闇の中を一隻の船が進んでいく。小型船のその船には二人の男の姿があった。明かりを点けず、音も立てず、灯台からの光を遠目に警戒しながら進むその船は、姿形は普通の小型漁船であったが、見る者が見れば違和感を抱く不自然さがあった。まず、船がイヤに綺麗なままなこと。そしてなにより、吃水の位置が明らかに普通の船に比べて低い。加えて乗っている二人の男は若い男とやや年嵩の男なのだが、若い男の方は漁師にはありえない日本刀を、腰に誇示するようにぶら下げている。
その船はやがて切り立った崖を両端にした河口へ突き当たった。そのまま止まることなく川を遡るようにして北上していく。水を切るエンジンの音も静かな闇夜には少し響いたが、市街地から遠く離れたこの場所で聞く者はいるまい。川の途中に至ったところで、左右の崖から二つのライトが瞬いた。
船番所の見張りの合図だ。こちらも決まった合図を送る。それはここに来てから一度も変化したことのない『異常なし』の報告だ。船のライトを決まった回数だけ瞬かせる。
返事のライトが返され、それっきりまた闇が戻る。
「ふぁああ………」
温い風が船の後方へとゆっくり流れていく。仕事が大方片付いて気が緩んだのだろうか、男の一人が大きく口を開けて欠伸をした。
「まったく、退屈な仕事だ」
タバコに火を付けると、ぼやくようにして呟いた。
「おい、タバコ光ってるぞ」
操舵室の方から声が聞こえた。
「ここまで来たら誰もいやしねえよ。いいだろ一本ぐらい」
「……いいが、仕事の方はサボるなよ」
そう言うとあっさり男は引き下がった。
あまり仕事熱心という感じでもなさそうだった。
「わかってるよ」
舌打ちをしながらの返事。
「金払いはいいが、こりゃつまんねえ仕事だな」
小さく言って、タバコを海に投げ捨てる。
「ん?」
投げ捨てる寸前にその手をピタ、と止めた。
「………いや、気のせいか」
「どうした? なにかあったか」
「いや気のせいだ」
「なんの話だ」
「………後ろの方の崖になにか張り付いてるように見えただけだ。勘違いだよ」
「なに? どこだ?」
「だから勘違いだ。今見たら何もなかった」
「おい、大丈夫なんだろうな」
「だから見間違いだって言ってんだろ。第一、あんな断崖絶壁に人が登れるわけねえだろうが、猿じゃあるまいし」
そういうと、男は今度こそタバコを投げ捨てた。
ナルトは崖の上で手を揺らしながら息を吐いた。船の側面を掴んでくっついていたのだが、そのせいで随分と筋肉が張っていた。チャクラで吸着して補助もしていたが、まさかずっとそうしてるわけにもいかない。
体がずっしりと重い。それは疲れだけではなく、塩水を吸って重くなった服もそうだ。
取りあえずバックパックから替えの服を取り出して、今着ているものを脱ぐ。まさかびしょ濡れのまま潜入は出来まい。
「着替えたか?」
「押忍」
既に服を取り換え終えたカカシ、いつの間にかマスクも乾いたものに変わっている。しっかり見とけば良かったと少し雑念を覚えつつも、返事をする。
「って、全然拭けてないな」
「大丈夫、服はしっかり着替えたってばよ」
「あのなぁ、そんな状態で隠密行動ができるか」
そう言うとカカシは持っていたナルトのタオルを自然な動作で奪うとそれでわしゃわしゃとナルトの髪を拭いた。
「おー、ありがとうカカシ先生」
「どういたしまして。ま、こんな感じか」
ひと段落。
「カカシ先生の読み通り、入り口は相手が教えてくれたな」
「ま、大よその場所は分かってたけどね。地元の漁師も近づかない険峻な岸辺だ、秘密基地の入り口には丁度いい」
「反対側に比べると警備も手薄みたいだ、―――人の気配も随分少ない」
「こちら側からの侵入者は考えていなかったみたいだな。関所を抜ければ後はザルだ」
「へへっ、忍を舐めすぎだってばよ」
「油断はするな、想定外はオレたち側にも起こりうることだ」
短く会話を終わらせるとナルトたちは山の中を船を追うように川沿いを登っていく。当初、ガトーの隠蔽している場所に町側からの侵入を試みたが、警備の厳重さから断念。時間をかければ安全に見つからずに忍び込めるルートを発見できるかもしれないが、それでは遅い。
ということで、警備の緩い海側の方からの侵入がもっとも現実的だという判断を下したのだった。もちろんそれは忍者にとって、という注釈が必要だが。
