艦隊これくしょん The Bridge 閑話・短編集 作:Piyodori
本編「艦隊これくしょん The Bridge 君でないとだめなんだ」のスピンオフ的な楽屋話で、本編中のブーメラン島沖海戦のおよそ三か月前の出来事です。
焼け付くような太陽も遠く水平線に姿を隠してずいぶんと経つが、蒸し風呂のような熱気は夜になっても一向に衰えない。
遠く南海の果て。この不思議な世界にも赤道というものがあるようで、赤道のわずか南に位置するここヤムヤム島の暑さは、新参者の提督だけでなく艦娘さえもうんざりするものだった。
「今日は凪ですね。扇風機をつけましょうか?」
今夜の当番秘書艦となっていた駆逐艦娘の不知火は、執務机についている上官のトビウメ アツオ提督へ風がいくように扇風機の首を曲げた。
「だめだ……。熱風だよ……」
熱帯に飛ばされてきた割にはほとんど日焼けしていない、痩せぎすの青年提督は机に突っ伏した。普段着である白い半袖半ズボンの防暑服でいても、吹き出す汗は止まらない。
運良くラボール港やローリー島といった大規模な泊地にとばされた提督ならば、エアコンやテレビといった文明の利器に頼ることもできるのだが、外南洋戦線の東端に位置する孤島ではそうもいかない。
「書類仕事も済んでいますし、あとは警戒の当番がいますから、司令も休まれたらどうでしょうか?」
艦娘の不知火は自分の執務机の上を整理しながら言った。
「仕事の方はもうおしまい。あとちょっと自分のことが残ってて……。ラジオでもつけるか」
「不知火がつけます」
トビウメ提督はくたびれた様子で立ち上がろうとすると、不知火が素早く立ち上がり、壁際の大きな木箱のつまみを捻った。
『上野の桜の下で~ ああ~貴方を待つ 不忍の水面に映える夕日~』
いつものように、ラジオからはトビウメ提督のいた時代の何世代も前の人々に流行っていた歌謡曲が聞こえてくる。
「司令、局を変えてみてもいいですか?」
「うんいいよ」
トビウメ提督の苦笑いを察したのか、不知火はそうたずねてから周波数のダイヤルを回す。しばらくするとガリガリとした雑音混じりのゆったりとしたスイング・ジャズが流れてきた。不知火は無言で自分の執務机に戻った。よく見ると、白い手袋に包まれた右手の指がメロディにあわせてテンポよく動いている。
「スイング、好きなの?」
不知火ははっとして提督を見てから、恥ずかしそうな表情で視線を逸らした。
「はい? ええ、嫌いではありません」
どうやら結構好きなようだ。
いつもクールで無表情。まだ出会った頃、トビウメ提督はちょっとした苦手意識すら感じていた艦娘なのだが、今ではぶっきらぼうな物言いや一見無表情な顔にも慣れ、それくらいは分かるようになっていた。
「ちょっと意外だったな。みんな歌謡曲とかのほうが好きなんだろうと思ってたから」
「不知火は関東の浦賀生まれです。なので先の『帝都セレナーデ』も嫌いではありません。ただ、あの戦争が始まる前には、駆逐艦不知火でも、夜に水兵達がラジオから流れるジャズを楽しむこともありました」
そう長い期間ではありませんでしたがと、不知火は付け足した。
「そうなんだ……」
しばらく、室内はスイングのゆったりとした調べに満たされていた。
トビウメ提督は心地よいダンスミュージックを聞きながら、茶封筒に入った別の書類を取り出した。あと一つやるべき宿題が残っていたのを思い出したのだ。
封筒には何枚か書類とともに数葉の写真と大判の設計用青写真がはいっていた。
トビウメ提督は資料を参照しながら、鉛筆でノートの上に子供の落書きのような船の絵を描き始めた。
――25ミリの対空機関銃が三カ所。あとは単装の特設機銃か……
