土曜日の夜。
連也は明日の試合に備えて、木刀『飛龍』の手入れをしていた。
柄巻きをほどいて剥き出しになった木刀を、まずは濡れタオルで拭いてから、別に用意してある乾いたタオルで拭く。
それから、もう一度柄糸を巻いていった。ゆっくりと、丁寧に。
それが終わると、『飛龍』を両手で握った。
父の形見であり、代々の念道家の念が宿った魂の木刀。鋼鉄の刀剣とも打ち合い、この世ならざる妖魔悪霊を調伏する神秘の聖剣。
しかし今、この木刀に宿るのは連也自身が込めた念だけであった。
父を始めとする先祖たちの念は、オルランドとの戦いで一度破壊された際に、消えてしまっていた。
戦車のリアクティブアーマーが、爆発する事で着弾の衝撃を相殺するように、先祖たちの念もまた、そうやってオルランドの攻撃を緩和させたのだ。そうでなければ、連也の体は真っ二つに両断されていただろう。
──俺は、たくさんの人たちの遺志で生かされてるんだな。
そう思った。
そして、だからこそこの命は無駄には出来なかった。父のため、先祖のため、念道を極めて秋月流念道剣を先人たちの目指した『高み』へと近付けなくてはならないと思った。
自分を生かしてくれた人たちを軽んじるのは、自分の命をも軽んじるも同然なのだ……。
◆
翌朝、連也はジャージ姿にウェストポーチを身に付けて、家を出た。
待ち合わせ場所は駒王学園高等部の旧校舎だ。そこにリアスとゼノヴィアがいて、連也を待っていた。彼女たちが、試合場所に案内してくれるらしい。
「サイラオーグさんは?」
「彼なら向こうで待ってるわ」
連也の問いにリアスが答え、彼を旧校舎の中に案内した。
そしてオカルト研究部の部室に入る。
リアスとゼノヴィアが部室の真ん中で、連也を挟むようにして立った。
三人の足下に光が発生した。それは連也がファンタジー物のゲームなどで見る魔法陣である。
魔法陣の輝きが室内を満たすと、三人は部室から姿を消した。
次に連也の視界に入ったのは、どこまでも広がる草原と、彼方に連なる山々、そしてドロドロした色合いの、紫色の空だった。
悪魔と堕天使が棲む異界──冥界である。ここはその冥界の中の、グレモリー家が治める領土内であった。
「へぇ~……」
リアスからそのように説明された連也は、物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回した。
ゼノヴィアとリアスは、自分たちも初めて修学旅行で京都に行った時はこんな感じだったのだろうかと、ふと思う。
連也がウェストポーチからスマホを取り出して、冥界の空を撮影しようとした。悪魔の存在を公にしてしまう可能性は、どんなに小さくとも排除せねばならない。リアスがやんわりと連也の写真撮影を制止した。
「待ちかねたぞ、秋月連也」
そこへ、サイラオーグが呼び掛けて来た。
彼は最初からそこにいたのだが、連也は初めて訪れた異世界の物珍しさに、完全に気付いていなかったのだ。
「どうも。今日はお手柔らかに」
小さな子供みたいにキョロキョロしてるところを見られた恥ずかしさからか、のんきな挨拶とは裏腹に、連也の頬には赤みが差していた。
待っていたのはサイラオーグだけではなかった。その場にはグレモリー眷属と赤龍帝眷属、生徒会メンバーにシトリー眷属まで、大勢が集まっている。
「……なんでこんなたくさんいんの?」
「お前に興味があるのは、俺だけではないという事だろう」
「俺は珍獣かよ」
まさかこんな大勢のギャラリーがいるとは夢にも思わず、連也はぼやく。
ぼやきつつギャラリーの中に曹操の顔を探したが、彼は見当たらなかった。
「俺はいつでも構わん。そちらの準備が整い次第始めようか」
「んじゃ、早速」
連也は軽く答えて、背中の襟口に右手を突っ込んだ。引き抜かれた右手には、木刀『飛龍』が握られている。連也はそれを正眼に構えた。
サイラオーグはボクシングのファイティングポーズを取った。上体をやや前傾させたクラウチングスタイルだ。
試合開始の合図は、サイラオーグがそのまま一歩踏み出して放った左ジャブだった。
連也の木刀がわずかに動いてその左拳に触れると、サイラオーグのジャブは簡単に軌道を逸らされた。
しかしサイラオーグは意に介さず、更に踏み込んで、左右のフックを次々と打ち出す。
連也はバックステップでかわすが、下がれば下がった分、サイラオーグが距離を詰めて食らいついてくる。
岩から削り出したような巨拳が、凄まじい風切り音を上げて繰り出された。
そのことごとくをかわした連也は、何を思ったか木刀を下ろした。
そこへ迫る、サイラオーグ渾身の右ストレート!
