薄青色の空が、徐々にその色彩を広げていく頃には、大小無数の鳥の声で森がにわかに騒がしくなってきた。しだいに日の光がゆっくりと遠くから伸びてくるのに合わせるように、湿った空気と土草の匂いが、じっとりとした風に乗って流れていく。
火の消えた焚火のそばで眠っていたナルトは起き上がると、固まった首をぐるりと回し、腕を高くあげて伸びをして、大きく息を吐いた。
ナルトの影分身が、夜間の見張りの役目を終えて煙を上げて消えた。
それをショボショボした目で見送ってから、ナルトは再びあくびをした。
さて、どうしようか。
みんなを起こすにはまだすこし早い時間のようだ。
立ち上がろうと中腰になったところで、急に腰辺りが引っ張られて尻もちをついた。
横を見ると、赤い髪の少女がナルトの腰辺りを掴んでいた。
「………………」
その存在をすっかり忘れていたので意表を突かれ、一瞬目を見開いて、すぐに半眼に戻って軽く息を吐く。
どうしたものか。
頭を悩ませたが、少女の拘束がいつの間にか上着の生地を握るぐらいに緩んでいることに気が付いた。
夜中のあいだにどうやらすこしは離れてくれていたようだ。
一晩たって少女の体調が良くなってきたということだろうか。
あるいは単に寝苦しかっただけかもしれない。湿度の高い森の中での睡眠は、お世辞にも快適とは程遠かった。
するりとアウターだけ脱いで少女の手から逃れると、ナルトは立ち上がった。
少女は目が覚める様子はなかったので、そのまま放置する。
湿度の高い空気に冷えた体の感覚と、汗で蒸れた感触が混ざり合って、酷く不快だった。
川辺に向かって歩く。
むき出しになった地面から川辺の岩場に移ったところでこらえきれずにナルトはブーツを脱ぎ捨てた。
裾をめくって、足裏に小石が食い込む痛みも汗で砂が付着する不快さも無視して、まっすぐに進む。
川に侵入して指先が水に触れた瞬間、その冷たい温度と柔らかな流水の感触に、ビリビリと痛みにも似た痺れるような快感が、ナルトの身体の内側を走り抜けていった。
「うぅー……」
唸り声のような声を上げつつ、持っていた手ぬぐいを水に浸して、強めに絞る。
ポニーテールを残った片手で持ち上げ、汗で湿った首裏に、ゆっくりと冷えた手ぬぐいを押し当てた。
それは身が戦慄するほどに、おそろしく心地よかった。
しばらくその感覚を堪能してからナルトは思い出したかのように顔を水で洗い、インナーを軽く捲って手ぬぐいで拭った。
体から不快感が消えると、ナルトはようやくそこで意識がハッキリとしてくるのを感じた。
寝る前の、なにもかもぐちゃぐちゃなあの感じに比べると、ナルトの脳内は幾分か整理されていた。
──―なんか余計なこと考えすぎてたな……。
濡れた髪から冷たい水がいくつもの筋になって流れる感触を感じながら、ナルトはハッキリとした視線で水面に映った自分を見返した。
いまナルトがすべきことはなにか。
それは突き詰めてしまえば、第二試験を突破すること、ただそれだけだ。
幾つかの余計なタスクは増えてしまったが、それは二次的な目的にすぎない。
考え続けることは大事だが、そうすることそのものが目的になってしまっていたような気がする。
カブトを脅威だと思うからこそ、必死に自分を大きく見せようとしすぎていたのかもしれない。けれど、それこそが余計な行動なのだ。
そんなことをしているぐらいなら、とっとと第二試験を突破してしまうほうがずっといい。
それに、カブトの口から出た情報の意味をあれこれ考察するのも、同じぐらい無意味だ。思考や行動にどのような誘導をされるかわかったものではないからだ。
体を起こすと、重心が変わって一瞬、川の流れに足を取られそうになる。堪えて、踏みとどまり、逆らうようにまっすぐに立つ。
策士ぶって色々考えて戦うのはいったん止めだ。
サスケのことや、あの少女のこと、そして我愛羅に関しても、何を決めるにしてもまずはこの試験を通過してからにするべきだ。
方針を定めると、ずいぶんと内心がスッキリした。
ナルトは伏せていた目を上げて、視線を水平線へ向ける。
森の木々に視界は遮られているが、ナルトの研ぎ澄まされた意識はそのずっと先まで届いていた。
遠くから静かに、しかし確かに這いよるように漂う、自分に向けられた殺意とも親愛ともとれない強い感情の漣を。
この相手が誰かなど、いまさら問うまでもない。
方角は、目的地である中央塔の方だ。
すでに巻物を揃えてゴールしているだけ、と考えるのはあまりに楽観的すぎるか。
「…………………………」
戦いは、あるいは避けられないのかもしれない。
その気配は、懐かしさすら伴ってナルトにかつての人柱力としての在り方を思い出させた。
体の芯が疼く。
尾獣のチャクラを開放して戦うときには、他のことには例え難い快感を伴う。
無限に沸き上がる高揚、力を放出するときの虚脱感と、それが即座に満たされる万能感。体が傷つく痛みとそれがすぐさま癒える痛痒。
