「さて、私とお話をしようか」
目の前で丸椅子に腰かけた中年男が俺の目を見つめてそう言った。
白衣を着たこの中年は医者……らしい。初対面なんで知らないけど、ここは病院で、診察室の中で待ち構えていたんだからそうなんだろう。
名前は野川。白衣の右胸に写真付きのネームプレートがついている。
「まずは君の名前を教えてもらおう」
「
「そういうのはいいから」
「名無は世を
「私もそんなに暇じゃないんだけど?」
「すいません。覚えてないっす」
怒りのオーラを感じたので素直に答える。べ、別にビビったわけじゃ……。
つーか自分の名前を覚えてないってなんだよ。ウケるー。
いやまあ笑えない事態なんだけども。
「今日は何月何日?」
「四月十七日だった気がします」
さっきちらっとカレンダーを見たような。あれ、でもなんで十七日だと思ったんだ?
その根拠は……。
「君がここに入院したのはいつ?」
「んー……一週間前?」
「もうすぐ二ヵ月になるよ」
「マジですか……」
「まあ一ヵ月くらい意識不明だったから錯覚するのも無理はない。ちなみに今日は五月二十日だ」
衝撃の事実が次々と押し寄せてくる。
俺本当に一ヵ月も意識不明で、もう二ヵ月近く入院してんの?ってことは意識が戻ってから一ヵ月くらい経ってるじゃねーか。
じゃあその間の記憶は?
自分に問いかけてみるがその答えは空白だ。何もない。何も覚えていない。
あ、もしかしてどこかでカレンダーを見た気がしたのって意識が戻ってからどこかで目にした記憶なのかも?
しかしさっきは適当に一週間とか言ってみたけど、俺の記憶的には今日初めてここに来たのであって、入院なんざしていた覚えはない。まあどうやらその記憶がおしゃかになっているわけなんだが。
俺は自分の名前も顔も知らない。野川先生の話では思い出せないだけらしい。
本当かよ。俺さっき目が覚めてここに連れてこられたくらいしか記憶にないんだけど。時間にすれば数分の記憶しか持っていないことになる。それが俺の人生すべての記憶だ。
常識的に考えてそれがおかしいことだってのは分かる。だけど頭からは自分に関する情報や記憶がきれいさっぱり抜け落ちていて、俺に過去なんてものがあるのかさっきから疑っている状態だ。
過去がないなんてあり得ない。でもそう思ってしまうくらい記憶がない。どうすんだこれ。
知らないことを思い出そうとしてるくらい無茶な状況に立たされている気がするんだけど。ムリゲーかよ。絶望感が半端ねぇ。マジぱねぇっすわ記憶喪失先輩ちょりーっす。
……やめよう。空元気にも限度がある。
「ちなみにどうして入院することになったかは覚えているかい?」
「あまり。何があったんですか?」
「交通事故だね。歩道に飲酒運転の車が突っ込んできたんだ」
なんだそりゃ。ついてねぇなぁ。
「それでこの有様ですか」
自分の足に視線を落とす。そこにあるのはギプスを装着し、包帯に包まれた右足である。
あまり痛みは感じないがそれなりに重症なのは間違いないだろう。
「
「そんなにひどい事故だったと」
「そうだね。聞き及んでいる話だとよく生きていたねという感じかな」
「そこまでですか。全治は?」
「もう手術が済んでだいぶ経っているから記憶の混乱が治まり次第リハビリ開始の予定だよ。入院リハビリに一、二ヵ月。退院はリハビリの経過具合によって決めよう」
つまり最低でもあと一ヵ月は入院生活ってことか。完治となればさらにあと数ヵ月はかかるはずだ。
その間の入院費や治療費、通院費は……まあ事故を起こした相手から出るだろう。多分。
「そういえば俺の家族はどうしてるんです?」
家族が事故に遭って一ヵ月意識不明。意識が戻ったら記憶喪失でしたとか相当焦ると思うんだけど。
っていうかいくつなんだ俺は。自分の年齢すら分からんのはさすがに不安だ。
結婚とかしてたらどうしよう。修羅場になるんじゃねぇの?