だが、おお何という事だろうか──連也は空けた左手の、人差し指一本で、その猛烈な一撃を止めてしまった!
サイラオーグも、試合を見守るギャラリーも、目を丸くして驚いた。一誠や匙にいたっては、顎が外れたのかと思うほど口を開けている。
「つくづく、凄い人だね……」
「ああ。我々でも出来ない事はないが、実戦でやれるかと言ったら、まぁ無理だろうな」
祐斗のつぶやきに、ゼノヴィアが答えた。
二人の会話を聞き付けて、一誠が尋ねる。
「出来ない事はないって、お前らいつの間にそんなパワー身に付けたんだ?」
「イッセーくん、あれは力で止めたんじゃないよ。パンチの射程の一歩外に出て、伸びきった拳に指を置いただけさ」
「つまり連也は、サイラオーグの動きを完全に見切っているという事だ」
「マ、マジかよ……!」
二人の解説に、一誠は連也の才能に改めて戦慄した。
同時に、歯痒い思いもある。サイラオーグの努力が、連也の才能の前に否定されたような気分になったのだ。
サイラオーグは己れの可能性を信じ、たった一人でひたすらに鍛え続けて来た。何もかもが手探りの状態で、血反吐を吐くような厳しい鍛練を課してきたに違いない。
それは自分も同じだ。突然目覚めた
対してあの秋月連也は、ちゃんとした師匠の元で、念道とかいう技のちゃんとした指導をしてもらったに違いない。そんな恵まれた環境でのびのびと育てられた奴には、勝ってほしくなかった。
一方サイラオーグはというと、もちろんいつまでも固まったままではない。間合いを取って、構え直した。
拳の感覚で、連也がパンチを人差し指一本で止めたのではない事はわかっていた。
それはつまり、連也が自分の動きを完璧に見切っているという事であり、それくらいなら力で止めてくれた方がまだマシだったかも知れないと思っている。
「サイラオーグさん」
そこへ連也が呼び掛ける。
「これはただの手合わせ。別に命がかかってる訳じゃあない。言ってしまえばただのコミュニケーションだけど、だからってそこまで気を遣わなくてもいいんですよ」
「……すまんな」
サイラオーグは別に、連也を気遣った訳ではない。
しかし、初めて見る冥界の空を撮影しようとした姿を見て、気が抜けると同時に、相手を無理矢理付き合わせてしまったような罪悪感すら抱いてしまった。
それが自分の動きに、力に、無意識のうちにブレーキを掛けてしまっていたようだ。
連也がわざわざパンチを指先一つで止めるパフォーマンスを行ったのは、『手加減なんて必要ないですよ』というメッセージなのだと、解釈した。
「ならばお言葉に甘えて──いや、違うな。お前を付き合わせたのは俺だ。全力で戦う事こそが、お前という戦士に対する礼儀というもの……これは、俺の考え方が甘かった」
サイラオーグは大きく息を吸い、コォォオオオッ! と鋭く吐き出す。体内の気を高める呼吸法だ。
「ハァッ!」
そして気合いを放つと、上半身を覆っていたタンクトップが千々に破れて弾け飛んだ。全身にみなぎらせた気の圧力によるものだ。
気のせいだろうか、連也にはサイラオーグの体が一回り大きくなったようにすら見えた。
「──
「お手柔らかに」
相変わらずのんびりした返事だったが、
(余計な事するんじゃなかった……)
先程のパフォーマンスを早くも後悔する連也であった……。
◆
そんな二人を、少し離れた場所から眺める者がいた。
太い木の枝に座り、幹を背もたれにしている。
曹操だ。
どこで買ってきたのやら、手にはペットボトルのメロンクリームソーダを手にしている。
「やっと始まるようだな……」
ポツリとつぶやいた。
連也のパフォーマンスも、彼はゼノヴィアや祐斗同様に見抜いていた。
秋月連也への興味がますます強くなる。
サイラオーグが果たしてどう戦うのかも楽しみだ。