しばらくノートの上に鉛筆を走らせていると、いつの間にか不知火が執務机横から提督の仕事をのぞき込んでいる。
「まさか、その絵は駆逐艦不知火ですか?」
「え? ちょっと見ないでよ……」
提督は恥ずかしそうにノートを隠す。
ノートには、まるで底浅のポンポン船の上に、やたら大きな砲台とオフィスビルのような長方形の上部構造物が乗った絵が描かれている。不知火は冷ややかな視線を提督に送りながら言った。
「まさか司令は不知火に46センチ砲を乗せようとお思いではないでしょうね?」
「いいや。こっちこそ、そんこと考えもしなかったな……」
トビウメ提督は不思議そうな顔で自分の落書きをみる。どうやら絵が下手すぎて、そう見えたようだ。
不知火はかすかな笑みを浮かべて言った。
「なら良いのですが。実は以前、駆逐艦にもかかわらず戦艦になるんだって言ってきかない艦娘が、司令のその絵とよく似た絵を描いていました」
「へぇー。ま、まぁ、確かに砲塔を大きく描きすぎたかな……。ハハハ……。実はね、ぬいぬい」
そう言って、トビウメ提督は机の上の資料を見やすいように広げた。モノクロ写真や図面を転写をされた青写真のはどれも前の世界の駆逐艦不知火のものだった。
「この前、本土の技術部から駆逐艦不知火の強化改修計画の通知が届いたでしょ。それで、どうするべきか考えてて」
そう言ってトビウメ提督は青写真を不知火へ見せる。
「駆逐艦不知火の改修案。アリューシャンから戻って修理を終えた後の状態だって。電探や対空火器を増設が主な要目みたいだね」
「これは昭和十九年にレイテへ向かった際の不知火の最終状態の艤装ですね」
不知火は無表情で言った。前の世界では戦争のことなどほとんど知らなかったトビウメ提督も、さすがに自分の艦隊の仲間達が前世でどんな艦歴を経てきているかは学んでいた。
――艦を最終状態に換装するってことは、不知火にとっては死装束に着替えるような気分になるのかな? だとすると今のままの艤装のほうがよいのかも
トビウメ提督はふとそんな思いに駆られて不知火の顔を見た。不知火は相変わらずの仏頂面で青写真の図面と写真をじっと見つめている。何を思っているのかは伺い知れない。
そう慮る提督の視線に気がついたのか、不知火はトビウメ提督の顔を見て言った。
「艦にどのような装備を載せ、どう運用するのか決定するのは司令のお役目です。司令が最良と思われる判断をされれば、不知火は喜んでそれに従います」
「うん……」
トビウメ提督はさっきのノートの「落書き」を不知火に見せた。あくまで素人の思いつきなんだけどと前置きして提督は言った。
「まず機銃の増設は是非やろうと思うんだ。艦橋の前と第一煙突の周囲に。今は二十五ミリの二連装だけどこれを三連装に換装する。この青写真の通りにね」
トビウメ提督はノートの絵に丸印をつけた。
「三式水中聴音機を搭載し、さらに爆雷投下軌条を艦尾に増設して爆雷搭載数も増やす。これも計画書の通りでいいと思うんだ」
「はい、現状で爆雷が多すぎて困るということはありません」
「でしょ? でしょ? 潜水艦を一隻追い払うのに、あんなに沢山の爆雷が必要なんて思わなかったよ。僕のいた時代だったら潜水艦には対潜ミサイルを一発、バシューンっと……まぁその話はいいや。それで、問題はここなんだよ」
トビウメ提督は「落書き」の船の真ん中あたりと、後部の大きな砲塔に丸をつけた。
「この改修案だと後部の第二砲塔を撤去して機銃座をつけることになってるけど、主砲の砲塔を一個とっちゃうのってどうなのかなぁって……。この特設機銃もそうなんだけど、魚雷発射管の周りや魚雷運搬軌条の上にも置くことになるでしょ? ちょっと邪魔じゃないかなと思うんだ」
