「今朝の主菜はベルナ産のベーコンと取れたてのサラダだよ!」
「…………はい」
微かな朱を頬に浮かべたアナが、微妙に視線を逸らしながら頷いた。
「パンもフェルミンさんとこの焼き立てだし!目玉焼きは、なんと!最近発見されたガーグァの亜種、“コッケコーコ”の卵だ!片手で握れるお得サイズで味も良好!鶏の卵より栄養価も高い優れもの!」
“チャブダイ”と呼ばれる丸い短足テーブルに並べる皿の説明を滔々と並べて、アナの反応を伺う。
「…………はい」
しかし、彼女の反応は素っ気なく、目線も全く合わせてはくれない。
「サラダのドレッシングは、実はレオンハルト工房調合の自家製レシピだったりするんですが……」
「…………知ってます」
「…………お、美味しい、ですよ?」
「…………知ってます」
我が家の食卓に何度かタカリに来ているアナは、そう言いながらまた目線を遠くへ投げて、気まずそうにしながら、
「……し、白いですよね、自家製ドレッシング…………あっ」
と、やや控えめな大タル爆弾Gを投下してきた。
「…………うん。そうだね」
言いにくいなら言わなくても良いのに……。
“チャブダイ”をひっくり返したくなるほどの居たたまれない沈黙が降りた朝の一幕。
レオンハルト特製、白いドレッシングだよ!
少し粘り気があるけど、とっても美味しいよ!
今朝搾りたてのミルクを使っているから、白くて新鮮なんだ……!
…………全部真実であるところが、誤解を生む致命的な手助けをしている。
いえ、別に材料がナニと言うわけではなく、普通のミルクを使っているのですが。
「え、ええっとっ、なんか変な感じになっちゃいましたね! そ、それ、それじゃあ、いただきます!」
「あ、うん、じゃあ俺も、いただきます、しようかな?」
レオンハルトはアナのやや強引な幕切りに感謝しつつ、それに賛同して手を合わせた。
――カチャ、シャキ、もぐもぐ、ゴクッ。
「…………」
「…………」
沈黙に包まれた朝餉。
二人が咀嚼し、嚥下する音だけが妙に大きく聞こえる。
遠くから、ムーファの首に付けられた鈴が立てる、カランカランと牧歌的な音が風に乗って窓辺から流れてきた。
……さて。
どうしたものか、とレオンハルトは思案する。
今朝方起こってしまった
このまま放っておけば、自分の手で引き起こした強姦事件の二の舞になりかねない。
レオンハルトはパンを千切る手を止めて、じっと目の前に座る少女を眺めた。
静かに動く滑らかな手は、とてもハンターをしている女性のものとは思えないほど綺麗で、恥ずかしげに下を向き続けるつぶらな瞳は清らかな少女のもの。
小さな口があーんと開けられて、柔らかく濡れた唇が焼いたベーコンをパクリとくわえ込んだ。
きめ細やかな頬は処女雪のようにシミ一つ無く、もぐもぐと動かされる顎は非常に優美で繊細なラインを描いている。
すっと通った鼻梁は言うにや及ばず、やがてベーコンを飲み下し、上下する喉の艶めかしさに、思わずごくりと唾を飲み込む。
自然と視線が引きつけられる胸元、控え目ではあるもののしっかりとした自己主張をする双丘、すっと目線を上げれば、くりっとした栗色の瞳と目があった。
ドキリと、心臓が音を立てる。
「……ど、どうかしたんですか?」
「え、あ、いや、そのだな……」
思わず口ごもってしまった。
頑張るんだ、コミュ障ぼっち!
ここで男を見せなければ、過去の敗北を繰り返すことになるぞ!
男の男は見せないけどな!
