秋月連也は、毎朝4時には目を覚ます。
起きるとジャージに着替えて顔を洗い、叔父夫婦を起こさぬよう静かに家を出た。
日課の走り込みである。
と言っても、普通に道を走るのは最初だけだ。公園に入ると、人目のないのを確かめてから、公衆トイレの屋根の上に跳躍する。
そして、時に塀を、時に民家の屋根を、果ては電線の上などを走る。
傍迷惑と言えば言えようが、バランス感覚や反射神経を養う事が出来る。
父が健在だった頃は、山の中を朝な夕な猿のように駆け回り、跳び回ったものだ。
そうやって住宅街の外周をグルリと回ると、河川敷に出た。
日の出前の薄暗い河原で、背中から愛用の木刀『飛龍』を取り出し、素振り稽古を始める。
面。
胴。
小手。
袈裟。
逆袈裟。
突き。
各種の打ち込みを、
正眼。
八双。
霞。
脇構え。
各種の構えから繰り出していく。
それが一通り終われば、木刀を右太刀から左太刀に構え直す。つまり、右手を上・左手を下にする持ち方から、左手を上・右手を下にする持ち方に替えるのだ。
そして再び、同様の素振りを行う。
それが終わる頃には陽も昇り、川面が鏡めいて空模様を映し出した。
連也は深呼吸をしてから、木刀を正眼に構え、目を閉じた。
──動かない。
彫像めいて動かない。
そばで見ていると、立ったまま眠っているのではないか、それどころか呼吸をしているのかすら心配になってくるほどの不動であった。
やがて、一羽のスズメが飛んできて、木刀の上に止まった。
そして少しの間羽繕いをして、再度飛び立とうとした──が、飛ばない。木刀の上で翼をばたつかせるだけである。
飛ばないのではなく、飛べないのだ。
よくよく観察すれば、連也の木刀が時折、かすかに上下しているのがわかるだろう。
連也はスズメが飛び立つために足下を蹴ってジャンプしようとする時の、そのかすかな圧力や意思の動きを感じ取り、木刀を下げているのだ。そのためスズメは踏ん張りが効かず、飛び立てなくなるのである。
それを幾度か繰り返した後、連也は木刀を上げてスズメが飛び立つのを助けてやった。
スズメはパタパタと飛び去っていく。
それを見送った連也は、満足げに木刀を背中にしまった。
「精が出るな」
そこへ、声を掛ける者がいた。
連也は特に驚く風でもなく、落ち着いて振り返る。
曹操が土手の上に立っていた。
斜面に設置された手すり付きの階段をゆっくりと下りてくる。
連也はペコリと頭を下げた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。それにしても、朝から面白いものを見せてもらったよ。日本でもやっているんだな」
「何がです?」
「これさ」
曹操はスッと右手をかざした。
伸ばした人差し指にスズメがまた一羽飛んで来て止まり、羽繕いした後飛び立とうとして、先程の連也の時のようにその場で羽ばたきするのみであった。
「俺もちょっと前までやっていた。最近は忙しくてなかなか鍛練に時間を割けないがね」
「それで、今朝は早起きして稽古ですか?」
「いいや。日本の早朝の景色を眺めて、目の保養をしている」
曹操はそう答えた。なるほど、服装は学生服に漢服を腰に巻き付けたいつもの格好で、汗もかいていなければ呼吸にも乱れはない。
「ひなびた田舎もいいが、都会の街並みもこれはこれで味わい深いものだ。見てて心が落ち着くよ」
「どーも」
連也はそんな曖昧な返答を返した。
曹操はスズメを解放すると、
「君は毎朝ここで鍛練をしているのかい? ヒーロー」
「だから、ヒーローはやめてください」
「失礼」
曹操は肩をすくめた。特に悪びれている様子は、ない。
「確かに君は、大それた目的意識からオルランドと戦った訳ではないのだろうな。だが、この街の誰もが君をヒーロー、英雄として認めている。それもまた確かな事だ。誰もが君の行いを讃え、君もまた、誰からも讃えられる行動を取った。英雄とはそういうものだ──どこぞの自称英雄とは大違いだよ」
