ゴィィィンッ!
背中に強い衝撃が走り、弾き飛ばされるようにして、アナスタシアはゲリョスから距離をとった。
そのまま、ゴロゴロと剥き出しになった地面の上を転がる。
眼前まで迫っていたくちばしへ、脊髄に染み付いた対応が
ほとんど奇跡のような防御。
どうしても避けきれないようなモンスターの攻撃を、身につけた防具で上手く流せるよう、幼少期から訓練を受けてきたお陰だ。
いくら下位のゲリョス──比較的危険度の低いモンスターであると言えど、彼らの膂力は身体的スペックの劣る人間一人を殺すのに余りある。
それに加えて、アナスタシアの猛攻に晒されたゲリョスは、怒り状態に移行している。
精強を謳われるセルレギオスから作った防具であればこそ、ゲリョスの一撃はアナスタシアの身体に傷一つ与えなかったけれども、それでもあのまま、無抵抗にゲリョスの攻撃を受けていれば、どこかしら骨を折られていたかもしれない。
げほっ、げほっ、と咳き込むアナスタシアはしかし、赤く染まった
条件反射で背中に手を回し、【灼炎のテウザー】を掴もうと探って、空を切った。
テウザーがない──!?
どこかのタイミングで落としたのだろうが、落としたことにすら気付かなかった。
アナスタシアは、情けなさに歯を噛みしめながら、足を踏ん張ったゲリョスが振り回す焼け
防具の表面を殺意の籠もった空気が撫でていく。
駄目だ。
逃げなきゃ。
毒のダメージが残っているのか、身体が異様に重い。
ふらつく足腰を叱咤しながら、何とか立ち上がったアナスタシアは、身体を沈める飛竜を見据えた。
踏み込みの予備動作、翼で空気を叩く勢いを利用した飛びかかりか、空中に逃げてからの急降下、または鱗を利用した“飛刃”の攻撃。
大丈夫、相手のやることは分かっている。
予想外の攻撃を避けるのも苦手じゃない。
“セルレギオス”の動きは、攻撃は、全身をしっかり見ていれば簡単に分かるんだ。
目を開け。
次の攻撃を避けて、その隙に回復して、テウザーを回収して、それから──。
────再びの閃光攻撃が、アナスタシアの瞳を強く灼いた。
激痛が両目を支配する。
赤色なのか、白色いのか、黄色なのか、黒色なのか、様々な色がぐるぐると渦巻いて、強烈な光源が何も映さない視界を強引に彩った。
もんどり打って背中から倒れたアナスタシアは、近付いてくる大きな足音を全身で感じながら、諦念と後悔とがない交ぜになった冷笑を浮かべていた。
「あはは…………」
私はどこまでバカなんだ。
相手は誰?
どのモンスターの動きを分かっている?
ゲリョスを見ているつもりで、その実、その姿すら全く見えていなかった。
────我々が行う殺し合いは、生物として最も尊い闘争だ。何者も、その場を汚すことは許されない。
だから、弱者が狩りに出ることは、許されていなかった。
それは、こんなのは、命に対する侮辱行為だ。
互いの生命と尊厳を懸けた余りに失礼だった。
幾度も狩ったことがある、ただそれだけで、セルレギオスを自分より格下のモンスターとして見下し、いつでも勝てると慢心を抱き、あまつさえ、目の前で対峙しているゲリョスと、きちんと向き合おうともしないで、セルレギオスの幻に重ね合わせて。
既に、誰に見せる、見られるの問題ではないのだ。
そうして、目の前で煌々と燃やされているゲリョスの命を、セルレギオスの誇り高さを汚しているアナスタシア自身が、自分のことを許せない。
だんだんと近づいてくるゲリョスの気配、アナスタシアの耳朶に、責め立てるような誰かの声が響いた。
どうしてハンターなんてやってるの?
どうしてハンターとして生きてるの?
