「シュッ!シュッ!」
ぶら下げられているサンドバッグを上下左右に殴りつける。日向は家の仕事前に、学校から家には帰らずにボクシングジムに練習生として通っている。
「お〜お、今日も激しく打ち込んでるね〜」
「あんな風にサンドバッグを揺らされてるとこっちの自信がなくなるぜ、まったく」
青木と木村が日向と少し離れた場所でストレッチしながら見ていた。
「小僧っ!ミット打ちを始めるぞ!」
「はい!会長!」
一人の老人がリングに上がる様に指示する。現れたのはこの鴨川ジムの会長である鴨川 源ニ(かもがわ げんじ)だ。
「準備はできたか小僧」
「はいっ!いつでも行けます!」
リングに上がり軽い運動し準備を整える。準備を整えた事を確認すると、会長はミットを構えゴングが鳴り響かせる。
「そんな大振りでどうする!もっとコンパクトに打ち込め!」
「はい!」
左右からランダムに出させるミットを細かく的確に打ち込む。時より横から出されるフックをダッキングし躱す。そして3分が過ぎると、再びゴングが鳴り響く。
「良し、1分間休憩じゃ」
「はい、会長」
「ヒェ〜、良く創のパンチを受け止められるよな」
「全くだ。とても70過ぎの人間とは思えないぜ」
日向はこのジムで一、二を争うハードパンチャーの持ち主。そんな男の打ち込む強打を70過ぎの老人が受け止められるを日頃から見ているとはいえ、青木と木村は会長を常々関心する。
「1分間の休憩は終わりだ。さぁ、こい小僧!」
「行きます!」
ゴングが鳴り、打ち込み始める日向。上下左右から出されるミットを一つも見逃さずに打ち込んで行き、8ラウンド分の時間を繰り返し続けた。
「はぁ、はぁ、今日はここまでじゃ」
「はぁ、はぁ、あ、ありがとうございました」
会長も日向も息を切らし、大量の汗を流している。二人はリングから降り、会長は会長室へ、日向はグローブを外し、タオルで流れた汗を拭き取る。
「よっ!お疲れ」
「ほれ、水」
「ありがとうございます木村さん」
木村から渡された水を受け取る。
「鷹村さんはまだ帰って来てないんですね」
「あぁ、あの人はまだ外で走ってるよ。それよりも最近どうなんだよ」
「最近って?」
「とぼけんなよ〜千秋ちゃんと最近どうなんだよ」
「ぶふッ⁉︎」
青木さんがとんでもない事を聞かれ、木村さんから渡された水を吹き出してしまった。
「げほ、げほ。な、なんで七海が出てくるですか⁉︎」
「あぁ〜?お前が千秋ちゃんのことが好きなんじゃないのか?」
木村の言葉に日向はつい反応してしまう。
「な、なんでそう思ったんですか」
「お前が初めて千秋ちゃんをウチの店に連れて来た時は、まだ半信半疑だったけど」
「この前のボウリングの時に千秋ちゃんを見る目。あれは恋した人の目だったな」
(そんな目をしてたのか俺)
「それに剣崎って奴と千秋ちゃんと二人で仲良く話してた時も、羨ましいそうにしてたのが印象的だったな〜木村」
「そうだな。あれは印象的だった」
ニタニタと笑いながら思い出す二人に、そんな顔をしていたのかと、恥ずかしさのあまり顔がトマトの様に真っ赤に染まり上がってしまう。
「きょ、今日はこの後家の仕事があるので失礼します!」
ちょうど家に帰宅する時間を利用し、荷物を整えジムから立ち去る。
「あっ!待て創!」
「逃げやがった」
もう少しこのネタで弄りたかったのだが、と日向のいなくなった後を見ながら溜息を吐いた二人だった。
「まったく青木さんと木村さんには困ったよ」
ジムから帰った日向は家のシャワーを浴び、ジムで流した汗を流し、家の仕事である釣り船で母と共に客を乗せ海に出ていた。
「だいぶその格好も様になってきたね、創くん」
釣りをしていた客が日向に話し掛けて来る。
「ありがとうございます」
「最近学校の方はどうなの?」
「えぇ、友達との毎日で楽しいです」
「そうかそれは良かった。彼女とかは出来たのかい?」
「えっ⁉︎か、彼女ですか。いませんよ」
「そうかい?君ももう歳頃な歳だ。好きな人がいてもおかしくはないと思ってね」
「す、好きな人」
そう言われ、頭に浮かんできたのは七海だった。ハッ!、と頭を左右に振って妄想を消し去った。
「昨日は大変な1日だったな」
まさか仕事場でも同じ話題を出された日向は、その手の話題を逸らすに苦労し、どっと疲れていた。
