「どうですか、久方ぶりのご実家は」
「なんだかちょっと新鮮、かな」
自分の部屋はこんなに広かったのだろうか。ワンルームのマンション暮らしに慣れてしまった所為だろうが、そんな錯覚を覚えてしまう。
まさかこんなにも早く実家に戻る事になるなんて、みほも想像もしていなかった。
ここを出る時は、それこそ半ば戻っては来られない覚悟もしていたのに。
数ヶ月前まで住み慣れていた自室を見渡したみほは、改めて背後に振り返る。そこには、小さな頃からずっと世話になっていた家政婦の菊代が笑顔で立っていた。
「部屋のお掃除も、ありがとう、菊代さん」
「家政婦として当然の仕事をしていただけの事です。どれくらいこちらに?」
「明後日の夜には大洗に戻るつもり」
そう答えながら、みほはキャリーバッグの荷解きを始める。着替えの片付けもほどほどに、戦車道関連の資料等をテキパキと整理して机に置いてゆく。すべてが大洗女子戦車道チームのものだ。
「お忙しそうですね」
「それはもう」
苦笑を返すみほ。公式戦の優勝が、ただのマグレではない事を今後も実証してゆく為に、みほにはやらなければならない事が沢山ある。
「戦車道を選択してくれる人が増えたのはいいの。でも、うちは戦車が全然足りてなくて。今後の事も考えると何輌か調達しないといけないんだけど、お金の問題もあるし」
「確かに、大洗は車輌の数は足りていませんでしたからね」
「うん。今より数が増えれば、戦術の幅が一気に広がるから」
「でも、質の面でも、少し厳しい面があるのでは? 例えば八九式とか」
「そこは戦術と腕でカバーかな。それに、うちの人達は皆自分の戦車に愛情を持ってくれるから、とっても頼りになるの。だから当分はこのままだね」
「戦術と腕と愛情、ですね」
そう言って、菊代は可笑しそうに笑った。
彼女がそんな風に笑うのはとても珍しくて。みほは何かおかしな事を言ったのだろうかと小首を傾げる。
「申し訳ありません。その、嬉しいというか、ちょっと寂しいというか」
「嬉しくて、寂しい?」
「はい。みほお嬢様がそうやって楽しそうに戦車道をされているのが、とても嬉しくて」
戦車道には、苦い思い出が多い。
いや。そもそも楽しい思い出が少ない。
小学生の頃──中須賀エミ、遊佐千紘、柚本瞳達でⅣ号戦車を乗り回していた時は楽しかった。もちろん彼女達との思い出には、戦車も含めて、笑顔で語れない事もあるのだけれども。あの夏の記憶は、みほにとって、とても大事なものだ。
あの輝かしい思い出が、いつからか埃をかぶってしまった。
ただ勝つ為だけに何かを犠牲にする戦車道に──西住に疑問を持ってしまったから。
これが私の探していた戦車道なのかと思ったら、それは酷い落胆と失望になってしまって。
気付けば、戦車に乗る事が、嫌いになっていた。
「みほお嬢様にとって戦車道が厳しくも楽しいものになったのは、とても嬉しいのです。でも一方で、そう感じられた場所が西住ではなく、大洗だという事に、僅かながら寂しさも覚えてしまいました。お嬢様が先ほどからおっしゃっている『うち』というのは、大洗の事ですよね?」
「あ……ご、ごめんなさい」
菊代は西住家の家政婦として、ずっとこの家を支えてきた。そして黒森峰女学園には西住の門下生が大勢いる。菊代にとって、みほは少し複雑な場所に立っていると言えるだろう。
項垂れるみほに、菊代はまた笑った。
「どうして謝られるのですか? 確かに一抹の寂しさはありますが、今のみほお嬢様のお顔を見ていると、些細なものだと無視できます。私は西住家でお世話になっている者ですので大きな声では言えませんが、ここを出た事は、結果としてみほお嬢様にとても良い変化を生んでくれたのでしょう」
「……そう、なのかな?」
