人里から遠く離れたところに位置し、パッと見ではただの森があるようにしか見えない。その場所に入り、中心に近づくにつれガトーの手下の警備は厳重になり、たやすくは近づけないようになっていることを知る。どうやら推測は当たっていたようだ。ナルトは小さく達成感と感動を覚えたが、これから監視の網を攻略していく作業に入ることを考えると喜んでばかりもいられない。
楽観的にはなれないが、今のところは特に問題はなさそうだ。
釣り針を揺れる水面に垂らしながら、ナルトは大きく口を開けて欠伸を一つ。
「…………釣れねえなあ」
本日の釣果、ゼロ。
いちおう、昨日は一匹釣れたのだが。横を向くと、もくもくと海を眺めるイナリが目に入る。さらにその隣のバケツを見ると、そこには数匹の魚が泳いでいた。
それを半眼で眺める。
黙って前を向くイナリの顔もどことなく調子に乗っている顔をしている。ナルトは竿を強く握った。
―――まだまだ。勝負はまだ付いてねぇ。
今度はもう少し遠くまで釣り針を飛ばしてみよう。ナルトは戦法を変えることにした。
イナリの警護もこれで四日目だ。最初は後ろに控えて警戒していたナルトだったが、護衛対象から『気が散るから後ろに立つな』との言葉を賜り、どうしたものかと考えていたらタズナからお古の釣り道具を貸してもらえたので隣に座って釣りをしているわけであった。
最初はルアーで魚を釣ろうとしたのだが、どうもこれは難しい。というわけでイナリに釣り餌の捕まえ方を教えて貰い、その場で現地調達しつつ、ナルトはここ三日間は昼の間は釣りを満喫していた。
昼間は護衛、夜は諜報任務と休む時間はほとんどない。その上、ほぼ常に影分身をし続けてスタミナを消費して、相当疲労が溜まってきていたがナルトはそれを態度に表さない。
やはり前と比べてチャクラの絶対量が少ないという実感があった。スタミナを鍛えても前のように戻れるか、やや怪しい気がする。
これも課題だろうな、とナルトは思った。
「なんだ、まだ釣れてないんだ」
と、ナルトのバケツを覗きこんだイナリがワザとらしくそう言った。挑発するようなそれを、ナルトは正面から受け止めて笑い返す。
「見とけよ、これから釣りまくってやるってばよ。今日こそオレが勝つ」
「期待してるよナルト姉ちゃん」
まったくそう思っていないだろう口ぶりで、イナリは海に視線を戻した。
イナリとナルトの関係は少し曖昧だった。護衛と護衛対象者という感じもあるが、友達のようでもある。
前のときのように激しい対立はないが、その分どこかよそよそしいと感じるときもあった。
多分それはナルトが女の子だから、なのだろう。
―――女の子に弱っているところを見せたがる男はいない。
それがナルトの持論だった。そしてナルトは女の子としての踏み込み方がよくわかっていないし、それを利用しようとは思えない。
イナリにもできれば前のときのように成長して欲しいと思うが、その方法はナルトにはわからない。
わからないことだらけだ。人との触れ方など、ナルトには難しすぎた。
「お、引いてるよナルト姉ちゃん」
「む!?」
竿に手ごたえを感じ、ナルトは笑みを浮かべた。
「見ろイナリ! 勝負はこっからだってばよ!」
「いいから竿に集中する! しっかりリール持って!」
「う、うす、イナリ先生、こうですか?」
「違う! それじゃ張りすぎ!」
イナリにどやされながら、ナルトは慎重に魚を弱らせつつ、ゆっくりとリールを引いていく。最後は慣れた様子でイナリがタモで魚を手繰った。
「うおお、釣れた!」
「おー、おめでとう」
「なんか変な顔の魚だってばよ」
「カワハギの一種だね」
「へぇー、食べれんの?」
「捌くのがちょっとめんどくさいけど食べれるよ」