波の国は小さな島の集合体でできているがその中でももっとも最南端にあるこの島は、火山灰が多く含まれた柔い土でできていて、岸辺を波で削られ、まるでネズミ返しのように裏返っている。それが広い範囲で続き、常人が登ることは不可能に近い。唯一の入り口である川もその両端は川の流れで削られてまるで崖だ。川の中腹に見張り番がいるので、普通に船で川を突破するのも、まず不可能である。
というわけで敵の船に同乗するという作戦を決行したのだった。関所を抜けてから船を離れ、素早く崖を登り、後は川沿いに船を追っていけば敵の本拠地へと潜入できるという算段だ。
音もなく二人は夜の森を駆け抜けていく。黒い影が二つ、木々の間をすり抜けていく。ナルトは猿飛の術の特訓の成果か、カカシに遅れることなくその背中に追従する。
静かな闇夜に、満月が浮かんでいた。
月明りが強い夜は本来潜入には向かないそうなのだが、日程を選ぶような潤沢な時間など、当然の如くない。
―――カカシ先生曰く、時勢、兵力、情報、その全てが完璧な作戦の方が珍しい、ということだけど。
監視の目の中に忍が存在しないのは幸運だったといえるだろう。ガトーがもし再不斬たちを信頼してこの場所の警備を任していたのなら、侵入の難度は遥かに高いものになっていたはずだ。
川の途中で、船が停止するのを崖の上から確認する。そこは人工的になのか自然にできたのか、崖の一部がなだらかになっており、その根元に簡易的に作られた小屋のような建物がある。船に乗っていた男たちが、その中に入っていくのが見えた。その真上の崖に移動すると、そこでナルトたちは一旦停止。
硬い地面の感触が足裏に触れる。人の手で均したのか、草が刈られて、土を固めた道ができていた。一つは崖下へ続き、もう一つは森の中に続いている。
ナルトは地面の足跡に触れる。どうやら男たちはここをよく往復しているらしい。乱れも少なく、ここはただの通り道に過ぎないことがわかる。足跡が深いものもあるが、これは何かを運んでいるのだろうか。
先にどちらに向かうか、ナルトはカカシを横目で確認する。
「下には監視としてオレの影分身を送る。先に森の確認にいくぞ」
潜入任務はむやみやたらな影分身は厳禁だが、目的物が複数あるこの場合はこの判断は妥当だろう。ナルトは頷く。
感覚をさらに集中して研ぎ澄まし、どれだけ周りに人間がいるのかどうかの確認も同時にしておく。
森の中にまで、広い道が続いている。五人並んでも余裕で通れるはずだ。人の気配は少なく、辺りは木々や動植物の、自然の音だけが聞こえる。ここは山の麓近くなのだろう。すぐ目の前にはもう、山の姿が巨大な黒い塊として見えた。この山に登って東を見れば、波の国の島と町が見えてくるはずだ。
さらに少し進むと、開けた場所に辿りついた。森の陰が消えると、突然世界が明るくなったような錯覚に陥った。月明りを遮るものがなくなったからだ。
そこにはさほど広くはないが、耕された土地があった。
「これは……畑?」
ナルトは呟く。
「これは……なるほどそういうことか……」
カカシは得心がいった様子で頷く。ナルトの視線の先には森を切り払ったかなりの広さの畑。そこにはナルトの知識にはない(とはいえ植物の知識など全然ないが)ナルトの背丈半分ほどの草が大量に生い茂っている。
カカシはしゃがみ込むと草に手を伸ばし、その先端をのぞき込んだ。ナルトは周囲の警戒を続けながら、月の光に照らされた草の大地を眺める。人の姿はなく、その気配もない。
「カカシ先生、これなんの植物だってばよ?」
「これは、恐らく麻の一種だろう」
「麻ってえーと、服とかに使われてるあの麻のことか?」
「そうだ。火の国の場合、昔は建築にも使われていたこともある。麻の繊維は丈夫で、手間はかかるが土に混ぜて使えばより強い強度の家や壁が造れる。だが、それとこれは種類が違う。その手の木の葉原産の野生種の麻は背丈が高く、得てして人以上の高さに育つ」
ナルトは焦れた。
「カカシ先生、時間がないし講釈は後で聞くってばよ。つまりこれはなんなんだ?」
「これは、麻薬だ」
溜息を吐きながらカカシは続ける。
「断言はできないが、まさか医療用ってことはないだろうな。麻は種類が多い上にオレも専門家ってわけじゃないが、見ろ、このあたりの麻は全て雌株だ。これだけの広さで栽培していながらキッチリ雄株を取り除いている」
「いや、雄か雌かなんてわかんないってばよ……」
