GURPSなのとら   作:春の七草

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第九話『襲撃』

序、

 嫌な予感は膨れ上がっていく。碌でもないことが起こるのは間違いない。そう確信させられるだけの何かを感じる。

 腹の底に得体のしれぬ重いものを感じる。背中から、首から、耳の後ろ辺りから。ひどく不快で底冷えのする汗が流れる。つばを飲み込もうとして、のどがカラカラになっているのに気が付いた。お茶でも飲んでおいた方が良いのだろうか。

 一応、単に病気になっただけかと《病気治療》の呪文を行使するが、事態は改善されない。本当に、ひどく“嫌な予感”を感じているということであり、体調の問題ではないということのようだ。

 

 しかし現状で予知能力を持たない僕が何故“予感”などというものを覚えるのだろうか。

 

 勿論、普通の人間だって嫌な予感を覚えることくらいあるだろうし、そういった意味では僕という(幾つかの能力を除けば)ただの人間が予感を覚えたっておかしくはない。

 とはいえ、普通の人間が覚える“予感”とは、それまでの経験や知識から脳が過程をすっ飛ばして導き出した“予測”であるはずだ。常人ならばそのすっ飛ばした過程を明文化できない可能性もあろうが、ティンダロスの猟犬に匹敵する僕のIQ(知能指数でもインテリジェンス・キューブでもない。GURPSの能力値の一つであるところの知力)でそんな事態が起こるというのはおかしな話だ。

 ではどういうことなのか、と問われても困るのだけれど。なぜ僕はその“予感”に至った理由について明文化できないのだ、わからん。

 

 そしてもちろん、事態の変化というやつは僕の悩みなど知ったことかとばかりに起こるものであるし、大抵の場合人が悩んでいたり、困っていたりする時に起こる変化というやつは良いものではない。

 

 「舞奈、すまんがちょっと……」

 

 僕が勝手に勉強部屋として使っている和室でどうしたものかと唸っていれば、襖を開けてすまなそうな表情で亜弓さんが入ってくる。さっき姉さんを風呂に入れていたのに、今彼女が纏っているのは式服……退魔師としての仕事時に着ていく巫女服に似た仕事着……である。更には手にしっかり布を巻いた弓を持っているのだから、これはもう予感がどうとかいう話ではない。

 

 

 

 「夜半にすまんが、わしはちょっと出かけねばならん。薫と一緒に、留守を頼むぞい」

 

 

 

 ……いや、ちょっと待って欲しい。いくらなんでも、夜分に5歳児と6歳児のみを家において出かけるのはどうなんだろうか。日本はその辺りさっぱり気にしていないので違うのだが。子供の権利にうるさい国ならば、2回もやれば親権を取り上げられるレベルの問題行動だったはずなのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GURPSなのとら/第九話『襲撃』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一、

 継続的におかしなことが起こっている状態で、更には嫌な予感がしている最中に、唯一の大人が家からいなくなる。ちょっとどころでなく歓迎できない事態である。

 翻意を促すべくあれやこれやと言ってみたのだが、徒労に終わった。いや、まあ当然ではあるのだ。

 

 神咲家は人ごみでごった返す街の中を、抜き身のまま闊歩しても咎め立てされないレベルの特権(神咲一灯流の剣士は戦闘中鞘を捨てて戦っているので、そうでなければ悪霊の位置次第で自分がお縄につく羽目となる)を持った退魔師集団だ。当然その権利に付随する義務も大きく、重い。

 どこからが慣習で、どこまでが法律で定められているのかが今一はっきりしないのだが。ともかく神咲流の人々は退魔の業務と自己の家族や良心が天秤に掛けられた場合、前者へと傾く傾向にある。彼女たちは必要とあらば自分に助けを求めてくる幼子の霊だろうと切り捨てるし、過去には数百人、現代においては少なくとも人間3人(うち一人は自分の肉親)を殺した怪物であろうとも、故が無ければ切ろうとはしない。兎にも角にも、退魔師の仕事が優先されるのである。