「……それは、曹操さん自身の事ですか」
連也がそう考えた理由に、特に根拠はない。
ただ、曹操の声色に暗いものを感じた。しかしそれは、誰かに対する憎しみともまた違う感じだった。
曹操は目をパチパチとまばたかせ、苦笑した。
「まぁね」
そして、素直に認めた。
すぐそばにあるベンチに腰を下ろす。
何となくだが、連也もその隣に座った。
曹操はポツポツと、自分の過去を語り出す。
聖槍を持って生まれた事、その槍の顕現が切っ掛けで両親に売り飛ばされた事、槍が理由で様々な刺客に狙われた事。
いつしか同じ英雄の子孫や生まれ変わり、異能の力を持つ者たちを束ねるようになった事。
彼等を率いて何を行ってきたのかも語った。
そして、つい最近あの赤龍帝・兵藤一誠に敗れた事も。
「挙げ句、ヴァスコ・ストラーダ猊下にまでダメ出しされたよ。民に求められた訳でもないのに英雄を自称するなんて、ただの子供のごっこ遊びと変わらないとね」
そう言って、笑った。
ぎこちない笑みであった。
「いいじゃないですか、ごっこ遊びでも」
連也がポツリと言った。
「悪い事したんなら償わなきゃいけないけど、あなたのした事で救われた人が誰か一人でもいるんなら、その人にとってはあなたは間違いなく本物の英雄だ。その点は、胸を張っていいと思いますよ」
「救われた者が、いればいいがね」
曹操は死んだ仲間の事を思い出した。
あの剣士は、自分と共に歩めて果たして幸せだったのか? 何かが救われたのだろうか?
「いないって事はないでしょ。何か、結構たくさんの仲間がいたみたいだし、その人たちにしてみれば曹操さんと一緒の方がいいと思ったからついてきた訳で」
連也は構わず続ける。
「そもそも、英雄を自称しちゃいけないなんて決まりもないでしょ。そんな事言ったら『ダイノの大冒険』とかどうするんです? あれの主人公、『勇者になりたい』がスタートラインだったのに」
「君もあの漫画を読んでいるのか!?」
曹操が突然声を弾ませ、連也の肩を掴み、ズイッと顔を近付けた。
「え、ええ、まあ……」
「そうか……ならば俺と君は、魂の兄弟だ!」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟なものか。俺にとってあの漫画は聖典にも等しい。それを君も愛読していたとは、これは天の導きか……俺たちが出会うのは運命だったに違いない!」
「あんた、そういう趣味だった訳?」
と言ったのは、連也ではなかった。
いつの間にか黒歌が、連也の隣に座って両腕を腰に巻き付けていた。
「『英雄、色を好む』って言うけど、まさかそっちの色がお好きだったなんてね……」
「いや待て違う誤解だそういう意味じゃない」
「悪いけどダーリンは誰にもあげないわよ。ほらダーリン、早く帰ろ?」
黒歌は早口で弁明する曹操には取り合わず、連也の手を引いて連れ去って行った。
「性悪のどら猫め」
その場に取り残された曹操は、小さな声でぼやいた。
「救われた者、か……」
連也の言葉が、思い出される。
自分を希望と崇める者はいた。
尾羽打ち枯らした今も、自分をリーダーと認めてくれる者たちもいる。
自分は敗北者だ。だが、やって来た事の全ては無駄ではなかったと思いたい。
でなければ、彼等の存在すら軽んじる事になる。
彼等の人生すら否定する事になる。
「……そうなのかもな」
つぶやく曹操の口角が、かすかに上がっていた。
◆
連也は黒歌に手を引かれて、住宅街に戻ってきていた。
黒歌は彼の腕に抱き付き、豊かな膨らみを押し付けてくる。
「危なかったわね、ダーリン。大丈夫? 変な事されなかった?」
「今、セクハラされてるところです」
答えながら連也は、ズボンの中に侵入しようとする黒歌の手を押さえた。
黒歌は「ニャハハ」と笑って誤魔化す。
「で、朝っぱらから何の用です?」
