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第九階層の私室。
モモンガが私室でグレートソードを装備できるかどうか試していたころ、ウルも同じく私室に居た。
ユグドラシル時代では飾りとして作られたその部屋だが、今となっては十分に実用されている。
「――眠たい」
そしてウルは、極上のベッドに寝転がりながら睡魔に襲われていた。
転移して三日ほど。ウルは未だに、道行く守護者やメイドが一々礼をしたりしてくるのに慣れなかった。
ウルは、思いがけないストレスに悩まされていた。
ナザリック大墳墓から、第九階層からなかなか簡単に移動させてくれないのだ。
ナザリック外に出ようとすれば一般メイドやミケタマに阻まれ、散歩をするにもメイドを数人付けられる――どこに行くにしてもメイドや守護者が近衛として数人着いてくる。
モモンガがストレスに感じていることと同じことをウルもストレスに感じていた――この上なく丁重に扱われることによって逆に緊張し窮屈に感じるなどとは思っても居なかったのだった。
「ウル様。ご就寝なさるのでしょうか」
「……いや、まだいい」
アンデッドであるモモンガと違って、ウルは睡眠と食事を要する。寝なければ動きは鈍るし、食べなければ飢える。三大欲求は残っている。
まぁそうはいっても、ナザリックに居ればどちらも困ることは無い――睡眠に関してはふかふかのベッドがあるし、食事はメイドの作った極上のコース料理が毎日出される。
どちらも文句を付けることの許されないほどの一級品。
だが、リアルとのギャップにウルは少し、いやかなり戸惑っていた。
(あんなに美味しいご飯は食べたことなんて無かったし、こんなにふかふかなベッドで寝たことなんて一度も無い……こんなに贅沢でいいのかな)
天井を見つめながら、ウルは考える。
元々の、自分の生活を思い出していた。
飯は基本的に不味い。というより美味しいのか不味いのかどうかすら分からない。美味しいものを食べたことが一度も無い故に味など分かるはずも無く、食べられるのならそれを食べる、という生活をしていたからだ。しかしそんなウルにも、ナザリックで出されるフルコースの料理が非常に美味であるということは分かった。
ベッドで寝ることは少なく、会社のソファや硬い椅子で寝ることが多かった。
深夜まで仕事をし、疲れ切って死んだように寝、早朝に起こされる。起きたらすぐにデスクワークや外回りに駆り出され、上司の無茶振りに精神をすり減らしながら応え、失敗すれば頭ごなしに怒られ、成功しても上司の手柄となる。外回りをしていた場合は会社に戻り、深夜まで仕事をし、疲れ切ってそのまま寝る――という生活であった。あちこちの内臓は悪くなるし、時折わけもなく涙があふれ出てくるし、発狂したかのように暴れだす同僚を抑えたりしなければならないし、なかなかに過酷な労働環境であるが、それなのに給料は雀の涙ほど。
ウルはいわゆる『社畜』であった。会社の『奴隷』と称しても良かった。
(地獄、か)
ウルは地獄に行ったことは無かったが、あの環境こそが『地獄』なのではないだろうか、とウルは思う。
(……それに比べ、今は……うーん、言うならば天国?)
ウルは、人生で初めてかもしれない幸福感を得ていた。
しかし幸福を感じたら感じたで、今度は逆に、自分がこれほど幸福でいいのだろうか、という思いがわきあがってくる。
馬鹿げていることだが、近衛のメイドにそんな疑問をぶつけてみようと、そう思ったとき――
「――ん」
ウルの鋭い聴覚が、廊下に響く慌しげな足音を捉えた。これも異形化の影響だろうかと心の隅で考える。
間を置かず、戸が静かにノックされた。
お付きのメイドが視線を送ってくるので、ウルは「いいよ」と応えた。
「失礼致します、ルタール・ウル様」
入ってきたメイドは、モモンガの近衛を務めていた者であった。
近衛の仕事はどうしたのかとウルは訝しむ。
「何か用?」
「――その、少し困ったことに……聡明なるウル様のご助言を賜りたいと思った所存にございます」
形のいい眉を寄せて困り顔で言うメイドに、ウルは訊ねる。
「何?」
「モモンガ様が、近衛を付けずに外出なさってしまいまして」
「……そんなこと?」
「っ、御方のお手を煩わしてしまい申し訳ありません!」
メイドが勢い良く頭を下げる。ウルの口調から、つまらないことを聞かれて怒っていると感じたのだろう。
(……恐れられてるのかな、僕って。外見が悪いの……?)
