「あー、笑った………」
しばらくしてからナルトがようやくこちらに視線を向けた。その間、自分がナルトをずっと見ていたことに気が付き、サスケは気まずさを覚えながら顔を逸らした。
「オレは今の感覚を体に馴染ませてから戻る。………お前は先に戻っててくれていい」
木の方に向き直って、そう告げる。体は疲れ切っていたが、気力は十分。今日の内に今の感覚を反芻して、体に覚えさせたかった。
「いや、感覚を馴染ませるなら、もっといい方法があるだろ」
「………なに?」
ナルトは腕をぐるん、と回した。
「組手しよう」
「は?」
「カカシ先生ー」
ナルトが暗闇に呼びかけると、近くの繁みから当たり前のようにカカシが現れた。
「………………よっ」
サスケを見て、気まずそうな顔で軽く手を上げる。
「……………」
言いたいことや思ったことは、頭の中では無数に浮かんだが、サスケの心に浮かんだのはたった一つだった。
―――居たのかよてめえ。
態度から察するに、今来たばかりというわけではなさそうだった。つまり今までのやり取りはすべてカカシが見ていたわけだ。
悪態を吐いたり、一緒に木を登って月を眺めたり、謝ったり、そういう、自分とは一切無縁だと思っていた諸々のすべてを、だ。
己の醜態を振り返り、頬が熱を帯びるのを感じた。
「……………っ」
「いやースマンな、邪魔するつもりじゃなかったんだが……」
「? 邪魔ってなんだ?」
ナルトが本気で理解できていない顔をしているのが唯一の救いだった。それを呆れたように眺めながらカカシは取り成すように、サスケの肩に手を置いた。
「………ま、これも青春だな」
こいつを消すべきなのかもしれない、一瞬本気でそう思った。
「―――青春?」
ナルトが妙なところで喰いついた。カカシが余計なことを言う前にサスケは話題を逸らした。
「……なんでもねぇ。それよりもどういうことだ、ナルト」
「あ、そうそう組手だ。じゃ、カカシ先生、予定通り立ち合いをしてくれってばよ」
「はいよ」
その様子から、これは予定されていたことなのだということを悟る。困惑しながらも、ナルトの方を窺う。
サスケから距離を開けるように、少し離れたところに歩いていく。
振り返ったナルトが挑発的に笑った。
「ん? カカシ先生が前に言っただろ。班の総合的な戦力を上げるって。お前がどれだけ強くなれてるのか、それを今ここで見せてもらおうと思ってよ」
「………なるほど」
本当に訳が分からない女だ。サスケは今度は呆れながらそう思った。
なるほどとは言ったものの、納得したわけではなかった。どうせ、なにかしらの企みがあるのは間違いあるまい。ただ、この少女の考えを推測したところで詮がないことも、もうわかっていた。
「言っておくけどよ、もし、お前が戦力にならないと思ったときは、お前をこの任務から外す。これはカカシ先生の許可も取ってるってばよ」
だから本気で来い、と少女は言った。
「………!」
横目で窺うが、カカシは反応しない。ただ、成り行きを見守るように二人を眺めている。
なるほど、本当らしい。
プライドを的確に突く言葉に、乗せられているとわかりながらも闘争心に火が付くのは止められない。それに、細かいことを抜きにしても、この提案はサスケにとっても悪くはなかった。
目の前に立つ少女は、おそらく『木の葉最強の下忍』だ。なんの確証もないまま、サスケは確信していた。その相手に今自分が出せる全力をぶつけるということは、自分の実力がどれほどか、それの指標になりうるはずだ。
当然、相手が女であることへの侮りなど、サスケの中にはもはや存在していなかった。
―――やってみたい。
サスケは、己の中にある欲求の声に従うことにした。いくつかの小さい疑問、困惑、それはすべて投げ捨てる。体に残った残り少ないチャクラを燃やして、臨戦態勢に入っていく。
それを見たナルトがにぃ、と頬を吊り上げた。その背後で金色の髪が、獣の鬣のようにざわつきながら蠢く。月夜と相まって、まるで幻想の獣のように見えた。