不知火はうなずいた。
「ええ、確かに主砲二門を撤去するのですから砲火力は落ちますし、特設機銃が増えれば魚雷戦や再装填には若干の支障が出るでしょう。対艦火力は確実に低下します」
提督は困ったように腕を組んだ。
「それって今のうちの状況に合ってるのかと言われると微妙な気がして。なんだかんだ苦戦してると言っても、この辺の制空権はこちらにあるし、昔のあの戦争と違って軍艦同士の対艦戦がけっこう多いでしょ? そうなるとこのまま改修するのはちょっとね……。そこで考えたんだけど」
提督はノートの「落書き」に赤ペンで印を付けた。
「やっぱりこの二番砲塔はこのまま残して、増設予定だった背負い式の二つ目の機銃座だけ付けるのはどうかなと考えたんだ。そうすると今の後部マストと干渉するんだけど、後部マストは対空電探を増設するからどっちにしても工事が必要でしょ? だからいっそう再設計したらどうかなと思って」
提督はそう言ってノートの絵にある第二砲塔の前に、赤ペンで増設する銃座を描き加えた。
不知火は相変わらず冷ややかな視線で図面とノートを見比べた。
「司令。この発想には一点、問題があります。というのも改修案にある第二銃座へは、もともと第二砲塔を撤去して据えた第一銃座を通り、そこの傾斜梯子を上っていくたどり着く設計です。もし第二砲塔を温存した場合、上部銃座には誰も上がることができません」
「そっか……。やっぱりこれじゃダメか」
不知火がそう淡々と言うので、提督は残念そうにうなだれた。そんな提督を見て不知火はクスリと口元にかすかな笑みを浮かべた。
「ですが、それはあくまで有人艦だった頃の話です。艦娘の不知火が統制する今の艦では、梯子の有無は大きな問題ではありません。もっとも、整備や掃除はやや面倒ですが」
不知火は提督のノートを手に取った。
「砲戦と魚雷戦の能力は陽炎型の大きな切り札です。今の戦況ではそれを削ぐことが適切とは思いません。この改修案、不知火は良いと思います。それに、この世界では多くのことにやり直しが許されています。もし不適切であると判れば元に戻すまでのこと」
「ほ、本当? じゃあこれでやってみる?」
「はい、不知火が喜んでその試験艦の任を引き受けます。もし有効な改修であれば、いずれ行われる初風改修の際の良い参考になるかと。工廠のほうに指示書を出していただければ、作業員と妖精達が適切な工事を行ってくれるでしょう」
「うん、わかった」
提督は嬉しそうにうなずきノートの「落書き」をしげしげと眺めた。
そんなとき、執務室のドアがノックされた。
「邪魔をするぞ」
ブラウス姿のスレンダーなスタイルの重巡艦娘那智が氷の入ったグラス片手に入ってきた。この那智こそヤムヤム島遊撃打撃艦隊の旗艦艦娘であり、トビウメ提督の指導教官兼秘書艦だった。風呂上がりなのか、いつもはサイドテールにして垂らしている長い黒髪を、今は後ろでまとめてひっつめ髪にまとめている。
「まだ仕事だったのか。手伝いが必要か?」
「いや、いつもの仕事はもう済んでるよ。実は駆逐艦不知火の改修計画について話してて」
「ふーん、どれどれ私にも聞かせろ」
那智はグラスを置くと机へと寄ってきた。
提督と不知火がそれまでの事を簡単に説明すると、那智はふむふむとうなずきながら、トビウメ提督の「落書き」を手にした。
「火力温存の汎用強化型か……悪くないんじゃないか? 確かにわたし達の今の戦いはあの時とは微妙に異なる。この近海での一番の脅威は深海軍の高速水雷戦隊だからな」
「じゃあ良かった」
トビウメ提督はそう笑うと資料を茶封筒にしまった。
「明日以降、技術方と細部を詰めるといい。不知火もそれでいいか?」
那智が言うと不知火はそれで結構ですとうなずいた。