 で、あるからして。無論自分の孫(違った、曾姪孫)が危険な状態になりかねないとわかっていても、夜中自宅に6歳児と5歳児二人のみを残さねばならぬ状態となろうと、退魔の仕事が入ればそちらを優先するものなのだ。

 

 別段、それは彼女がことさらに薄情であったり、人情に欠けていることを意味するのではない。

 幼児二人に留守番させるという点については、明らかに精神年齢がおかしい僕がいる以上(社会的にはともかく実質的には)さほど問題はない。姉さんだって年齢を考えれば十分成熟している方だ。少なくとも、大人がいないからと火遊びをするタイプでもない。……子供の“何々するような子ではない”というのは往々にして吃驚するほど当てにならないものだが、まあともかく。

 

 万が一怪異に襲われた場合については、神咲邸の結界の操作についてのあんちょこを渡された。<職業技能/退魔師>の技能レベルも十分高いので“必要とあらば人の出入りさえ拒む”強力な結界についても、これさえあればどうにか操作できよう。家の外から怪異が襲いかかって来たならば神咲邸の結界をもって対処すればよい。遠隔地から呪術を掛けられた場合も同様である。400年以上にわたって退魔師を輩出してきた一族の屋敷である。その霊的な防御能力は尋常一様のものではないのだ。

 

 一番心配なのは僕が病気で倒れた場合の処置である。《病気治療》の呪文が間に合うならば何の問題もないのだが。先日のように呪文をかける間もなく意識を失ってしまえば僕にはどうしようもない。一旦気絶してしまったら最後、6歳児たる姉さんに己の命を委ねるしかないということだ。

 はたして未だ就学年齢にも達していない彼女はちゃんと黒電話を操作して救急車を呼び出し、自分の住所と妹の状況を先方に伝達し。更にはやって来るであろう救急隊員と不審者の区別をきちんとつけて門の鍵を開けることができるのだろうか? 僕が倒れた場合の対処法が平仮名で書かれたメモを穴が開くほど見つめている幼女の姿に、不安を覚えぬわけではない。

 が、これについてはもう運を天に任せるしかない部分がある。極論すれば、家に大人がいたって呪文も医療機関も間に合わずに死ぬ可能性はあるのだ。この点についてはきっと大丈夫だと決めてかかるしかない。船到橋頭自然直、Queseraseraだ。……それしかないのだから、腹をくくるしかない。

 

 

 

 ブラウン管テレビの向こうで、マスコットキャラクターを取り込む鬼畜ロボを擁するスーパー戦隊が活躍していた年。

 年の瀬も迫ってきた、大雪と冬至の狭間であるところの時期。

 

 僕と姉さんの、“はじめてのおるすばん”が始まった。

 

 

 

 なお、どこぞの成人向けパソコンゲームとは無関係である。とらいあんぐるハートシリーズもまた同じジャンルのソフトだが、関係ないったらないのだ。……あってたまるか。

 

 

 

 

 

二、

 かちり、かちり、かちり。

 

 違い棚の上で、古色蒼然とした置時計が無機質に時を刻んでいく。雨戸の閉められた和室の中は、蛍光灯の光があるにもかかわらずそちらに、あちらにと濃い闇を残しており、なんとも息苦しい。横たわった布団の汗や脂肪、洗剤が陽光で分解された、所謂お日様の匂い。或いは畳の籠ったイグサの臭いは、普段であれば好ましいものと感じているはずなのだが。不思議と今は閉塞感を増幅させる、不快な異臭と感じられる。

 

 せめて感覚だけでも広く、外へと向けようとしてみれば、台所から軽い足音がする。最初は規則正しく奏でられていた足音が途中数歩分だけ、虚ろで大きなものとなる。床下収納の上を歩いたのだろう。何かを引きずる音、小さな金属のこすれる音に続いて水音。喉が渇いたのであろうか。姉さんが水を飲みに行っているようだ。引きずる音は踏み台を引っ張り出したことによるものか。

 さらに外へと注意を向ければ家の外、塀の傍でなぁぁご、なぁごと何かが鳴いている。猫かと思いきや、同時に羽音も聞こえた。大木葉木菟か。方向からして、庭から張り出した柘榴の木に止まっていたのだろう。……庭から塀の向こうへと張り出した枝の上は、神咲邸の結界の内側なのだろうか、外側なのだろうか?