「恐らくは。みほお嬢様が大洗でも戦車道をしているとまほお嬢様から聞かされた時はとても不安になりましたし、奥様に知られればどのような事になるのかと気が気ではありませんでしたけど」
どうやら菊代には相当な心労をかけてしまったようだ。せめて電話の一本でも入れておけば良かったと、みほは今更ながらに猛省する。
「まほお嬢様からは他に決して言わないようにと強く言われていましたが、大洗は高校生戦車道に於いては無名です。もし勝ち上がって来るのなら、きっと奥様のお耳にも届いてしまう。大洗が準決勝進出を決めた時には奥様にも知られてしまって」
「も、もしかして、お母さんに怒られたとか……?」
「まほお嬢様共々大目玉を頂戴しました」
「ごめんなさい!」
大洗が一回戦で早々に敗退してしまえば、尊敬する姉も、ずっと世話になっている家政婦も、西住を体現しているような母の逆鱗に触れる事は無かっただろう。みほ達大洗学園にも止むに止まれぬ事情があったにしろ、まさかそんな飛び火をしていたなんて。
まほなら叱責だけで済んだかもしれないが、家政婦である菊代の場合はそうはいかない。下手をすれば、西住家にいられなくなっていたかもしれない。
戦車道の再開を隠してくれていた二人の心遣いが嬉しくもあり、また胸が軋むほどの罪悪感を覚えずにはおられなかった。
「ですから、どうかお顔を上げて下さい。まほお嬢様も私も、自分からやった事です」
「でも」
顔を上げると、動こうとする唇に、菊代がそっと人差し指を添えてきた。
「自分の戦車道を見つける。みほお嬢様が小学生の頃、中須賀さんと交わした約束です。覚えておいでですか?」
「も、もちろん」
忘れるはずがない。それを覚えているからこそ、みほは去年の公式戦で、濁流に飲み込まれた車輌から仲間を助けたのだ。
西住流が尊ぶ『勝つ事』に背を向けた。
その時、後悔は無かった。
戦車道とは、戦車の技術を磨くだけのものではない。心身を鍛えて自らを高め、人としての在り方を探る為のものだ。
まだ小さな頃にまほが言っていた言葉だ。そして菊代が教えてくれた言葉だ。
そして、みほ自身がそうだと確信したからこそ、みほは窮地に陥った仲間を助けた。
それが自分の戦車道だ。楽しい事も、苦しい事も、悲しい事も、仲間達を分かち合う。
勝利と同時に西住流が謳う『強き事』とは、単純な『強さ』ではないと、みほは思う。
仲間を信じて、頼って。どんな困難な状況でも決して諦めず、逃げ出さず、立ち向かう事。それも『強き事』ではないのだろうか。
「なら、まほお嬢様も私も、奥様から怒られた甲斐があったというものです。そのお気持ちを忘れないで下さい」
「菊代さん……本当に、ありがとう」
「いーえ。でも、まほお嬢様にはちゃんとお礼をされた方がいいですよ? みほお嬢様の件について矢面に立っていらっしゃったのは、まほお嬢様でしたから」
なんというか。本当に泣きなくなる。自分は一体どれだけ人様に迷惑をかけているのだろうか。
半べそで肩を落としてしまったみほに、菊代は苦笑を浮かべていた。
世間では三連休。街に出れば、休暇を満喫している人達で溢れていた。
そんな中を、みほは一人で歩く。
実家のある熊本市は九州でも大きな都市だが、みほが生まれ育ったのは、その中でも田舎の方だ。連なる山が望める平凡な盆地である。駅前はそこそこ発展しているので、遊ぶ場所や食べる場所にも事欠かない。
「千紘ちゃんと瞳ちゃんに会うのどれくらいぶりかなぁ」
駅の改札近くで、みほは首を長くする。小学生の頃の親友達──遊佐千紘と柚本瞳に連絡をしたら、すぐに会おうという事になった。
進学と同時に別々の学園艦に乗った都合、簡単に会う事はできなくなっていたが、これまでも予定が合えば遊んでいた。
それも去年の公式戦以降は連絡を取っていない。
黒森峰を離れてからは疎遠になっている。.