「大した用事じゃないんだけどね。ほら、男の子って朝は色々とみなぎってて大変でしょ? だからお姉さんが慰めてあげあだだだだっ!」
連也に思いっきり耳を引っ張られて、黒歌は声を上げる。
「もぉ~、怒らなくてもいいじゃない」
涙目になりつつ、黒歌はプウッと頬を膨らませる。
「会う度会う度そんな事言われりゃ、怒りますよ」
「ハイハイ、ごめんなさい──でもね、ダーリン。アタシは結構本気だから、その辺は覚えといてね」
「わかりました。心の金庫にそっとしまっておきます」
「ちょっと待って。それ一度しまったら二度と取り出さない系でしょ」
「はい」
連也はあっさりと肯定し、黒歌はヒョイッと大袈裟に肩をすくめた。
「まぁ、それはそれとして、伝えておきたい事もあるのよね」
「何です?」
「うん、たぶんスイッチ姫からも連絡あると思うけど、ダーリンにストーキングしてたあのバカ二人、しばらくは手を出せないみたいよ?」
ヴァーリとアーサーの事である。
ヴァーリは、塞がりかけた心の傷が再び開いたアルビオンのカウンセリングのために玄奘三蔵法師の元へ向かった。
アーサーに至っては、ルフェイはあの隔離空間内での一幕を隠し撮りしていたらしく、その記録映像を実家に送り付けたと当のルフェイから知らされて、チームメイトの黒歌すら未だかつて見た事のない絶望的な顔をして、大急ぎでイギリスへ帰っていったそうだ。
「そういう訳だから、絡まれる心配はないわよ? 万が一にもトチ狂ってダーリンを襲ってきても、『ルフェイちゃん萌え萌え』って唱えれば逃げてくから」
「口裂け女かよ」
連也は呆れつつ、あの二人にちょっぴり同情した。
同時に、ルフェイの辣腕に戦慄に近いものを感じた。
「それでもダメならアタシを呼んでよ。いつでも助けに飛んでいくからね──アタシ、割りと本気だからね、ダーリン」
黒歌はそう言うと、連也の首に両腕を回し、唇を重ね合わせた。
連也が突然の事に驚き、立ちすくむ間に、小さな黒猫の姿に化けて、走り去って行った。
◆
兵藤邸に戻った黒歌は、一誠と鉢合わせた。
「あれ? 黒歌、こんな朝早くから出掛けてたのか?」
「そ。ダーリンの所にね」
「ダーリンって、秋月の事か?」
「他に誰がいるのよ」
黒歌は、何を当たり前の事を聞いてるんだと言わんばかりの態度である。
「ま、まさかアイツと、朝エッチとかしてたのか!?」
「そうしたかったんだけどねー、ダーリンってばガードが硬くって」
「そ、そうか、してないのか……ならいいんだけど……でも、なんで秋月なんか……アイツのどこが良いんだ?」
「どこって、資質? 赤龍帝ちんよりもずっと優良物件だし?」
黒歌の答えに、一誠はうなだれる。
「ちぇっ、どーせ俺は才能なんてねえよ……歴代最弱の赤龍帝だよ……」
「そんな事ないわよ。赤龍帝ちんは才能あるって」
「そ、そうか? じゃあなんで秋月なんか狙うんだよ。ちょっと前までは俺との子供が欲しいって言ってたじゃねえか」
「だってアンタめんどくさいんだもん」
「め、めんどくさい?」
黒歌の言わんとする事がわからず、一誠は鸚鵡返しに言った。
「だって普段からおっぱいだハーレムだ言って性欲アピールしてるくせに、未だに誰一人手をつけてないじゃない?」
「そ、それはその、だっていっつも今一都合が合わないし、他の女の子の手前、迂闊に俺の方から誰かにお願いする訳にはいかないし……」
「はぁ? それをどうにかするのがアンタの役目でしょ?」
「それはそうだけど」
「そーいうとこがめんどくさいのよね。自分からはごちゃごちゃ言い訳して何もしないくせに、やたら他人に干渉してくるし。だいたいアタシは別に赤龍帝ちんの眷属でも彼女でもないんだから、誰と寝ようが関係ないじゃない?」
「うっ……」
「それと。さっきは赤龍帝ちんには才能あるって言ったけど、その才能もぶっちゃけ一代限りのものでしかないでしょ?