これをサスケたちに持って帰ってやれればなあ、とナルトは思った。それはできないのだが。どうもイナリは釣りをしていることを家族には話していないらしい。ツナミは母親としてイナリが危ない行為をしているのを知れば恐らく反対するだろうし、タズナも孫の無茶を喜ばないだろう。釣りの道具を貸してくれたことを考えると、タズナは察しているようだったが。
最初になぜ持って帰らないのかと聞いたときのイナリの「ボクの家は裕福だから」という自嘲混じりの言葉が耳に残っていた。
というわけで、この魚はもったいないことに釣りが終わったらリリースすることになるだろう。
ナルトは魚をバケツに入れると、再び釣り竿を握った。
イナリに追いつくにはまだ数匹必要だ。
体が震える。ただ立っているだけだというのに、すぐに息が荒くなる。体中から汗が吹き上がり、まともに前を向いているのも辛くなってくる。
堪えきれない。水面に手を突いて疲労に抵抗するが、それも長くは持たなかった。
「五分三十秒経過、十秒延びたな」
水に沈む直前でサクラの体はカカシの手によって支えられる。
「はあ、はあ、はあ……」
息が苦しい。吐きそうだ。サクラは喉からせり上がってくる朝食を必死になって抑える。
「すぐに座り込まない方がいい。キツイだろうが少し歩いておけ」
頷く。答える元気はなかった。二日目の修行で思いっきり吐いた経験で朝食を減らしておいたおかげでなんとか吐き戻す衝動は抑えられた。もっとも疲労で食欲もなかったが。
陸に上がると、その堅い感触に酷く有難味を覚えた。ふら付く体を抑えながら、少し歩いて息を整える。
修行を始めてからすでに数日が経っていた。
その修行によって得た成果は、遅々たるものだった。
五分。それがサクラが水面歩行を維持できる時間だった。初日は一分維持するのも難しかった。二日目でコツを掴んで何とか三分を超えてできるようになったが、その後のタイムは中々伸びなくなっていた。
死ぬ気になって五分と少し。それがサクラの限界だった。それもただ立っているだけでの話だ。
この状態で戦おうと思ったら維持できる時間はさらに短くなり、大体一分か二分程度だろう。つまり、今のままでは実戦でまるで使い物にならないということ。
サクラは歯噛みした。
思い出すのはもちろん、一人の少女のことだ。
―――ナルトはあんなにも軽やかに動いていたのに。
修行を始める前にカカシに言われたことを思い出す。
『あいつは少し特別すぎる』
それの否定は、もうできそうになかった。修行を始める前はまだ噛みつくだけの元気はあったが、それも現実に直面したときあまりに甘い想定だったことを突き付けられてしまっていた。
それでも修行を続けているのは、意地を覚えたからだ。
ナルトに対して最初に感じていた怒りは、もう残っていない。
ただ、ナルトに対してどうすればいいのか、どうしたいのか、サクラはわからなくなっていた。
だから、修行なのだ。
ナルトに対する感情は複雑だが、それでも素直に称賛したい気持ちは確かにある。しかしそれも今この惨めな気持ちに決着を付けてからの話だ。何一つ役に立たなかった自分。それを振り払いたかった。
「カカシ先生……」
「ん?」
息は少し戻ってきた。座り込んだ地面から視線は上げないまま、乾いて罅割れた唇を動かす。
「本当にまた、あの再不斬って忍は襲ってくるんですか?」
カカシは考える様子もなく頷いた。
「可能性は高い。もしそうならなかった場合でもガトーの雇った別の忍と闘うことになるだろう」
「………そうですか」
「なにか気になるか?」
「………………………いいえ」
首を振った。
黒髪の少年、そしてあの大剣使いの男、あの二人を、あの戦いを思い出すと恐怖が蘇る。だが、今だけはそれを忘れておく。
次は絶対に足手まといにはならない。
「修行を続けましょう、カカシ先生」
サクラは立ち上がって前を見据えた。