とても優しい彼女達に、迷惑も心配もかけたくなかった。千紘は戦車道とは無縁の生活だが、瞳は今も戦車道を続けている。去年の公式戦の結果はもちろん知っているだろう。
瞳も千紘も、みほなら、ああいう行動に出た理由は分かってくれる。
その結果、みほの身に何が起こったのかも、おのずと理解するはずだ。
どうしても心配をかけたくなかった。
「……今はもう胸を張って会えるけれどね」
そんな独り言は、駅前の喧騒に飲み込まれて消える。
今なら彼女達が持つだろう懸念も一笑できる。
エミとだってそうだ。胸を張って会える。
無理かもしれないけれど、またあの四人で戦車に乗りたいとも思う。
黒森峰から、戦車道から逃げ出した時は、あの輝かしい思い出にすら埃をかぶせる事も厭わなかったけれども。ああ、その事もちゃんと謝らないといけない。
みほは腕時計で時刻を確認する。千紘や瞳を会えるのが嬉しくて、一時間以上も早く待ち合わせ場所に来てしまったのは失敗だったか。遠足前の小学生か。
どこかカフェでも入って時間を潰そうかなと考えた時だった。
「あれは」
雑踏の中に、見覚えのある人影を見た。
その人影も、ふと首を巡らせて。みほと眼が合った。
背中に届くくらいの銀色の髪に、切れ長の瞳。背はみほより少し高く、姉のまほと同じくらいだろうか。どこか張り詰めた糸を連想させるその少女の事を、みほは良くも悪くも知っている。正直に言えば、苦手な人だ。
それは彼女もそうなのだろう。いや、苦手どころではないはずだ。
みほの姿を認めた少女の眼がすっと細くなる。みほはティーガーに砲身を向けられたような錯覚に陥る。
けれども、その眼は、みほが知っているものは少し違った。
銀髪の少女──逸見エリカが、つかつかと歩み寄ってくる。パンプスの音が妙に耳に残った。
「どこの誰かと思えば。大洗の隊長さんが、こんな所で何をしてるの?」
腰に手を当てて、エリカが言った。相変わらず冷たくて鋭い詰問の口調である。
「そ、それは、その。友達と待ち合わせ中で」
「友達? 黒森峰の?」
「ち、違います。小学生の頃の、友達です。連休中で、元々お母さんから一度帰省しろって言われてて、それで」
「……その話し方」
「へ?」
突然会話を打ち切って、エリカが不愉快そうに鼻を鳴らした。
「黒森峰にいた時もそうだったけれど、どうして同い年の私にも敬語なの?」
あなたが怖いからです、なんてのは口が裂けても言えない。
元々みほは人見知りな性格だ。戦車に乗っている時は相手が誰だろうとバシバシと指示を飛ばしている──毎回言われて気づく事だが、みほとしては自覚が無い──が、戦車を降りると相手の顔色を窺うような態度になってしまう。
そんなみほにとって、歯に衣着せぬ言動をする逸見エリカは、怖い人以外の何者でもなかった。
「こ、これは何というか、癖みたいなものというか」
「……癖、ね。まぁいいわ。元副隊長、少し時間ある?」
「じ、時間ですか? 少しでしたら」
「ちょっとそこまで付き合って」
そう言って、エリカは親指で背後のカフェを指した。
「あの、逸見さんは、この後のご予定は……?」
「予定も無くてブラブラしてただけだから。気にしないで」
ぴしゃりと断言されたエリカは、アイスティーに口をつける。
全く予期できない事態となってしまった。その危機的状況下を可及的速やかに離脱する方法を模索するが、駄目だ。待ち合わせしていた友達から電話があってーともっともらしい理由等幾つか考えたが、それを切り出せる度量が、戦車に乗っていないみほには無かった。自分はつくづく戦車が無いとドン臭くてのろまで決断できない人間だ。弱くてどれだけボコボコにされても敢然と立ち向かうボコられクマのボコが羨ましい。
「誘拐されてきましたって顔、しないでくれる?」
