GURPSなのとら   作:春の七草

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第三話『病床』

序、

 超常存在の“うっかり”によって殺害された僕は、GURPSのキャラクターとして超常能力を得、とらいあんぐるハートの世界へと転生することになった。超常存在は“リリカルなのはの世界”と言っていたが、一体何故ファンディスクの一シナリオ名を強調するのだろうか? 不可解な話である。

 ともあれ、おぎゃぁと生まれてみればそこは神咲家。とらいあんぐるハート2のヒロインの一人、神咲薫の妹として生まれたらしい。退魔師として生きることはほぼ確定か。

 

 この身がTRPGのシステムの一つ、“GURPS”のキャラクターとしてデザインされている以上、霊力その他とらハっぽい超常能力は持ち合わせていないわけだが。はてさて、どうしたものやら。

 とりあえず、GURPSのキャラクターとしての魔法の才能はあるようなので、そちらで霊能の欠如を補う必要はあるだろう。でも、GURPSの魔法って基本的に地味なんだよなぁ。果たしてどこまで補えることやら。大いに心配である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第三話『病床』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 ぐにゃぐにゃ、どろどろ。

 世界はゆがみ、凹んだり盛り上がったりと好き勝手に脈動している。温度感覚は完全に壊れたらしく、大気の寒暖が痛みとしてしか認識できない。距離感どころか空間感覚自体も狂ったらしく、自分の形さえ良く分からない。今の僕なら、極めてアレな元ネタを有する異次元人と見間違えられること請け合いだろう。あくまで僕の主観の中では、だけど。

 

 肺腑の痛みをこらえ荒い息でどうにか呼吸っぽいものを繰り返しつつ、僕は布団の中でうなされていた。今日も今日とて病人生活。平常運転である。

 

 GURPS的に表現するなら、僕の生命力は7である。この能力値7とは明白に“悪い”とされる値であり、僕に出会った人間誰もが無条件で僕が病弱、貧弱であることに気がつくレベルである。

 その上で僕は“非常に不健康”の特徴を持つ。これによって病などに抵抗することは更に困難となっており、ほぼ常に病気にかかっているといっても良い状態である。

 転生した僕の体は、いっそ清々しいまでに病弱なのだ。やりたいことは多くあるが、正直そんなことをやるよりもまず、生きることが困難な有様である。

 

 転生し、2回目の人生を歩み始めた以上。今回くらいは今生の家族に迷惑をかけずに生きて行きたいと思っていたのだが、まったくもって上手くいかない。早いところ、状況を打破する必要があるだろう。

 

 

 

 そんな益体もないことを徒然と考えていると。

 ふと、手にひんやりとした感触を感知する。発熱で狂った感覚はそれを痛みとして認識したが。僕は己の反射的な“それ”を払いのけようとする動作を、意識的に阻止した。

 少しざらつき、乾いた感触。この感触は覚えている。今生において、何度も経験したものだ。

 

 果たして熱で潤んだ視線を向けた先には、見慣れた老婆がいた。大叔母の、亜弓さんである。

 彼女の手が、僕の手を握っているのだ。正座し、僕の手を握ったままじっと目を瞑っている。

 

 「―――――」

 

 ぐわんぐわんと耳鳴りの続く聴覚に、音声が飛び込む。現在機能不全中の僕の耳はそれを言葉として認識できなかったのだが。恐らくは“神気発勝”と言っているはずだ。本来どういう意味なのかは知らないのだが、神咲一灯流においては霊力集中時に用いられる言葉である。

 同時にぼんやりと彼女と僕の手に光が灯る。ほんの少し暖かい、青い光だ。原因は病か、熱か。温度感覚が痛覚と直結したかのような今の状況でさえ、それは痛みではなく暖かさを伝えてくる。体の奥底にまで入り込んできて、僕の最奥にあるナニモノかが活性化される。

 

 「―――――」

 

 次に彼女が呟いたのは、何だったのか。

 青い光は拡散し、僕の体を包み込む。

 数秒の間をおいて、呼吸が楽になった。霞がかかったかのようであった意識がはっきりとし、思考速度が元に戻る。世界が急速に整頓され、耳鳴りが収まる。

 