この任務を受けるとき、ナルトを見極めることが、目的の一つだった。ずいぶんと想像からはズレてしまったが、どうやらそれが叶ってしまうようだった。
なんとも奇妙な巡りを感じながら、苦笑を気付かれぬように小さく浮かべた。
「じゃ、お互いに構えて」
カカシの気の抜けた声を遠くに感じながら、全身に意識を散らばらせる。
「はじめっ」
カカシの腕が振り下ろされる。
それと同時に示し合わせたように二人は飛び出していた。
両者が立っていた場所から丁度中央でぶつかり合う。勢いは互角だった。
顔が触れるほどの距離で、少女は目を見開きながら獰猛に笑った。その笑顔に圧倒されるものを感じながら、拳を繰り出す。肘で跳ね上げられ、上段の蹴りが飛んできた。後ろに跳びながら、腕で受ける。受けた腕が痺れる一撃。
その威力に、これが遊びではないことを実感する。本気の蹴りだ。
離れた距離をナルトは即座に詰めてくる。しかし、先ほどの直線的な動きとは異なっていた。変則的な軌道を描きながら流れるように接近。側面を取られたサスケは受けに回ざるを得ない。
顔面に鈍い衝撃が走る。防御を抜けてきた拳で、左頬を殴り飛ばされた。それを認識しながら、サスケの意識は別にあった。ナルトの足が地面に吸着しながら動いていたのが確かに見えた。
今度は地面が爆ぜると同時にナルトの姿が掻き消える。咄嗟に上げた腕に拳が突き刺さった。ふっ飛ばされながら、冷や汗が噴き出る。体が宙を浮き、背に木を激突させながらも、しかしサスケは冷静だった。
動きは速い。そして読めない。だが、見える。わかる。理解できる。
チャクラの流れが、直接は見えずともしっかりと想像できた。
―――なるほど、そう動くのか。
連撃を受けて後退しながら、サスケはナルトの動きを観察した。チャクラで吸着したり反発したりする理由や効力、そのタイミング、すべてを相手が教えてくれる。体力が尽きかけているのに、不思議と集中力は増しているような気がした。
幾度か打撃を受ける内に、段々と動きに対応できるようになってきた。
足に篭めるチャクラを調節しながら細かな制動を繰り返す。ナルトとサスケは立ち位置を複雑に入れ替えながら、拳を交わした。
連綿と続く打撃戦の中で、ついには、『躱せる』、そんな直観が胸をよぎった。そしてサスケはそれに逆らわなかった。
ナルトの突きを、サスケは首を傾げて最小限の動きで躱した。残ったチャクラを足に集めて爆発させる。
ナルトの動きにすら肉薄する加速。しかし、辛うじて横跳びに回避される。だが、それでいい。サスケの狙いはナルト、ではなくその背後にある木だった。サスケは反転して木の幹に足から着地すると、そのままチャクラで吸着して、ほんの一瞬だけ完全に停止する。ナルトが驚いたふうに目を微かに見開いた。崩れた体勢だ。回避はもうできまい。サスケは拳を握り、幹を思いっきり蹴って加速する。ナルトが腕を上げたのを見ながら、敢えてぶつからずに、その横に着地する。地面はチャクラでしっかりと掴み、両手両足に力を込め制動距離を完全な零に抑える。――――背後を取った。
振り向きながら、無防備な状態のナルトに拳を叩きこむ。ナルトの頬を完璧に捉えた一撃。
重い感触が、腕を伝った。
ナルトの足は離れ、体は地を転がった。
「―――――」
倒れ伏すことはなく、ナルトはすぐさま体勢を立て直した。頬には赤い跡、そして、それを伝うようにして、赤い線がこめかみから頬を撫で、血が滴った。
「…………ナルト」
達成感と罪悪感が綯い交ぜになってサスケの胸中に満ちた。
「―――ちぇ、やっぱりやるなぁサスケは」
ナルトは頬の血を手で拭うと、ちょっとだけ悔しそうに笑った。
「よっしゃ、これで最後だ」
そう言うと、十字の印を組んで、二人に分身した。
―――これは、確かあのときの。
