SAO異聞 ~curiosity player~ 作:コーメイ
一
「有難う」
男は一軒家の前に横付けされた、タクシーの運転手にそう告げ、トランクから取り出した荷物を持った。
電気自動車の静かな駆動音が背後に遠ざかっていくのを耳にしながら、男は玄関に向かう。
男にしては長めの黒髪に長い睫。鼻は高めであり、シャープなラインを描く顎。血色の良い唇は、意志の強さを感じさせるかのように真一文字に閉じられている。非常に整っているその顔は、一見すると女性のようにも見えるが、それも彼の目を見るまでであろう。怜悧なその切れ長の目は、鋭く、そして力強さを見る者に印象付ける。身長は一七六センチと平均よりは高く、異国の血が混じっている為か膝下が長く腰の位置が高い。いわゆるモデル体型の美少年であった。それゆえ同学年や上下級生だけでなく、他校生の女性からの人気も高かった。
男の名は
お気に入りであるダメージジーンズの右ポケットから鍵を取出し、光輝は玄関の扉を開錠する。
一週間ぶりだと言うのに、異国から帰ってきたばかりだからか、光輝はとても懐かしく感じた。
「ただいまー」
そう言いながら、光輝は玄関の上り框に腰掛ける。左肩から下げていたボストンバッグと、手に持っていたキャリーバッグを脇に置き、靴を脱いで揃える。
その際、大きなリボンが特徴の、赤いメリージェーンパンプスが目に入った。
そのパンプスの持ち主を特定しようと考え始めた時、パタパタと玄関から続く廊下にスリッパの足音が鳴る。
「おかえりなさい、エジプト旅行はどうだった?」
その声を聞き、光輝は振り返った。
声を掛けたのは、大きな垂れ目が特徴の柔和そうな顔をした、ある程度の年月を積み重ねた女性。最近皺が増えたのが悩みの種だ、と本人は言うが、まだまだ世の男性の目を引くには十分であろう。少しクセのある長い赤髪を、ゴムで一つにまとめて後ろに垂らしている。
エプロンをつけた姿で、穏やかな微笑を湛えて彼を出迎えた。
「ただいま、母さん。最高だったよ、ちょっと暑かったけど」
光輝は答え、腰掛けていた上がり框から立ち上がる。
「あら、ホント。ちょっと焼けたわね~。そうそう、明日奈ちゃんが来てるわよ」
母親が男にそう返し、来客を告げた。やはり玄関にある、見慣れたパンプスは明日奈のだったか、そう思いつつ一つ頷く。
「ん、この靴見覚えあると思った。明日奈は俺の部屋?」
「うん、勉強を見て欲しいそうよ。母さんはお夕飯の用意があるから、そのまま見てあげて。お土産はお父さんが帰ってきてからね、期待してるから」
そう告げて、光輝の母親である
光輝は脇に下したボストンバッグを右肩にかけ、キャリーバッグを左手に持って自室へと歩き出す。正式にはトロリーケースと呼ばれる、その車輪が付いたスーツケース型の鞄には、旅行先で買ったお土産等が入っており、結構な重量であったが、流石に室内で車輪を回す気にはなれなかった。
慣れ親しんだ廊下を通り、自室の前までたどり着く。室内からは若い女性の声と、幼い少年の声が聞こえてきていた。
「ただいま」
そう告げながらドアノブを回し、自室へと入っていく。
「おかえり兄ちゃん!」
「あ、コウ君。おかえりなさい」
出迎えたのは年の離れた弟と、家同士で付き合いのある結城家の長女、牧村悠平と結城明日奈だ。
どうやらまだ八歳の悠平が、明日奈に読めない漢字を聞きながら漫画を読んでいたようだ。部屋の中央にある座椅子に座る悠平の手には、光輝の愛読書でもある三国志が開かれている。
読み方こそ違うものの、自身と同じ名前の作者が描いた長編の歴史漫画。それはパッと見では人物の見分けがつかないものの、二周、三周と読み返すうちに不思議と書き分けられている事に気付く。
その本は、光輝が母方の祖父母の居る英国はウェールズから、親元で過ごす為に日本に帰国し、中学校に入学する際に父方の祖父から送られた。文庫版全三十巻をいわゆる大人買いして送りつけ、「これ読んどきゃ間違いねぇぞ」と豪快に笑う祖父を見て、光輝は何故この爺さんから物静かな父さんが……と疑問に思ったものだった。