 亜弓さんの霊能、「癒し」の霊術の結果だ。対象の魂を活性化させることで物理的な治癒力を発揮する術理だそうな。怪我だけでなく病に対しても効果があるかどうかは術者しだいだが、彼女のそれは病に対しても充分に効果を発揮するようだ。

 僕が高熱を出して倒れるたびに、こうして術をかけてくれる。さすがに日課とまではいかないが、週一というほど少ない頻度の話ではない。四六時中霊能の助けを得て、僕は生かされているというわけだ。

 

 「ありがとうございます。大分楽になりました」

 

 布団から身を起こすことなく、僕は礼を言う。

 当然そうすべき行動であるとして、最初のうちは身を起こして頭を下げようとしていたのだが。それをしようとするたびに止められるので、さすがにやるわけにはいかなくなった。

 もう数えるのも馬鹿らしいほど、彼女の霊能の世話になっているのだ。毎回彼女の意向を無視するのは、例え礼を欠くことになったとしても、是とされる行動とはなりえないだろう。

 

 「礼のいる行動ではないはずなんじゃがの」

 

 大叔母がため息をつく。毎度のことながら、妙なことを言う。彼女の「癒し」の霊術は、希少性があり、また大きな価値がある。わずか数分で病を緩和する力とは、金儲けに走れば巨万の富を得ることだって不可能ではない能力のはずだ。そんなものを頻繁にかけてもらっている以上、最低限頭を下げるくらいはしないとおかしいだろう。

 

 とはいえ、当人がそう思っているならば、叛意を促すようなことでもあるまい。僕はそれ以上言葉を連ねようとはせず、口を閉じる。

 

 「……ま、いいじゃろ。

 こんままきゅ(今日)一日は寝ておきなさい。明日には熱も下がっているじゃろう」

 

 ぽん、と僕の頭をなでて、そのまま大叔母は部屋を出て行く。

 無茶苦茶な発言である。僕が今回罹患したのはただの風邪ではなく。マイナーながらも固有の病名を持った、幼児には危険な疾患であったはずなのだが。だが、彼女がそう言うということは今回もまた、その通りになるのだろう。恐るべき能力だ。

 その脅威の能力、「癒し」の霊術は神咲流ではあまり使い手のいない特殊な術だそうで、当代に彼女以外の使い手はほぼいないのだとか。原作で十六夜さんが傷を治してたような気がするが、彼女の治癒能力は傷にしか利かないし、別物なのだろう。

 もう十年もすれば那美という使い手が出てくるわけだが。原作だと那美が霊能力者として神咲家の入ってくるときには、亜弓さんは久遠によって消しズミにされている。勿論この世界においてもそうなるとは限らないし、僕自身どうにかそれは阻止したいところだけれど。

 ん、いや。待てよ? 久遠が那美と神咲家にやらかした損害を阻止すると、那美って神咲家に入ってこないのではなかろうか。両親が生きてたら養女にはならんよなぁ。久遠と那美の友情とかも見事に発生フラグが折れる気がする。……まあ案外そうならないかもしれないし、人の命も懸かっているし、久遠が暴れたら原作の流れなど気にせず全力で阻止することになるだろうけど。

 

 

 

 まあ、そんな未来の話はともかく。

 

 

 

 武芸を嗜んでいるからか、他の要因か。ひどく綺麗な姿勢でそのまま襖を閉める彼女を見つつ、考える。

 

 基本的に退魔業で全国を飛び回るのは現神咲一灯流継承者である和音婆様であり、亜弓さんはこの地に腰をすえている。が、それでも封じた妖怪、悪霊の監視。或いはこの地での霊障への対処など、暇なわけでもない。恐らくはこのままどこかの現場なり何なりに出かけるのだろう。

 本来ならば、彼女はこの神咲家にいるよりも、外を飛び回っている時間のほうが長いはずの立場の人間である。

 にも拘らず亜弓さんが家にいることが多いのは、偏に僕の治療のためである。僕が倒れれば必ず戻ってくるというわけではないのだが。それでも重病となれば必ず彼女は神咲家に舞い戻り、僕を治療する。和音婆様と雪乃母さんは「癒し」の霊術は使えないようだが、退魔業から帰ってきてそのまま僕の看病を……などという事態もままあるようだ。