いや、そもそもなんでぼっちが女の子を家に上げてるんだ。事案一歩手前だぞ。
「ええ、今朝方起こってしまったというか、起きてしまっていたアレの話なんだが」
「えっ!?あ、はい!」
「その、アレはだな、まあ、狩りに行くと、命が危険に曝されるわけだろう?そうすると、我が身に宿る生存本能が大変活動的になってだな。ハンターをやっていると、狩猟中に、その、
「え、ええ、知ってます」
……こういうことは、普段の会話に増して言いにくい。
伊達にコミュ障ぼっちを何年も続けているわけじゃないんだ。
性的な話題なんて、異性との間以前に、同性の友達とさえしたことが無く、それどころか同性の友達すら持ったことがない。
経験不足どころの話じゃない。
「だから、その、そう、例えば、お前がよく狩っているセルレギオスだが、あいつも俺たちの手で狩るとき、死の間際に股間部分の鋭刃鱗が興奮状態になっているだろう?」
それでも、言わなければならなかった。
自分に興奮したんじゃないか、そういう疑念があるからこそ、アナはいつもと違って舌の周りが鈍くなっていたのだろう。
雄として、アナの女性的な側面に興奮したということで、モミジさんとのようなギクシャクした間柄になってしまうんじゃないかと、そればかりが恐ろしかった。
「あ、はい。セルレギオスの捕獲の際は、適切な攻撃を加えた後に、股関節部分にのみ集中している特別な鋭刃鱗が開いているかどうかで見極めをします。私の故郷では、それを見てセルレギオスを追い込む谷を決めていましたので……」
こう言っては傲慢なのだろうが、アナには一人のハンターとしてのみならず、一人の人間としても、身に余る信頼を持ってもらっているという気持ちがあった。
「そう、生存本能なんだよ。ああ、違う、なんて言うかな……せっ、あ、いや…………せ、生殖本能?そうだ、生殖本能だ!」
彼女もまた、周りからは一つ外れて、ポツンと一人で立っているハンターだった。
酒場ではいつも隅の方に座り、酔っ払いでもして誰かの迷惑になったらコトだと酒は飲まず、ワイワイと狩猟成果に沸き、自慢話に花を咲かせながら杯を酌み交わす同僚達の眩しさに目を
「せ、生殖本能ですか…………なんか、生々しいですね……」
ごくりとアナが喉を鳴らす。
二席空いた向こうに座るその顔は見えずとも、彼女の表情は見えきっていた。
それは、傾けた“龍ノコハク酒”に映る自分の顔でもあったから。
「そう、生殖本能だ。だから、つまり、外敵と命のやりとりをすると、生殖本能が存分に刺激されてだな、男の場合は、色々と溜まるのだ」
トモダチ、ではないのだろう。
どちらが声をかけたのが先だったのか、今ではよく思い出せないが、それは、モミジさんのように、仕事の上で知り合ったことが始まりではなかったのは確かだ。
それは、同情心とか、ぼっち仲間意識だとか、そういった感情だったはずだ。
「た、溜まるんですね…………」
それが、こうして家に入り浸って、朝食を振る舞ったり振る舞われたり――俺が振る舞われたことはないが――する関係に発展している。
先輩・後輩の関係と言うことに落ち着いて、それなのに、ハンターとしての先輩・後輩であるのに、一緒に狩りに出向いたことはない。
ハンターズギルドの集会所でよく見られるような、『一狩り行こうぜ!』すらも、俺達にとっては遠い世界の出来事だったのだ。
それでも、他の同業者達とのものに比べれば、遥かに親しい関係で。
何物にも代え難く、捨てられない。
或いは、モミジさんにかけて貰っている期待のように俺の心を縛り付け、独りきりであるのに断ち切れない社会との縁のように無条件に縋ってしまいたくなるような、奇妙な関係。
「いや、別に、変な話とかではなくてだな! 俺は1ヶ月の間ほとんど狩り場にいたわけで、ずっと、その本能が刺激されていたわけなんだ」
だからこそ。
今の、心地の良いこの関係を壊したくなかった。
もしかしたらそれは、ぬるま湯に浸かっているだけの、浅はかで表面的でしかないものなのかもしれない。
余りにも脆く、他の人間だったら曖昧のうちに消滅させてしまえるような、それほど重要でもない関係なのかもしれない。
それを判断するには、とてもじゃないが人生経験が足りていない。
それでも、言葉に出来ない俺達の間にあるのは、男女の情だとか、ぼっち同士の傷口の舐め合いだとか、その程度のものではないと思うから、
「…………だから、朝のアレは、別に、アナに興奮したとか、そういうわけじゃないから!」
躊躇いを断ち切って言い放った。
「……………え」
瞬間、アナスタシアの顔が固まる。
「あれは本当にただの事故で、余りに忙しい中で生殖本能が刺激され続けた結果というか、なんというか…………とにかく!」
レオンハルトは、恐れていた事態を避けんと必死で言葉を紡いだ。
「アナのことを性的な目で見てたわけじゃないしっ、女性らしさなんてちっとも感じてないから――ッ!」
…………あ。
そこまで言い切って、レオンハルトはようやく気が付いた。
目の前でじっと座ってレオンハルトの言葉を聞いていたアナスタシアの目尻に、涙が浮かんでいることに。
俺、今、なんて言った?
アナに興奮したわけじゃない。
性的な目で見ていたわけじゃない。
女性らしさなんて、ちっとも感じていない?
――最低じゃないか。
「……ちが、これは違うんだ。そうじゃなくて、その……」
自分のことしか考えていない。
必死になって釈明をして、自分の発言によって傷付けられるかもしれない相手の気持ちなどお構いなしに好き勝手こじつけて言い訳をして。
無責任な言動が人の心をいとも簡単に痛めつける事など、その身を持って理解していたんじゃなかったのか?