里を出てから、ずっと繰り返してきた同じ問い。
誰にもその答えを聞くことが出来ず、心に置いていた素朴で純粋な輝きは黒い影に食い尽くされ、目の前に現れた新たな光はまぶしすぎて。
混沌としたドロドロの思いはアナスタシアの身体を地面に縫いつけ、何も見えない中であがき続けてもまとわり付いてきたその問いが、いつの間にか、こうして自分の命すら脅かすモノになってしまった。
だから、ハンターなんて、もうやめようって言ったのに。
そんなんだから、死んじゃうんだよ。
歪めた唇の端を、一筋の涙が撫でた。
やりきれなさと悔しさ、自分への怒り、行き場のない恨み辛み、それら全てがない交ぜになって、アナスタシアの小さな胸中を押しつぶし、回避という選択肢を奪っていた。
このまま、ゲリョスに踏み潰されて死ぬのだろう。
それが、身体の大きなモンスターのとる、最も単純で、原始的で、最善の攻撃方法だ。
脳裏に、潰れたシナトマトのような人の残骸が浮かんだ。
髪の毛が乱れて広がって、顔や胴体は判別が付かず、折れ曲がった四肢の行き先は血の池から少し離れたところで、不思議なことに、金色の防具は傷一つなく、昇ってきた太陽の光を受けて、キラキラと輝くのだ────。
自身を傷つけられたことに怒るモンスターを前に、好き勝手暴れた狩人が寝転がっている。
訪れる結末は一つだろう。
泥沼特有の、腐った水の嫌なにおいが鼻を突いた。
こんなところで死んじゃうのかな。
そう思って、すぐに、ハンターズギルドに登録をしてからの自分のことを思い出した。
いや、死ぬのだ。
死ぬ方がいい。
震える刃先、怖かったら逃げる、辛くなったらすぐ逃げる、もう怖い狩りなんてしたくない。
いつまでも逃げ続ける自分から目を反らして、たまに会える先輩狩人に甘やかしてもらって、そんな現状をどこか他人事のように見ながら、こんなもんでいいやと受け入れて。
何となく、血みどろの戦場で、一人静かに頭を垂れていたハンターの背中が唐突に思い出されて、アナスタシアはようやく気づいた。
“この程度の”モンスターなら、自分が危険にさらされずに殺せる。
その殺しを積み重ねていけば、いつか、遠く向こうで独り立っているあの人に追いつけると、浮ついた心のまま狩りに赴いてきた。
そんな、愚かな勘違い。
レオンハルトが遙か彼方で佇んでいるのは、彼が自分の足下に積み上げた死体の、そのおびただしさ故ではなかった。
奪った命の重みが、その一つ一つが違ったんだ。
命を奪うのに、真剣でない人間なんて、人じゃない。
それは、殺しを楽しむ、ただのクズ────。
脳裏を焦がす黒い雷が、少女の心をへし折った。
弾力性を失いつつも、十分に機能しているゲリョスの尾が、唸り声を上げながら、モンスターを調教する鞭のように、目を瞑ったままのアナスタシアを打ち据える。
軽くひしゃげたくちばしが、何度も胸や
予想していた痛みも、受けるはずの衝撃も特には感じない。
内側と外側が揺らいでいくかのような、そんな不快感だけが堆積していく。
頭を揺すられて、心地の悪い酩酊を覚え、天地がひっくり返るたびにシェイクされた中身がせり上がっては下りていく。
「う…………」
身体をドシンと地面に叩きつけられ、衝撃にまぶたが上がる。
──いつの間にか回復していた視野に、瑕疵一つ無くキラキラと輝く黄金の防具が映った。