 

 亜弓さんが出かけ、神咲邸に僕と姉さんしかいなくなってから既に1時間以上経つ。

 幼児には遅い刻限である。ここからでは見えないが既に外は真っ暗のはずだし、普段から多いとは言えない人の通りも少ない。最後に外のアスファルトから人の足音が聞こえたのは40分以上前の話だ。

 時刻が時刻なのでこの幼い身体はもう眠らなければならないはずなのだが、どうにも寝付けない。いや、眠る気になれない。嫌な予感は未だ残っているどころかいやますばかりだ。いったい何故なのか、どうしてこんな感覚を味わっているのか。ぽてんと布団の上にあおむけに倒れこみ、思考の表層に雑念を走らせる思考防御技能の訓練を行いつつ、むむむと考え込む。

 

 或いは姉さんもそうなのだろうか―――――

 

 ふと、そう考える。

 普段から体を良く使っているからだろう。薫姉さんはひどく寝つきがいい。そんな彼女が、なんだって今日に限ってのそのそ台所に行っているのか。或いはもしや―――と考えるのもそうそう的外れな推測ではあるまい。

 もっとも姉さんも“嫌な予感”を覚えていたからと言って、彼女と相談したり、或いは彼女が“嫌な予感”を覚えた理由を考慮することで、僕がおぼえた“嫌な予感”の原因を推察するのは不可能だ。如何せん、彼女は僕と違ってちゃんと霊感があるのだ。超常的な未来予知や霊力の乱れの感知などができる存在の予感など、言語化できるわけもない。当然のこととして、僕の“嫌な予感”とのすり合わせも不可能であるということだ。

 

 

 

 やはり眠れないな―――――

 

 

 

 姉さんが部屋……ここの部屋ではない姉さんの部屋に、だ。病み上がりの娘と一緒に寝かせられるほど、姉さんの体も丈夫ではない……に戻ってからも暫く悶々としていたのだが。寝ようと電気を消す気にさえなれない状態で床についていても仕方がない。てぺてぺと起き上がり、部屋を出る。

 そのまま襖の桟を踏まぬようまたごうとすれば、奇妙な抵抗を覚えることとなった。

 

 部屋から出たくない。

 

 理由も何も一切ないまま、己の内側からひどく強い調子でそのような考えが沸き起こる。桟をまたごうとした利き足が中空でぴたりと止まり、そのままバランスを崩してぽてんと体があおむけに倒れる。これも“嫌な予感”の産物か? いや、そうではあるまい。どこぞの合気柔術の先生でもあるまいし、幾らなんでも僕の予感ごときがここまで即物的な状況を作り出せるとは思えない。ならば何故、僕は部屋から出たくない? 考えるまでもない。部屋から、家から犠牲者を出させない怪異を僕は知っている。

 

 倒れたままひょいと顔を“上”へと向ければ。天地逆さになった視界の目の前。調度というよりは飾りに近い棚と壁の隙間から、じっと女がこちらを見ている。その女が人類であるなれば、どう考えたところでそんな場所に潜り込めるわけもない。ひどく大きな双眸の持ち主たる彼女は、人間ではない。人様を部屋や自宅から出さないようにする怪異“隙間女”である。

 普段であれば彼女の妖力は僕の行動を阻害するほど強くはない。彼女が加減しているのか、和音婆様辺りが神咲邸内での怪異の能力に制限をかけているのかは良く分からないが。ともかく彼女は僕を含めた神咲家の住人の行動を掣肘しない。或いはできない。

 が、彼女にとっての邪魔ものである和音婆様や亜弓さんがいない今となっては、その妖威は随分と高まっているらしい。彼女のもっとも有名な妖力は僕をからめ捕り、普段とは異なりちゃんと僕の行動を阻害するだけのパワーを発揮しているということだ。

 

 もっとも。

 だからと言って僕がこの部屋から出られないかと言えば、そんなことは無かったりする。

 ひょいと……もとい敏捷力の都合上酷く鈍くさく仰向けの状態から起き上がり、再び畳の上に二本の足で立つ。きっと隙間女を睨み付けてから襖へと向かい、再び桟をまたいで部屋から出ようとする。