一方の明日奈は、彼の勉強机の上で問題集を広げ、ルーズリーフに答えを書いていっていたようだ。こちらに振り替えった明日奈の肩越しに、勉強道具が窺える。
まるで我が物であるかのように落ち着いている二人を見て、光輝は苦笑しつつ声を掛ける。
「俺の部屋で落ち着きすぎだろう、二人とも。というかユウ、お前それ何巻だ?」
「二三巻だよ! 今から孔明が南蛮に行く所!」
男の問いかけに、悠平は元気良く即答を返す。
「結構進んでるな、終盤に入りかけてるじゃないか。ユウ、それいつから読んでるんだ? 俺が旅行に出た時は読んでなかったよな」
ゴールデンウィークの連休を利用し、光輝がエジプト旅行に出掛けたのは八日前の事だ。まだ八歳の少年が、読めない漢字を人に聞きつつ読むにしては、早いペースだと言える。
と言うのも、父親は普段は仕事で夜遅くに帰ってくるし、母親はウェールズ育ちの為、漢字は苦手だ。
「兄ちゃんがエジプトに行ってすぐだよ! アスねーちゃんが読み方教えてくれるから、毎日読んでた!」
「ん? 毎日? ユウ、毎日結城家に遊びに行ってたのか?」
疑問に思った光輝が悠平に問いかける。それを聞いた明日奈が慌て出した。
「ちょっ、ユウ君だ――」
「アスねーちゃん、毎日兄ちゃんの部屋で勉強してたよ!」
明日奈の制止は間に合わず、悠平が告げる。面食らっている光輝と、羞恥心からか顔を真っ赤にし始めた明日奈を置き去りに、悠平の爆弾発言は続く。
「家でするより、兄ちゃんの部屋の方が落ち着くから勉強がハカドルって言ってたもん! 休憩するときは枕抱えてベッドでほにゃーってして――」
「ユウ君、それ以上はダメーーー!」
光輝が呆気にとられる程の早業で、再起動した明日奈が悠平の口を塞ぐ。その顔は耳まで真っ赤になっていた。
明日奈を落ち着かせ、渋る悠平をお土産を餌にして部屋に帰し、ようやく男は自分のベッドに腰を下ろす。
「あー、コホン。明日奈、毎日来てたのか」
若干気まずい雰囲気を誤魔化すかのように一つ咳払いをし、光輝が問いかける。対する明日奈はしどろもどろになりつつも、答えを返した。
「う、うん。えと、その……コウ君が出発した日って私も居たでしょ? えっと、その時ユウ君がこれ読みたいって言い出して、それで、ね。小母さまも、明日奈ちゃんが良ければ毎日来ても良いって言ってくれたから、その……」
「俺の部屋に入り浸ってた、と?」
「う。その言い方はちょっと酷いんじゃ……まぁそうなんだけど」
意地悪く口角を上げ、光輝は明日奈に問いかける。未だに顔を真っ赤に染めたまま、明日奈はジト目で対抗した。
「まぁ良いか。それより明日奈、勉強を見て欲しいんだって? どこが分からないんだ?」
自分が不在の間に、自室に女性が頻繁に訪れていたにも関わらず、光輝は軽く流して話題を切り替える。
年頃の男が皆持つような、睦みあい絡み合うような描写がされたモノは、物理媒体では持っていないが故の余裕とも言える。
「えっと、ここなんだけど――」
「ああ、それはこっちの数式を代入して――」
普段から成績優秀である二人だけに、メリハリはきっちりとしており、思考の切り替えは非常に早かった。
「ん、こんなもんかな。夕飯にはちょっと早いけど、キリが良いし今日はこれくらいにしておこう。明日奈も夕飯食べて行くんだろ?」
一つ伸びをし、固まった姿勢をほぐしながら光輝は明日奈に声を掛けた。
壁に掛けられた時計は十八時半を指しており、カーテンの開けられた窓の外は薄暮、と言った風情である。
「うん、小母さまにお呼ばれされてるよ」
明日奈も光輝と同じように、腕を上に伸ばしつつ答える。結城家と牧村家は家族ぐるみで付き合いがある為、こういった事も珍しくない。
「んじゃあ、夕飯まで休憩な」