まあウルはそんなこと毛ほども思っておらず、本当にどうでもいいようなことだな、と思っただけであった。
ウルは自らの体――黒い蛸のような体を見つつ口を開く。
「いや、謝らなくてもいいよ、その程度のこと――で、僕は何、君に自分の考えを言ってあげればいいの? モモンガさんが近衛をつけずに外出したことについて?」
「どうかお言葉を、よろしくお願いいたします」
メイドが言う。
ウルは少し考えてから言った。なるべく偉そうな感じで。
「……今は外の様子がほとんど分からないから、どんな敵がいるか、どんな脅威があるか分からない。その状況で近衛も付けずに外へ出たのは、あまり褒められる行為ではないね。事実、僕は簡単に散歩するのもダメだって言われる――君たちにね」
一息置く。
「……君たちも、困るのならちゃんと引き止めるべきだったんじゃないかな――煩わしく思ってそうだから、大方付いてくるなって命令されたんだろうけど――けど、モモンガさんは何か考えを持ってると思うよ。モモンガさんが君たちでは遠く及ばない聡明さを持っているのは承知だろう? なら近衛を付けずに外に出るメリットがちゃんとあるんじゃないかな――」
モモンガは守護者やメイドの遠く及ばない最高の智を持っているのだから、彼らには到底思いつけないようなメリットがあるのだろう、という考え。
ほとんど屁理屈みたいなものである。
しかしメイドは深くうなずいて、深くお辞儀をした。本当にそれで良いのかそれとも分かりかねているのか、それこそウルには分かりかねた。
しかし、少し良心が痛んだウルは――
「――あー、うん。少しだけ待っててくれるかな?」
少し待つように言い、<伝言/メッセージ>を発動する。まもなく、ウルは糸が繋がるような感覚を覚えた。
『――モモンガさん?』
『……ウルさんですか。どうかしましたか』
『メイドから話を聞く限り、誰も連れずに外出しているそうですが……』
『――耳が早いですね』
モモンガは苦笑いする。
『メイドさんが困って僕にどうすればいいか聞いてきましたよ――外にどんな敵がいるかどうかもわからないって言ったのはモモンガさんじゃないですか。まぁ、別に生きて帰って来れるなら良いとは思いますけどね、僕は……』
ため息混じりに、ウルがモモンガを少し責めるように言う。そんな保証はどこにも無いけど、とウルは誰にも聞かれることなくつぶやいた。しかし窮屈さから脱して外に出たいというのはウルにも分かったので、一方的に責めることもできなかった。
自分は外出するのは危険だと自由に出してくれないのにモモンガだけずるいではないか。
つぶやきに続き、小さくぼやく。
『……というか、何をしに行ってるんですか?』
モモンガがもし敵に討たれたとして、そうなればアインズ・ウール・ゴウンは自分が引っ張らなければならなくなる。
ウルは断言する。それは無理だと。不可能である。自分はモモンガのように支配者然とした態度は取れないし、支配者にふさわしい器でもないしモモンガのように聡明でも無いとウルは自らを評価している。
よって、モモンガが斃されたとして困るのは守護者だけでなくウルも困るのだ。
モモンガはその問いかけに答えた。
『……夜空を、星空を見たいと思ったんです』
『――――――』
『綺麗ですよ。大気汚染など一切無い、澄んだ――まさに宝石箱とでも言うべきのような――』
『ブループラネットさんが喜びそうな光景ですね』
『本当です――』
『……そんなこと言われたら、僕も見てみたくなるじゃないですか――失礼、切りますね』
そう伝え、ウルは<伝言/メッセージ>を切った。