「好きな人、か」
日向は昨日の事を振り返っていた。
(確かに七海と初めて会った時、俺は七海に特別な感情を抱いた)
初めて会った入学式。初めて七海を見た時、今までに感じた事がない気持ちが溢れ出てきた。
(でもまだそれが好きって気持ちなのか、わからないだ)
単に可愛い女の子を目にして、そう思ったのだけなのかも知れない。そう考えてしまうと自分の気持ちがなんなのか、わからなくなってくる。
「ひ〜なたくん!」
「へっ?」
噴水広場のベンチで寝転びながら考え事をしていると、女性の声が自分の名前を呼んでくる。目を開けるとそこにいたのは七海のクラスの副担任になった雪染だった。
「え〜と、貴女は確か七海のクラスの副担任の雪染先生でしたか?」
「そう!覚えててくれたんだ!」
「(そりゃ、まあ。あんだけ凄い光景を見たら嫌でも思い出す)って、なんで本科の先生がこんな所にいるんです?」
「ちょっと予備学科について聞こうと、予備学科の校舎に向ってたんだけど、ここで寝ていた日向くんを見つけて声を掛けたの」
「予備学科に?一体なにを」
「最近変わった事なんてあったりする?」
「変わったことですか?いや、特にそんなことは無いですけど」
「・・・そう。所で日向くんはお昼休みなのに、なんでこんな所で寝ていたのかな?」
折角のお昼休みに勿体無い!、と付け加え喝を喝入れる。
「ちょっと寝ながら考え事をしてたんです」
「考え事?もしかして恋の悩みとか!」
(なぜ考え事で、恋の悩みに繋がるんだ)
昨日といい、今日といい、自分の身の回りにいる者はこの手の話題に食いつくのだろうかと頭を悩ませる。
「別になんでもいいじゃないですか。それより先生は戻らなくて良いんですか?」
「えっ、あっ、そうだ!この後の授業に必要なプリントを纏めないといけないんだったよ⁉︎ごめんね、日向くん。また予備学科について聞かせてね!」
それを言うと、雪染は凄まじい速度で本科に向かって走って行った。
「はは、破天荒な人だな」
「日向く〜ん!」
雪染先生が見えなくなると同時に、再び誰かが俺の名前を叫びながら呼んでくる。走りながら向かって来たのは、七海だった。
「(な、七海!ヤバいッ⁉︎ちゃんと平然と話さないと)お、おお、七海。どうしたそんな急いで走って来て」
内心ドキドキしながらも顔には出さず、普段通りに話す。すると七海は背負っていたネコ型のバックからお弁当を取り出す。
「今日は一緒にお昼を食べようと思って」
「それでわざわざ本科から遠いこの場所まで来たのか?」
「うん。ダメだった〜?」
「そんなことない!嬉しいだけど、俺、弁当を忘れて来ちゃって無いんだ」
そう、今日この噴水広場で寝ていたのは考え事をするだけでなく、腹の空腹感を紛らわせる為に来ていたのだ。
「そうなんだ。じゃあ、私のお弁当を一緒に食べよ!」
「えッ⁉︎でもそれじゃあ七海が食べる分が減っちゃうぜ」
「平気だよ。一緒に食べる方がご飯も美味しいし」
ベンチに座ってお弁当の蓋を開ける。
「ありがとう七海。じゃあ少し頂くよ」
日向もベンチに座り、懐から使い捨ての割り箸を取り出す。
「あれ?七海さんじゃないか」
「あっ、狛枝くん」
お弁当を食べようとした時、七海の名前を呼ぶ声が聞こえて来たので見ると、七海と同じ制服を着ている白髪の青年がいた。
「知り合いか?」
「うん。同じクラスの狛枝くん」
「そうか。俺の名前は日向 創。よろしくな」
ベンチから立ち上がり、手を差し伸べる。
「なぜ僕が才能のない凡人と握手しないといけないんだい?」
狛枝は日向の差し伸べた手を取らなかった。それどころかいきなり初対面の相手に毒舌を言い出してきた。日向は狛枝の言葉に眉間をしわ寄せる。
「いきなり酷いことを言うな」
基本的に温厚な日向だが、流石にこんなことを言われれば不愉快な思いをする。
「事実でしょ?本科に選ばれなかった君は学園に才能がないと見なされている」
「確かに今の俺にはこれといった才能はない。でもまだ本科を諦めた訳じゃない」
それを聞いた狛枝は大きく溜息を吐いて、頭を左右に揺らす。
「君は努力すれば何でも叶うと思っているだろうけど、価値のない人間が価値のある人間になれる訳がない。それは生まれた瞬間から明確に別れているからだ。本科に才能がないと見なされた君はまさに価値のない人間」