そう言いつつ光輝はさり気なく明日奈から視線を外す。彼女の格好が、前立てにフリルが付いた白いブラウスに黒のプリーツスカート、黒のオーバーニーソックスの為、胸部が強調されて下着が見える可能性があったからだ。
ブラウスの上に羽織っていたカーディガンは、椅子の背もたれにかけられており、足元には兎のスリッパを履いている。これは元々瑛梨香が買った物だが、明日奈が一目惚れをし、頻繁に遊びに来る明日奈専用のスリッパとなっていたりする。
ラフな格好ながら、明日奈のファッションセンスの良さが判るな、等と光輝がどうでも良い事を考えていると、一通り体をほぐし終わった明日奈が質問を投げかけてきた。
「ねえ、私もコウ君の通ってる高校に受かるかな」
「んー、そうだなー」
光輝はキャリーバッグを開け、ゴソゴソと中身を改めていたので生返事を返してから、手を止め身体ごと明日奈へと向きなおす。
「今の成績を保てれば余裕だろう。けど、京子小母さんのトコの、付属高校に行くんじゃないのか」
「方角は違うけど、どっちも通学時間は一緒くらいだし、コウ君の方も名門校じゃない。お母さんの所でも良いんだけど……」
言い淀む明日奈の頭にポンと手を乗せ、
「ま、自分の人生だ。明日奈が自分で決めると良いよ。俺なんか、ある程度の成績取っときゃ、ちょっとくらい休もうが内申に響かないから、って理由で決めたようなモンだしな」
柔らかく微笑みながら、明日奈を安心させるかのように光輝は言う。完全にニコポナデポである。事実、明日奈は顔が紅潮していくのを自覚し、それを光輝に悟られないように俯いた。
完全に明日奈へのフラグが立っている、と言うか昔から立っていたのだが、幼い頃より共に過ごしてきたが為に、彼は明日奈を妹のように見ており、無意識的に恋愛対象から外していた。その為、普段は鋭い光輝だが、明日奈の恋心には気付いていない。
「それって旅行したいから?」
「そうともー。遺跡は良いぞー、浪漫だぞー」
明日奈の問いに光輝はおどけて見せる。そして、質の悪い事にこう続けた。
「明日奈ももうちょい大人になったら、俺と一緒にどっか行くか? イタリアはローマにカプリ島、ヴェネチアとか。ああ、ポンペイも外せないけど。ギリシャとかも良いな」
二人で海外旅行をしよう、という誘いだ。しかも地中海地方への。新婚旅行の定番でもある。そんな提案をしてしまった為――
「おーい、明日奈ー。帰っておいでー」
――妄想の旅へと飛んで行った明日奈を正気に戻す為に、しばらくの時間がかかった。
「そう言えば光輝、
光輝と悠平の父親、
光孝と瑛梨香に、光輝と悠平の牧村家四人に、結城家の明日奈を加えたその日の夕食は豪勢だった。
海外旅行から帰ってきた愛息の光輝と、土曜にも関わらず仕事をしてきた光孝を労う為、瑛梨香が腕によりをかけて作ったのだ。
テーブルには旬の食材がふんだんに使われた、和食洋食が所狭しと並べられている。統一感は無いが、和食を好む光孝と光輝に対し、英国の血を引く瑛梨香とまだ子供の悠平が洋食を好むので、牧村家ではごく有り触れた光景である。
光輝が旅先でのエピソードを面白おかしく話つつ、和やかに進行していった夕食も終盤にさしかかった時だった。
「コジローさんが? 父さんいつの間に会ったの?」
「丁度、帰宅途中に道端でばったり会いまして。ほら、五丁目の酒屋さんの前あたりですよ」
「ああ、あの辺だと道場も近いし納得」
虎次郎とは、光輝が幼い頃から通っている古流剣術の道場の師範の事だ。仕事が忙しい父や、日本に未だ慣れていなかった母の代わりに、光輝に武術と礼儀作法を習わせた虎次郎は、光輝にとってもう一人の祖父とも言える存在である。
その容貌は厳めしく、張りのある筋肉に覆われた肢体。鋭い眼光に、獅子の鬣のように髭と揉み上げが繋がっている。初対面の人は必ず腰が引けるだろう。