「そそそそんな顔はして……ません」
「反論するくらいならせめて断言しなさいよ、元副隊長」
その攻撃的な二人称をやめていただければもう少しマシになります、とは、もちろん言えないし、言わない。しかし、そんな絶望的な顔をしているのだろうか、今の自分は。鏡が見たい。
連休中の昼間という事もあって、カフェは盛況である。店内はそれほど広くはなく、席はすべて埋まっていた。
みほはエリカと顔を付き合わせるような小さな席で、肩を小さく縮めて、奢りだと一方的に押し付けられたミルクティーの湖面を見つめていた。窓際席だが、外を闊歩してゆく人達がなんとも羨ましく感じてしまう。
時々顔を持ち上げてエリカの様子を窺うと、彼女はみほの緊張なんて眼中に無いような顔で、スマホをいじっている。そういえば、彼女の日課はネットサーフィンだったと、みほは思い出した。いやいや。人をカフェに連れ込んでおいて、スマホでネットをやるのもどうなのだ。
用件があるのなら、早く切り出して欲しい。こちらの身がもたない。
詰まりそうな空気を少しでも和らげようと、みほがミルクティーに口をつけた時。エリカがスマホの画面を見ながら口火を切った。
「大会終わってから、そっちはどうなの?」
「そ、そっちというと……?」
「大洗。優勝したんだから、廃校の話は無くなったんでしょう?」
「は、はい。ただ、今後も戦車道でちゃんとした結果を出していかないといけないのはあるので、安心はできない、です」
「結果、か。でも、狙うは世界大会?」
そんな雰囲気が、大洗戦車道チームに無い訳ではない。皆にそう思わせるほどの結果を、みほは出したのだから。
でも、世界は広い。公式戦で大洗が黒森峰に勝てた要因として、みほがまほの戦術を熟知していた事が上げられる。まほは西住流そのものだ。同じ西住として、その裏を掻く事ができた。西住流の長所を短所にしてしまう戦術を駆使できたのだ。
同じ戦術が世界に通用するとは全く思えない。それどころか、次に黒森峰とやったら、ほぼ間違いなく負ける自信がみほにはある。同じ戦術がまほに通用するはずがないのだ。
「そういう目標もありますが、今はまず足元を固める事が先決です。戦車道選択者は増えてますけど、戦車が足りません。まずはもっと車輌を増やさないと」
「十輌だったかしら? その上、あの性能じゃ」
「そ、そこは戦術と腕でなんとか」
「したものね」
エリカがスマホを置く。その顔には、驚くべき事に、笑顔があった。
思わず唖然とするみほに、エリカはすぐに不機嫌そうな顔になった。
「なに?」
「な、なんでもないです。すみません」
「その何でもないのに謝る癖、直しなさい。黒森峰にいた時にも言ったじゃない」
「これは、その。うう、ごめんなさい」
みほが肩を小さくする。そんな彼女の額を、エリカが指先で小突いた。
「あなたは私を弱い者いじめするような悪者にしたいの?」
「そ、そういう訳じゃ」
「あなたは私達黒森峰を破ったの。邪道を言われる戦術で、王道と謳われる西住を負かしたのよ? 胸を張ってもいいわ。ちなみにこれ、あなたのお姉さんが言っていた事ね?」
「お、お姉ちゃんが……?」
「実家にいるのなら、今日にでも会うでしょう。その時聞いてみたら? あなたの事、凄く誉めていたわよ」
そう言って、エリカが再び笑う。少しだけ寂しそうに。
とてつもなく失礼な事かもしれないが、この人も、こんな風に笑うんだなとみほは思った。
口元に笑みを浮かべたまま、エリカは続けた。
「私はあなたの事が嫌いだった。今もそう」
にべもなく断言する。でも、その声に侮蔑や嫌悪などは無い。昔話を語るような、明るく砕けた響きがあった。
「ドン臭いし、うじうじするし、見ててイライラする。すぐに逃げ出す根性無し」
反論の余地は無いので、みほは黙って受け入れるしかない。