「――モモンガさんは夜空を見たかったみたい――それと。僕もモモンガさんと同じように、少し、星空というものを見たくなった」
ウルはベッドから這って降りる。眠気などはとうに晴れていた。そこにあるのはモモンガが宝石箱と形容するほどの星空への期待感のみだ。
「近衛をつけることは許すよ――それで、君たちに依存はないよね?」
「御意のままに」
メイドは一歩引き、綺麗な礼をした。
それは肯定の意を示す動作。ウルは満足げにうなずく。
「――うん、星空か」
もう一度、期待をこめて言う。
心を躍らせながら、ウルはドアノブをひねった。
「おお……」
ウルは空を見上げ、感嘆の声を上げる。
後ろにはミケタマが跪いたまま控えていた。
秘匿戦力を近衛にするほどに危険なことかと言われれば、それほどのことではない。いや、外敵の脅威の大きさが分からない時点では判断しかねることだ。しかし――
『ウル様が外出なさる? 近衛が必要? なら私が行くニャ』
ちょうど第九階層の見回りに来たミケタマが有無を言わさず近衛として付いてきたのであった。
今は静かにし、紅のチャイナドレスが汚れるのも気にせず、じっと地面を見つめている。
「……これが、夜空……
無限にあるのではと思われるほどの星や、月の如く大きくそして輝く惑星らしきものを眺めながら、ウルはただただため息を漏らす。
「……闇の中に、光がぽつぽつと、灯るように……それに、星明かりだけで昼のように明るい……そうだね、宝石箱のような、と表すのが正しいね――少し陳腐だけど」
モモンガの言ったことを思い出し、深くうなずいて、ウルはぽつりとつぶやく。
上空で見られればどんなに美しいだろうかと、ウルは<飛行/フライ>の魔法を修得していないことを悔やむ。モモンガに頼み<マス・フライ/全体飛行>をかけてもらうことも可能だろうが――
「――やっぱりいいや」
同じく夜空を楽しんでいるであろうモモンガに茶々を入れるのは悪い――まぁ、この後デミウルゴスが茶々を入れるのだが、ウルがそれを知る由も無い。
そう思い、ウルは<伝言/メッセージ>でモモンガに言葉を伝えるのをやめた。
「――ミケタマ。跪くのはもういいから、君も見てごらんよ」
ミケタマは静かに立ち上がり、同じく空を見上げた。
オッドアイの瞳に無数の星が映る。
「どうかな、美しいと思わないかい?」
「はい、仰るとおりであると思います――星々は、至高の御方々の身を飾る宝石ではないかと」
猫のほうの耳をせわしなく動かしながらミケタマが言う。
表情は微笑んだままで、しかし常に周りを警戒するのに相当な集中力を使っているのが分かる。
「モモンガさんは、一人でずっと絶景を眺めてるのかな? 飛べるっていいなぁ――」
遠くに――数百メートルほど上空にある黒い影を見やる。
体が触手系モンスターとなっている今では、ウルの視界はかなり良く、夜でも支障なく遠くを見ることができる。
その四つの目には、影が二つあるように映った。
「……ミケタマ、モモンガさんは誰と居るんだ?」
「――アレはデミウルゴスのようです」
ネコ耳をぴこぴこ動かし、そのオッドアイの両目を正確にモモンガとデミウルゴスのほうに向けながら、ミケタマが伝える。
「そうか、なら一安心だ……敵だったらひとたまりも無かった」
ほっと胸を撫で下ろし、そしてウルは再び夜空を見上げる。
「……本当に、何と形容すればいいのやら。いや、言葉などで形容すべきではないのかもね……」
その美しさを形容できるような言葉などこの世に無いのではないかとウルは感じる。
(それとも、僕の語彙が足りないだけかな?)