草の先端を向けられたナルトは困惑した。闇夜も手伝い、ただの草にしか見えない。
「麻薬の材料の麻は濃度を増すために雌株しか育てない。ま、そこら辺の講釈は止めて置くか。……しかも、オレの見たところこりゃ新種だ」
「………つまりガトーの隠していたものってのはこの草のことなのか?」
「恐らく、そういうことになるだろうな。麻薬用の麻ってのは基本的に直植えはしないはずだ。……この新種の植生がたまたまこの国の気候に合った、そういうことかもしれんな。あるいは出荷ルートに関係しているのか。そこら辺のことはあの小屋を調べればわかるかもしれない」
考えを少し纏める。
「……なるほど、だからガトーはここに人を近づけたくなかったのか」
「麻薬はご禁制の品だからな。末端価格でも一キロ売れば五年は遊んで暮らせる。この新種の濃度がさらに高いものだとすれば、それ以上かもな。奴の資金源だったわけだ」
「カカシ先生、オレが知りたいのはこれは、ガトーを倒す手段に成り得るのかどうかってことだってばよ」
「麻薬は一般での流通は固く禁じられている。これらの事実を大名に伝えれば、少なくともガトーの脅威からこの国を助けることができるだろう」
「そっか」
ナルトは腹立だしさと安堵を同時に感じていた。こんなもののために波の国全体を苦しめていたのかという忸怩たる思いがあった。だが、潜入した意味はあったようだ。
「しかし、問題はこれの薬効とその輸出先だ」
カカシが呟く。
「どういうことだってばよ?」
「ま、今はそれはいい。とにかく、これで問題の一つは片付きそうだ。よかったなナルト」
「……うん」
腑に落ちない思いをしながら、ナルトも頷く。確かにこれで未来が変化したとしても最悪の展開にはならない保険ができた。
あとは、二人の修行の成果次第か。
影分身を解除したナルトは、目を見開いた。
タズナの家の、ナルトに割り当てられた部屋の布団の上に、ナルトは胡坐をかいて座っていた。
チャクラを温存するためだ。ここのところ影分身の多用でややチャクラが減っている。いつ何時も戦いに備えているためには、あまり無駄に体力を消耗するわけにはいかなかった。今日はカカシ本体が家の警備をしているためナルトは最小限の警戒すらせずに休息に専念した。
以前のように修行にのみ専念するようなことは、今はしたくてもできなかった。
潜入に使っていた影分身を解除したことでその分身体の記憶がナルトに同期していた。
―――ふぅ。
息を吐く。どっと疲れが体に伸し掛かってきていた。影分身体を解除すると得られるのは記憶だけではなくその疲労ももれなく付いてくる。休めていたはずの身体が逆に疲れてしまったぐらいだ。
―――やっぱ、スタミナがねえな……。
自分の体力を心配するというあまりやった記憶のない作業に辟易しつつ、ナルトは立ち上がった。あれから一週間ほど時間が経過している。そろそろタイムリミットが近い。
二人の修行がどれくらい進んでいるか。それはナルトはあまり関知していないことだ。ただし、それほど心配はしていない。サスケはあの通りムカつくぐらいの天才なのだし、サクラも前以上に修行を頑張っていることだけは知っている。そこに関しては不安な要素がない。
部屋を出て、階下のリビングへ行くとそこにはタズナとカカシが座っていた。台所からは夕食の良い匂いが漂っていた。
「お、起きたか。どうやらうまくいったようだな」
さっきまで一緒だったカカシにそう言われるのはなにか不思議な気分だった。
「まぁね、問題なしだってばよ。カカシ先生がヘマしなきゃだけど」
証拠の品を持って帰ってくる作業があるのでカカシの分身体は解除していないため記憶の共有がまだ済んでいないのだ。そこら辺は実に複雑で面倒臭い。
「あれサクラちゃんとサスケは?」
「サクラは部屋で寝てるよ。しばらくは起きないだろうし、そっとしておけ」
「サスケは?」
そう尋ねたナルトにカカシはしばし沈黙で返した。
何故だか嫌な予感が膨れ上がった。席に付こうと椅子を引いた手をそのまま止める。
「カカシ先生………?」
「サスケは、まだ戻ってないな」
「まだって……、そういやサスケの修行はどうなってるんだってばよ?」
ナルトはその嫌な予感を抑えながら質問を繰り返す。
「まだ木登りの修行が完了していない。……これはちょっと予想外なんだがな……」
「………嘘だろ」
新たな問題、浮上。