「記憶喪失……?」
私は呆然と、プロデューサーさんの言葉をくり返すことしかできなかった。
「はい。意識が回復した綾部さんは自分の名前や年齢、どうして入院しているのかなど、自分に関する記憶をすべて失っている状態です」
追い打ちをかけるようなその言葉に私の後ろにいる二人も息を呑むような気配が伝わってくる。けれど今の私にはそれを気遣う余裕もなく、その告げられた事実に膝が震えて抜けてしまいそうになる。
心臓が締め付けられるように痛い。
どうして、なんであの人が。そんなどうしようもない悲嘆とも後悔ともつかない感情が私の心を蝕むように駆け巡る。
同時にどうしてプロデューサーさんがあれほど苦悩していたのか理解できました。
そして責任を感じる必要はない、と言ってくれたのも私が自分を責めないように、というプロデューサーさんの気遣い。
でも、それも台無しにしてしまう。
「藍子ちゃん!」
力が抜け、ふらついた私の体を歌鈴ちゃんが支えてくれる。
それに対してお礼を言うこともままならないほど、私の心は乱れていた。
「……それ、ちょっとおかしくない?記憶を失ってるならどうして藍子のことを覚えてるの?」
黙っていた加蓮ちゃんがプロデューサーさんに尋ねる。
確かに、言われてみれば疑問に思うところかもしれない。その問いかけを受けたプロデューサーさんはつらそうな面持ちで返す。
「……これは綾部さんご本人に聞いた話ですが、彼には唯一残っている記憶があるそうです。正確には記憶かどうかも定かではないと仰っていましたが……」
プロデューサーさんが私の方へと向き直る。そしてこんなことを聞いてきました。
「高森さん、あなたが綾部さんに助けられた時、目が合いませんでしか?」
「目が……?」
言われて、あの時のことを思い返す。綾部さんが私の身代わりとなって車に轢かれる直前の光景を。
今まで彼が撥ねられたという事実やその瞬間の映像がフラッシュバックすることはあっても、その前を詳細に思い出すということはあまりしていなかったかもしれない。
目を閉じて、記憶を遡る。そして――ああ、確かにあの時、あの人は。
「……笑って、いました」
私の言葉に、その場にいたみんなが「え?」という声を出して困惑する。けれどそれは私も同じでした。
思い出して、知る。あの人は確かに笑っていた。苦笑いとも、微笑みともつかない笑顔で。
「目があった時、あの人は笑っていました。どうしてかは分からないですけど……まるで安堵したみたいに、笑っていました……」
「そう、ですか……」
振りしぼるように、プロデューサーさんは口を開く。
「綾部さんは、その時に見たあなたの瞳をかすかに覚えているみたいなんです。……とても悲し気で、絶望感に満ちた目をしていたと。そしてそれについてとても心配していました。『その子の心は大丈夫なんですか?』と」
「……どうして」
言葉が続かない。
どうしてあの人は、そんなにも優しいのだろう。誰よりも自分が一番つらいはずなのに、どうして私のことをそんなに心配してくれるのだろう。
その優しさに対する喜びと罪悪感で、私は涙と
数分、もしかしたら十分くらいはそうしていたかもしれません。その間誰も口を開けないでいました。
そんな沈黙を、私は自ら破る。
「……プロデューサーさん」
「はい」
「私、行きます。それで綾部さんに感謝を伝えたいです」
「……分かりました。では今日の打ち合わせは明日に回しましょう。病院の場所は……」
「それなら私が案内するよ」
加蓮ちゃんがそう申し出てくれる。
「しかし北条さんにも予定が……」
「私は今日の仕事もう終わってるから大丈夫だよ。それに藍子を炊きつけた責任もあるしね」
武内さんとしても藍子一人で行かせるよりは安心できるでしょ?と、まるでいたずらっ子のように加蓮ちゃんは言う。
プロデューサーさんはそれを了承する。そしてなぜか歌鈴ちゃんも一緒に行くことになった。