それに加え、どのような現象が働いているのか、六十代も後半に差し掛かっているのに、まだまだ五十手前の壮年にも見える。が、意外と人当りが良く、付き合ってみると気さくな人物である。
余談だが、牧村家で虎次郎の事をキチンと「とらじろう」と呼ぶのは光孝だけであり、光輝は「コジロー」、悠平は「トラじい」、瑛梨香に至っては「ライオンさん」、である。
「コジローさん、時差ボケ関係無しに扱くからなぁ……まぁ父さん経由で捕まったし、明日道場に行ってみるよ」
光輝は若干嫌な顔をしつつも、光孝の提案を承諾した。嫌な顔、と言っても彼は稽古が嫌いな訳ではない。むしろ、一日も欠かさず基礎鍛錬を続け、三年ほど暮らしていたウェールズでも、旅行先でもしているくらいである。宮本武蔵の『千日をもって鍛とし、万日をもって錬とす』、を地で行っている。
ならば何故嫌な顔を、と言う問いには「お前には天賦の才があるとか言って、コジローさん手加減無しで稽古つけてくるからね」と答えが返ってくるだろう。純粋に扱きがきついのだった。
夕食を食べ終え、光輝は自室でパソコンにデジカメで撮ったエジプト旅行の写真を取り込んでいた。その横には当然の如く明日奈が居る。
「コウ君、ありがと。このブレスレット、大切にするから」
明日奈の左手首には、光輝が買ってきたお土産のブレスレットが着けられていた。銀製で、所々にアンクやウジャトの目、ジェド柱といったヒエログリフが刻まれている。矯めつ眇めつブレスレットを眺め、撫でており、明日奈の頬は緩みっぱなしだった。
「ん、そうしてくれると俺も嬉しい」
高かったし。とは思うだけで口に出さない。
妹のように思っている明日奈相手でも、流石にデリカシーに欠けると光輝は思ったからだ。
そのブレスレットを買う際の、店員との熾烈な値段交渉の様子を明日奈に話しながら、光輝は自分へのお土産である、壁画の一部を模写したカラフルなハンドペイントのパピルスを壁に飾ったり、砂漠の砂を母から貰った香水の空き瓶に詰めたりしていた。
ちなみに父にはエジプト綿のポロシャツと切手を。母には
「それにしても……おっと。取り込み終わったか」
「ん? 何を言いかけたの?」
「いや、明日奈がそんなにそのブレスを気に入ってくれるとは思わなくてな」
こんな事なら、ヒエログリフの描かれたパピルスの栞とかも買ってきた方が良かったかな、等と呟く光輝に明日奈は思う。
違うそうじゃない、と。
光輝にバレないように一つため息を吐き、目をキラキラさせながら写真の解説をしていく光輝の言葉に、明日奈は耳を傾けるのだった。
翌、日曜の早朝。光輝は昨晩父親に言われた通り、虎次郎の道場に向かい歩いていた。
昨夜は明日奈を家まで送った後、ゆっくりと入浴して心身の疲れを取り、そのまますぐに就寝したので、予想していたよりは時差ボケの影響は少ない。
瑛梨香が朝食の仕込みを終わらせてくれていたので、その事に感謝しつつ朝食を作る。白米に味噌汁、焼いた塩鮭に卵焼き。ついでに父、光孝の分も作っておく。母と弟は、朝はパン派なので作らない。
手早く朝食を済ませ、和装に着替え家を出る。
「おはよう、光輝君。帰ってきたんだね」
「おはようございます、村越さん。はい、昨日帰ってきました」
「昨日帰ってきて、今日から早速佐木道場か。精が出るねぇ」
「ええ、まぁ。コジローさんに呼ばれてますので」
犬の散歩をしている老爺と、すれ違うときに会話を交わす。佐木虎次郎が師範を務める佐木道場へ通う時は、光輝は必ず和装であり、またそれが良く似合っている為、近所の人から声を掛けられる事が多い。
休日の早朝である為、出歩く人は老人が多いが、ほとんどの人と光輝は挨拶を交わしている。
人との触れ合いの減少が嘆かれる昨今であるが、光輝はそれに当てはまらない。穏やかな表情で、通いなれた道をゆっくりと歩いている。その為、話しかけやすい雰囲気を纏っているのだ。