 

 先ほどと同様、抵抗が発生する。物理的なものではなく、精神的な、ここから出てはならないという拘束が僕の脳を捕える。まるで不可視の触手が、僕の内面をからめ捕ろうかとしているような圧迫が感じられる。

 が、そのまま決然と一歩を踏み出せば、あっさりとその拘束は失われ、僕の足は桟をまたいで廊下へと着地する。振り向けばどことなく不貞腐れたような表情で、女がこちらを見つめていた。後ろ手にひらひらと手を振って、そのまま廊下へと足を進める。

 

 僕がやったことはさして難しいことではない。単純に、彼女の妖術を精神力で打ち破ったのだ。GURPSのルールにおいては、他者の精神に干渉する術とは基本的に、意志力によって無効化することができる。勿論相手の術の精度や出力、こちらの意志の強さ、そしてもちろん運次第で、無力化に失敗することもある。が、僕の意志力は訓練なしで拷問に耐えられるレベルの非常に強力なものである。ある程度以上強力な術ならばともかく、件の怪異の精神干渉程度ならば簡単に耐えきってしまえるのだ。

 

 

 

 そのまま廊下を進んでいく。明かりひとつつけられていない板張りの廊下は、ひどく暗い。襖の間から漏れる僕の部屋の灯り、それに雨戸を閉じていない幾つかの窓から差す星明りが光源と言えなくもないが、いずれも随分と心もとないものだ。

 とはいえ、僕にとってはわざわざ背伸びして廊下の電気をつけるほどのことでもない。取り立てて夜闇を見通す特徴を持っているわけではないのだが。根本的な知覚力が秀でているため、鼻をつままれても分からぬほどの真っ暗闇でもない限り普段の生活で光量の多寡に悩まされることはないのである。

 

 今現在も特異点の不利な特徴は絶賛発動中だ。

 廊下を歩けばはしごか踏み台でもない限り覗き込めない、高い位置の窓の外から、しわくちゃの老爺がこちらを見下ろしている。その双眸にはあるべきものがなく、ただ真黒い穴が二つ、寒々しく口を開けているのみであった。いつもならば、この怪異は塀の外にいるはずなのだが。今や家屋のすぐそばまで近づいているということだ。

 或いはトイレの扉より、内側からカリカリと引っかかれている音がする。便器から出てくる白い手の仕業だろう。入院前に和音婆様に放り出されていたはずだが、戻ってきていたのか。

 ふと襖の僅かに開いた部屋へと視線を移せば、僕と同程度の年齢の童女が薄く笑みを浮かべて手招きをしている。座敷童だ。普段であれば別段近づいたところで問題がない相手のはずだが、態々僕と同じ寝巻を着て、髪型まで真似ているとなれば話は別である。恐らくは僕を神隠しに遭わせ、自分で僕に成り変わる目算でいるのだろう。付き合う道理はない。何も見なかったことにしてそのまま進んでいく。

 

 家の中を歩いていけばあちらの影から、そちらの隙間から、或いは僕の視界をわずかにそれたあたりから。ここに、あちらに、かしこに。蠢く影が、奇怪な光が、不可思議な歪みが見て取れる。

 生臭い、腐った水。熱を感じさせる、獣臭さ。けぶるような草いきれの臭い。本来人の住む家屋の中にあるはずのない、現世ではなく幽世の臭いが鼻を刺す。

 

 声が聞こえる。

 姉さんのものではない。彼女は自室で落ち着かなげに寝返りを打っている。押し殺したひそひそ声。苦痛とも怨嗟ともつかぬうめき声。場違いに明るく、それでいて何とも虚ろなエールも聞こえる。肺から喉にかけてひどい熱を感じ、同時にごぼりと口腔から鮮血があふれ出た。貧弱な筋肉が、何もしなくても折れそうなか細い肋骨を締め付け、肺腑を収縮させ、僕をせき込ませる。