「…………なんですか?」
焦って言葉を紡ごうとして失敗するレオンハルトに、アナスタシアは静かに問いかける。
ジワジワとその体積を増やしていく涙は、もう決壊寸前であった。
分かっていた。
痛すぎるほどに分かっていたはずだ。
発してしまった言葉はもう取り返せない。
それが怖くて口を閉ざしていたはずなのに、それでも自分の側へ近付いてきてくれた人に対して、なんという仕打ちだろう。
最低な裏切り行為だ。
言葉が武器よりも人を傷つけやすい凶器であるということなど、互いに知り尽くしていた。
だから、そう多くを語るわけでもない二人で、いい具合の関係を築けていたのではなかったのか。
それを、よりによって自分を
ああ、終わってしまったのだ、とレオンハルトは空虚な穴の空いた心の中でそう呟いた。
必死になって守ろうとしたのは、砂の橋であった。
自分で水をかけて落としてしまった、サラサラとした砂の橋。
そら、見たことか。
アナの目に浮かんでいるのは、いつか見たあの色ではないのか。
自分はつくづく愚かな人間だ。
少しでも仲良くなってしまえば、たちまちにその人を傷つけてしまうのだから。
そして、性懲りもなく何度もそれを繰り返す。
ぼっちであったのも、当然のことだった。
これも全て、人とのコミュニケーションを恐れ、避けてきた弱い自分のツケだろう。
ああ、ならば、せめて。
目の前で泣いてしまいそうになっている人の、我が手で砕いてしまった笑顔を、その責任くらいはとらなければならない。
「……さっきの言葉は、ええと…………嘘なんだ」
我が身を守るための言葉なんて、捨ててしまえ。
「嘘、ですか?」
「うん、あっ、勿論、全部嘘ってわけじゃなくて、その、アナの女性らしさを感じてないってところが。狩り場で、生殖本能…………性欲が溜まっちゃうのは、他のハンターに聞いたことはないからよく分からないけど、少なくとも俺は溜まっちゃうんだよね。
マジで死にそうなときとか、本当にヤバいし。初めて名持ちリオレイアとやり合ったときとか、初火山でテオ・テスカトルにばったり出会っちゃったときとか、正直この目で相手が倒れるのを見るまで、ずっと、その……ぼ、勃起、してたから」
「…………そうですか」
頬を赤く染めながらも、
「だから、1ヶ月狩猟生活を過ごして、性欲が溜まってて、立ちやすくなっていたのもそうなんだけど…………やっぱり、キッカケというか、俺の男が立ち上がっちゃったのは、その……アナの刺激的な格好を見ちゃったからで」
正直、恥ずかしさで死にそうだったし、年下の女の子にそんな告白をしている時点で男としてどころか人間としてどうかを問うべきレベルだろう。
出るとこに出られれば、確実に事案として処理される案件だ。
それでも、彼女を傷つけてしまった言葉の補完は、止めようとは思わない。
「今朝は、いつもなら普通に過ごせるようなアナの普段着に、俺のバカ息子が愚かしくも反応してしまいましたッ!」
ガバッと姿勢を整えて、両膝を床について座り込み、上体を勢いよく倒して額を床へ叩きつけながら、
「申し訳ございませんでしたッ!!」
誠意を込めて土下座した。
メ゛ェェェェ、とムーファの鳴く声が窓から入り込んでくる。
「……センパイ、頭を上げてください」
頭上から降ってきた言葉に、レオンハルトが恐る恐る顔を上げると、
「その……私も、なんと言いますか、お仕事が忙しくて、色々と疲れていたセンパイに配慮が足りてなかったですし」
「センパイが喋るの下手くそなのは、私も一緒ですから分かっていますし。さっきの言葉も、流石に私も女ですから、ちょっと傷つきましたけど、でも、センパイに全然悪意がなかったのも知っていますから。少し驚いちゃっただけですから」
それは、レオンハルトを気遣っている言葉と言うだけではなく、きちんと“ぼっち”のレオンハルトを見て言っているものであった。
「それに、狩りで、その、溜まっちゃうって言うのは、私も分かりますし……」
「へ?」
つい、レオンハルトは呆けて口を半開きにしてしまう。
「あっ!? い、今の無しで!!」
「え、でも」
「とにかくっ!!」
レオンハルトの言葉を無理矢理に断ち切って、アナスタシアは一気に言い切った。
「今朝のは時効ということで! 言い方はおかしいですけど、私は許しますから!」
風に乗って空を飛んでいく気球が、窓の外から見える。
ふわりと吹き込んだ風が、柔らかく二人の間を通り過ぎた。
「……許して、くれるの?」
「その、私に魅力を感じてくださったのなら、別にその事を責めようとは思ってませんし。なんなら、他の人に言うんじゃないかとか、センパイが一番思ってそうなことはしないと約束できます」
「うぐっ」
図星のレオンハルトが思わず唸り声を上げる。
「何か、他に心配していることはありますか?」
そんな彼の様子にクスリと笑ってから、アナスタシアは口下手な先輩へと問いかけた。
「じゃあ……」
少しの間だけ悩んでから、レオンハルトは躊躇いがちに尋ねる。
「これからも、
アナスタシアは一瞬、きょとんとしてから、「そんなこと」と言って少し笑い、
「勿論です。美味しいごはん、たくさん食べさせてくださいね!」
家に招き、招かれる関係。
ああ、実に奇妙なものだけれども、その言い方が一番しっくりくるかもしれない。