 基本的に、神咲家の人間はばたばたとあちこちに行っている時間の多い人間たちなのである。

 

 

 

 そう、忙しい人たちなのだ―――――

 

 

 

 視線を横に向ける。敷布団の横に、皿が置いてある。先ほどまで頭が沸騰していたので“いつの間にか”としか言えないが、母が置いていってくれたのだろう。ラップに包まれ、切り分けられた林檎があった。

 

 食べられるようなら、食べて。早く元気になってね。母より―――――

 

 聊か若すぎるきらいのある丸文字で、メモまで残されている。うん、間違いなく母の字だ。

 半ば意識の飛んでいる娘に林檎を置いていってどうするのかという問題。或いは消化器官が疲弊した現状で、固形物は口にできないという実情はさておいて。歪ながらもうさぎ型に切られたそれは、ただ親としての義務感のみでは決して作られないものだ。

 

 たまらず、寝返りを打った。皿に背を向ける。

 僕は転生者だ。

 それは僕自身の意思、選択、努力でなったものではないにせよ、大きなアドバンテージである。

 例えば普通の赤ん坊が言葉を覚えているうちに、他の言語を学べるかもしれない(前世と違う国に生まれれば、自然とそうなるだろう)。常の赤ん坊が二足歩行に苦闘している最中、数学について復習できるかもしれない(教材資材を用意できればだが)。用便その他生理機能の制御についても、外部からの干渉に助けられることなく、自発的に学ぼうという意思を持っていられるのだ。普通の赤ん坊に比べて、転生者である赤ん坊は学ぶのが早いはずだ。

 

 かように転生者とは、本来赤ん坊が学ばねばならぬ多くのことをすっ飛ばし、自分の裁量で様々なことを学べるのだ。ために同年代の子供達に比べて優秀であるのは当然であり、本来凄まじい重労働である子育てについて、家族の負担を減らせて当たり前の立場にある。

 

 にも拘らず、僕の有様はどうか。

 四六時中病に倒れ、忙しいはずの家族に余計な手間をかけさせ、自身は学ぶ時間を大いに浪費している。本来手早く自立できなければならない立場であるのに、その対極をひた走っている。

 

 羞恥の念が身を焦がす、とは。このようなときの情動的反応を表したものだろう。焦ったところで病は治らず、大人しくするのが最良の行動だというのがまた歯がゆい。

 

 ともかく、この病の身を何とかしなくてはならない。短期的には今罹患している病を完治させること、中期的には日常的な発熱による昏倒の頻度を低下させること。長期的には、健康体になることが目的か。

 怪しげな前世の意識などなく、最初から普通の子供として振舞えるならば、家族の恩恵にあずかり続けるというのも当然の選択肢なのだろうけど。さすがに今更それはできない。

 僕にはただの子供には存在しない、恐らくはよりましな選択肢が提示されているのだ。それに目をそむけて家族の手にすがることは、決して許される話ではない。

 

 

 

 早いところ、アレを学ばなければならない―――――

 

 

 

 目的のためになすべきことについては概ね見当が付いている。僕がGURPSのキャラクターであるという認識が間違いなく事実なのであれば、恐らく上手くいくはずだ。

 

 そのためにも現在の病をさっさと治さねば。

 

 気合を入れたからといって治りが早くなるわけでもない。取り敢えず大人しくしている以上のことはできないので、僕は全力で大人しくすべく額の氷嚢の位置を直すのだった。

 間抜けな有様である。病魔が憎い。

 

 

 

 

 

 余談だが、林檎は結局そのままでは食べられず、姉さんが摩り下ろしてくれた。ありがたい話だ。

 

 でも姉さん、人が動けないことをいいことに真顔で “あーん”とかやらないでください。おちょくられてるならともかく、真剣な顔でやられると断れないじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二、

 1年ほど経った。

 転生し神咲家に生まれた僕は、これで4歳になったことになる。姉たる薫は5歳。一番近い原作はとらいあんぐるハート2であるわけだが。確かその時点で姉さんが高校1年生であったはずなので、原作開始までなお11年の年月が必要ということになる。……それで間違いないはずだ。たぶん。