なにより、内に澱んだ感情を爆発するように燃やしながら戦う、あの感覚。
この身に溜め込まれた鬱屈と共にそれらを解き放てば、それは、とてつもなく爽快にちがいない。
ブンブンと頭を振って、髪留めを外して水に頭から突っ込む。
流水に晒されて、頭が冷えていくのがわかる。
息が苦しくなって顔を上げるころには、その疼きは過ぎ去っていた。
方針を変えるつもりはない。
九喇嘛の力は使わない。
だが、かといって仙術を使って戦えるかというと、それも微妙そうだ。
実戦で使ってみてわかったことだが、あの術はかなり扱いが難しい。
我愛羅相手に使用した場合、確実に制御できる自信は持てなかった。
体質的に相性が良すぎるせいで、必要以上に過敏に繋がりすぎてしまうからだ。
仙術は使わないほうがまだ戦いになるかもしれない。
我愛羅相手ならチャクラ感知を利用した『ナルト式猿飛の術』の方が対応できそうなきがする。
新技が機能しないのは残念極まりないが。
とはいえできればいまは戦うことそのものを回避することが最善だろう。
そこら辺りは二人と要相談といったところか。
「………………やべ」
考えにふけっていると、髪から垂れた水でいつの間にか体がびしょびしょに濡れてしまっていた。
手拭いも一枚しか持ってきていないので、拭く物がない。
ひー、と小さく悲鳴を上げながら川から上がって岩場に上る。
絞った手拭いで流れ落ちる水を抑えるが、焼け石に水だ。
一人きりならば服をすべて脱げば解決するのだが、さすがにこの状況では実行する気にはならない。
着たままでいても、しばらくすれば体温である程度は乾くはずだ。
けれどこのまま髪を濡らしたままにしていては、後でサクラに見つかったときに怒られてしまうだろう。
足裏が泥だらけになるのも覚悟して野営地に戻らなくてはいけないところだったが、ナルトは慌ててはいなかった。
他の仲間の一人が、目を覚まして川辺に向かってきていることをすでに感知していたからだ。
そちらに合流するようにナルトはブーツを片手に持ってすこし移動する。
果たしてその人物は茂みをかき分けながら、ナルトの前に姿を現した。
サスケだ。好都合にも、その手に手拭いを一枚持っている。
あんな寝苦しい環境で一晩過ごしたというのに、その姿は汚いどころかむしろ小奇麗に、爽やかにすら見えるのは何故だろうか。これがイケメン補正というものなのだろうか。
世の中はどうやら不公平らしい。
まぁ、いまに始まったことではないけれど。
向こうもこちらに気が付いていたようで、慌てた様子もなくこちらに視線を向けてきた。
ナルトは手を上げた。
「おー、サスケ」
「………………」
返事はなく、黙ってこちらを見返している。
寝起きで機嫌が悪いのかもしれない。ナルトは気にしなかった。
「わりぃんだけど、ちょっとタオル貸してくれない?」
びしょびしょになっちゃってさー、と自身の身体を眺めながら状況を説明する。
ちょっと情けなく言って同情を誘うのも忘れない。そこらへんに関しては、ナルトは特に変にプライドもなくやれる方だった。
答えがないので視線を上げて合わせた瞬間に、サスケの視線が横に逃げた。
「………………」
そのまま押し付けるようにして手拭いが差し出されたので、お礼を言いつつ受け取る。
「?」
髪を拭きつつ、自身の状態を確認するが、別にすごく露出しているわけではない。多少水に濡れてはいるがインナーは黒色なので透けてもいない。
一応いまは女の子の体になっていることは納得はせずとも理解はしているので、元男としてそのぐらいの感覚はある。
三代目にも散々うるさく言われていることだ。
とはいえ、基本的にボンキュッボンにしか興奮しないナルトにはイマイチピンとはきていないのだが。
まぁ、ともかくサスケに限ってそんな理由ではあるまい。
このようなことをあんまり考えていると気色悪くなるので、ナルトはいつも通りその思考をさっさと打ち切った。
ついでに、赤い髪の少女がようやく離れてくれたことも伝えておく。
サスケは小さく、そうか、とだけ言って、ナルトに背を向けた。
「………………」
川の水で軽く顔を洗っているサスケの背中を眺める。
しばし、じっと見つめる。
真面目なことを考えているわけではない。
ただ単純に、
──いまここでオレが川に蹴り落としたら、こいつどんな顔するかな。
という下らないことを夢想していたに過ぎなかった。
いまの自分でも、ギリギリ許されるノリだろうか。
たぶん、無理だろう。
だが、正直見たい。というよりやってみたい。
うずうずと衝動に駆られながら葛藤していると、サスケが背を仰け反らせた。
手で顔の水を払うと、サスケは鋭い視線で背後のナルトを睨んだ。
「……おい、あまりオレの真後ろに立つな」
「ん? なんでだってばよ?」
とっさにナルトが誤魔化すと困ったようすでサスケは口を噤んだ。
「………………」
言うか言うまいか悩んでいるような顔だ。
意外な反応だ。明らかにナルトの邪念が察知されてしまったように見えたが。