二人とも病室には入らずに、でも私を見守っていてくれるために。それはとても心強かった。
こうして三人で向かうことになった都内の病院は、事務所から一時間ほどで到着する。目的の場所は二階の208号室。プレートに書いてあるのは『綾部勇気』の文字だけ。どうやら個室らしかった。
病室の前に立ち、深く深呼吸をする。そして白い扉をノックしました。
コンコン、という音が響く。
私は、そして一緒についてきてくれた二人も緊張から小さく息を呑む。
…………けど、返答はありません。もう一度、ノックする。
コンコン。
しかし変わらずに静寂。
「……いないんでしょうか?」
「それか寝てるのかも」
そうだとしたらこれ以上ノックをするのは迷惑になってしまう。どうしようと悩んでいると、そこにちょうどナースの人が通りかかりました。
そして私たちを見ると少し驚いたように声をかけてきます。
「あなたたち、もしかして綾部君のお見舞い?」
「は、はい。そうです」
「こんな可愛い子たちが来てくれるなんて綾部君も隅に置けないわね」
ナースさんはくすくすと笑う。
「か、可愛いだなんてそんな……」
アイドルをやっていてもそういう直接的な褒め言葉にはまだ慣れません。みくちゃんとか幸子ちゃんなら笑顔で受け取ることができるんでしょうけど……。
「って、北条さん?あなた綾部君と知り合いだったの?」
「そういうわけじゃないですけど、付き添いで」
「あらあら、そうなのね。綾部君、入るわよ?」
そう言うとナースさんはノックもそこそこに相手の返答を待たず扉を開きました。
一度ゆるんでしまったせいで、心の準備が……。
でも病室の中はもぬけの殻。ナースさんが呆れたような声を出す。
「綾部君ったら、今日もどこかうろついてるのね……」
「確か足を骨折してるって聞いていますけど」
「そうなんだけどねぇ。松葉杖が解禁になってからは病院内の至るところに顔を出してるのよ。寝てるだけだとヒマなんですって」
その気持ちは分からなくはありません。でも杖があるとはいえ足を骨折してるのにそんなに動き回っても大丈夫なのか、心配になります。
「最近は小児病棟の方によく行ってるみたいだから探すならそっちかな」
「小児病棟?」
どうしてそんなところへ?
「ええ。大抵にぎやかにしてるから行ってみれば分かると思うわ。小児病棟は東館よ」
「ありがとうございます」
手を振って去っていくナースさんに頭を下げてお礼を言う。
そして三人で向き合いました。
「どうしましょう?」
「行ってみた方がいいんじゃない?」
「そうですよ。せっかく来たんですから」
二人ともそう言ってくれたので、小児病棟へと足を向ける。渡り廊下を通って東館へ。
すると白一色だったとなりの病棟とは違い、壁の色合いはカラフルで、アニメのキャラクターなんかが描かれている。
あ、これは光ちゃんが大好きな特撮ヒーローのお人形だ。一・五頭身くらいにデフォルメされていて、かっこいいよりは可愛らしい。
そんな小児病棟は子どもが多いため普通の病棟よりはやっぱり騒がしい。その中にあって、ひときわ大きな歓声が上がる場所があった。
色とりどりな正方形のイスで囲まれ、絨毯が敷かれたスペース。テレビでは子どもに人気のアニメが流されていて、人形や絵本、パズルといったおもちゃが壁際にたくさん収納されている。
そこに、一つだけ子どもじゃない人の姿がありました。
「だー、負けたー!」
「兄ちゃんよえー」
「んだとぉ。じゃあもう一回やるぞ」
「また負けるって。もう三連敗してるじゃん」
「勝つまでやるんだよ」
「うわー、大人げなーい」
「ねー、お兄ちゃん絵本読んでー」
「いいよ。唯ちゃん、こっちおいで。絵本読みながらトランプやるから」
「やったー!」
「うわ、絶対また負けるよ」
「うるさい。ハンデだ、ハンデ。って光汰と沙耶香、いつの間にギプスに落書きした!?油断もスキもねぇな!」