 

 体調についてはさして改善されていない。流石に日常生活の最中にぱたりと倒れたりすることはなくなったが。それはその前にある兆候を、僕や周りの人間が理解できるようになった、というだけの話でしかない。無意味ではないにせよ、微小な一歩である。

 今日も多少微熱があり、たびたび咳き込んでもいる。まあ動けないほどではないので、床に臥せってはいないが。

 

 

 

 現在、僕はげほごほとやりながら神咲家の蔵の中で書籍を漁っている。4歳児の行動としてはどうかと思わなくもないが、とりあえず、周りにやめろとは言われていない。和音婆様の読んでいた数百年前の神咲家当主の日記を、さらっと読んでみたのが良かったのだろう。前世就職時には散々役立たず呼ばわりされた古代日本史専攻という経験も、こういうときには役に立つ。

 

 ともあれ、なんだって古書あさりなどをしているのかといえば。呪文の習得のためである。

 どうも神咲家古文書の幾つかには、GURPSの呪文習得のための指南書としての働きがあるようなのだ。

 

 勿論、退魔師の家系である神咲家とはいえ、魔法の呪文なんぞというトンデモな代物は伝承していない。少なくとも、原作にそんな描写はかけらもない。

 一応治癒やら何やらの霊術は伝えられているし、実際大叔母である亜弓さんのそれには散々世話になっている。とらハ3では那美も「癒し」の霊術を使っていた。が、それらは魔法ではなくあくまで霊能である。退魔師の家柄である神咲家に、魔法は存在しない。

 にも拘らず僕が魔法やら呪文やらという、世界観を無視したかのような代物を学べるのは。“僕という転生者がいるから“という実にミもフタもない事情によってである。

 

 僕はGURPSのキャラクターとして、“特殊な背景/魔法学習の機会を得る”という特徴を持っている。この能力によって、僕は本来GURPSの魔法が存在しないこの世界において、GURPSの魔法を学ぶことができるのである。

 勿論そんな特徴を持っているからといって、虚空から魔導書を召喚し、それを読むことができるわけではない。理由付けは必要だ。

 恐らくその理由付けのために、“神咲家の蔵に魔法の指南書がある”という状態に“なった”のであろう。

 

 現在、神咲家の蔵を漁れば、祖先の記した霊術指南書として、僕の知る“GURPSの魔法”についてのノウハウが記された書籍が存在する状態となっている。色々まじめに考えると不気味な事態ではあるのだが、役に立つのは間違いない。

 

 

 

 僕が早急に学ぼうと考えているのは、このGURPSの呪文の中の“治癒系”の呪文である。

 

 怪我や病気や毒、或いは精神障害や薬物中毒、果ては失った四肢や老化、死さえも克服する何でもありの系統である。尤も強力な魔法は膨大なエネルギー消費を必要とするので、この方面について相当に強力な才能を持つ僕であっても、単独ですべてを使うことはできないのだけれど。

 

 

 

 

 

 何冊かの書籍を抱えて、部屋に戻る。照明の充実した、誰も使っていない部屋である。書見台に書籍を広げ、正座してそれに相対する。視力の都合上、書物を読むときはかけざるを得ない眼鏡は、古式ゆかしい(……のか?)黒縁眼鏡である。

 ……僕が和服を着ていることもあり、はたから見ると実に時代錯誤な光景だが。少なくとも和音婆様は、読書とはかくあるべしと固く信じているらしい。以前、普通に縁側で脚をぶらぶらさせながら読んでいたら拳骨が落ちてきた。おっかない話である。

 

 ちらりと、時計を見る。午前10時。

 昼食まで2時間。昼食後にまた2時間は読めるだろう。その後肉体年齢の都合上1時間ばかり昼寝することになり、起きれば午後3時すぎ。夕食を食べる7時まではまた読める。それで4時間。いや、ぶっ続けでそこまでは読めない。それに雑多な家の手伝いもある。実質2時間か。

