家を出て、事務所までの片道三十分。街の喧騒を掻い潜るように、私はお気に入りのお散歩コースを通って事務所に向かう。
電車やバスを使えばもっとずっと早く着くけれど、私はそうやってゆっくりと、周りの景色を見ながら自然を感じて歩くのが大好き。……大好き、でした。
今はもうそれを楽しめなくなってしまったけれど。
よく散歩した公園。四月になると公園内の桜が花弁の雨を降らせて、私はそれを浴びるようにして歩くのが好きだった。
あの日もそう。いつも通りカメラを片手に桜吹雪や舞い散る花びらにじゃれつく猫をカメラに収めていて。いい写真が取れたと満足し、公園脇の沿道を歩き始めてすぐのこと。
分かりやすい前触れ、というのはなかったように思う。ブレーキ音や何かに衝突した音も聞こえなかった。
私が“ソレ”に気付いたのは、誰かが口にした「避けろ!」という鬼気迫る声を耳にしたから。反射的に振り返りました。
でもそれはほとんど手遅れで、もうどうしようもないほど絶望的なタイミング。
真後ろから猛スピードで迫ってくる乗用車が、その時の私にはスローモーションのように見えていました。なのに足はその場に縫い付けられたように動かず、ただただ自分と車の距離がゼロになる瞬間を待っているだけ。
――ああ、私はここで死ぬんだ。
とてもあっけなく、そして突然に。恐怖や悲しみに暮れるヒマすらないまま。
心が諦めるよりも早く、衝撃が私を襲う。
不思議なことにあまり痛くはありませんでした。でもそれより不思議だったのはさっきまで立っていたはずの自分が尻もちをついていること。
私の数メートル先には先ほどまで誰もいなかったはずなのに、そこには一人の男性がいて。彼がいるのは一瞬前まで自分が立ちすくんでいた場所でした。
刹那の間を置いて、彼が私を車の進路上から押し退けてくれたのだと理解した。
それはつまりその男性が自分の身代わりになるということ。その事実に思い至り、彼を待ち受ける一瞬先の未来を想像したのとほぼ同時に、彼は鉄の塊に吹き飛ばされてしまった。
聞いたことのない、ドコンという重々しく、けれど生々しさを感じる音。それは人間が車に撥ねられる音。
その音が、未だに耳の奥にこびりついている。もしかしたら一生剥がれないのかもしない。
男性の下半身は車の下敷きになり、車体の下にはジワジワと広がっていく赤々とした鮮血。
その光景が網膜に焼きついて、瞼を閉じれば嫌でも浮かび上がってしまう。
私は何もできなかった。私の命を救ってくれた人のために助けを求めることも、病院に電話をすることも。
初めて感じた死への恐怖で体が支配されていた。全身が震えて、何も考えられない。
結局私は集まってきた人達に肩を揺すられて我に返るまで呆然としていることしかできませんでした。もしもあの時、私がもっと早く行動を起こすことができていたらあの人は――
「……ちゃん。藍子ちゃん!」
名前を呼ばれてハッとする。状況を飲み込めずにいると、歌鈴ちゃんとプロデューサーが心配そうに私の方を見ていることに気が付いた。
そうだ、ここは事務所の会議室で、今は次のお仕事の打ち合わせ中だったのに。
いけない。また無意識にあの日のことを思い出してしまっていた。
これじゃ歌鈴ちゃんやプロデューサーさんに心配をかけてしまう。大丈夫、という意味を込めて、私は笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃってました」
上手く笑えた自信はないけれど、それでも笑う。
だって私はアイドルだから。
「藍子ちゃん、無理はしないでいいよ。つらいなら少し休もう?」
けれど時すでに遅く、歌鈴ちゃんにそんな言葉をかけられてしまう。普段から感情をほとんど表情に出さないプロデューサーも険しい顔をしていた。
この二ヵ月の間でこの二人を含め、事務所の仲間たちにどれだけの心配をかけてしまったんだろう。しっかりしなくちゃいけない、という意志に心がついてきてくれなかった。
「……少し休憩を挟みましょう」
プロデューサーにそう提案されて、結局打ち合わせを中断させてしまう。
情けない、と思いながら気持ちを切り替えようと会議室から出て、近くにあった休憩用のスペースに設置されているソファーに腰かける。
このままじゃダメ。頭ではそう分かっているのに、どうして……。
「藍子ちゃん……やっぱりまだあの日のことが?」
「……ごめんなさい。なかなか立ち直れなくて」
「そんなことないよ!もし藍子ちゃんと同じ立場だったら私だって……」