「「やってませーん」」
「じゃあそのペンは何だよおい。お前らの落書きのせいで俺のギプスの色合い超やべーんだけど……」
「お兄ちゃん、絵本ー!」
「ああ、ごめんごめん。『むかしむかし、あるところに……』」
「勇気さん、その絵本シンデレラなんだけど……」
「いいからもう一回ババ抜きやんぞ」
「マジでやんのかよ」
三人とも言葉を失ってその光景を見守る。例えるなら、それは――。
「託児所のお兄さん?」
加蓮ちゃんの言う通りだった。たくさんの子どもに囲まれながら楽しそうに、そして子ども達はもっと楽しそうに、笑い合っている。その誰もが綾部さんに懐いているのが離れた位置からでも分かった。
「あの人が、綾部さん?」
「……はい、そうです」
見間違えるはずがない。私を助けてくれた、命の恩人。
記憶喪失という大変な目に遭っているのに、そんなつらさなど微塵も感じさせないで子ども達と遊んでいる。
みんなの良いお兄さん。
そんな言葉がぴったりな光景だった。見ているだけで自然と口元がほころぶ、平和で優しい世界がそこには広がっていた。
私が踏み込んだらそんな世界を壊してしまいそうで、しばらくただ見ていることしかできませんでした。
しかしそうしている内に、子どもの一人が私達に気付いて声をかけてきました。お姉ちゃん達どうしたの?と。
一瞬、答えに
まるでそんな合間を縫うように、彼が、綾部さんが私の方を見た。あの時のように目が合う。
それだけで尻込みしそうになった。でも交わった視線だけは逸らせない。
綾部さんが何をしているんだろう、とばかりにちょっとだけ首を傾げた気がした。
でも次の瞬間には何かに思い至ったのか、あっ、というような声を出した。そして子ども達に断りを入れながら器用に立ち上がり、松葉杖を使いながらこちらに向かってくる。
ギプスが装着された足が痛々しくて見ていられず、かといって綾部さんのことを見ないわけにはいかない。そうなると私の視線は綾部さんの顔に向けて固定されてしまう。
ついに綾部さんが私の真ん前までやってくる。
「こんにちは」
その声は。最初の一言は。
柔らかくて、心を安心させてくれるぬくもりのようなものに満ちていた。
こんなに優しい声を出せる人がいるのかと惚けそうになりながら私はあいさつを返す。
「こ、こんにちは」
「多分だけど、『はじめまして』じゃないよね?」
「……はい。あの、私、綾部さんに助けてもらって……本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「……それと、こんな目に遭わせてしまって、ごめんな――」
「はいストップ」
綾部さんが私の言葉を遮る。その顔は困った子どもを見てしかたないなぁと思っているかのような苦笑を浮かべていました。
「俺は君を助けた。その結果として俺は骨折したし記憶喪失にもなった」
「……っ」
綾部さんが淡々と事実だけを告げる。それが私の心に突き刺さる。
けれど次の瞬間には、さっきよりも一層柔らかくなった声で語り掛けてくれました。
「でもそれがどうしたの?って話だよ。骨なんてすぐにくっつくし、記憶は一時的に忘れてるだけでいずれ戻る。それでいて俺も君もこうして生きてる。誰も死んでない。これ以上の結果なんてないくらいだよ。だから謝罪なんていらないって」
太陽みたいな笑顔で、綾部さんは言う。
「ただ『ありがとう』って言ってもらえれば俺としては充分。それだけで君を助けた甲斐があったなって、胸を張って自慢できるから」
そんな笑顔と言葉によって、どこまでも深くて、広くて、温かい優しさに包まれる。
私を
体を震わせ、引きつった声で、私はひたすらに同じ言葉をくり返した。
ただただ、「ありがとうございます」と。
この小説と、君の名は。の二次創作『三度目の夜に。』が同時にランキングに入ってました。
とてもうれしいです。