 その後はほとんど読めないだろう。寝る時間も早いし、この体で根を詰めると翌日発熱する。となると。僕は呪文の学習に6時間を費やすことができる。

 因みに、今まで寝ていたわけではない。1時間ほど前までは、姉さんと一緒に礼儀作法を叩き込まれていた。姉さんは今頃剣術のほうを学んでいることだろう。

 基本的に神咲家は、相当に厳しい躾をするつもりらしい。別に僕はそれでもいいのだが、遊びたい盛りの姉さんには辛いのではないだろうか。特に彼女が不満を漏らす様子はないが、それでも心配である。一応外で遊びたいとの旨、両親に進言しておくべきか。うまくすれば、姉さんも同い年の友達と、外で遊べるようになるだろう。

 

 

 

 まあ、今心配しても仕方がない。自分の面倒も自分で見られないのに、他人の心配など思い上がりもいいところであろう。最低限の言伝以上のことはせず、さっさと自分の成すべき事を成すのが吉か。

 

 

 

 さて。

 GURPSのキャラクターの成長には、2種類ある。

 

 1つは冒険による成長。大抵のTRPGが示しているそれと同様のものである。

 何らかの冒険。……例えばゴブリンの群れを撃滅し、村の窮状を救うとか。或いは町に巣食う邪悪な暗黒神官を殺害し、生贄の少女を救出するとか。

 その手の冒険をこなし、それによってキャラクター作成時にも使用した予算“CP”を手に入れ、それを消費して成長する。コンピューターRPGなら、イベントをこなしてレベルアップして、それで手に入れたスキルポイントで必殺技を習得するとか、そのようなものになるのだろう。

 

 もう1つの方法は学習による成長である。

 通常GURPSで遊ぶ場合、この成長は行わない場合が多い。普通素直に冒険した方が成長が早いし、一々計算することを煩雑であると感じる遊び手も多い。

 が、家から出るだけでも大冒険レベルな貧弱さを誇る僕の場合、こちらをもって成長の主軸とするほかに手段はない。呪文を習得する場合も、素直にこちらのルールに従って獲得している。

 

 教科書は神咲家の蔵にあった古文書。十数代前の当主が記した術理に関する指南書である。僕という“特殊な背景/魔法の学習機会を得る”という特徴を持った存在がいることによって、昔からあったことに“なった”書籍である。

 変体仮名で書かれているが、まあたいした問題ではない。旧仮名遣いの古語辞典という、実に笑えない代物が蔵にあったので、それを片手に読めばよいのだ。

 

 教師は、いない。霊術が使えるのだし、亜弓さんあたりに教わろうと思ったのだが。どうも古文書に書かれた呪文は“失われた霊術”や“神通力”扱いならしい。要するに亜弓さんも知らなかったり、存在は知っていても使えなかったりして、こちらに教えることなど不可能な状態であった。結局、僕は古文書片手に独習するしかない。

 

 教師がいない独習の場合、400時間の学習で1CPを得ることができる。ただし、才能のある人間が一を聞いて十を知るように、魔法の素質があるものはある程度この呪文習得に必要な学習時間を短縮できる。僕の場合、240時間の学習で1CPを得、1つの呪文を習得できる。毎日6時間学習するなら、概ね一月半で1つ、呪文を習得できることとなる。

 

 

 

 僕がこの時点までに学んだ呪文は3つ。

 即ち《エネルギー賦与》、《バイタリティ賦与》、《小治癒》である。

 3つ学ぶのに必要な時間は720時間であり、毎日6時間学習に充てている。結果僕は120日の学習でこれらを習得した……と、言いたいところだが。残念ながらそんな真似は不可能であった。

 一応健康に気を遣いながら学習を進めていたが。それでも週の半分は寝込んでいるか、或いはそこまででなくとも学習ができる状態になかったのだ。結局、僕は8ヶ月近くをかけてこれらの呪文を習得している。時間のかかる話である。

 

 僕が治癒系統で覚えようとしているのは《病気治療》の呪文である。

 その名の通り病気を治す呪文であり、これがあれば風邪も肺炎も怖くない。呪文一発で健康体に逆戻りとなるのだ。まあ、本質的に病弱であることに変わりはないので。健康になったと調子に乗ると、一発で意識を失うような疾患に罹る可能性があり油断はできないのだが。