 膝をつき、口元を抑えつつ《病気治療》の呪文を掛ける。廊下の血痕は後で片づけなければならないなと思いながら、再びふらふらと歩きだす。

 

 どこかに誘われているだろうか―――――

 

 茫漠とそのように考える。

 今この退魔師一族の住居であるところの神咲邸には、退魔師が一人もいない。いるのは退魔師の卵である薫姉さんと、GURPSの初心者魔術師たる僕のみだ。脅威となる霊能力者がいないからだろう。周囲に蠢く怪異は普段よりも力をつけ、こちらへの干渉を強めているように思われる。この周囲の有様こそ、まさにその証左と言えよう。

 

 そんな状況でなぜ僕はふらふらと家の中を歩き回っているのか。

 布団をかぶって震えているのが正しい選択とは言えないにせよ、無防備に怪異の中を彷徨うこともまた明らかにおかしな選択肢である。

 現状で僕が茫漠と家の中を歩き回っているのは、先ほど隙間女にやられたようにどこかの怪異に妖術を掛けられ引き寄せられているからである、という可能性は充分あり得るだろう。僕を呼ばわっている相手が必ずしも危険な存在とは言えないにせよ、神咲邸に退魔師がおらず魑魅魍魎の類の力が強まっている現状で態々危ない橋を渡る必要もない。誰が僕を呼んでいるのか気になるのなら、和音婆様や十六夜さんが帰ってきてから会いに行ったっていいのだ。

 妖術を掛けられたかもしれないと“考え付けた”以上、意志を強く持って姉さんのところにでも行けばよいのだ。彼女と一緒に電話の傍か玄関にでも控えているのが正解であろう。助けを呼ぶにせよ逃げるにせよ、その方がずっと効率的である。少なくとも、このままふらふらと家の中を彷徨うのは悪手であろう。

 

 

 

 ―――――と、考えられたのは良いのだが。

 

 

 

 どうやら術に抵抗するのが遅すぎたようだ。意志を強く持って己の思考に介在する糸を引きちぎるまでもなく、ぴたりと足が止まる。僕は既に、目的の場所にたどり着いてしまったらしい。

 僕が自然と立ち止まった場所は、普段勉強部屋として使っている和室の中であった。いつの間に襖をあけ、そして閉めたのか。術理に抵抗しようと意志力を振るわんとしたときには、既に僕は薄暗闇の中、四畳半の真ん中に立つこととなっていたのである。

 

 嫌な予感は、既にしなくなっていた。あれほど感じていた緊張も、喉の渇きも、背筋を走る寒気も既に感じられない。暗闇の中一人和室に立つ僕は、もうそんなものを感じることはないのだ。

 

 ああ、いや。それは当然と言えば当然なのだろう。僕が感じていたのは“予感”だ。事を“あらかじめ”暗示させる何某かの感覚だ。あらかじめ、前もって、それが起こる前に感じるからこそ予感なのだ。

 

 

 

 そう、今この瞬間に起こっている厄介ごとについて、“予感”などというものは働かないのだ―――――

 

 

 

 

 

三、

 そろそろ“いそがし”が人様の家で踊り狂うのであろう、年の瀬も近い冬のある日。その鼓膜が張り詰めるような静かな夜半。

 俯いた檸檬色のろうばいが活けられた、四畳半の和室で。

 僕こと神咲舞奈は、散々感じていた“予感”の主と相対することとなっていた。

 

 とはいえ“それ”と相対する前に、解決しなければならない面倒事とも対面したのだけれど。

 

 

 

 部屋の中央に立った途端、悲鳴を上げることさえ出来ぬほどの激痛が全身を走り抜け、急速に世界が小さく、闇の中へと窄んでいく。呼吸ができない。口の中が血の味でいっぱいだ。痛みに胸をかきむしろうとした両腕はどこに行ったのか。ちゃんと僕の脳の命令を四肢が受け付けているのかどうか、それさえ分からないほどの全身の異常。

 恐らく多分僕は激痛を感じて倒れたのだろうけれど。あおむけに倒れたのか、うつぶせに倒れたのか、それさえ分からない。視界に映る光景を、脳がきちんと意味化できなくなっている。