スポーツ観戦の気分で、曹操はソーダを一口飲んだ。
◆
──時間は少し遡る。
森の中を、連也とサイラオーグの試合が行われている予定の草原へ向かって進む、二人の男がいた。
ヴァーリ・ルシファーとアーサー・ペンドラゴンであった。
場所は、アーサーがルフェイから、兄妹の雑談の中でそれとなく聞き出した。
どんなに魔術に長けていようとその辺はまだまだ子供だなと、アーサーは微笑ましい気持ちになったものだ。
二人の目的は同じだった。『横取り』だ。
サイラオーグには戦士としてそれなりに敬意を抱いているが、かと言って抜け駆けされるのは、それはそれで気に入らない。
だから、誰が連也と戦うかを公平にあみだくじで決めるよう、直談判するつもりなのだ。
──あみだくじが果たしてどれほど公平なのかは、触れないであげてほしい。
サイラオーグがこれを拒めば、武力行使も辞さない構えであるし、どちらかと言えばそういう展開を二人とも望んでいた。
森を抜けて、二人は足を止めた。
そこは無人だった。
そもそもそこは、草原ですらない。
広い部屋の中に、二人はいた。
ソファやテーブル、本棚などがあり、床はピカピカに磨き上げられたフローリングに、赤い絨毯が敷かれてある。絨毯の柄はアーサーにも見覚えがあった。ペンドラゴン家の屋敷の居間に敷かれているのと同じだ。
いや、それを言うなら室内のレイアウトその物が、昔懐かしきペンドラゴン邸の居間とほとんど同じだった。
違うところと言えば、部屋の片隅に置かれた大きなモニターとスタンドマイクくらいか。
「……なんだ、ここは」
「どうやらルフェイの悪戯のようですね。我々の考えを見抜いて、隔離結界を作ったのでしょう。我々はまんまとそこに嵌まってしまったといったところですね」
『その通りで~す!』
やたら明るくキャピキャピした声が響いた。
モニターがいつの間にか点灯しており、そこに三頭身くらいのミニルフェイとでも呼ぶべきキャラクターが映っている。
『ここは私が創造した異法結界。私が定めた条件をクリアしなければ決して出られない幽閉空間となっております。ネットでよくある《○○しないと出られない部屋》とだいたい同じような物だとお考えください。もっとも、何もしなくても24時間ほどで自動的に外に出られるようにはしておりますから、そこでおくつろぎになるのもありですよ?』
「馬鹿馬鹿しい……ルフェイ、いい子だから早く我々を解放しなさい。父上や母上にある事ない事言いつけますよ?」
『そのためには、この部屋から一刻も早く脱出するべきですよ、お兄様。でないとルフェイちゃんがお父様やお母様に、お兄様の事である事ない事言いつけちゃいますから』
──チッ!
アーサーは柄にもなく舌打ちした。
「で、俺たちが脱出する条件とは何だ」
『それはこちらで~す!』
モニターの中でミニルフェイがバレリーナのようにクルクルと回転しながら右端に引っ込み、空いたスペースにテロップが現れた。
《部屋の中にいる者全員が一人ずつ、マイクに向かって『ルフェイちゃん萌え萌え』と大きな声で百回叫ぶ事》
……アーサーは眼鏡を外すと、内ポケットにしまっていた眼鏡拭きでレンズを丁寧に拭き、もう一度掛け直してからモニターを見た。
……ヴァーリは目を閉じて、その目を手で押さえた。何度か深呼吸を行い、もう一度目を見開き、モニターを見た。
《部屋の中にいる者全員が一人ずつ、マイクに向かって『ルフェイちゃん萌え萌え』と大きな声で百回叫ぶ事》
見間違いでも何でもない。
非情にも、モニターには確かにそう書かれてあった。
アーサーは青ざめた。
ヴァーリはワナワナと震え出す。
(あいつ、本物の悪魔だ……ッッ!!)
二人は全く同じ事を、胸中で叫ばずにはいられなかった。