片方のナルトは地面に座って印を組んだ。その体からは、膨大なチャクラが溢れた。それに押されるようにして後退。サスケは顔を腕で守りながら、目を細めた。この術は、やはりそうだ。
莫大なチャクラの半球体、その中心でナルトは目に強い光を湛えていた。
その口が小さく動いた。―――いくぞ、と。
ナルトの姿が、消えた。
同時、鋭い衝撃音が辺り一面に連続して響いた。サスケは首を巡らせるが、見えるのは金色の残像のみ。
なんて術だ。闇夜も合わさって、もはや目で追うことも叶わない。
―――無茶苦茶やりやがる……。
思わず、そんないまさらな感想が浮かんだ。
どんっ、と体になにかがぶつかった。多分拳なんだろうが、それすら確信がないままに通り過ぎていく。あまりに速すぎる。先ほどのナルトと同じように、バランスを崩して地面を転がった。よろけながら立ち上がる。
立ち上がる度に身体は吹き飛ばされる。もはや、組手ではなく、暴風の中にでもいるような心地だった。
おそらく、ナルトは加減しているのだろう。そうでなければ一撃で沈んでいるはずだ。しかしそれがなんの慰めになるというのか。この術を攻略する術を考えているものの、今の状態ではまったく不可能に思えた。
ほとんどチャクラも残っていない。意識もぼんやりとしてきた。
まるで捉えきれない。どうしようもない。
そのはずだったが。
どうしてだろう、先ほどのように躱せるという直観が胸を過る。
眼が燃えるように熱い。鋭く尖っていく意識と急激に体から失われていくチャクラを不思議に思う間もなく、サスケはナルトの動きに集中した。
見えないのか見えてるのか、それすら、もうわからなかった。
一瞬の煌めきが目の前を過った気がして、サスケは倒れ込むように横に跳んだ。
そこで、意識は途絶えた。
「…………よし」
倒れたサスケを腕で支えながら、ナルトは小さく呟いた。
「それまで、だな」
「ああ」
組手終了を告げるカカシに返事を返す。体からチャクラを抜いて、影分身体も消す。
「と、ととっ」
分身を消すと、急激にその疲労が伸し掛かってきた。一瞬、サスケを放り出しかけたが、なんとかサスケを抱き抱えると、足を突っ張って堪える。
「こりゃ和解の印は結べそうにない、な」
それを見ていたカカシの軽口にナルトも苦笑いで返した。ナルトにとってもここまでの状態になるのは予想外だった。だが、結果は上々だ。
最後、サスケは確かにナルトの拳を躱していた。
組手の最後にサスケの眼に宿っていたのは間違いようもなく『写輪眼』だ。この力を引き出すことには成功したのだから。
息を吐いて、気絶したサスケを労うように二、三回背を軽く叩いた。
―――よくやったなサスケ。
達成感が胸を満たしていた。
それはそうと、力も抜けそうだった。
「か、カカシ先生、早くサスケを受け取ってくれってばよぉ!」
足をプルプルさせながらナルトは情けなく叫んだ。
「ハイハイ」
ひょい、といった感じでカカシはサスケを持ち上げると背に背負った。
ナルトは安堵しながら、腕をプラプラと振った。気を失った人体は、チャクラの減った状態のナルトにはキツすぎる。
「……………」
カカシはもの言いたげにナルトを見ていた。言いたいことは予想しながらもナルトはとぼけた顔をして返した。
「なんだカカシ先生?」
「わかっていたのか?」
―――なにが、とは言えそうにないほど、真剣な目だった。
サスケとの組手でナルトがやったことは単純だった。
ようするにかつてあった『白とサスケの戦い』。その再現をしただけだ。サスケが写輪眼を不完全ながら発現させたあの戦いをナルトなりになぞってやってみた。ただそれだけ。前と同じようなことをすれば、写輪眼に目覚めるんじゃないのか、という単純な仮説に基づいた行動だった。結果は、まあ出来過ぎなぐらいだ。
「もしかしたら、とは思ってたけどよ」
正直に答えた。カカシはそうか、とだけ呟いた。
あまり詮索する気はないようだった。拍子抜けしながら、ナルトは懸念材料が一つ片付いたことを素直に喜んだ。