なんてことだろう。
自分をいたぶり続けるゲリョスは、この防具に掠り傷の一つも付けられないのだ。
それくらいに、この防具の素体となったセルレギオスは、強大な力を持っていたのだ。
そして、これほど素晴らしい防具を着ているはずの自分は、どこまでも愚かで弱くて、襲いかかってくるモンスターに目を閉じて、無抵抗になぶられるだけ。
再び身体が持ち上がり、ブンと投げられた。
もはや本能的に受け身の体勢を取り、衝撃を感じて、まだ死にたくないと思っている自分を見つけたアナスタシアは、ポロリと涙を零していた。
このセルレギオスを狩ったときには、こんな立派な防具はつけていなかった。
胸と腰、それから、申し訳程度に手足を覆う、セルレギオスの鱗を付けた
里はモンスターの素材を加工する技術に乏しく、得た鱗やトゲ、尻尾は、そのまま身につけたり、振り回したりするものだった。
ハンターズギルド所属の鍛冶職人が作るような防具は、族長であった父しか着ていなかった。
長老が作ってくれた耳飾りは、里がイビルジョーに襲われたときに壊れてしまったけれど、この防具の主を狩る時一番頼りにしていたのは、あの耳飾りだった気がする。
族長も狩猟を諦めるくらいの、強力なセルレギオスの個体。
結局、里に攻め込んできたセルレギオスを、一対一の状況に持ち込んで仕留めたのは、他ならぬ自分だった。
ギリギリの戦いを辛くも収め、戦利品として獲得した彼の身体を、里を出るときに一緒に持って来たのだ。
「……ぅ…………」
ようやく、死ぬのかもしれない。
走馬燈だろうか、グラグラと揺らぐ意識の波の狭間で、色々な記憶が蘇ってきた。
物心付いたときから、傍らには常に棒があった。
──アナ、棒を
棒はやがて、ご先祖様の霊を
紅と白の彩色が施された可愛いそれを、“おけいこ”で使っていいのが嬉しくて、友だちのいない遊びを、飽きもせずにずっと続けて。
──まだその振り方、教えてないのに!
──族長、この子は素晴らしい才を持っているぞ。
──あの子を巫女の身に収めるのはもったいない。
──そうだ、戦士にしよう。
──今まで例の無かったことではない。
──だが、もし身体を壊しでもしたら、子が産めなくなる。
──強きが戦う、それがこの里の掟だろう。
──両方教えておけばいい。戦士になればそれでよし、ダメならば巫女にすれば良いではないか。
いつの間にか“おけいこ”に加わった茶色の棒も、なんだか格好良くて、夢中でとと様の振る軌跡を追っていた。
それから、年上の男の子たちと一緒に棍の取り回しを教わって、素手で組み合うことも教わり、小さなモンスターを棍で狩るようになって。
木の実拾いを覚えた。
モンスターの囲み方を覚えた。
泳ぎ方を覚えて、棍を使って飛ぶことを覚えた。
猟虫の育て方を覚えた。
命を奪うことの痛みを覚えた。
それから。
──この子は里の大切な女子である以前に、そなたの娘。それでも
──我が子はこの子一人だ。この子は“ナマ子”の中で一番出来が良い。強きが戦う、この子はそれを満たしている。
男の子たちよりも戦いの上手かった私を、とと様が狩り場に連れ出してくれた。
目の前に降り立ったセルレギオスの、見たこともないくらい鋭い眼光、飛んできた飛刃は恐ろしくて、それを狩るみんなの勇ましさと言ったら!