 

 先日倒れ、集中治療室で目を覚ました時と同様の、病弱者のそれと考えてなお異常なほどの急速な病状の悪化だ。恐らくこのまま《病気治療》の呪文を詠唱しようとしても、先日同様詠唱が完了する前に僕は意識を失うのだろう。

 前回は亜弓さんの目の前で倒れたから何とかなったが、今回家にいるのは僕を除けば未就学児であるところの姉さんのみである。おまけに彼女はこの場におらず、自室で寝ようとしている。ここで僕が自力で病を治癒できぬまま意識を失えば、そのまま死ぬことになるだろう。

 もっとも、前回同様僕は成す術もなく意識を失うのかといえば、そういうわけではない。

 

 

 

 既に慣れ切った行程でもって、空間中の超常的構成物“マナ”へと干渉。自分の意思を極めて怪しげな法則に基づいて現実へと押し付ける。

 脳裏に文字列が踊る。

 

 《病気緩和》を使用。

 マナ濃度……並である。ペナルティなし。

 詠唱……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 結印……技能レベルが規定値よりも上である。不要。使用せず。

 対象までの距離、接触。技能レベルにプラス2のボーナス。

 技能レベルにより消費6点軽減。……エネルギー消費ゼロ。

 詠唱時間10秒。……技能レベルによって短縮される。必要詠唱時間1秒に変更。

 成功率約9割8分1厘。

 判定……成功。

 対象を10分の間健康体とする。

 

 脳裏に文字列が踊るのとほぼ同時に、意識がはっきりする。胸の痛みが消え、息ができないのが単に口腔内に溜まった血液によるものだときちんと認識できるようになる。べちゃりと余裕なく血を吐き出し(ああ、後で掃除しなければ)、なるほど僕は俯せになっていたのかと確認しながら、ふらり、ふらりと立ち上がる。

 

 そう。前回僕が呪文の詠唱が間に合わずに気絶したのは、詠唱に本来ならば10分もかかる《病気治療》の呪文を用いようとしたからである。確かにその呪文を使えば病気は完璧に治るわけであるが、如何せん今まさに気絶しようとしているときに、神格並みの才覚を持ってなお19秒もかかる呪文を練っている暇はない。急速な病状の悪化で気絶するのが嫌ならば、一定時間しか健康体になれぬとはいえ、兎にも角にも一応即座に健康体になれる《病気緩和》の呪文を行使すべきだったのだ。

 前回はその判断が遅きに失し、今回は前回の反省を踏まえて即座に必要な呪文を選択することができた。ために以前亜弓さんの前で倒れた時には意識を失う羽目となったが。今回においては倒れることなく、一応健康体となって立ち上がることができたのである。一度だけならまだしも、二度も三度も同じ間違いをしでかすようであれば、人類最高二歩手前の知力が泣くというものだ。

 

 そのまままっすぐ前を睨み付ければ、そこにいたのは“小人さん”たちであった。身の丈10センチメートルほどの、古代中国、或いはその影響を受けに受けた古代日本の冠服を纏った、古の貴人のごとき装いの怪異である。数人の貴人と、より多くの従者で構成された小人さんの一群が僕の目の前、数メートルのところに立っている。

 彼らには見覚えがある。いつも僕に向かって“がんばれー”、“がんばれー”とエールを送ってくれていた小妖怪たちだ。

 

 が、事ここに至ってまで彼らが善意溢れる妖精さんのごとき存在であると考えるのは無理があろう。恐らくは何者かに“呼ばわれて”この部屋に入った途端以前意識を失った時と同様の急速な病状の悪化が起こったのだ。

 無論第三者が僕と小人さんを敵対関係に陥れるべくこのような状況になるよう仕向けたという可能性も絶無とは言えない。が、その考えは頭の隅にでも留めておくべきものであり、今現在その可能性を前提に行動するのは危険であろう。彼らこそが僕に病をもたらしていた怪異であると、そう考えて行動するのが妥当である。

 

 それにそもそも、小人さん側も既に“病気の幼児を応援する優しい怪異”という仮面をつけている気はなさそうであった。

 