「ありがとう、歌鈴ちゃん。……本当のことを言うと、私は助けてくれた人のお見舞いに行きたいんです」
そうすることで自分の心に巣食った弱さとちゃんと向き合えるような気がする。
でも……。
「……プロデューサーさんに止められてるんだよね?」
「……うん。その人が意識不明らしくて、意識が戻るまではダメですって言われちゃった」
意識不明、という四文字が私に重くのしかかる。
私を助けたばっかりに、なんて言えばあの人の行動を台無しにしてしまうし、歌鈴ちゃんは怒るだろう。それでもそう思わずにはいられなかった。
「ちょっといいかな?」
不意に私たちの背後から声をかけられる。
振り返ると、そこにいたのは同じアイドル部門で活動している北条加蓮さんだった。
美城は大きなプロダクションなので、一括りにアイドル部門と言っても複数の事務所に別れていますけど。北条さんも普段は別の事務所にいるのでほとんど面識はありません。
「北条さん……」
「こんにちは。こうして面と向かって話すのは初めてだね」
「そうですね。高森藍子です」
「ど、道明寺歌鈴でしゅ!」
歌鈴ちゃんが思い切り噛んでしまう。焦ったり緊張すると滑舌が悪くなるクセはなかなか治らない。
それはひとまずさておき。これまであまり接点のなかった北条さんがどうして声をかけてきたのか尋ねる。
「あの、それで何か……?」
「ああ。本当は私が言うべきことじゃないかもしれないんだけど」
北条さんはそう前置きをしてから切り出しました。
「私、昔は体が弱くてさ。アイドルやってる今でも体力がなくてたまに体調崩しちゃったりして」
「そうなんですか?それは大変そうですね……」
アイドルという職業は表向きこそ華やかですけど、その裏では日夜レッスンやトレーニングに励み、人気が出てくればそこにテレビの撮影や地方への営業もあったりしてかなりハードな仕事です。
体力勝負な場面も多いので、体が弱いながらアイドルとして活動している北条さんは苦しいと感じることが多いかもしれません。
「そんなんだから病院に行くことも多いんだけど、この前私のかかりつけの病院で高森さん達のプロデューサーを見かけたの。名前は確か……武内さんだっけ?あの、背が高い」
「っ!そ、そうです!」
ということは武内さんは定期的に病院に?
あれ、でも相手の人は意識不明のはずじゃ……。
「……それはいつくらいのお話しなんですか?」
「一ヶ月近く前かな。ただ武内さんは病室の前に立ってるだけだったんだよね。それで何をしてるんだろうって思ったんだけど、検査のあとでその病室の前を通ったら『面会謝絶』ってプレートがかけられてた」
「え?」
面会謝絶……?
私を助けてくれたあの人は意識不明で、だけどお見舞いは可能だったからプロデューサーさんが行っていたはず。それが面会謝絶になったということは、つまりとても危険な状態だということ。それこそ命の危機に瀕するような。
もしかしてそのまま――そんな最悪な想像を働かせてしまった私を安心させるような声色で北条さんは続きを話してくれました。
「だけど昨日、定期検診で病院に行ったときは面会謝絶のプレートはなくなってたし、その病室に武内さんが入っていったのを見たんだ。だから高森さんがお見舞いに行きたい人はもう目が覚めてるんじゃないかと思って」
確証があるわけじゃないけど、と北条さんは最後に付け加える。でも私はその言葉に大きな安堵を感じられた。
「それで私に声をかけてくれたんですね」
「うん。……正直、高森さん達のプロデューサーが伝えるかどうか判断するべきことだから言うか迷ったんだけど、あまりにも暗い顔してるからさ」
そう言って北条さんが苦笑を浮かべる。
親しいとは言いがたい私のことを心配して、気遣ってくれたんですね……。私の周りにいるのは、本当に優しい人ばかりです。
「ありがとうございます、北条さん」
「加蓮でいいよ」
「なら私のことも藍子って呼んでください、加蓮ちゃん」
「ふふ、ちゃん付けは新鮮かも」
加蓮ちゃんがクスクスと笑う。
クールなイメージが強い人だったけど、それ以上にとても穏やかで、優しい人なのかもしれない。
加蓮ちゃんに向かって頭を下げる。
「教えてくれて本当にありがとうございました。あの、私プロデューサーさんのところに行ってきます」
「ええ、藍子ちゃん!?」
いてもたってもいられずに、そう言うや否や私は、歌鈴ちゃんの声にも止まらずプロデューサーさんがいる会議室を目指す。
もし、もしあの人の意識が戻っているなら、私は――!
