朝。小鳥のさえずる音。
日光。朝の少し湿った空気と匂い。
目を開ける。目覚めは最悪だった。
――夢じゃねえ。
怪我はない胸が未だに幻痛を放っていて、それも胸糞が悪い。あまり回らない頭を揺らしながら起き上がり、すっかり冷え切った床を裸足で歩く。カーテンを開けると、眩しい光が飛び込んでくる。
気持ちの良い晴天。
欠伸を一つかます。
服装を寝間着から病衣に着替えて病室から出ると既に多くの人間が活動を開始していた。目覚ましもなく目を覚ますのは普段だったならばあり得なかっただろう時間だが、早朝というわけではない。
洗面台まで歩くと顔を洗う。冷たい水の感触が寝ぼけた頭には心地が良かった。
顔を上げた。そこには備え付けの鏡が一つ。
鏡を睨む。見慣れぬ顔が同じように睨んでくる。
目つきの悪い金髪の女の子。歳は自分と同じ十二歳前後だろう。両頬には特徴的な猫ひげのごとき斜線が三つ。気の強そうな生意気そうな顔。
しばらく睨み合っていたが、その顔は一向に変化する様子はない。
情けない気分になると、それに連動して目の前の顔も困ったような表情に変わる。
「う」
ちょっと可愛いと思ってしまった。
思わず首を前に倒した。
「ちくしょう、最悪だ……」
地獄の底から響いてくるような声でナルトは呟いた。
首筋にかかるぐらい伸びた襟足の感触がこしょばゆくて、気色悪い。
鏡に映った顔は、以前の顔とよく似ている。似てはいるが決定的に違っている。完璧にどう贔屓目に見てもまるきり、女の子の顔だった。
顔だけではない。
体から何から、間違いなく女の子。
違うのは心だけ。
――くそったれだってばよ。
力を使い果たして、ふらふらになりながらなんとか洗面台の前を退りぞいた。もうすでに一日分の気力が半分ぐらいなくなっている。
今日はとりあえず退院して、家に戻る。
その後は今後どうやっていくか未だ考えていない。三代目にはしばらくの間普通に生活しろと言われているが。
普通とはなにか、ナルトは世界に問いかけたい気分だった。
なるべく未来の出来事をなぞる方がよいのか。それは、一つの指針だ。
ただし、この世界と以前の世界の出来事が全て同じになる保証はない。もうすでに僅かだがずれてきている。
ミズキを倒した後、数日間寝込んだりなどしていなかった。
――よくわかんねーけどよ。
時間逆行やらなにやらナルトは頭がこんがらがりそうであった。
どうすればいいのか。簡単な答えではない。
考えねばならない。
考えるのは得意ではない。しかし、明確な目標を立てなければ行動できない。
単純なところはナルトのよいところでもあるがこの場合は欠点となった。
――とりあえずだけど、絶対に男に戻る。これは絶対だってばよ。それ以外では体については考えないようにする。気が狂っちまうから。
そう決めた。
決めれば、僅かに元気が出てきた。
自分に言い聞かせる。
こんなの常時お色気の術を使っているようなものだ。とりあえずナルトはそう思うことにした。お色気の術にしては体つきはまだ子供だが、それも不幸中の幸いだ。顔はともかく体型的には以前とさほど変わらない。気にし過ぎなければ、さほど違和感はない。
ナルトは一つ頷いた。
大丈夫、問題ない。
「あ、ナルトちゃん、ちょっと待ちなさい」
―――ちゃんて。
聞きなれない呼び方に振り向くと看護師が立っていた。
「どこに入ろうとしているのかしら?」
「どこって……」
訝しみながら、一応確認する。
どこからどう見ても、
「トイレだけど」
朝だし普通の行動だ。
そう思ったが、看護師はやれやれといった表情で首を振った。
「そこは男子トイレ」
そのまま隣の扉を指さす。
「女子トイレはこっち」
「あ、あぁ……」
何を言っているか理解が出来なかった。いや正確にいえば、理解したくなかった。
何故か体がよろけた。壁に手をついて何とか支える。
「貴方もしかして、今日もまだ自分の事男だって主張してるの?」
「お、オレは、オレは………」
「俺は?」
看護師は露骨に疑惑の目を向けてくる。目立つマネはするな、と言う三代目の顔が脳裏に浮かぶ。