「さて、わたしはもう風呂は済んでいるから、入っていいぞ。なにかあればわたしが受けもつ」
トビウメ提督もいいよとうなずいたので、不知火は踵をあわせて敬礼した。
「では、司令、那智さん。お先に。おやすみなさい」
不知火が部屋から退出すると、那智はソファーに腰掛けてグラスにウィスキーをそそぐ。
「どうだ? 貴様も一杯」
那智がだるまの注がれたグラスを掲げる。トビウメ提督は苦笑いして首を振る。
「いや、僕は飲めないし、風呂もまだだから」
「まったく貴様はつまらない奴だ……」
那智は少しがっかりした顔をする。
「ところで、どうだ? 不知火とはうまくやってるみたいだな」
那智の問いにトビウメ提督は肩をすくめた。
「お互い、少し慣れたかな。最初は愛想もないし態度とかもちょっと怖かったんだけど、結構優しいし、最初よりは打ち解けてきたような気がする」
「少しだと? まったく貴様は……。さっきのあいつはとても嬉しそうに見えたがな」
「そ、そうなんだ……。でも、改装の件、ぬいぬいが嫌そうじゃなくてよかったよ」
ほっとしたような顔をする提督を前に、那智は少し呆れた様子で言った。
「貴様は本当に人の気持ちのわからない奴だな」
「僕は人付き合いが本当に苦手なんだよ……」
トビウメ提督は弱りきった顔で言った。
「それより、貴様もそろそろ風呂にしたらどうだ? ドラム缶の湯も冷めてしまうぞ」
戦闘や航海で負担の多い艦娘の為に、基地の宿舎には小さいが最低限の設備が整った浴室が用意されていた。だが、あくまでそれは艦娘用であり、提督用には宿舎の裏に薪の火で湯を沸かしたドラム缶風呂が置かれていた。ただ所帯の小さな艦隊なので、時間さえずらせば提督も使ってよいのではという提案もあったのだが、顔を真っ赤にした初風の大反対があり、結局、提督は港の職員用共同風呂か提督用官舎の裏のドラム缶風呂を使うことになったのだ。もっとも職員用共同風呂は官舎から離れていたので、トビウメ提督はもっぱらドラム缶風呂を使っていた。ちなみに提督用官舎と言えば聞こえはよいが、実際は木造の高床のコテージみたいなしろもので、当然冷房設備などはない……。
「この暑さだから寝る前にするよ。シャワーがわりにするだけだから、ぬるいくらいが丁度いいかな」
そう言って提督は乱雑に散らかった机の上を片づけはじめた。
ラジオは相変わらずスイングの曲を続けて流し続けている。
那智は一杯目のウィスキーを飲み干すと、おもむろに立ち上がって提督の片づけを手伝い始めた。
「新戦術……? なんだこれは?」
那智は机の上にあった黒い綴じ込み表紙の書類に目をとめた。
「ああそれ、この前の演習の後、洋上で待ち伏せを受けたときに、どうしたらいいかっていう戦術の話が出たでしょ? それで、もしうちの艦隊がそういう場に当たったらどうしようかと考えてみたんだけど……」
トビウメ提督は自信なさそうに言った。
――素人が付け焼き刃で勉強して考えたものだからな……
そんな提督の心配もよそに、那智はどれどれと書類をめくりはじめた。
「CA戦法。このCAというのは何だ?」
「そうか英字苦手だったっけ? そのCAっていうのはカウンター・アンブッシュの略。対待ち伏せ戦法って意味」
那智はカタカナや横文字が苦手だ。通じると思ったカタカナ英語がじないことがある。そういうことがある度トビウメ提督は、艦娘はやっぱり昔の軍艦の精なんだなと一人納得するのだった。
「奇襲を察知しだい、駆逐艦は敵戦列に散開しつつ全速突入、重巡はそれを火砲にて援護。駆逐艦は酸素魚雷の射程に敵を捉えた時点で一斉回答。艦側面から魚雷を発射し、そしてさらに敵艦隊へ肉薄攻撃を継続する。敵の奇襲を一度迎撃した後、各艦は一斉に申し合わせた方角へ避退離脱する、か……。貴様、ガラにもなく大胆なことを考えたな」