と、自らの語彙の少なさを悔いていたところで。
地を蹴る音が、ウルの耳に入ってきた。
星空から音の方へと視線を移す。
「――マーレか」
宵闇に溶けるような浅黒い肌。
胴鎧と森の葉のようなマントを着、黒い木の杖を持った、かわいらしい格好の少年。
小走りで寄って来たダークエルフは、マーレであった。
「ル、ルタール・ウル様。先日は、御身にみ、自らを偽って――」
「――その件についてはもういいよ、別に怒ってないから。アレは嘘というより、言う必要が無いと判断したから言わなかったんだろう?」
「ち、違います……ウル様の言外の意思を理解できなかった僕に落ち度があるんです……ですから……」
「……それについては、もう良いと言った。僕は怒っていないし、良いところも悪いところも正直に言ってほしかったのは確かにそうだけど、それを率直に言わなかった僕に落ち度があった。言外の意思を無理に汲み取るなんて難しいだろうし、わざわざ汲み取って欲しいとも思わない――ただ、正直に言って欲しかっただけだよ。とにかく、僕が良いと言うんだ。それで治めてくれないかな?」
「そっ、そんな、ウル様に非など――っ!」
「良いね? これで治めてくれてくれなかったら僕、怒るよ?」
「……はい」
まだ言いたいことがありそうな顔をしているマーレに無理やり言い聞かせる。
「君が納得できないとしても、やっぱりその話はまた今度だ――で、何の用?」
このまま続けているといつまでもマーレが謝り続けそうで、ウルはさっさと話題を変える。
マーレは本来の目的を伝えるべく口を開いた。
「――えっと、これから……モモンガ様に命ぜられたとおり、ナザリック大墳墓の隠匿を行おうと……それで、<
「僕は避難すればいいのかな?」
「っ、申し訳――」
マーレが謝ろうとしてきたのを見て、ウルは自分が様々な守護者やメイドに少し恐れられているということを確信した。
(そんなに怖がらなくたっていいじゃないか……中身はしがない社畜だって言うのに、人を怒鳴りつけたことすらあんまりないのに)
いつかそんな印象を払拭しなければならないな、と
「―― 一々謝らない。僕はよっぽどじゃないと怒らないし、君は何も悪いことをしてもいないし言ってもいないじゃないか――そんなに怖がられると傷つくよ。じゃあ、ミケタマ、そういうことだし僕は一足先に行かせてもらうよ。満足したし、眠いから寝る」
「畏まりました」
「じゃあ、マーレも頑張ってね――アインズ・ウール・ゴウンのために」
「はっ……はい!」
激励の言葉を受け、マーレは勢い良く頭を下げた。
ウルは触腕を軽くひらひらと振ってから指輪を起動させる。まもなくその姿が掻き消えた。
「……マーレちゃん、ウル様に嘘ついたのかニャ? 私初耳なんだけど」
ミケタマが問いかける。
その言葉には若干の圧力がこめられていた――表情は、笑顔のまま固まっている。
無言だが、怖い。マーレは思わず気圧されてしまった。
「――――――」
「ウル様が寛大な御心をお持ちで本当に幸運だったニャね。もしウル様がお怒りになられていたら」
そこで言葉が切られる。ミケタマの鮮やかな両目の奥には隠し切れない恐怖が渦巻いている。
それは、自分たちを置いて行かず残ってくれた二人すらもナザリックを去って行くことへ対するもの。それはミケタマのみならず、ナザリックに存在する者全てにとっての最大の恐怖であった。
「だから、マーレちゃんだけのためでなく、私のためにも、守護者全員のためにも、そしてナザリックのためにも、気をつけて欲しいかニャ、って」
そう思っただけニャ、とミケタマは言い、手のひらをひらひらと振った。
「んじゃ、私は行くね。マーレちゃんもナザリックのためにがんばってニャー」
「――え、えっと、はい、頑張ります……ミケタマさんも、警備、頑張ってください」
たっ、という軽やかな足音と共に、ミケタマが紅と蒼の一筋の眼光を残して消え去る。
星空の下、ちょこんと残されたマーレは所在無く空を見上げる。
(お怒りになられていたとしても、そしてそれが自業自得であったとしても、それでも見放されるのだけは……嫌だ。置いて行かれるだなんて――想像するだけで、怖くてたまらない)
想像するのも嫌なほどに大きい恐怖を想像し、もしそうなってしまったら、と身震いしながら、マーレは<
「……ナザリックのために頑張ることだけを考える。見放されないように、頑張る」
自分に言い聞かせるように力強くつぶやき、マーレは地面を操作し始める。
うねうねと地面が波うち、小さな波は小山ほどの大きさとなり、やがて土の津波と形容するのが相応しい様相となる。
それはナザリックの強固な外壁にぶつかり、飛沫を上げて砕けた。
そしてマーレのその意思は、後のモモンガの激励によってよりいっそう強くなるのであった。
この数日後、特に気にしないで欲しいウルと頑として聞かないマーレの間で数時間にわたり問答が繰り広げられ結局マーレが折れるのだが、それはまた別のお話。
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