「……その話はまた今度にしよう。それも記憶の混乱が治まってからだ」
含みのある言い方だな。嫌な予感しかしない。
まさか事故でお陀仏とか言わないだろうな。顔も何も覚えていないからか悲しみや喪失感はないが、もしそうだったらいずれ記憶が戻った時のダメージは計り知れないな。ショックで自殺とかしちゃうんじゃないか?
「さっきから記憶の混乱がって言ってますけどそんなにひどいんですか?俺の頭は」
「意識が戻ってからも記憶の定着が上手くいっていないんだよ。その実感はあるかい?」
「まあ今こうして会話する前の記憶がさっぱりないですね」
「実は君と顔を合わせて会話するのはこれで三度目だ」
「……先生とは初対面だと思ってましたよ」
ほんと笑えねぇ。大丈夫なのか俺。
事故前ならまだしも事故後の記憶さえろくにないとか。
「安心したまえ。君の記憶喪失は頭を打った衝撃による一時的なものだ。脳に損傷も見られないから症状は徐々に落ち着くし、記憶も少しずつ思い出せるだろう」
「信じますよ、先生」
「大船に乗ったつもりでいなさい。他に何か聞いておきたいことはあるかな?」
「……そうですね。じゃあ一つだけ」
そこで俺が口にしたのは自分に関する質問じゃなかった。
何も描かれていないキャンパスのようにまっさらな頭の中。その中に残る、
「なんだい?」
「事故に遭ったのって本当に俺ですか?」
自分でもおかしなことを言っているという自覚はある。事故に遭ったからこうして入院してるし、足の骨も折れているわけで。
でも記憶の中にいるんだ。へたり込み、まるで世界の終わりを前にしたような目を俺に向けている少女が。
それが事故と関係がある光景なのか、そして少女が誰なのかも分からない。家族なのか知り合いなのか、赤の他人なのかさえも。
それでも俺はどうしてもその少女のことが気になって仕方がなかった。
自分一人になった診察室で小さく息を吐く。
看護師に車イスを押されてここから出ていく背中はこれまでの三回の診察時と同じもの。そして言葉は微妙に違えど彼があの質問をするのもこれで三度目だ。
それに対する私の返答も、これまで三度とも同様のものである。
『ああ、君だけだ。しかし君は一人の少女を
彼はその答えに対してこれまでと変わりない声色で「そうですか」とだけ口にした。その心中は彼のみぞ知る。
少女が自分とどんな関係にある人物か考えているのか、もしかしたら少女を庇ったという行為を後悔しているのかもしれない。
警察が行った事実確認によれば彼と少女の間に面識はないとのことだ。
それでも彼は自分が助けた相手のことだけはぼんやりではあるが覚えている。他のすべての記憶は忘れてしまっているのにもかかわらず。
それがなぜなのかは分からない。
「なんにせよこれから彼を待ち受けている現実は厳しいな」
気丈に振る舞おうとはしているようだったが記憶を失って不安に感じていないわけがない。
しかも彼が置かれている状況を本人に伝えるのはそこに追い打ちをかけるようなものだ。しっかりサポートをしていかなければならないだろう
そして問題がもう一つ。
彼は今、面会謝絶の扱いになっている。記憶喪失になり、意識回復後も記憶の定着がみられない彼に余分な情報を与えるのは早いと判断したためだ。混乱の原因になりかねない。
しかし彼が入院してから絶えず面会を希望している者がいる。二十代の男性で、彼が助けた少女の関係者であるらしい。名前は確か武内、といったか。
武内君は彼の意識が戻らない時からお見舞いに来ていて、意識が回復し面会謝絶になった時も面会可能になればすぐに連絡を頂きたいと言われている。恐らくあと一週間もすれば面会が可能な程度には記憶の混乱も治まるだろう。
だからといってすぐに面会を許可できるかと言えば悩むところだ。
彼にも心の整理をする時間が必要だし、その辺は本人と相談しながらやっていくしかない。できればあまりショックを与えたくはないのだが……。
そう思いながら私はもう一度、今度は大きなため息を吐いた。