那智は難しい顔をして考え込むようにつぶやいた。
「だが、敵にいきなり突入するというのは無謀だな。体勢を立て直してから秩序だった反撃をするほうが好ましいと思うが……」
「そう言われるとは思ったんだ。でも、資料室で見つけた本を読んでみると、陸上での戦い、特に小規模な歩兵部隊が密林とかで待ち伏せ攻撃を受けた場合の大原則はちょっと違うみたいなんだよ」
トビウメ提督は資料室で見つけた本のいくつかを広げて見せた。
トビウメ提督がとばされてきたこの新しい世界には多くの謎が存在したが、各泊地や基地に設けられた「資料室」もその一つだった。資料室には艦娘達の前世の記録、すなわちあの太平洋戦争の記録や戦術教本はもちろんのこと、戦後の歴史、軍事史、軍事技術にまつわる資料までが納められていた。
トビウメ提督が持ってきたのは戦後のジャングルにおける歩兵小隊の戦闘教本だった。
「これは陸戦で視界や見通しが悪い場合の話なんだけど、自分の隊の側面を敵に不意打ちされた場合、火力の強い機関銃の援護のもと、歩兵は一斉に敵正面に散開して突撃をかけるのがもっとも最初にやるべき対処方法だって書いてある」
那智は資料をめくりながら、なるほどなとつぶやいた。
「実際、一九四二年十一月三十日にガダルカナル島沖で起きたルンガ沖夜戦では、米軍の待ち伏せを察知した田中司令は即時攻撃に移って敵を撃退してる。陸の戦術教本と通じるところない?」
「ふむ、いきなり敵の鼻っ面に一撃というわけか……」
那智はグラスに二杯目のウィスキーを注ぎながらつぶやいた。
「そう、それ! 鼻っ面をひっぱたくわけ。実はさ、その襲ってきた奴の鼻をひっぱたくことって、とても大切なんだよ」
トビウメ提督はうれしそうに言った。
「僕が前の世界でカメラマンになりたかった話は知ってるでしょ? それで知り合いに水中写真を専門に撮る人がいたんだよ。魚やイルカなんかを撮ったりするんだけど、その人がサメに襲われた時にどうするかを教えてくれたんだ。例えば那智さんは、もし自分が海に投げ出されて、そこへサメが襲ってきたとしたらどうしたらいいと思う?」
那智は少し苦い表情をして見せた。
「サメ……フカのことだな。実は、あまり思い出したくないこともたくさんあった……」
「え?」
「暖かい海ではその……いろいろとな」
トビウメ提督はうっかり調子に乗って話しすぎたことを悟った。
南の暖かい海で戦争も多く経験してきた那智は、いろいろ恐ろしい事も見てきたに違いない。
トビウメ提督が意気消沈したのを見て、那智は努めて明るい声で言った。
「そういえば、馬鹿らしいことだが一つ覚えているぞ。南洋の海に投げ出された時はズボンを脱ぎ捨て、六尺ふんどしを長く垂らせ、とな。なんでも、少しでも自分の姿を大きく見せればフカに襲われにくくなるというんだが、なんとも格好のつかん話だろう?」
「ふんどしか、それはいいや」
二人はケラケラ笑った。トビウメ提督はひとしきり笑ってからうなずいた。
「実はね、ふんどしも馬鹿にできないんだよ。実は僕のいた時代でも、戦闘機の搭乗員は足につける長いリボンみたいなものを持っていて、海上を漂流することになった際は鮫よけに長く垂らすよう言われているんだってさ。きっと理屈はふんどしとおんなじだよ」
那智は少し驚いたようで目を丸くした。
「貴様は変なことに詳しいんだな……」
「自然とか動物を撮るカメラマンになりたかったから、その辺は少しね。本当に動物って面白いんだよ。例えばレーダー……つまり電探なんて、元々は人間の生まれる前からコウモリは超音波で同じ事をして夜見えない虫を捕捉してきたし、六角形の蜂の巣とかは建築物や防護壁の強度を上げるのにすごい参考になったらしい。ああそれで、フカ対策なんだけど……」