––––確かに努力してもそれが報われるとは限らない。でも
「それでも俺は努力し続ける」
––––それがあの人の教えだから
「はぁ、才能がある者に群がることしか出来ない人に言っても無駄か」
その一言に日向はしわ寄せた眉が更に寄せられる。
「聞き捨てられないな。俺が才能という蜜を吸う虫だと言いたいのか」
「だってそうでしょ?君は本科の七海に付いていれば、何かしらのおこぼれを貰える。そう思ったから七海に近づいたんでしょ」
もう限界と思った。自分のことを幾ら言われようが我慢はできる。だけど七海と友達になった理由が、七海からおこぼれを貰う為と言われたら、怒りを抑えられない。ボクサーがリンクの上以外でその拳を振るってはいけない。だがこの時の日向は頭に血を登らせていた為、冷静な判断が出来なかった。
だが怒りに任せて狛枝に拳を上げようとした日向を止めてくれた者がいた。
「いい加減にして狛枝くん」
黙っていた七海が喋り出す。日向だけでなく七海もまた狛枝の言い分に腹を立てていたのだ。
「七海さん。君はこんな価値のない人間と関わってはいけない。この男は君に媚へつらう愚かな存在だ」
七海は首を振って狛枝の言い分を否定する。
「私は日向くんがそんな人じゃないって知ってる。日向くんは私の大切な––––友達なの」
「七海」
「だからこれ以上、日向くんを悪く言わないで」
七海の真剣な瞳に、怒りに我を失っていた日向も落ち着きを取り戻しさせてくれた。
「えぇこと言うやんけ、ねえちゃん」
こちらにゆっくりと近づいくる男。狛枝と七海は男が着ている服が私服からこの学園の者ではないと気付く。だが日向だけは、こちらに歩いて来る男をよく知っている。何故ならその男は日向にとってライバルであり、尊敬するボクサーだから。
「千堂さんッ!」
「よぉっ!久しぶりやな日向」
大阪弁で話す千堂とゆう男に、日向は胸を躍らせ話し掛ける。
「どうして大阪にいる千堂さんがこの学園に?」
「ちょっと届けもんがあってな。ほれ、受け取れや」
千堂から渡されたのは、今日家に忘れてしまった弁当だ。
「な、なんで千堂さんが俺の弁当を」
「キサマに用があって家まで行ったんさかい。せやけど、学校に言ってるって話し聞いてな。なら直接会いに行こおと考えた時、弁当を忘れていたことを思い出して、会うついでに思おて、お袋さんから弁当を受け取ってここまで来たんや」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
「気にすんなや。ワイはキサマに元々会おうとしたついでに持って来ただけやしな。それよりも。おいっ、そこのキサマ」
楽しげに話していた千堂だったが、狛枝に鋭い目つきで指差す。
「なんでしょう?」
「キサマ、言ってな。この男が価値のない人間と」
「えぇ、言いました。事実ですから」
千堂はくっくっく、と笑い出す。
「キサマは何もわかってないのぉ。この男はキサマが思おとる程の奴やない。この男は才能なんかよりも恐ろしゅうもんを持っとる」
「才能よりも凄い物?それはなんです」
「キサマには一生わからん物や」
それを聞いた狛枝は珍しく表情を歪ませる。
「そうですか。ならもう話はなさそうなので、僕は失礼させて貰います」
狛枝は日向たちを後にしてこの場から去って行った。
「カッ!ムカつく奴やで」
「千堂さん」
「おっと!そうや。キサマに弁当とこれを渡す為に来たんやった」
上着の内ポケットから2枚のチケットを出す。
「今度の土曜日に後楽園で試合があるんや。良かったら誰かと見に来てれや」
「行きますよ!千堂さんの試合を生で見る機会なんてそう無いんですから!」
「なら、ド派手などつき合いを見せてるわ!楽しみにしとれ!」
日向が見に来ることを聞いた千堂は上機嫌な表情で、自分が泊まっている宿に走り帰った。
「今度の土曜日か。これは絶対に行かないと「日向くん」ん?」
「私も一緒に行ってもいい?」
「えっ?でもこれボクシングの試合だぜ。それでも行くのか?」
「行く」
「・・・わかった。試合は夜から始まるからちゃんと親の許可を貰わないといけないけど、一応チケットは渡しとくな」
千堂から貰ったチケットを1枚、七海に渡す。
「家に帰ったら、お父さんに聞いとくね」
七海は手渡されたチケットを受け取り、一緒にお弁当を食べ始めた。