あまりの苦しみに胸を押さえる。
なんとか、絞り出すように声を出した。
「………オレは女の子です………」
「そうよね良かった」
――よくねえってばよ………。
わざわざ親切に看護師はトイレのドアを開けてくれた。
断る理由はどこにもない。
女の子だから女子トイレ。それが当たり前の常識だった。
「はぁーあ……、天気いいってばよ」
太陽がちょうど真上を向いた時間、ナルトは呟いて天を仰いだ。
木の葉の里の公園のベンチに座って、ぼんやりとしていた。あの後経過を診察され、家に返された。疲れていたが、家に引きこもっている気分でもなくてなんともなく、外に出かけたのだった。
この公園ではよく遊んだ。数年前の話だが、まだ十二のナルトにとっては大昔の事。公園で遊ぶ歳でなくなっても、一人でいるのが嫌になった時などはたまにこうして何をするでもなくベンチや、ブランコに座ってぼんやりすることがあった。
今の時間、遊び盛りの子供たち幾人かが、ボールや遊具で遊んでいる。雑踏に身を置いておけば、少なくとも気は紛れた。
トイレについてはもう忘却した。
「……平和だなあ」
木の葉崩しの跡を見てきたナルトは心底そう感じた。崩れた家屋、施設、それらは大分直ってきたが、死んだ人間は生き返らない。木の葉の空気は復興の後もどこか昏い空気を孕んでいた。今はそれがない。
至極平和な日常。
こうなってしまってからというもの、唯一良かったと思える事だ。
少なくとも二度も繰り返させはしない。
例え、公園に来ていた保護者が自分の顔を見て、嫌悪の表情を浮かべてきたとしても。
今思えば、九尾の事を知っているからこその反応だったのだろう。それを知らない頃は訳が分からず、悲しんだり怒ったりしたものだった。
眉を顰める。しかし、それも一瞬だ。
――へへ、むしろ懐かしいってばよ。
人は恐れ、嫌悪し、遠ざける。しかし、認めてくれさえすれば友達にだってなれるのだ。それが恐るべき九尾を宿した化け物であっても例外はない。
だから少し悲しいけれど昔程苦しくはなっていない。
木の葉崩しを止めて、そして男に戻る。そうすれば、元のように里の忍として生きていける。また、いつの間にか認めてもらえている日も来るだろう。
微笑みを返すと、相手は慌てたように踵を返した。
でも、子供の方は振り返って手を振ってくれた。
ナルトはそれを穏やかな気持ちで見送った。
――本当にそれでよいのか?
不意に自分の中の誰かが、そう言った気がした。
あるはずのない胸の傷が痛みを発する。まるで自分を忘れるなと言うかのように。
不規則に、鼓動が速まる。
思わず胸を押さえる。
確かに里の皆についてはそうだろう。嫌悪や憎しみだけではない関係を築いていける。
しかしサスケはどうだろうか。
木の葉崩しが失敗に終わり、大蛇丸がいなくなっても。
果たしてサスケは復讐を諦めるだろうか。
………否。諦めはしないだろう。方法は変わるかもしれないが、サスケの関係を断つことで強くなるという信念がある限り、そこは変わらない。
いつの日か再び、自分の目の前から姿を消すだろう。
その時、自分はまた同じ過ちを繰り返す羽目になる。
約束を守れず、そしてサスケも救えない。
――そうだ。何をのんびりしてたんだ。
時間はそう短くない。しかし長くもない。
ゆっくりしている暇など、ありはしない。一刻も早く力を付けなければいけない。そして、選択を考えねばならない。
一度目はただ我武者羅に生きた。――そして失敗した。
では二度目は?
考えねばならない。もう三度目のチャンスを与えられるとは限らない。失敗は許されない。
一度目は知らないことが多すぎた。
大蛇丸も、九尾も、うちはも、暁も、そしてサスケについても。
何も分からず、知らず、受け身になってそれらに振り回されているだけだった。
知らねばなるまい。
そして知識を付け、力を付ける。もう二度と失敗しないために。
「そうだってばよ………」
知らず知らず内心に呼応するように呟いた。
立ち上がる。拳をきつく握りしめる。
―――強くならなくてはいけない。失わない為に。