 ともあれ、この呪文を習得すれば僕の病苦も家族の負担も大分軽くなることは間違いない。昏倒している時間を減らすことで、呪文習得に振り分けられる時間も増えることだろう。1つの呪文を習得するのに2ヶ月以上かかるなどという事態も緩和されるはずだ。

 

 が、記念すべき習得呪文第1個目としてこの《病気治療》を取る、ということはできない。

 GURPSの呪文にはたいていの場合、“前提条件”というものがあるのだ。その呪文を習得する前に、もっと単純な別の呪文を覚えていることや、或いは魔法の素質や知力が一定値以上であったりすることが条件として提示されているのである。

 コンピューターゲームで例えるなら。

 某オンラインRPGでファイアーウォールの呪文を覚えたければ、ファイアボルトとファイアーボールを一定のレベルにし、更にサイトの呪文を習得しなければならない。などといったものになるのだろう。

 

 《病気治療》も前提条件を持っており、幾つかの呪文を習得していなければ習得できない。更に、《病気治療》の前提条件となる呪文もまた前提条件を持っており、これもまた幾つかの呪文を習得している必要がある。

 

 結局、《病気治療》の覚えるためには、その前に5つの呪文を覚えておく必要があるのだ。《病気治療》を覚える手間もあるので、まったく呪文の使えない状態から《病気治療》を覚えるには、6つの呪文を取得するだけの時間が必要となる。僕の場合、要求される学習時間は1440時間だ。既に前提呪文のうち3つは覚えているので、これから先の必要学習時間は720時間。8ヶ月かけて、なお道半ばということである。《病気治療》習得後に覚えようと思っている呪文も100を超える。最終目標は勿論すべての呪文習得であり、そこまでいくと1000種以上。先は長いのだ。

 

 

 

 もっとも、前提として覚えた呪文も役に立たないわけではない。今までに覚えた3つの呪文のうち2つは、あまり使う機会のないものだが。最後の1つは役に立つ。上位互換呪文があるので、それを覚えるまでではあるけれど。

 

 

 

 脇においていた筆箱から、小刀を取り出す。鉛筆を削るためのものだが、よく研いでおいたので切れ味は良い。

 

 逆手に持って、そのまますぱっと自分の手を切り裂く。白い手のひらに、真一文字に赤い線が描かれた。一拍の間をおいて、傷に熱さと疼みに似た痛みが走り、切り口に沿ってぷくりと血が盛り上がるように出て来る。見る間に溢れ出たそれは、ぽつぽつと腕を伝っていく。

 

 同時に視界がぼやけ、意識が拡散する。そのまま10秒ほど呆然と何もできないまま座っていると、段々意識が収束し、まともに思考ができるようになる。ルール的には一撃でHPの半分以上のダメージを受けたために大怪我のルールが適用され、朦朧状態となったということである。

 

 

 

 現実的にはおかしな話だが、GURPSのルールでは1点未満のダメージについては端数切り上げで処理することとなっている。つまり、ダメージを受けることがあればそれがどんなに小さいものでも、1点のダメージは受けるということだ。勿論ちょっと小刀で自分の指を切っても、である。

 まあ、ゲーム的なルールと現実とのすり合わせは行われているらしく、例えば屋内でこけてこぶを作った程度ではダメージは受けていないようだ。現在僕がちょっと指を切っただけでダメージを受けたのも、僕がこの先の行動のために“ダメージを受けよう”としたからだろう。僕自身の意図が、ダメージとなるかならないか微妙な損害を、ルール的なダメージに変換したということか。

 

 さて。

 現在の僕のヒットポイントは2点しかない。つまるところ、僕はほんの僅かでも“ゲーム的なダメージ”を受けてしまえば、自動的にそれは大怪我のルールが適用される大ダメージを受けたことになってしまい、朦朧とするか、気絶することとなるのだ。

 今回の行動もうっかりすれば気絶する可能性があり、あまりやっていい行動ではないのだが。今から試そうとしていることは、一度もやらないままにはできない類の行動なのだ。止むを得ないだろう。

 