「でも、戦車に乗ってる時のあなたは、悔しいけれど凄いわ。うちで、一年で副隊長をやったのは、あなたの他には西住隊長しかいないもの」
──西住まほの妹だから。黒森峰女学園に入学して、戦車道チームに入った時。みほは校内戦で勝利し、そのまま副隊長という肩書きを得た。上級生を破るという結果を出していたので、この時すでに隊長を務めていたまほの人事に表立って反論する生徒はいなかったが、心無い陰口が無かった訳ではない。
「隊長の妹だからエコヒイキされてるって、皆言ってた。正直私も、結果は出してても、同じ一年なのにどうして副隊長をやれるんだろうって、腹立たしかったわ。だから頑張った。早くあなたと肩を並べられるくらいになりたいって思った。言葉でどれだけあなたの事をとやかく言っても、あなたは結果を出してる。結果を出していない子が何を言っても、負け犬の遠吠えでしかないから。まぁ、そんな私や他の子の事なんて、あなたはまるで眼中に無かったみたいだけれどね」
苦笑して、エリカはアイスティーを飲む。一息ついた彼女は頬杖をつくと、眼を白黒させて話を聞いているみほに言った。
「あなた、私の事、嫌いでしょ?」
「き、嫌いじゃないです。ただ、その……苦手、です」
「へー。あなたにしては珍しくはっきり言うわね」
「ご、ごめんなさい」
「謝らないで。というか、あれだけ嫌味を言ってた私を苦手で終わらせてるあなたは、やっぱり馬鹿がつくほどのお人好しよ」
嫌味。みほが大洗を率いて公式戦に出場していた時、エリカは顔を合わせる度に辛辣な言動を残しているが、あれはあの時だけではなかった。黒森峰にいた時から変わらなかったのだ。
でも、大洗に行く前と後では、エリカの言動は少し違うと、みほは思っている。
「──あなたは強い。その強さを誇りなさい。じゃないと、あなたに負けた私や他の生徒が馬鹿みたいじゃない」
そう。嫌味ではなく、鋭い棘を持った叱咤。
エリカが、また笑う。
「一年で副隊長。国際強化選手として西住まほの妹。あなたが背負っていた重圧は、とても大きかったと思う。だからこそ頑張って欲しかった。負けて欲しくなかった。西住隊長が卒業した後、新しい隊長として、黒森峰を率いて欲しかった」
その呟きには、少しだけ、後悔の色があった。
「でも、あなたはあの公式戦の後、逃げ出した」
その言葉には、少しだけ、失望の色があった。
「赤星達を助けた事、西住師範から酷く叱責されたと聞いたのだけれど、本当なの?」
「……はい。西住はどんな時でも前に進む流派だって」
「そうね。あなたはフラッグ車の車長を放り出して、赤星達を助けた。勝つ事よりも、あの子達を助ける事を選んだ」
「それは、いけない事だったんですか?」
エリカの眼を見つめて、みほは問う。
「あなたはどう思うの?」
「戦車道は戦争じゃありません。勝ち負けよりも大事な事があります。例えこの考えがお母さんや逸見さんから甘いって言われても、私は勝敗に拘りません。皆で戦って、誰一人怪我する事なく最後まで頑張れて、その上で勝つ事ができれば、それはとても素敵な事だって思います」
「……なるほど。あなたらしい甘い考えね」
苦笑を浮かべて、エリカはアイスティーを上品に飲み干す。
「でもいいわ。納得した」
「……納得?」
眼を白黒させるみほに、エリカは苦笑を強める。
「あなたが赤星達を助けた時、隊長はあなたを叱責した? 私達戦車道のメンバーは何をしてくれたんだと怒鳴った?」
「それは……」
無かった。みほの救助活動が無ければ、赤星達は車輌と共に氾濫する川に飲み込まれてしまった可能性が充分にあった。だからみほの行動そのものは間違っておらず、直接的に批難された事は一度も無い。それに、仮にみほの救助活動が糾弾されるような事になれば、助けられた赤星達の立場はどうなるのか。