「うぐっ……!」
「ま、それでもアタシと
黒歌はそう言って、パタパタと階段を上がって行った。
◆
その日の夜。
一誠はトレーニングルームでサンドバッグをひたすら打っていた。
今日一日、黒歌の言った「子作りの相手としての価値がない」という言葉が引っ掛かって、モヤモヤした気持ちを引きずっていた。
いわばその憂さ晴らしである。
黒歌の評価もひどいが、それで代わりに選んだ相手が秋月連也というのが、もっと気に入らなかった。
なるほど、あの男も才能に溢れた天才肌だ。
しかし、人格という点においては認める事は出来なかった。人並みの正義感や倫理観は持ち合わせているようだが、余りにも自己中心的だ。
念道を教えて欲しいと土下座してまで懇願したのに、それを無下に断り、挙げ句『誰かのために戦う』という行為──一誠の生き様──を否定したのが、今でも許せなかった。
自分のために戦うと言い切るような男が、力なき者の希望として己れを鍛え続けるサイラオーグを打ち負かしたのも許せなかった。
「どうしたの、イッセー。ずいぶん荒れてるわね」
リアスが声を掛けてきた。
タンクトップとレギンスという動きやすい格好からして、彼女もここで汗を流す予定なのだろう。
「どうせ連也くんの事を考えていたのでしょう? あなたもすっかりあの子に夢中みたいね」
「……からかわないでくれよ、リアス」
一誠は気の抜けた声で言った。リアスは「あら、ごめんなさい」と言ってコロコロと笑う。
「でも、いつまでも気にしてても仕方がないわ。世の中いろんな考え方の人がいるのだもの。あなたと反りの合わない人だってたくさんいるわ。いちいち気にしていては身が持たないわよ」
「そうだけどさ……でも俺は、やっぱりアイツが気に入らないよ。あんな自分勝手な奴」
「あなたがそう思うならそれでもいいけど、私たちみんなの命の恩人である事も、信頼出来る実力なのも確かなのだから、その点だけは心に留めておきなさい。ひょっとしたら、またあの子の力を借りる時があるかも知れないのだから」
「どうだろうな……実力はあっても、人格は信用出来ないよ。誰かのために戦う事を危険な事だって言うような奴……念道やってる奴なんて、みんなあんな感じなんだろうな」
「あら、どうしてそう思うの?」
「だってそうでもなきゃ、邪龍戦役に、トライヘキサとの戦いに、一人くらいは加勢に来なきゃおかしいじゃないか! そりゃ、一人二人来たくらいじゃ結果は変わらなかったかも知れないけど、ひょっとしたらもっと良い方向に変わったかも知れない……アザゼル先生やサーゼクス様たちと離れ離れにならずに済んだかも知れない……そう思うと、何だか凄く悔しいんだ」
「だからと言ってそれで連也くんを毛嫌いするのは筋違いよ」
リアスはピシャリと言い切った。
「わかってるよ。でもそう考えると、やっぱり秋月にも腹が立って来ちゃうんだ。『愛と奇跡の子』とか言われてみんなからチヤホヤされてるアイツを見てるとさ……」
「チヤホヤって……イッセーあなた、連也くんが何故そう呼ばれているのか知らないの?」
「知らないよ、興味ないし、知りたくもない」
一誠は吐き捨てるように言った。
リアスは深い溜め息をつく。
「今度、あの子の名前とそのフレーズで検索してみなさい。すぐにわかるわ……」
そう言い残して、何やら疲れたように、踵を返して退室していった。
「……あれ? トレーニングしに来たんじゃなかったのか?」
一誠は訳がわからず、ポカンとした顔でそれを見送るだけだった。