真琴が俺の部屋に写真を置いて行ったあの夜以降、二人の間に会話がない。もちろん仕事の話はするし、あいつが仕事に支障を来したとも聞いてない。
けどなんとなく真琴を避けてんのか、休憩室にも立ち寄らなかった。
つーか、学会の準備が忙しすぎてまともに休憩も取ってないんだけどな。
「もうひとり俺がいたらなぁ」
学会当日、俺は帰っていく関係者を尻目にため息を吐き出した。
そんな俺のそばには月城さんの論文発表の手伝いをした石黒がいる。むしろ今日発表した論文を書いたのは石黒なんだから、助手もこいつが務めるのが一番ベターだよな。
「明紫波がふたりもいたら面倒そうですね」
俺のぼやきに石黒が行き交う人間を眺めながら返してくる。
そんな石黒に俺は笑みを浮かべて睨み付けてやった。
「なんでだよ。おまえに世話かけたことあるか?」
「いれるコーヒーが二杯になります」
「あー、違いないわ」
その程度の手間しかかかっていないと、たぶん石黒なりに気を使ってくれてるんだろう。
本当ならここ最近毎日のように研究室に入り浸る俺を邪魔に思ってるはずだ。けどそこんとこは触れてこない。
石黒のことだから、前木辺りから俺と真琴の接触が無いことくらい聞いてるだろうにな。
いつもより刺の少ない石黒と話してると背広姿の男がやってきた。学会の関係者なんだろうが、俺は見覚えがない。
「お疲れ様です。明紫波外科部長」
けど相手は俺を知ってるらしく、間違えることなく俺の名前を呼んだ。
そんな男の素性を全力で思い出そうとしている俺のそばで、なぜか石黒が男に挨拶を向けた。
「お疲れ様です。先日は失礼しました」
「ああ、いえ。実はあの後、別の医師から地下は関係者以外立ち入り禁止だと注意を受けたんですよ。今河さん……だったかな。年配の医師でした」
和やかな雰囲気の男は苦笑いを浮かべて見せる。
けど…仕立ての良いスーツを着こなしてる様子から俺と同世代か、少し上に見える。
なら確実に今河のほうが年は下だ。頭皮の細胞はこの男のほうが若そうだけどな。
「明紫波外科部長、少しお話しできますか?」
「今からですか」
相手が何者なのかわからないため、目上に対する態度を向ける。すると男は二分で終わりますよと横手に手を差し伸べた。
あっちに移動しろってことか。くそめんどくせーな。
「石黒、月城さんが来たら電話くれ」
「わかりました」
俺たちは大勢の人間から挨拶をされているだろう月城さんの帰り待ちをしてる。
そういうことを暗に男へ伝えながら歩きだした。
「実は僕はここ何年かアメリカにいたんですよ」
歩きだした途端に男が身の上話のようなことをしゃべりだす。
そのため俺は作り笑顔を浮かべながら相づちを打ち話を聞くことにした。
「帰国して月城医大へ来て驚きました。なんていうか……あなたの雰囲気が丸くなっていたので」
「あまり自覚はないですが、いろいろと学ばせていただいてますから」
「徳川先生のおかげですか?」
適当に流そうとした俺に、男は温厚そうな笑顔でキツいもんをぶつけてきやがった。
「昔の明紫波さんは、刺々しい雰囲気ながらも従順で、可愛らしかったですよ。覚えてますか? 年寄りの悪趣味な寄り合い。今はもうあのメンバーのほとんどが隠居してるんです」
会場の片隅に置かれた自販機コーナーまで移動した男は話しながら財布を取り出した。
その姿を俺は呆然と眺める。
ただ真琴にあの写真を渡したのが誰なのかははっきりした。
だとしたら俺はその理由を聞くべきか。それとも何も聞かず相手の言葉を待つべきか。
やがて缶コーヒーを買った男はそのひとつを俺に差し出してきた。
「ブラックですよね。俺は甘党なのでブラックは飲めないんです」
砂糖とミルクがないととても、と男は笑いながらもうひとつコーヒーを買う。
「話を戻しますが……先日、徳川先生に写真を差し上げたんです。一種の威嚇のつもりで」
「威嚇?」
なんだそれはと、俺は露骨に眉を潜めて男を凝視した。
すると男は怒らないでくださいと笑顔を見せる。
「あなたのような有能な外科部長がそばにいれば、若い医師がそれに憧れるのは自然なことです。徳川先生もそういう理由であなたに片想いをしているんでしょう。ですから少し威嚇してみたんです。俺は、昔の明紫波さんを知ってるよ、と」
もしここが学会の会場じゃなかったら、俺はこの男を殴ってでも黙らせていただろう。
けどそれができないことを悔しがるうちに俺の携帯が鳴った。
たぶん石黒からの連絡だ。
「あの寄り合いで俺は必ず最後にあの部屋を出ていました。なぜだかわかりますか?」
携帯の着信に出る俺のそばで男は熱い目線を向けてくる。
「意識のないあなたを独占できたからです」
「うるせぇ、黙れ」
なんだその気持ち悪い思考回路は。そう毒づいた俺は電話先の石黒にすぐ戻ると返した。
そうして通話を切ると改めて男を見る。
「俺はあの時の俺とは違う。言われるままのイイコちゃんは辞めたんだよ」
携帯を持たないほうの手がかすかに震える。
それを隠して強い口調を突き刺すと男はなぜか楽しげな顔を見せた。
「それは良かった。弱いまま組織の中にいてもツラいだけですからね。だけどあなたがどう変わっていても、僕の気持ちは変わりません。今日はそれだけ伝えたかったんです」
笑顔を崩さない男は語尾と共に軽く頭を下げた。だから俺も返すように会釈してその場を離れる。
けど平成を装ってるつもりなんだが、頭の中は完全にパニクっていた。
つまり……あいつは何なんだ?
脳組織が死んだように働かなくなった俺は石黒と月城さんの元へ戻る。
「明紫波君はよほど疲れてるようだね。早く帰ろう。石黒君も運転は得意だったね」
そんな俺を一目見るなり月城さんが石黒に指示をだした。
月城さんは運転手付きの車で来てるから俺たちとは別になる。つまりその指示は完全に俺を心配してのことだ。
月城さんの指示に従うように石黒が俺の車のハンドルを握る。俺はおとなしく助手席に座って缶コーヒーのタブをいじっていた。
「このままマンションまで送れば良いですか?」
「…医大に戻って資料を片付けねーと」
「それくらいは俺がやりますよ」
石黒の親切な言葉は嬉しいが、おまえも三徹目だろ。
そう思いながらも俺は口を閉ざした。
俺自身がここ一週間くらいまともに寝てなかったためだ。
ここで言い返しても絶対に勝てない。
「明紫波は明日は休みでしょう。このまま帰ってゆっくり休んだらどうですか」
「……そうだな。資料の片付けば頼れる後輩に任せるわ」
この返事なら石黒も文句はないだろう。けど医大に寄らずに帰るってことは、今日も真琴に会わないことになる。
そうやって問題を先伸ばししていいものかとも思うんだ。
だけど頭がまともに活動していない今の状態で、真琴の納得する答えを与えられるだろうか。
そう考えるなら、今日は会わないほうが良いだろうとも思える。
月城が誇る天才外科医を、俺の昔の問題に巻き込んで迷惑をかけちまうのは気が引けるんだ。
あいつは俺のヒーローで、誰よりも大事な可愛い恋人だから。