老爺に言われたように、昨日の今日で、しかもこんなに朝早くから道場に向かいたくは無かったが、佐木道場での稽古は午前中に行われる。
一週間と少しの間、コジローさんの相手しなかったし、今日は昼近くまで扱かれるんだろうなぁ、などと光輝は若干憂鬱になりながらも目的地へたどり着いた。
眼前には、平屋の立派な日本建築。母屋に佐木虎次郎を始めとする佐木家の者や、一部の門下生が住み込みで暮らしている。その母屋に匹敵する大きさの離れが道場だ。
佐木古流剣術。元々は神楽舞を起源とする、右手に刀、左手に鉄扇を持つ古流武術だ。鉄扇で受け、流し、刀で攻撃をする。佐木家に預けられる事の多かった光輝は、幼い頃から見慣れたこの武術を習い出すと、瞬く間に教えを吸収した。その速度は師範の虎次郎をして、驚きをもって迎えられた。それ以来、光輝が道場に来る度に、虎次郎によって厳しい稽古が付けられている。
その結果――
「よし、今日はこれくらいだな。旅行に行っても稽古は続けてたみたいで何よりだ」
「あ、ありがとうございました……」
――ボロボロになった光輝が完成した。
光輝が事前に予想した通り、現在は昼前だ。張り切った虎次郎によって、文字通り襤褸雑巾のようにされた光輝は、フラフラと時折怪しい足取りながらも、道着を着替えに向かう。
そんな後姿を見て、虎次郎は内心冷や汗をかいていた。余裕そうに見せているものの、その実、両者の実力差はかなりの僅差となっているのを肌で感じたからだ。
光輝の強みは、なんと言っても眼の良さと思考の速さにある。優れた動体視力で相手の動きを捉え、瞬間的に次の動作を選択する思考能力。そして、光輝が毎日手を抜かずに繰り返している基礎の型に裏打ちされた肉体が、咄嗟の行動にも体軸をぶらさず思考に追いついている。
見えていても体が動かなければ意味がない、これが光輝が鍛錬を欠かさない理由である。幼少の頃より何度も見ていた虎次郎の剣筋は、かなり前から光輝は見切っていた。
剣筋は見えている、次に取るべき行動もわかる。だが身体が追いついて来ないのだ。これが光輝にとっては何より悔しく、日々自己を研鑽していた。
したたかに打ち据えられた腿や左腕の痛みをこらえ、汗だくになった身体を拭ってから光輝は着替える。
朝から動きづめで腹も減ったし、さっさと帰ろうとしたところに、虎次郎から声を掛けられた。
「光輝、ちょっと良いか」
「なんですか、コジローさん。お腹すいてるんで早めに帰りたいんですが」
「そんなに時間は取らせねぇ。来てくれ」
そう言われ、光輝は素直に虎次郎に着いていく。母屋と離れをつなぐ渡り廊下の縁側に座り、虎次郎は再度口を開いた。
「お前、まだバイト探してるか?」
「ええ、父さんへの借金はまだまだ残ってますからね。と言うより今回ので増えました」
「学生の身分で、親から借りた金で旅行に行くのはお前くらいだろうよ」
クツクツと笑いつつ、続ける。
「もしかしたら、お前の所にバイトの依頼があるかもしれねぇ。それも、此処《・・》絡みで、だ。俺はその件については了承してるから、やるやらないは光輝が決めろ」
「此処絡みってコジローさんが言うって事は、演舞とかですか?」
「そりゃあ、お前。後のお楽しみって奴さ。まぁ悪い話じゃねぇ筈だぞ」
「良く判らないですけど、判りました。それでは失礼しますね。有難うございました」
「おう、いつでも来いよ」
普段より幾分か速足で去っていく光輝の後ろ姿を虎次郎は見つめる。本当にお腹が空いているのだろう。
――半年ほどの後に、虎次郎はこの日の会話をしばらく後悔する事となる。
「おかえりなさい。支度をするから、光輝は今のうちにパパッとシャワーでも浴びてらっしゃい」
帰って早々に食事を要求する息子に、苦笑しながら瑛梨香は答えた。身長も伸び、落ち着きも出てきて成人と言える雰囲気であるが、こう言った所は昔から変わらない。一人旅もする様になっているが、光輝は瑛梨香に取ってはまだまだ手のかかる息子であった。