 「がんばれー、がんばれー」

 

 貴人の小人さんが笏をわずかに動かし合図を送れば、従者の小人さんたちが一斉にエールを送り始める。同時に再び僕の全身に激痛が走り、血を吐いて倒れる羽目となる。やはり彼らが僕に病を頻発させていた元凶であるらしい。神咲邸にまともに戦える術者がいない今となっては、無害な妖怪を装う理由もないということか。

 

 「がんばれー。……がんばれー、がんばれー……」

 

 しかし亜弓さんも言っていたが人様を病に罹らせる術理とはすなわち“呪詛”であり、神咲邸で呪詛を用いた怪異はいなかったはずだ。今も彼らは僕に向かって応援をしているだけであり、どう考えても呪詛を放っているようには見受けられない。一体どうやって僕を病に罹患させているのか。内心首をかしげつつ、《病気緩和》の呪文で病を治し、立ち上がる。

 小人さんたちはエールを送りながらも一部の連中が左右に分かれて壁際を行進し、こちらの退路を断つかのような動きを見せている。病に罹患させるだけでは僕が中々死なないので、物理的手段に訴える腹づもりなのであろう。

 

 「がんばれー。……ょう……がんばれー、がんばれー……き」

 

 時間がたつにつれてだんだんと彼らのエールの内容に奇妙な音が加わってくる。呪文か? それとも別の何かか? 今一分からないが、ともかく今は逃げるのが先決である。背を向けて逃げては跳びかかられたときに対応できないので、彼らに正対したまま、じりじりと襖の方へと後ずさっていく。部屋の出入り口までの数メートルが、ひどく遠い。

 

 「がんばれー。びょ……きがんばれー、がんばれー……ょうき」

 

 左右の壁際を行進していた小人さんたちが、僕の両横からじりじりと迫ってくる。彼らがもう少し先まで行って、僕の後ろをふさぐように進んでいたならば、僕は退路を失って詰んでいたと思うのだが。この小型怪異群はそこまで思いつかなかったようだ。

 幼女の両横より迫りくる小人さんたち。それを横目に、じりじりと畳の上を後ずさる幼子。目の前の小人さんたちによる“がんばれー”のエールをBGMに、実にシュールな光景が展開される。

 

 「がんばれー。びょうきがんばれー、がんばれーびょうき」

 

 “頑張れ病気、病気頑張れ”、か。ああ成程、畜生。そういうことか。

 “誰も僕を呪詛していない”し、“小人さんは僕を言祝いでいる”。にも拘らず僕が不自然な頻度で病に罹り続けていた理由がようやく分かった。

 つまるところ、小人さんが僕を“言祝いで” いたのが原因ということだ。この小さな妖怪たちは“病気頑張れ”と、僕の中の“病の要素”に限定して僕を“言祝いで”いたのだ。祝福され、力を増した僕の中の病気は、それがどんなに小さなものであってもたちまち肥大化し、宿主たる僕を害するだけの力を手に入れる。だからこそ、僕は異常な頻度で病に罹り続けていたということか。

 複数の退魔師がいる神咲家においてでさえ、彼らの凶行が明るみに出なかったのもむべなるかな。僕のような貧弱で病弱な小娘が倒れるには、ほんの少しの、実に些末な、大いに弱弱しい病気でも充分である。ためにさほど強く言祝がずとも、僕を打ち倒す程度に病を強化することは可能であったのだ。

 

 極めて微弱で、そうであるがゆえに感知が困難な祝福の術でもって“犠牲者の一部”であるところの“犠牲者の中の病の要素”を強化する。それが小人さんの術、エールの正体なのであろう。

 

 恐らく、言祝がれた対象が平均的な成人男性であれば。和音婆様たちは即座に、いかなる存在のいかなる術が原因であるのか見破れたのだろう。なぜならば普通の人間の、ごく当たり前の免疫系を突破するだけの病を“誰でも持っている病の要素”を強化して作り出そうとすれば、それ相応の妖力なり霊力なりが必要となるからである。