「プロデューサーさん!」
バタンと大きな音を立てて会議室に飛び込む。その音と私の声にプロデューサーさんはいつもより目を少しだけ見開いて驚きを表に出す。
そんなプロデューサーさんに私は真正面から尋ねた。
「私を助けてくれた人が意識不明から回復したって本当なんですか?」
「……」
プロデューサーさんは無言。私は視線をそらさずその瞳を見つめる。
先に視線を逸らしたのはプロデューサーさんの方でした。
「……どこでそれを?」
その言葉は私の質問が正しかったことを証明するものだった。
「それは……」
「私だよ、武内プロデューサー」
空けたままだった扉の方からそんな声が聞こえた。そこにいたのは加蓮ちゃんと、その背中に隠れるようにして顔を出している歌鈴ちゃん。
プロデューサーさんは加蓮ちゃんを見て、すべてを理解したように呟いた。
「北条さん……そういえばあの病院はあなたが通っている……」
「よく知ってるね」
「担当ではありませんが、プロダクションに所属しているアイドルのことですので」
「聞いてた通り真面目な人なんだ」
聞いていた通り、というのは加蓮ちゃんのプロデューサーさんから、ということでしょうか?
確かにプロデューサーさんは真面目すぎるくらい真面目な人だと私も思う。だから私も歌鈴ちゃんも信頼している。
「プロデューサーさんは私を助けてくれた人の意識が戻るまでお見舞いに行くのはダメですって言ってましたよね?」
「はい」
「そしてあの人は目を覚ましたんですよね?」
「……はい」
「それなら――」
「少しだけ、待ってください」
プロデューサーさんが珍しく相手の言葉を遮って大きく息を吐く。そして思い悩むように目を閉じる。
それだけでプロデューサーさんがとても苦悩しているというのが伝わってきました。
思案すること十数秒。それが何分にも感じるほどの張り詰めた空気を、プロデューサーさんが意を決するように破る。
「……分かりました。彼のお見舞いに行くことを認めます。ですがその前に高森さんへお伝えしなければならないことがあります」
その表情から、伝えなければいけないということがどれほど重要なのか理解できました。
プロデューサーさんがここまで口ごもるほどのものがなんなのか、私にも緊張がうつったように心臓の鼓動が早くなる。
「あなたを助けた青年、綾部さんは意識を取り戻してつい数日前に面会謝絶は解けました。そして本人から高森さんへ伝えてほしいと言われた言葉があります」
「私に、伝えてほしい言葉?」
「はい。『俺は元気で怪我も大したことないから、君は落ち込まないでいいよ』と彼は言っていました」
……その言葉を聞いて、泣いてしまいそうになりました。
怪我が大したことないなんて嘘です。あんなに大きな事故で、私を助けるために怪我をして、足を骨折したというのも聞いています。何より一ヵ月も意識不明という危険な状態だったのに。
それなのに私の心を心配してくれるその優しさに、私の視界が涙で滲んでしまう。
そして同時に絶対に直接会って感謝を伝えたいという気持ちがさらに強くなる。
「――ですが、伝えなければいけないのはこれだけではないんです」
「え?」
「前もって言っておきますがこれは高森さんが悪いわけではないし責任を感じる必要はないことです。綾部さんもそう考えている」
「……どういう、ことですか?」
不穏なセリフに、ついさっき感じていた高揚感にも似た気持ちが押し潰される。
そしてプロデューサーさんは、まるで犯してしまった罪を告白する懺悔人のようにこう吐き出しました。
「綾部さんは、事故の影響で……記憶を喪失しています」