前回よりも戦力を上げておくという目標は達成できた。
それになんだか落ち込んでいたサスケを元気づけることもできたのではないだろうか。
これならすぐにでもまた前のようなムカつくぐらい自信満々なサスケに戻るだろう。それはそれで腹立たしい気もするが、それがサスケの普通なのだから仕方がない。また喧嘩もするかもしれないが、まあそれでもいい。
ただ一つ問題があるとすれば。
―――次やったら多分勝てないんじゃないだろうか………。
たったあれだけの組手で体術は追いつかれてしまったし、それに写輪眼もある。猿飛の術は、時間制限があるし、どう考えても次は負ける気がする。
この天才め。ナルトは気絶したサスケの疲れ切った顔を睨んでおいた。
しかし、まあなにもかもが片付いたわけではないが、一旦、サスケに関しては放置しても問題なさそうだと、そう判断した。
ナルトは気を引き締めなおした。
やらなくてはいけないことはまだまだ多い。
そろそろ決断しなくてはいけないこともある。
―――再不斬と白、あいつらのこともそうだ。
ここから先は、ナルトのエゴにすらなりかねない問題が横たわっていた。
すなわち、再不斬たちを救うのかどうか。
一番危険が少ないのは、二人を見捨てること。これはただ眼前の任務をこなすだけで済む。再不斬と白は前と同じように死ぬが、前と同じように波の国は救われる。もちろん危険は少ないと前置きしたものの、これだけでも十分に難度は高い。すべてを前回同様にすることは、もうできないからだ。不測の事態は起こりうる。
二番目に簡単なのは二人の命だけを助けること。つまりほとんどの流れが一番目と同じだが、白が死ぬ展開、そこだけは回避するという方法だ。これも、戦闘で相手の命を考慮しながら戦うという点で難しくなるが、展開の予想はし易い。
―――しかしそれでは、白が救われることはないだろう。
ただ命を助けても彼らは『殺し』を止めることはない。それは結局、結末を先延ばしにするだけなのだろう。ナルトの目の前では白は死なないかもしれないが、いつかどこかで、誰かに殺されて死ぬ。
『よく勘違いしている人がいます。倒すべき敵を倒さずに情けをかけた………命だけは見逃そうなどと』
かつて白に言われた言葉が波の国に来てからずっと頭の片隅から離れない。それはナルトの自己満足を非難しているように、そう感じた。
三番目の選択肢は、ある。
―――白と再不斬を『救う』。
選択肢だけは常にナルトの中にあった。ただ、その方法はあるにはあるが、明確な計画という段階ではまったくない。救うとはそもそも何なのか。それは、殺さないだけでは不十分なことだ。
もしナルトが白に殺しを止めさせようとするなら、それは二人の生き方そのものを変えなくてはいけない。
そんな方法を容易く完璧に仕上げることなどできない。
よしんばそれができたとしても、それを実行するということはすなわち、波の国に余計な危険をもたらすということでもある。彼らには必要のないリスクを背負わせるし、それは七班のメンバーに対してもそうだ。闇雲に白を救おうとして、結果的に最悪の事態を招くことは十分に有り得る。誰も救えず、誰も助からない。そういう結末が。
前は見えていなかった選択肢が見えるようになったことが、自分の首を絞めていることをナルトは自覚していた。
『賢い者が正しいとは限らん』『どのように選択したとしても、その責任はお前が負わねばならない』なるほど、三代目の言葉の意味がようやく身に染みたようだ。これには苦笑を浮かべる他ない。知らなかったら良かったとは思わない。しかし、知ってしまえば選ばなくてはいけないのだ。
絶対に救う、なんて力強い言葉は言えるはずもない。それはもう一度失敗してしまった。だからここにいるのだ。
ただ一つの希望は、かつて見た再不斬が白のために流した涙。それだけが、ナルトの内心を渦巻く混沌の中で、か細くも、かき消されることのない光を放っていた。