あれから六年、里の皆と夢中で狩りに挑み、常に村を脅かす多くのセルレギオスを狩って、狩って、狩り続けて。
生き物を殺す痛みには、
嫁の貰い手が居ないと苦笑するとと様の背中を、ただひたすらに追いかけて、私もいつかは結婚するのかなぁとぼんやり思ったりする、そんな毎日。
そこが消えてしまうなんて思いもしなかった、大切な里。
グラグラと頭が揺れる。
まだゲリョスは攻撃をしてきているのだろう。
愉悦の混じった遊び心が見え隠れするつつき攻撃。
でも、もうじき、この苦しさからも解放される。
毒を吐かれたのかも知れない。
でも、そんなことはどうでも良かった。
白と黒の混濁したような、不思議な感覚の中で、
お酒の席だった気がする。
あのイビルジョーを討伐したのは、青いハンターと、白いハンターと、赤いハンター。
逃げ出したくなるほど明るい雰囲気で、人が死んでいるのにどうしてそんなに楽しそうなんだって、一人だけ取り残されたような、暖かいのに、悲しい場所だった。
赤いハンターだけが、一人離れたところで静かにお酒を飲んでいて、そんな彼が、いつの間にか隣にいて。
私から話しかけたのか、彼から話しかけたのか、それは定かでなかったけれど、あの時は、確か。
…………なんだったっけ。
ああ、もう、無理かも。
死んでしまった皆は、私が、あの場にいた中で、私だけが生き残ってしまったことを、恨んでいなかっただろうか。
最期まで、自分の中に残っていたのは、結局、私を絡め捕ろうと、脚にしがみついてくる赤黒い何かだった。
それは、皆から聞くことがなかった無言の怨嗟だったかもしれないし、運良く一人だけ生き残ってしまった“後ろめたさ”だったかもしれない。
あるいは、あのイビルジョーが撒き散らした渇望だったのかも。
でも、もうそれもおしまいだ。
ハンターであることからも、嫌な思い出からも、全て消えて、あとは、すらっと死ぬだけ。
生き物はみんな、最終的には死んじゃうんだ。
それが早くなるだけの話。
里から出てきてしまった私は、ご先祖様のところに行くことは出来ないだろうけど。
ガンガンと頭に響く振動。
お酒を初めて飲んだ日も、こんな感じだったなあ。
バラバラだった自分が、熱くなって集まってくるような。
守りたかったものも、欲しかったものも、やりたかったことも、全部曖昧になって、一体私は、何をしたかったんだろうと、そんな思いも、やがて雪のように溶けて、消えていく。
“たからもの”という言葉が、どこからともなく出てきて、頭の中を一人歩きしていく。
たからものって、なんだっけ。
もう、なにも分かんないや。
死ぬって、こんな感じなんだ。
うん、意外と、悪くない人生だったかも。
────モンスターと人間の違いって、何だと思う?
…………そんなこと、蛮族のアホ娘に分かるわけないじゃないですか。
────俺は、命を使えることだと思うんだよ。
────こんな時に、こんな話するなって感じだけどさ。生き物ってさ、どうせ死ぬわけじゃん?
…………親家族みんな死んじゃった女の子に、そんなこと言いますか?
────俺は思うね。
────どうせ生きるなら、精一杯楽しく、穏やかに暮らしたい。けど。
────その上で、死ぬときは満足して死にたいわけよ。
────モンスターは、確かに強い。身体はデカいし、滅茶苦茶しぶといし、賢いくせにスペックも上々だ。
────でも、あいつらは、自分の命より大事なモノはない。別の言い方をすれば、あいつらは“命に創られて、使われる”だけだ。
…………水の中を
何か、とても大切なことを忘れていた気がする。
────人間は違う。人間は、命より大切なモノのために、自分の命を懸けてでも奮闘しようとする。自分の宝物のために、己の人生を懸けて努力することが出来る。
耳朶をくすぐる優しい声。
酒気を帯びて熱くなった言葉が、真摯な響きを纏って身体の中に染み込んでくる。
ああ、温かいな。
音に聞くばかりの、暖かい地方にあるという“海”に入ったら、こんな感じなのかも知れない。
お風呂よりは冷たくて、けれど、心地いい冷たさ。
────俺は、満足に生きたい。楽しく生きたい。人間らしく死にたい。そのためなら、命だって惜しくない。
水底にバラバラになって沈んでいた自分が、急速に集まって、浮き上がってくる感覚。
────
その方が、泣いてうずくまってるより、絶対幸せだから。
今度は、忘れさせはしない。
誰よりも疾くその刃を振るい、誰よりも強くあり続け、その身を狩りの中へ投じ続ける彼は、きっと己の中にある戦いにしか目がいかないのだろう。
当然だ。
彼の狩りは、彼の闘争は、誰の追随も許さない高みにある。
ぼっちハンター、孤高の狩人、仲間なし、理解者なし。
だからこそ。
見せつけてやろう。
レオンハルトというハンターが、ずっと忘れられなくなるような、そんな闘争を。
センパイ、人の名前くらい、ちゃんと覚えといてくださいよ?
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Q.沼地に綺麗な水はない
A.そんなことより沐浴シーンだ。小麦色美少女の禊ぎタイムが泥パックでどうするんだ。
…………いや、それもありだな。