 小刀を置いて、じっと手を見る。指を一本伸ばし、傷口へと触れた。溢れる鮮血が、指先にべとりと朱をつける。

 精神を集中する。

 

 

 

 1秒。

 

 

 

 空間中の超常的構成物“マナ”を介し、自分の意思を極めて怪しげな法則に基づいて現実へと押し付ける。

 脳裏に文字列が踊る。

 

 《小治癒》、消費1点で使用。

 マナ濃度……並である。ペナルティなし。

 詠唱……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 結印……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 対象までの距離、接触。技能レベルにプラス2のボーナス。

 ダメージにより技能レベルにマイナス1のペナルティ。

 技能レベルにより消費6点軽減。……エネルギー消費ゼロ。

 詠唱時間1秒。

 成功率約9割8分1厘。

 判定……成功。

 対象の生命力を1点回復。

 

 脳裏に浮いたそれら文字列を認識するよりも早く。僕の行った行動の効果は発揮された。

 

 輝く魔法陣も、きらきらと降り注ぐエフェクトもない。効果音さえ一切ない。ただ身も蓋もなく、瞬時に手のひらの傷が消失した。手ぬぐいで出血をぬぐえば、つい1秒前までこの手に真一文字に傷があったとは誰も思わないだろう、やせ細った白い腕が見えるばかりである。

 

 《小治癒》。

 回復呪文の一種だ。エネルギー1点につきHPを1点回復させることができる。手のひらを切った程度のダメージならば1点ぶんで充分に治癒できる。

 本来ならば今回の呪文行使はエネルギーを1点消費する。つまり1点ぶん疲れるのだが。僕の場合、魔法の素質と知力が高いので、6点分エネルギー消費を軽減させることができる。つまり、ノーコストで使用できるのだ。

 

 この呪文は、GURPSのキャラクターはあまり使わない。なぜなら、これを前提として覚えられる《大治癒》という呪文があり、こちらが完全な上位互換となっているからだ。まあ、回復呪文には制限が存在するので、《大治癒》を覚えていても《小治癒》を使う機会は絶無とはならないのだけれど。

 

 

 

 ともあれ、魔法は使えるようになった。あとは習得呪文の数を増やし、できることを増やしていけばいい―――――

 

 

 

 早く健康になって、家族への負担を減らしたい。彼らの役に立ちたい。切実にそう思う。

 

 ただの子供なら、ただの4歳児ならば。

 病弱の身でもあることだし、親に親族に頼りきりのおんぶ抱っこも許されるだろう。むしろ子供があまりそういった事態を気にするのは、良いことでない気もする。

 が、僕は転生者だ。ただの子供ではなく、そうなる前に四半世紀ばかり人間をやっていた身である。子供が経験すべき、惜しみなくたくさんのものを、無条件に与えられる時期はとうに過ぎているのだ。にも拘らずただの子供として振舞うことは、許される話ではない。

 

 僕は可能な限りすばやく、一人立ちできる状態を作らねばならないのだ。無論、その上で彼らと共に生活するのか、それともほんとに一人暮らしをするのかは別問題だが。

 

 

 

 再びけほこほと咳き込みつつ、僕はそう考えをまとめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 余談だが、床に落ちた返り血の片づけを忘れていることに寝る前になってから気が付き、あわてて掃除に走ることになる。

 幸い家族に気がつかれることは無かったが。夜中に動いたことと寝不足で、当然のように翌日寝込む羽目となった。

 

 いや、ほんと。この体、どうにかならないものなのか。

(続く)




 神咲亜弓はオリキャラ……ではありません。とらハ2本編で登場したことは(たぶん)無いはずですが、小説版とらハ3那美・久遠篇で登場します。……まあ、台詞どころか一切の活躍が存在せず、久遠の電撃で消しズミにされてしまうのですが。
 「癒し」の霊術については小説版とらハ3那美・久遠篇準拠です。……病気が治せるかどうかは怪しいのですが、その辺は捏造設定ということで。
 亜弓さんが使えるかどうか、和音や雪乃が使えるのか使えないのかも不明です。”あまり使い手がいない特殊な術”なのだそうですが。このお話では、亜弓さん(とまだ生まれていない那美)のみが使えるということにしています。

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