 しかし言祝いで病にかける相手がこの神咲舞奈であれば話は違ってくる。何となれば僕は、一応健常であると言い張れる最低ラインの生命力と、病への抵抗に大きなペナルティを受ける“非常に病弱”の特徴を持つという、日常生活を送る上での理論上最低値に等しい不健康さを誇る貧弱な小娘なのだ。

 畢竟僕を病に罹患させるために必要な“病の要素の強化率”は実に実に小さなもので済み、そうであるがゆえに要求される霊力なり妖力なりも極度に微細なものとなる。小さくか細い超常的パワーの残滓は感知が困難であるし、あまつさえそれが“相手を病気にさせる”という効果から連想される“呪詛”ではなく、本来良いものに使われる“祝福”であるなれば、いかな百戦錬磨の退魔師たる和音婆様や亜弓さんと言えども、その悪意に気づけるものではないだろう。

 

 僕が想像を絶するほど貧弱であるということ。

 小人さんたちが素直に僕を呪詛せず、僕の中の“病の要素”を“言祝ぐ”ことで病の頻発という事態を引き起こしていたこと。

 

 その二点を原因として、“原因不明の病の頻発”という事態は起こっていたということである。

 

 いったいいかなる理由で日本有数の退魔師の家に居ながら超常現象が原因と思しき病に罹患し続けているのか、とは思っていたが。かような要素が原因ともなれば和音婆様や亜弓さんに何故気づかなかったと恨み言を言うわけにもいくまい。

 こんな原因分かってたまるか、というものである。

 

 

 

 いやはや、しかしどうしたものか。

 

 

 

 夜中、日本家屋の一室で怪異と相対する。相手は時代がかった装いの身長10センチメートルほどの小人さんの集団だ。彼らは僕の目前、そして僕の左右の三つの場所からこちらをうかがっている。

 前方の集団はこちらに近付かず、ただ僕の中の病にエールを送ってこちらを病に罹患させてくる。左右の集団は、物理的に僕を害そうとしているらしい。じりじりとこちらに距離を詰めている。

 

 ここで彼らと向かい合っているのが僕ではなく大の大人であれば、素直に蹴散らすという手段も使えよう。如何せん、彼らは随分と小型だ。その肉弾戦闘能力についても推して知るべしといった程度であろう。

 が、彼らと戦うのがこの神咲舞奈である場合話は違ってくる。片手では牛乳パック一つ持ち上げられぬ腕力と、子牛にも劣る敏捷力でいったい何をどうしろというのか。ここは素直に逃げるしかあるまい。無論、逃げ出すまでにたった2点しかないHPが0になればそこで終わりなわけだが。

 

 現状は危機的だ。

 相手は小型で、さして戦闘能力の高くない怪異と思われるが、こちらはそれに輪をかけて低性能である。逃げ切れるのか。逃げ切る前に、病に罹らせる妖術や、或いは暴力によって殺されてしまうのではないだろうか。そんな不安が、頭をよぎらぬわけではない。

 しかし僕に与えられた知力や意志力は、命の危険や死の恐怖程度でその精神活動を停滞さる気はさらさらないらしい。今の僕は怪物に殺されかねぬ状態でありながら、鼓動も呼吸も実に平静だ。五感は淡々と相手の情報を得ようと観察を続けているし、思考は戦術的なシミュレーションをごく当然に行っている。万が一彼らに読心能力がある可能性を考慮して、表層に雑念を走らす“思考防御”を用いる余裕さえある。

 “神咲舞奈”の肉体は生前ただの社会人であった“中の人”に、呆れるばかりの高性能さを提供しているのだなと痛感させられる事態である。こんな状況、生前の僕であれば間違いなく精神に恐慌をきたしている。

 

 とはいえその高性能さをもってしても、この状況を生きて切り抜けられるかは定かでない。僕自身の性能のすべてと、物理法則のみならずGURPSのルールをも駆使して、ようやく生き残れるかどうかといったところであろう。

 

 

 

 さあ、神咲舞奈。これが正念場というやつだ。気をしっかり引き締めろよ―――――

 

 

 

 そう自分に言い聞かせ、僕は小人さんの襲撃から生き残るべく行動を開始するのであった。

 <つづく>




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 それでは。

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