サスケはハッキリとは確信が持てない、といった様子。
もしかするとさきほどのナルトと同じように、サスケの中でも異なる複数のナルトのイメージがぶつかり合っているのかもしれない。
鋭敏に邪念を察知しても、明確には、『碌でもないことをするつもりだっただろ』と断言できないでいるようだ。
まあ確かにいまの自分がそんなことをするイメージは、もはや自分の中にすらハッキリとはない。
そういうことをしたい自分がいることは変わらないままなのに、不思議なことだ。
それはなにか変なことのようにも感じたが、とにかくいまは誤魔化せそうだったのできょとんとした顔を継続することにした。
「…………まぁいい」
追及することを諦めたようすでサスケはそう呟いた。
そんなことしなさそうなナルトイメージが勝ったらしい。あるいはそれを追及してもしょうがないとでも思ったのかもしれなかった。
岩場を歩いているうちにナルトの足も乾いてきたので小石を払ってブーツを履きなおす。
そうこうしているうちにもう一つの気配が動いて、こちらに向かってきた。
カブトだ。
相変わらず頭に葉っぱを乗せたまま、藪の中でズレたらしい眼鏡を指で直しながら、ニコリ、と微笑んだ。
「やぁ、おはようお二人さん」
ナルトとサスケがそれぞれ応え、ついでに頭の葉っぱについても指摘しておいてやった。
それをすこし照れたようすで払いながら、カブトはちいさく苦笑を浮かべた。
「とりあえず昨晩は何事もなくてよかった」
そう言ってから、なにかに気が付いたようにナルトの周りに視線を巡らせる。
おそらくこのことだろうと、ナルトは先回りして赤い髪の少女のアレコレを語った。
納得したようすで、それはよかった、と喜んでみせた後、カブトはナルトたちがしたように川の方に向かって歩いていった。
「ナルト」
カブトとやや距離が離れたところで、そう真横から呼びかけられる。
「ん?」
ナルトは視線だけ動かしてそれに応える。
呼びかけて置きながら、なぜかサスケはナルトの方は見ていなかった。
「なるべくその上になにか着ておけ」
「おぉ?」
「…………試験中に体調を崩されても困る」
そんな柔な身体ではない、というのが半ば反射的に浮かんだナルトの素直な感想だった。
それに脱ぎたくて脱いでいるのではなく、赤い髪の少女が放してくれていないだけだ。
とは思ったものの、侮られているわけではないことはわかっているので、反発はせずに了承しておいた。
赤い髪の少女も、もういい加減そろそろ服を返してくれるだろう。
言いたいことは言ったのか、歩き去っていくサスケの背を追うようにして、野営地に戻る道へ向かう。
その途中で、後ろからナルトを呼び止める声が聞こえた。
ナルトが振り返ると、すこしバツの悪そうな顔でカブトが頭をかいてこちらを見ていた。
「ごめん。少し、いいかい?」
「なに?」
要件は読めない。
なにを言ってくるのか、なにを考えているのか。
相変わらず、それは掴めないままだ。
けれどナルトはあまり動揺しなかった。
自分の中で優先順位をもう決めているからだ。
必要以上に警戒することなく、かといって緩みすぎることもなく、自然体でナルトはカブトの言葉を待った。
「昨日、ボクはたぶん言う必要のない余計なこともたくさん言ってしまったな、って思ってね」
「………………」
「誓って言うけれど悪気はなかったんだ。情報を共有しようと、ただそれだけのつもりで。だけど、たぶん自分で思っていた以上にこの試験で緊張していたんだろうね。言う必要のないようなことも喋ってしまった気がして」
フム、とナルトは首を捻った。
とはいえあまり深く考えるつもりはない。
「そーかもな」
反応を見られているのはわかっていたが、ナルトはあえて思ったままに素直に答えた。
「………………試験の邪魔をするつもりはなかったんだ。ただ、ボクはあまり空気が読めない方らしくて」
「いいよ。べつに」
欠伸をひとつ。
実際、いまとなってはそんなに気にはしていなかった。
「許してくれるのかい?」
「ああ」
短く答え、より正確に自分の内心を晒した。
「むしろ、聞けて良かった」
「────よかった?」
ナルトは頷いた。
情報の真偽はともかく、どれも興味深いことだらけだった。色々考えることも多かった。
おかげで、見識がより広がった。
カブトのことは嫌いだが、そういう意味ではナルトは感謝すらしていた。
敵から学ぶことは、やはり多い。
「ここで、アンタに会えてよかったってばよ」
本心から、ナルトはそう告げた。
「…………そう、言ってくれるなら、ボクの方もホッとしたよ」
表情の読めない顔でカブトは静かにそう言った。
続く言葉はない。
話は終わりのようだ。
今度こそナルトは踵を返して野営地に戻る。
その背中に、じっとりと視線が纏わりつくのを感じた。
だが、それにはもうあまり関心を割くつもりはなかった。
目下、二次試験最大の障壁がまだ残っている。
さて、どうしたものか。