シャワーで汗を流し、母の作ったカルボナーラを食べていると、瑛梨香から声がかかった。
「コウちゃん、カヤバ・アキヒコさんって方から電話よ」
「はい?」
予想外の事に光輝は間の抜けた返事をする。
瑛梨香の言うカヤバ・アキヒコとは、あの茅場晶彦なのだろうか。というか、あの天才量子物理学者の茅場晶彦しか出てこない。が、何故一体自分に。光輝は悩みつつ、まずは電話を代わる事にした。
一つ大きく息をつき、保留を解除して受話器に話しかける。
「お電話代わりました、牧村光輝です」
「どうも、初めまして。アーガスのSAO開発ディレクター、茅場晶彦です」
アーガスの茅場、と言う事はやはり、
「えっと、量子物理学者の茅場さん……でしょうか?」
「ええ、その茅場です」
「その茅場さんが、何故私に電話を?」
「実は牧村光輝君に折り入って頼みがあってね。我が社で現在開発中の、ソードアート・オンラインと言うVRゲームの開発を手伝って貰いたい」
「開発……ですか? 私はゲーム開発やVR技術と言った部分は素人ですけど」
「ああ、すまない。そう言った部分でなく、剣術に関しての事だ。佐木古流剣術、と言った方が良いかな?」
佐木古流剣術。コジローさんが言っていたのはこの事なのだろうか。疑問に思い、光輝は素直に尋ねてみる。
「コジロー……いえ、佐木虎次郎さんが言っていたアルバイトの件、でしょうか?」
「ふむ、聞いていたのかね?」
「いえ、つい先程軽く聞いただけで、詳しくは何も聞いていません」
「成程。光輝君には、ナーヴギア対応の初のVRMMORPG、ソードアート・オンラインの剣術や体術、と言った部分を見て貰いたいのだよ。当初、この話は君の師匠である、佐木虎次郎氏に持ちかけたんだが、氏から君を紹介されてね。こうして連絡を取った次第だ」
「お話は判りました。師匠からも、手伝う事の許可は貰っていますし、詳しくお聞かせ願えませんでしょうか」
コジローさんにも話がついているようだし、悪い話では無いだろうと光輝は思った。ゲーム好きの友人からも、そのようなゲームが開発中でありとても期待している、と言ったような事も聞いている。
説明を受けながらも、光輝はほぼこの話を受ける事に決めていた。
「そのお話、お受けします」
「有難う。助かるよ」
一通り説明を受け終え、茅場にハッキリと告げる。茅場から告げられた内容は、光輝の予想を遥かに上回る高待遇でのものだった。
聞く所によると、七月から二ヶ月間がβテストであり、深刻な問題が発生しない限りは、年内に正式サービスが開始される予定だそうだ。
明日から八月末、遅くとも九月まで、週に三回程アーガスに通うだけで、父親から借りているお金もかなり返せる計算になる。
正直、旨い話すぎて裏があるのかと勘繰りたくなる。だが、それも茅場が外堀を先回りで埋めていた。
曰く、「元々は佐木虎次郎氏を招聘する心算で、予算の枠は大きめに取っていた」である。
師である虎次郎の名前を出されれば、光輝に否やは無い。あまり謙遜しすぎれば、虎次郎の名前に傷を付ける可能性もあるのだ。
なんにせよ、光輝に損は無い。拘束時間はそれほど長くは無いし、学生の本分である学業優先も、当然の事のように茅場から言われている。
後は光輝次第である。光輝は生来の負けん気の強さを発揮し、心に誓う。
――開発陣の度肝を抜いてやる。
学業との両立を図り、尚、要求ノルマ以上の事をこなして信頼を勝ち取る。言うは易し、行うは難しだが、不可能では無い筈だ。
決心した光輝の口元は、弧を描いていた。難しい目標を前に、自身がまた一つ高みへと登る切っ掛けになる事を期待しているのだ。
「――はい、では水曜にアーガスにお伺いします。――ええ、はい。それでは失礼します」
受話器を置いた光輝は、昂る心を落ち着かせるように深呼吸をし。母親にアルバイトの件を伝えに行く。
これが、牧村光輝の人生の大きな転機になる事となる。