トビウメ提督は少し照れながらも話をサメへと戻した。
「実はフカがこう一直線に自分へやってきたら、最後にやるべきことはサメがこちらにかみつく直前に、あの一番尖ってる鼻先を思い切りぶん殴ることなんだ。フカの鼻先には感覚器官が集まっていて非常に敏感な上に、フカは鼻先で目標をこすってから、それが獲物になりそうかそうでないかを判断するらしいんだ。だから本格的に攻撃される前にこちらから一発ドカンとやるわけ。だから深海棲艦による不意の奇襲にも案外有効なんじゃないかなと思って」
それにあいつら微妙に魚っぽいから案外有効かもと思ってとトビウメ提督はジョークをとばす。
「なるほどな、動物の習性を参考にするのか……。わたしのいた時代では考えもしなかったぞ」
那智は真面目な顔で妙に感心したようにうなる。
「そうでもないらしいよ。この前の合同演習の時に、別の泊地の提督が話していたんだけど、前の戦争のとき、アメリカやイギリスは新戦術の立案のために、数学者や動物学者みたいな軍事の門外漢を多く呼んで、日本やドイツと戦うための新しい戦法の研究させたんだって。これが結構有効だったって言ってたよ」
「なるほど、動物に学ぶ、か……。確かにおもしろいな。貴様のこの戦法は、群島部での戦いや近距離での待ち伏せを受けたときには使えるかもしれない。問題は突入した水雷戦隊をどう離脱させるかだが、その点はわたしも是非考えてみよう」
那智はそう言って冊子を閉じ、ソファの上でその長い足を組んだ。ラジオのスイングに併せて機嫌良さそうに鼻歌まで口ずさんだ。
「なんか機嫌良さそうだね」
提督が不思議そうな顔で言った。グラスを手に那智は笑う。
「まあな。物として生まれ必要とされる。さらには強く興味を持って、その使い方を考えてもらう。わたしたちのような存在にとって、それはとても幸いなことだ。たとえば……そう、貴様の持ってるそのカメラだが、もしわたしたち艦娘のように考える心をもっていたとすれば、きっと道具冥利に尽きるにちがいない。貴様がそのカメラをどれだけ大切にして、手入れをして使っているのか、はたから見ていてもよくわかるからな。艦と艦娘だって同じことさ」
きっと不知火のやつもさっきはとても嬉しかったに違いないと、那智は言った。
「ふーん、そうなんだ」
トビウメ提督が前世から携えてきた愛用のカメラを手にしてうなずいた。
提督はふと窓から外の泊地を眺めた。灯火管制のため、明かりを灯したままの船はないが、月明かりに照らされて湾内に浮かぶ艦船の影がうっすらと見える。そのなかでもひときわ大きい艦のシルエットがぼんやりと光る海面に浮かび上がっていた。それが重巡洋艦那智だった。
この世界には不思議なことが多い。あの海に浮かぶいわば「鋼鉄の城」がいまトビウメ提督の目の前で美味そうにウィスキーのグラスを傾けている美しい女性の半身であり本体であるとは、にわかには信じがたかった。
執務室内の置き時計がボーンボーンと時を告げる。
「マルマルマルマル。日付が変わったな。本日もよろしく頼むぞ。……ん? どうした? なんか嬉しそうな顔をして」
提督の視線に気づいた那智が不思議そうな顔をする。
「いや別に、なんでもないよ」
トビウメ提督はにっこりと笑いながら椅子の背もたれにゆったりと背中を預けた。
――この世界も悪くない。この灼熱には参るし、不自由なことも多いけど結構楽しい世界じゃないか
那智の顔を見ながらトビウメ提督は一人そう思うのだった。
第一次ブーメラン島沖海戦のおよそ三ヶ月のある夜のことだった。
〈了〉