あれは不運な事故だ。誰が悪かった訳ではないのだ。
それを理解していたからこそ、エリカ達チームメイトは行き場の無い苛立ちを抱える事となった。
そしてその矛先は、『フラッグ車の指揮を放棄した決断』に向けられた。
何故みほが行かなければならなかったのか。通信手や装填手でも救助活動はできたはずだ。あの局面でフラッグ車の指揮を放棄する事でどうなるのか、みほほどの実力者ならば容易に理解ができるはずだ──そんな具合だ。
もっとも、それも表立って出てきた意見ではない。
ただ、黒森峰戦車道チームの中で、そうした空気が漂っていたのは確かだった。
「私だって、仲間や友達の本物の屍を踏み越えてまで勝ちたいとは思わない。私があなたを決定的に嫌いになったのは、自分の戦車道を信じられずに、それを放り出して黒森峰からも西住からも逃げ出したからよ。その癖、大洗じゃ楽しそうに戦車に乗ってる。私じゃなくても嫌味の一つも言いたくなるわ」
「それは……ご、ごめんなさい」
エリカの立場に立ってみると、確かにみほはとても身勝手な人間になるだろう。話をしていれば何かが変わっていたかもしれないが、黒森峰の戦車道チームに、みほの味方はほとんどいなかった。そうした環境の中で、みほが誰かに悩みを打ち明ける事はできなかった。
まほと距離が近ければ贔屓と思われて。
他の生徒達には『まほの妹』、『西住家の娘』の色眼鏡を向けられる。
頼れる人がいない状況は──本当に辛い。
「こっちこそ悪かったわね。色々と」
「え……?」
「なにその顔。ハトが八九式の主砲喰らった顔みたい」
「その例えも、どうなんでしょうか……?」
逸見エリカに頭を下げられるなんて。明日、空から砲弾が降るのではないのか。
「自分の非を認められないほど、子供じゃないつもりよ。でもね」
エリカが口元に力強い不敵な笑みを浮かべた。
「この前も言ったけれど、次は負けないわ。あなたの甘い戦車道、私の戦車道で潰すから」
実に彼女らしい不遜な宣言だった。
その時、ふと真横のガラスが軽く叩かれた。そちらを見遣ると、見知った三人の少女達がいた。
そう三人だ。
小柄でほわっとした柚本瞳と、スラリとした長身にボーイッシュな短髪の遊佐千紘。
それから、赤に近い綺麗な髪を頭の両側で結わえた、勝ち気そうな少女──。
「エ、エミちゃん!? どうして……!?」
ドイツにいるはずなのに。まさか日本に遊びに来ているのか。だとしたら連絡の一つもくれれば良かったのに。
とは思ったが、みほもあれこれ理由をつけて彼女達と疎遠になっていたので、批難できる立場でも無かった。
「エミって……中須賀エミじゃない。あなた、あの子と知り合いだったの?」
「小学生の時の友達ですけど、むしろどうして逸見さんがエミちゃんを知ってるんですか……?」
「だってこの子、ドイツの国際強化選手の一人よ。それくらい知っておきなさい」
ネットもあまりやらないし、戦車道の雑誌も買わないので、まったく知らなかった。
「友達と待ち合わせってそういう事か。長話させて悪かったわね」
「いえ。こちらこそ、色々と、あの」
「……今度当たる時まで戦車に乗ってない時の、そのドン臭い性格、少し直しておきなさい。西住みほ」
記憶を探っても、逸見エリカに、こうやって名前を呼ばれた事はほとんど無かった。
黒森峰では、気付けばずっと副隊長と呼ばれていた。
さっきまでは元副隊長と言われる始末だった。
驚くみほを、エリカはクスリと笑って席を立ち、パンプスの踵を鳴らして去ってゆく。
その背中が入口の扉の向こうに消えそうな時、みほは店内に響く声で叫んだ。
「頑張ります、エリカさん! 私の甘い戦車道も、負けませんから!」
扉と扉の僅か隙間の奥で、エリカが肩越しに手を振ったのが見えた。